旅
「ウェンディ、またな。」
誰かが、耳元で告げる声が聞こえたような。すぐ傍で。
ううん、とても遠くで。聞きなれた低い声で。
そして、衣擦れの音。遠ざかっていく硬い足音。ドアの閉まる響き。
* * *
乾いたこの土地に眩しい朝がやってきたとき、ヴァンは既にいなくなっていた。ウェンディが目を覚ましてみれば、ベッドの隣はもぬけの殻だった。大慌てで家中に彼の姿を求めて走り回ったが、もうどこにも、その姿はなかった。彼の僅かな身の回りのものは全てなくなっていた。金のリングのついた黒のステットソンハット。コンチャの付いていない黒いブーツ。そして、擦り切れた黒のタキシード。彼のその燕尾の上着は、昨日、無理やり脱がせて丁寧に洗濯し、干してあったはずだった。それもなくなっている。そして、彼女がヴァンの為に、わざわざ街のモールで買ってきた砂色のダスターコートも白のコットンのワークシャツも、長椅子に放り出されたままだった。それを眺めながら、ウェンディはため息をついた。
彼は生まれながらの流れ者なのだ。自分も最初からわかっていたと思う。誰も彼を止めることは出来ないのかも知れない。少女は、食堂の中で立ち止まり、テーブルの上に残されたままになっているカップをそっと両手で包んだ。カップの底に白くミルクの跡が残っていた。まだ、ほんのりと温もりさえ感じられる。
今、追えば間に合うかもしれない。そんなに遠くへ行っていないはずだ。でも‥‥。
少女は首を振った。頭の動きに合わせるかのように、ふわりと赤毛の長い髪が揺れる。
ヴァンは、敢えて、自分が眠っている時間を選んで出かけたのだ。女に追いかけられることを望んでいるだろうか。
彼は、少女がエヴァーグリーンにすんでいることは、知っている。ウェンディは、カップをそっとテーブルの上に置いた。
―これでいいのよね‥‥。
また、気が向いたら帰ってくるだろう。でも、せめて、昔の仲間たちに声を掛けておいたのだから、誰かに会えばいいのに。楽しみにしていたジョシュアやカルメンが、さぞかし残念がることだろう。
少女は、静かにため息をついた。
二ヶ月前、大人になった少女を驚きの目で見ていたタキシードの男。
背が高くなったなあとか、別嬪になったなあとか、口ごもりながら照れくさそうに呟いていたヴァン。
少女は、懐かしくて懐かしくて、思わず涙ぐんでしまった。
沢山料理を作ったり、大急ぎでミルクを買出しに行ったり、昔の仲間達に電話を掛けてみたり。
二人だけで過ごし続けた静かな夜。語り合った懐かしい思い出。仄かなランプの灯りに浮かび上がった男の貌。
あれ、ヴァンってこんな表情だったっけ‥。
懐かしくて、嬉しくて気がついたら、男の胸に顔を埋めていた。男は、昔のように、肩を掴んで押し返したりしなかった。
お前は俺に懐いていたけど、帰るところがある奴を連れて行くわけには、いかなかったんだ。お前には、ここが一番さ。
彼は、そう言った。
そして、私達は‥‥。
生まれて初めて愛情を注いでもらった許婚を悲惨な亡くし方をした彼は、恐らく外で女を抱くことはないと思う。私を孕ませても、商売女には手を出さないに違いない。ポーカーで有り金を全て磨っても女は買わない。下戸の彼は、酒も飲まない。彼を苛むのは、人々の流れ者に対する軽蔑と飢えだけだ。彼は空腹になれば、きっと帰ってくる。女を抱きたくなれば、帰ってくる。そのときは、心のこもった手料理でもてなしてあげるだけだ。ミルクを大きなジョッキに入れて食卓に添えてあげよう。そして、私はベッドに彼を招いてあげればいいの。流離う男の孤独を慰めるために。
いいえ‥‥。彼は、途方にくれたように、あのベッドの端に腰掛けているのかもしれない。私を抱いていいのかわからず戸惑い、逡巡していた、あの、初めての夜のときのように。愛しいエレナを実質的に妻にすることの出来なかった彼の身持ちの硬さは、ある種の信仰に近いといってもよかった。あの夜、彼はエレナとこんな風に過ごしたかったといった。初めてのベッドの中でも他の女の話をしたヴァン。困ったように俯いたままで。
それは、もう決して手に入れることの出来ないエレナの身体を思ってだろうか。
ウェンディは、気を取り直すと萌黄色のコットンのカーテンを開けた。そろそろ店の準備をしないといけない。町の入り口に続く幹線道に面した場所で始めた小さなレストランは、この大陸の旅人達の立ちよる食堂になりつつあった。
食堂の片隅のボードに貼り付けられた数々の伝言。あるものは、その伝言を見て泣き、あるものは喜びの声を上げる。
会うことの出来ぬ者同士の、紙切れを通した、つかの間の出会い。
それでは、私もそれに倣って伝言を書くとしよう。
「黒のタキシードの男を見かけたら、エヴァーグリーンのレストラン・ギャレット来て。そう伝えて欲しい。」と
‥そうだわ、今度、ユキコのところへ行ってこなくちゃ。店に出す新しいメニューの事を相談したい。そして、彼女の知っている西南部地方の家庭料理を教わってこよう。今度、ヴァンが帰ってきたときに出してあげたいから。
足元に大きな亀が擦り寄ってきた。重い甲羅を寄せて小さな甘え声を出す。この生き物の主にとって、大切な人物が消えたことを悟っているようだった。
――大丈夫よ。
少女は亀の傍にかがむと優しくに囁いた。
――彼は、また帰ってくるから。必ず。私にはわかるの。
あとがき
ガン×ソードの最終回で、ヴァンとウェンディが再会した後のことを
考えて書いてみました。
ウェンディは、料理が上手なユキコに憧れていたように思えましたので
大人になって、小さなレストランを始めていた、という設定にしてみました。
(Pixivに公開されています)
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