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 夜が更けたアパルトマンの冷気の中で、静かに穏やかな旋律のチェロの音色が響いていた。いつもなら、ルイスあたりから、夜の演奏をやめるよう申し入れがあるのだが、どうも今夜はないらしい。誰もが、ハジの奏でる音色を聞きたがっている。小夜には、そう思えた。ただ、それをあえて、誰も言わないだけで。

 小夜は、つい先ほどカイと差し向かいで席に着くという、胃がきりきりと痛むような夕食を取った。
大勢食卓に集っていながらも、誰もが無言で、ただ黙々と食べ続ける。小夜は、居たたまれず早々と食事を終えてしまうとそのまま自室に引き上げ、皆のいる食堂へは、戻らなかった。
今までなら、食後シャワーを浴びると、買ったばかりの真新しい雑誌を居間へ持ち込んだり、料理好きのルイスがこっそり用意したデザートなどを食べながら、皆でくつろぐのが習わしになっていたのだが、今夜は、どうしてもそんな気分にはなれなかった。ルイスが、いつもより、手の込んだ小夜の好みのデザートを、これ見よがしに準備しているのは、気がついている。リクもわざとらしく、ルイスの傍らで美味しそうだね、と懸命に相づちを打っていた。皆が、小夜が孤立しないよう気を配ってくれていることが、痛いほどわかる。

だが、今は一人にして欲しかった。どんなに気を遣ってくれても、二日前に起きた悲劇は、決して変わることはない。死んだ者は、二度と帰ってきはしない。  

 小夜は、自室にあるバスルームでシャワーを浴びるとすぐに寝間着に着替える。それが終わってしまうと、もう何もやることはなかった。後は、ベッドに入るぐらいしかすることはない。 仕方なく、ベッドの毛布の中に潜り込んだが、目は冴え冴えとしていて、眠ることは出来なかった。何度も寝返りを打つ。すると、ただ訳もなく涙が零れ、枕が濡れるだけ。
しかも、目を瞑るとイレーヌという少女の顔がありありと記憶の中に蘇ってくる。目の前で、その少女は、悲痛な叫び声と共に全身が結晶化していった。自分が一番恐れていたことが起きたのだ。
結晶化した身体がそれ自身の重みに耐えかね、大きくひび割れると砕け、その少女の頭部は突然、自分の膝の上に転がり落ちてきた。

  断末魔のその瞳は、大きく見開かれ、何かを叫んだ口元も空いたままだった。まるで何かを訴えるかのごとく。だが、もうその時には、彼女は口をきくことは出来るはずもなかったのだ。淡い金髪と緑色の目の少女は、ただの石になっていて、この世の者ではなかった。

「動物園」のあったボルドーで、シフの一員として自分とハジの命をねらった少女。赤い盾本部でも。身の丈ほどもある不釣り合いなほど大きな武器を振るい、容赦なく猛攻を加えてきた。わが身を守るだけが精一杯だったほどの激しい襲撃。
あれは、死線をさまよう者だけが持っている生への恐ろしいほどの執着だったのかもしれないと思う。間近に迫った死の恐怖が彼らをあれほど駆り立てていたのだ。アイスランドの研究所を出てから、彼らはどこまで続くかわからぬ、出口の見えぬ死の谷をさまよい続けていたに違いない。

気がつけば、小夜の手にひらに残された赤く透明な血の結晶。シフの去ったあと、部屋の照明の下で美しい輝きを放っていた。
小夜は、そのことを思い出すと、ベッドからそっと起きあがり、証明の落ちた部屋の隅のクローゼットまで歩いていく。そして、おもむろに扉を開けると、慌てて、昨日着ていたはずのベージュ色のジャケットを探した。
見つけると急いで左の胸ポケットへ手を入れる。

・・ やはり、そこには何も残っていなかった。

確かに二日前まで生きていたはずの愛らしい少女の気配は、もうどこにもない。
昨日、ハジたちと出かけたパリでカイがイレーヌと出会ったというエッフェル塔に登った。展望台から撒いた彼女の赤いルビーのような遺骸。少しだけ力を込めて親指で押すと、それはまるで砂のように脆く崩れ去った。今まで遭遇してきた翼手の結晶とは、明らかに違っている。自分の刀に収められている死んだ養父の結晶は、きわめて硬い。だが、シフの少女の結晶は、あっけなく崩れ去り、小夜に彼らの命の儚さを感じさせるだけだった。

イレーヌの遺骸をパリの空に撒くと、自分が彼女にしてやれる全てが終わった。

彼女の灰は、この自由の都のパリの土に還っただろうか。それとも、受け入れられることなく、永 遠に、この空をさまよい続けるのだろうか。翼手は、人ではない。この世のどこでも、誰からの加護も受けることはない。もしかしたら、死して、灰となり塵となっても、決して受け入れられることなく、彷徨い続けるのかもしれない。塵芥と土に化しても、なお・・・。
一方、兄のカイは、ほとんど口をきいてくれなかった。彼もまた、深く傷ついている。小夜は目を瞑った。


まだ、憂いを帯びた音色が空気を震わせるように静かに流れていた。小夜は、固いベッドの上で寝間着にカーディガンを羽織る。そして、ベッドから抜け出すと部屋を出て、廊下の隣のドアの前に立った。部屋からは、チェロの哀しげな旋律が流れている。少女は少しの間、躊躇い、だが勇気を出してドアをノックした。
チェロの音色が止んだ。その部屋の中でドアへ誰かが近づいてくる足音がする。聞き慣れたハジの足音だ。程なく、ドアが静かに開かれた。ハジが目の前に立っている。

