香港
私が五歳のとき、母は死んだ。病気のため不在がちだった母の想い出はあまり残っているとはいえない。
元気だったときは、いつも忙しくて家にいることは少なかった。学生の頃、父に見初められて倣家へ嫁いだ母は、とても美しい女性だったと聞いている。残っている母の思い出とえば、春節などの親族の集まりで微笑んでいる母だった。母は、訛りの無い綺麗な北京語を話した。英語は洗練されたイギリス英語だった。本当に美しい人だったと思う。一族が集う華やかな席で、母の操る北京語と英語が心地よかった。幼かった私は、そんな母がいつも自慢だった。美人で優しくて頭が切れて‥一族に相応しい女性だった。
だが、病に倒れて以来、その姿はさらに遠いものとなってしまった。
だいたい、あの女にその母の面影を見出そうとしたこと事態が無理だったのだと思う。濃い化粧。きつい香水の匂い。派手な服装。育ちの知れる訛った英語。どういう経緯で叔父の妻となったのか、全くわからなかったが、その齢で既に二度の離婚歴があった。女は子どもが産めなくて、どの家も追い出されたのだと悲しげに嘆いた。だから、この家からも追い出されるかもしれないと嘯いた。
まだ、十四になったばかりの私は、その女に心から同情したのだった。‥何て哀れな女!そして、或る日あの女に誘われて、部屋に行った。艶かしい肢体。舌を絡ませてくる口付け。腰をくねらせて喘ぐ女。その淫らな表情を見ながら、私は女を初めて知った。私が『穢れない子ども時代』を失ってしまったとき、女は私の上に跨って薄笑いを浮かべながら私を見下ろしていた。勝ち誇ったような笑みを浮かべた赤い口紅のべっとりついた唇を今でも覚えている。
その後、その女が屋敷の中で、使用人や客とも、それこそ色んな男と寝ていたことを知ったのは、私が香港を後にしてからのことだった。
しかも叔父はそれを承知で、あの女を妻として屋敷に置いていたのだった。
---あの女は、ただのお遊び。あの女の、夫だけでは満足できない淫乱に付き合ってやっただけ。ちょっと味見をしただけ。お相子さ。私はそう考えるようになった。
それ以来、香港は私にとって、くだらない思い出の場所になっている。
****
香港訪問を提案したのは、花鹿の父親であるハリーだった。倣財閥系のフォン・オリエンタルホテルを予約してくれたのは、気を利かしてくれたつもりなのかしれないが、倣のビジネスから身を引いた今となっては、正直、戸惑ったことも事実だった。見晴らしのよい最上階を借り切った香港滞在は、至福のひとときなのか、それとも実業家としての目覚めを促そうとしているのか、皆目見当が付かなかった。
ホテルの車寄せにリムジンが到着した瞬間から、ベルキャプテンの対応、フロントスタッフの客さばき、ポーターの仕事ぶり、支配人の采配、レストランの食事の内容、バスルームの掃除にいたるまで、無意識の内にチェックを入れてしまう。滞在客の客層も気になって仕方が無かった。このホテルをどういう位置づけとするのか、自分としては、サービスの格式の高さから、有名人の隠れ家的ホテルとするべきだと心の中で結論付けた。こんな風に、つい実業家としての倣立人が心の中に現れてしまう。
香港へ来てから、妙に落ち着かない気分が続いていたが、目の前で花鹿が嬉しそうにデザートを味わっている姿を眺めていると、気持ちが落ち着いてくるのを感じた。花鹿を前にすると今朝の左肩の痛みが嘘のように引いているのがわかる。ここへ来てから肩の痛みがしばしば起こるのは、この地域の建物の冷房が効きすぎていないからかもしれない。立人は、コーヒーを飲み終わると、花鹿を促して、最上階のスィートルームへと戻った。
シャワーを浴び、着替えると、疲れたベッドへ体を横たえる。
