海風 1

『動物園』でのデーヴァ達との激しい戦いの後、小夜はボルドーを離れ、デヴィッド達と共に陸路で赤い盾本部があるマルセイユを目指した。
8時間ほどの列車の移動のあと、ようやく、到着したマルセイユは、地中海に面した美しい港町だった。その港のグランジョリエット地区の埠頭に横付けされた目を見張るような巨大な豪華客船。初めて見た「赤い盾」の本部に、小夜は驚きを隠せなかった。
本部のその予想外の姿に戸惑いながらも、その巨大な船の横腹に繋がるタラップを歩き、初めてその組織の中心部に足を踏み入れた。恐る恐る歩んで行くと開けた広間へ辿り着く。吹き抜けの広々としたグランドロビー。そのグランドロビーの上部に掲げられた、盾を模した紋章の古いブロンズのレリーフが見下ろすように彼らを迎えていた。そのとき、そのレリーフに気がついた小夜は固唾をのんで見上げる。

この紋章には、確かに見覚えがあった。だが、よく思い出せない。どこで見たというのだろう・・。小夜はため息を付いた。いや、それどころではない、今はリクのことを考えなくては。



* * *


エカテリングルグ、ボルドー・・・次々と蘇る記憶に感情が追いつかない小夜の気持ちとは関係なく、リクの状態は一進一退を続けていた。誰もがリクのことを心配している。小夜も例に漏れなかった。だが、皆の気持ちをよそに時間だけが、じりじりと過ぎていく。

そして、そのリクの意識が、ようやく回復したのは、小夜達が赤い盾本部に入ってから、1週間以上経ってからのことだった。

明け方にもかかわらず、ハジ、カイ、デヴィッドと共に駆けつけた集中治療室では、ベッドに横たわったままのリクが、ガラス越しにこちらを見ていた。それをみたカイは声を上げて大喜びした。養女である小夜と違いカイにとってリクは、ただ一人、血を分けた弟だった。小夜も笑顔でリクに手を振ってみせる。リクは小夜の姿を見つけると嬉しそうに微笑んだ。つい先刻まで意識を失っていたとは思えないほどの元気な姿だった。一見したところ、リクは今までと変わりないように見える。だが、もう以前のリクではない。彼は小夜の血分けを受け、サヤのシュヴァリエとなっているはずだ。弟の回復を単純に喜ぶカイの姿を横目でちらりと眺めると小夜は深いため息を漏らした。

小夜は、気が付かれぬ様にそっとカイたちから離れ、一人医療区域から出ると、メインエレベーターで船のグランドロビーへ降りた。ガラス張りのエレベーターからは、絨毯を敷き詰められ、シャンデリアの下がる格式ある華やかなグランドロビーが一望できる。こんな朝早くに、このような場所には誰もいない。警備をしている黒服達も交代の時間なのだろう。小夜は、ただ独り、広々としたロビーに掲げられた大きなブロンズのレリーフを静かに見上げる。そしてこの本部へ足を踏み入れた、つい1週間前のことを思い出していた。

「小夜。」
小夜の背後に、いつのまにかハジも立っている。

「リクが、無事、目を覚まして良かったですね。」
「うん・・・。でも。」
リクの目覚めに戸惑う小夜の声は震えている。ハジはそれを察したのか、それ以上何も言わなかった。
少女は、俯き、そして。今度はただ静かにレリーフを見上げた。

「・・ねえ、ハジ。このレリーフ・・この船に入ったときから気になっていただけど・・。これ、見覚えあるの。」
小夜が見上げたまま、小さな声で囁くように言うとハジもそのレリーフを見上げた。
「・・・小夜?」
少女の黒い瞳が何かを確信したようだった

「--ハジ、今思い出したよ。これ・・確かジョエルお父様のお屋敷に・・・。」

まだ幼かったハジと初めて出会い、一緒に暮らした『動物園』といわれた場所。その古めかしくも豪奢な城館の玄関ホールを通り、大広間に入るとその正面に掲げられていたのが、まさしく、このレリーフと同じ紋章だった。おそらくジョエルが使っていた紋章だったのだ。その後、ゴルトシュミット家の家督を継いだ者達によって『赤い盾』の紋章へと引き継がれたのかもしれない。
そういえば、ジョエルの館では正式な晩餐会などが催されるときには、この紋章が金で抜かれた白い磁器の食器のセットが使われたものだった。そう、その食器なら・・あのジョエルの誕生会にも使われるはずだったに違いない・・。だが、小夜は、祝いのその席に着くことはなかった。あのとき、全てが終わり、全てが始まった日だったから。

小夜が食い入るように、『赤い盾』の紋章のレリーフを見つめていることに気がついたハジは、小夜の直ぐ傍らに、そっと寄り添う。

--昔と同じように。

ハジにとってもまた、それは見慣れた紋章だった。財をなした一族の嫡男であったジョエル・ゴルトシュミットの馬車にも使われていたことも覚えている。だが今となっては、それは懐かしくも、痛ましい想い出に彩られていた。