「・・・小夜?」
小夜は俯いたままで答えることが出来ない。だが、たまらなくなって、顔を上げるとハジは小夜を黙って見下ろしていた。
「・・・小夜、どうしました?」
「じ、実は・・あの・・。」
「・・小夜?」

---なんて言えばいいのだろう。ハジのところに私は何をしにきたのだろう。

「・・・・どうしても眠れないの。こ、こんな夜遅くに・・ごめんなさい。」
「・・・いいえ。」
青年は、小夜を労わるような柔らかな口調で答えた。

---独りになりたくないの。

「・・・あの、部屋に入っちゃ駄目?」
寝間着姿の小夜の言葉に、ハジが少し驚いたような表情を見せた。
「・・・別に構いませんが、大丈夫ですか。」
「・・・・・・・・・。」

---大丈夫。そう、大丈夫だよ、ハジ。

「・・・小夜?」
ハジが小夜の様子をうかがうような問いに、少女は俯いたまま、肩をふるわせているだけだった。
「小夜、ここでは何ですから、中へ。」
ハジは、ドアを大きく開くと、小夜を部屋へ招き入れた。少女は、ハジの整えられた部屋に足を踏み 入れる。何の飾りらしい飾りもないハジらしい部屋だ。
小夜は、取りあえず目の前にあったソファーに腰掛けた。ふと、窓際のテーブルの上を見ると、スコアが散らばっている。そして、その横にある瀟洒な小椅子の一つにはチェロが立てかけてあった。

「・・小夜、何か飲み物でも用意しましょうか?」
ハジは、小夜の側に、わざわざ膝をついて尋ねたが、返事はなかった。
「・・・では、何か食べますか?」
小夜は、無言のまま首を振った。
「・・・そうですね、今は、無理に食べない方がいいでしょう。」
小夜は、両足をソファーの上に乗せ、両膝を立てると、その上に顔を埋めた。
ハジは、ベッドの上から毛布を取ってくると、小夜の身体をくるむようにかけてやる。小夜が顔を上げた。

「・・・ハジ、あのね。」
少女が言いかける。
「・・・小夜。仕方なかったのです。」
ハジは待っていたかのように答えた。
「・・・・・・・・・・。」
「どちらにしろ、結果は同じでした。あなたが御自分の血を与えても、与えなくても、あの少女は、助かりませんでした・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「シフの者たちは、おそらく嘘を教えられていたのでしょう・・。」
青年は、サヤを慰めるように優しく言った。
「・・・・でもそれは、イレーヌのせいじゃない。」
サヤがハジの言葉を遮る。
「・・・ですが、あなたのせいでもありません。」
ハジは、静かに、だが、はっきりと言い切った。

・・・でも、突き詰めれば、デーヴァを解き放った私の行為が全ての原点。

小夜は、ソファーの上で両腕に力を込めて、ぎゅっと固く膝を抱えた。

「・・小夜、これ以上、考えすぎない方が・・・。」
小夜の様子を見かねたハジが声をかける
「・・・うん。」

---そんなことわかっている、わかっているよ、ハジ。 でも・・・。

「・・・ハジ。」
小夜は顔を上げて、ハジを見る。

私が、
もし、歌に惹かれてデーヴァと出会わなかったら?
もし、あのとき、私があの塔の扉を開けなかったら?
もし、既に私がデーヴァを狩れていたならば・・・。
もし・・。

頬を涙が零れていく。
この涙は、一体、何に対して流されているのだろう。

イレーヌの非業の死に対して?
自分の犯した罪に対して?
自分の至らなさに対して?
それとも・・・。




塔の上から、舞い降りてくる薔薇の花びら。 哀しく美しい歌声。 名も持たない少女。 その少女が纏っていた、衣服とは思えぬ、汚れたボロ布。 やせ細った汚い手足と、歌声とは対照的なあまりにも弱々しい話し声。

---優しかったはずのジョエルお父様は、妹をどうしてあんなところに閉じこめていたの?


「ねえ、お友達になりましょう。」
サヤは、期待に胸を膨らませ、塔を見上げて呼びかけた。それに答えるかのように、透明なアリアの歌声が止む。

そして、空に舞い散る天上の蒼。




 ハジが気がついたときには、小夜は、ソファーの上で子猫のように丸くなって眠っていた。ハジは、そっと小夜に毛布を掛けて直してやる。彼女は、目が蕩けてしまうのでは思うほど泣き、腫れ上がった目蓋からは、眠って閉じても、なお、涙が頬を伝って流れていた跡がある。

ジョエルの誕生会のあの日、サヤの様子が、いつもと違うことは、うすうす感づいていたが、何故かは知らなかった。サヤをあの塔に近づけないよう、ジョエルとアンシェルに厳しく言われていたことも事実だった。たが、もちろん理由を知らされたことなどない。

真実を何も告げられていなかった自分たちに、一体何が出来たのだというのだろう。
我々も、飼われていた身も同然だったというのに。

ハジは、窓から夜空を見上げる。闇に細い三日月が懸かっていた。
100年以上も昔、「動物園」でサヤと二人で見上げた澄んだ夜空。そして、一人パリの路地裏で見上げた夜。ジャングルの赤い火炎の向こうに見えた暗い闇。遠い極東の香港でも霞んだ宵空を見つめていたことがあった・・。

・・・思えば、どこで見上げた空にも、変わることなく月があったのだ。




イレーヌが亡くなったばかりの頃の話を書いてみました。
ところで、サヤとデーヴァのことと関係あるのかどうかわかりませんが、
虐待(アビューズ)する者の心理には、兄弟などで、片方を溺愛し
片方を虐待する傾向があると、どこかで読んだ気がします・・。(間違えていたら、ごめんなさい・・)
BLOOD+は、こういう部分を取り入れたのでしょうか・・・?