しかし、このホテルのベッドは広いな、と立人は思った。ああ、そうだ。あの時と同じだ、あの時と‥。あの女のための来客用の部屋に、どうしてあんな大きなベッドがあったのか、今ならわかる。
「‥立人、どうした?顔色が青いぞ。具合でも悪いのか?」
頭の上で花鹿の声がした。
「‥花鹿、今夜はダメだ。」
「どうしてダメなんだ。今日は、めでたく二人っきりになれたんだぞ。」
花鹿は不満そうに言葉を継ぐ。
「花鹿。それより、私の上から降りろ。」
少女は不満げに、仰向けにベッドに寝ている立人の腰の上から降りると、大きなベッドの端に腰掛け、脚をぶらぶらさせた。
「だいたい、バーンズワース財閥の令嬢が、男の上に跨るなど、はしたないとは思わないのか!」
少女は困ったような表情を浮かべた。
「‥はしたない?‥私は、これがベストだと思ったんだ。立人は、今日は雨が降っているから肩の古傷が痛むといっていたじゃないか。私が上なら、お前の肩に負担を掛けないで済む。はしたないとは全く別の次元の問題だ。」
「‥‥‥‥。」
「‥ははん、さては立人は、ダッドのことを気にしているんだな。婚約はしたけど、結婚式はまだだ。男女の仲になったと知れては、ダッドはさぞかし怒るだろうからな。」
花鹿は得意げだ。
「‥花鹿。このことはハリーとは、関係が無い。」
立人は、キリキリとこめかみが痛むような気がして、右手で額を覆った。左手で毛布を引っ張り上げる。
「‥とにかく今日は、だめだ。早く服を着ろ。」
「せっかく、うるさいメイドや虎助のいないところへ来たというのに‥。この機会を逃すと結婚式が終わるまで愛を交わすことができないじゃないか。」
「‥一体、どういう道徳観なんだ、お前は。大財閥の一人娘がそんなことでいいと思っているのか。あっというまに男に食われるぞ。」
立人はベッドの上に脱ぎ捨てられた花鹿のガウンを少女に投げつける。
「立人とは、どうせ結婚するんだし、早く、立人と仲良くなりたい。」
「‥‥。」
「早く、ダッドと母のようになりたいんだ。」
花鹿は投げつけられた滑らかなタオル地のガウンを羽織ると再び広いベッドの端に腰掛けた。
「‥なに、安心しろ。立人は肩が痛いだろうから、服は私が脱がせてやる。」
無邪気な少女は懲りる様子もなく、再びベッドの中央に戻ってくると、手を伸ばして遠慮なく立人の上の毛布を捲り、そのパジャマのボタンに手を掛けた。
立人の脳裏に一瞬、女の紅いマニキュアの指先が自分のシャツのボタンをはずす場面が現れる‥。むせ返るようなきつい香水の匂い‥吐き気がしそうだった。
「やめろ!触るな!」
突然、激昂した立人に突き飛ばされた花鹿は、ベッドから転げ落ち、床に尻餅を付いた。深々とした絨毯の上に花鹿が転がった跡が付く。
婚約者が床に倒れたのを見ると、男は慌ててベッドを降りると、少女の手を取った。
「すまない。つい、かっとして‥。花鹿、大丈夫か。」
目の前には呆れたような少女の表情がある。
「大丈夫だ‥。それにしても立人、一体、どうしたんだ。そんなに怒らなくても‥。お前らしくないぞ。」
「わかっている。」
花鹿が立人の手を取って立とううとした瞬間、立人が左肩を押さえた。
「‥うっ。」
その場に蹲る。
「痛むのか。」
男は首を振った。
「‥大したことはない。少し痛んだだけだ。この湿気の多い天気のせいだ。」
立人が銃で傷を負ったのは、ニューヨークでルマティの誘拐事件の解決を図ったときだった。少林寺拳法や空手、合気道など護身術を仕込まれていた青年でも銃弾は避け切れるものではない。貫通した傷は、無事完治したのだが、ここ最近、急に、古傷としての痛みが時々出るようになったらしい。気候のせいなのか、香港へ来てから 、特に痛みが頻繁になったようだ。
「今度、医者にきちんと見てもらおう、立人。今まで、なんとも無かったのに、香港へ来てから体調がおかしいぞ。」