*         *         *



夜の更けた港町の暗い海は凪いでいた。
地中海の夜のしじまに溶けていく船内で、小夜は最上階にあるエレベーターホールに備え付けられたソファーに座ってジュリアが来るのを待っていた。このホールからは、正面に赤い盾の現長官である六代目ジョエルの部屋の大きな両開きの扉が見えた。ジュリアは、まだその部屋にいる。意識を回復したリクの状態について話をしているらしい。小夜は、ついさっきまでジョエルの書斎の隣のプライベート・ダイニングルームで、ジョエルを初めとする主要メンバーたちと食事をしたばかりだった。
赤い盾の現長官である六代目ジョエルは、穏やかで礼儀正しい青年だった。まっすぐ、小夜を見つめてくる灰青色の瞳。意志の強さをあらわしている、その瞳の中に、小夜は自分を育てた初代ジョエルの面影を見いだそうとしたが、残念ながらどこにも見つけることは出来なかった。
初代ジョエルは、どちらかといえば厭世的で社交界などに顔を出していなかったように記憶している。彼は『動物園』に隠っているのが好きだった。だが、目の前にいるジョエルという青年は、社交的で善良で、微笑みながら人の話に耳を傾けている・・。そんな印象を受けた。

ごく簡単なディナーだったというのに、赤い盾本部の幹部達と一緒だったせいだろうか、小夜は何を食べたのか、さっぱり覚えていなかった。覚えているのは、長官ジョエルが使っている書斎の大きな古い机の上にあったくすんだ金時計だけだった。それは、今も小夜の記憶の中に残っている。昔、『動物園』で、ジョエルが時間を確かめるとき、懐から取り出した蓋のある鎖のついた懐中時計。パリで求めた品だと言っていたような気がする。懐かしくて、辛いジョエルの遺品だった。

ダイニングルームでの食事会では、メンバーが、それぞれ簡単に自己紹介をし、食事が終わってしまうと呆気なく、お開きとなった。それでも小夜には、まだ緊張が解けない。ハジはジョエルの食事会に加わることなく小夜を扉の外で待ち、さっき出迎えてくれた。だがその後すぐ、彼は、ルイスに案内されて何処かへ行ってしまい、まだ帰って来ていなかった。
取りあえず、今は、まだジョエルと話をしているジュリアを待つしかないだろう。それより明日にでも、ハジと船内を歩いてみようか。恐ろしいほど広い船内で、どうせ迷子になるだけだろうけど。疲れたのか少し眠い。布地のソファーの背にもたれると目を閉じた。

「あなたもまた、翼手なのよ。」
「みんな知っていたのよ・・・勿論、彼も。」
「あなたには、本当の妹がいる。」

自分の知らなかった真実を告げる言葉の数々がこだまのように繰り返される。

「・・・動物園へ行きなさい。」

そして、崩れ落ちた廃墟の中で思い出した『動物園』の日々のこと。ある日、私のところへやってきた少年のハジ。私たちは養父ジョエルの元で、満ち足りた幸せな時間を過ごした。広大な敷地の真ん中にあった大きな湖で、ボートに乗り、ハジと舟遊びをした。夏の光が、湖面で銀色に反射して、眩しかったことを覚えている。湖の上を石造りの橋が渡っており、館の正面へと続いていた。一枚の絵画のような美しい田園風景。今となってみれば、歴史あるジョエルの古い館での日々は夢の中の出来事のようだった。

その廃墟と化した、あの『動物園』の塔で、小夜はデーヴァと対峙したのだ。憎むべき何かに挑むように青く光る官能的な瞳。声高にせせら笑う声。美しく奔放で、そして残忍。それでいて小夜と同じ顔と姿形。そのデーヴァを解き放ったのは、他ならず小夜自身だったのだ。

「小夜、待たせてごめんなさい。」
すぐ傍で突然、ジュリアの声がした。考え事をしていた小夜は、我に返る。

「・・少し疲れているみたいね。リク君のこと、随分心配したんじゃない?でも、もう大丈夫よ。」
小夜は、ジュリアを見る。
「・・あの、リクは・・・。」
ジュリアは小夜の隣に腰掛けてその肩をそっと抱いた。
「・・元気にしているわよ。あなたに、とても会いたがっていたわ。私にも昏睡状態だったことが信じられないくらい。だから、あなたは、もう心配せずに部屋で休んだ方がいいわよ。」
ジュリアに促されて、小夜は立ち上がるとエレベーターの方へ歩いていった。上がってきたエレベーターボックスのドアが開き、中へ二人は乗り込む。エレベーターは静かに、そのドアを閉じると、階下へゆっくりと降り始めた。

「みんな無事でよかったわ。あなた達がいなくなってから、カイ君、とても心配していたのよ。」
ジュリアが落ち着いた声で話しかける。
「あの・・ご心配掛けました・・。もう、大丈夫ですから。」
「私は、所詮ジョエルの日記を読んだだけに過ぎなくて・・。詳しいことも知らされていなかったの。それに、あなたに自然に思い出してもらうことになって・・。」
珍しく、たどたどしく話すジュリアに小夜は頷いた。

「・・デヴィッドさんから聞きました。」
「ハジもいたし、いざとなったら、彼が話してくれるかと・・。」
フランスへと向かう道すがら、ハジのいつも当惑したような表情を思い出した。
「・・ハジにも、悪かったと思っています・・。」
ボルドーで、シフの襲撃から身を挺して自分を守ってくれた彼の無惨な姿が目に浮かぶ。気をしっかり保たないといけない。リクだって、きっと今も、頑張っているのだもの。

「リクくんのことは、まかせて。・・じゃ、お休みなさい。」
ジュリアは、そう言い残すと途中の階でエレベーターを降り、小夜と別れた。