「‥‥。」
少女は長身の婚約者の体を抱えるように立ち上がると。そのまま、ベッドへ連れて行き、その身体を横たえてやる。
「‥この雨のせいだ。ただ、それだけだ。」
「なら、いいんだがな。これでは、立人の叔父上のところへ挨拶にいけないではないか。」
「‥‥。」
少女はため息を付いた。
「‥そうだ、なんと言ったかな、あの叔父上の奥方は‥?ええと‥。」
立人は、ベッドの上でくるりと向こうへ寝返った。
「あの女なら、出て行ったらしい。叔父は離婚した。」
「‥そうだったのか。知らなかった。」
「そして、叔父はまた新しい妻と再婚している。」
花鹿は不思議そうに指を頬に押し当てて、上目遣いで考えている。
「立人は、あの女性が嫌いだったようだな。」
「‥たちの悪い女だ。男が絶えない。お前も酷い目に合わされそうになっただろう。」
少女はようやく合点が行ったとばかり頷いた。
「‥そうだった。ルマティのことで大変な目にあったな。あの時は大事無くて何よりだった。」
あの女の手は男に慣れていた。シャツを脱がせてしまうと、今度は下半身へと手が降りていく。あの紅いマニキュアの指は男を知り尽くした指。まだ、十代の私にもそんなことぐらい想像がついた。いいこと教えてあげるわ、と女が耳元で呟いた。
「立人‥?」
自分は、あの女の中で大人の男の快楽というものを知ってしまった。興味本位から近づいて、気が付けば、あっという間に取り込まれていた。あの時、堪え切れずに放たれたものは、大人の男なら、誰でも持っているものだ。
「・・・立人、どうした、気分が悪そうだ。どう具合が悪いのか話してくれ。」
少女は心配そうに身を乗り出すと、立人の顔を覗き込む。そして、ひんやりと冷えてしまった婚約者の手を取った。だが、立人はそれを払いのけると、ベッドの上に身を起こした。
「花鹿。今夜は、悪いが一人で寝てくれ。自分の部屋に行って鍵を掛けろ。そこのドアからも行ける。部屋に入ったら、そこのドアもきちんと鍵を閉めろ。」
「でも、立人は具合が悪いんだ。一人だけ眠るわけには行かない。せめてここにいて、お前の面倒を見てやりたい。」
少女は再び、立人の手を取ると顔をその胸にうずめる。
「お前は私の婚約者だ。心配して当然なんだ。」
「そんな風にに私にくっ付いていると、いい加減襲われても知らないからな。男は狼だと周りから教わらなかったのか。」
「‥マリアから教わった。ちゃんと知っている。だが、立人は‥。」
「私も狼だ。深窓のご令嬢の操を奪いかねん。」
「‥でも正式な婚約者だ。例外のうちに入る。」
立人は呆れてものが言えなかった。婚約したといっても、婚約解消だってありえる。財閥令嬢が傷物にされて婚約破棄されたら、待っているのは、無残なスキャンダルだ。マスコミは容赦ない。
「どうあれ、今夜はダメだ。」
ここは香港。忌まわしい思い出の地。その気になって花鹿をベッドへ誘っても、いざとなれば、出来ないのはわかっていた。肝心な時に、『あの女』が現れる。あの女にしたことと同じこと、孤島で獣を友として育った純真無垢な花鹿にできるとは思えなかった。あの一件のあと、久しぶりに会った花鹿の目を見ることが出来なかったことを覚えている。
「立人‥?」
男は大きな格子窓の外を見ていた。しとしとと雨が降り続いている。あの日と同じだった。
「‥立人。もしかして泣いているのか?」
男は婚約者へは振り返らず、首を振った。
この私が泣くはずがない。私は倣家の人間だ。実業界でこの名を知らぬものは無い。冷酷で情の無い怖い男だと言われた。いつも理性で難しい決断を下してきた。
‥だが、今は声は出なかった。
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