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温もり

 少女は、既に広いベッドの上で身を起こしていた。さらにベッドの上を、そろそろと移動して、その端に両足を下ろしてみる。彼女は、いつもなら、とうに訪れてはずの少年を待ちくたびれてしまっていた。そして、今度がは両足を絨毯の上に載せ、ベッドから降りると、自分で天蓋のカーテンも開け、格子窓のカーテンも開ける。外は、すっかり明るい。部屋から見える大きな楡の木からは、小鳥のさえずりも聞こえてくる。だが、少女の機嫌は、それに反比例するかのごとく、すっかり悪くなっていくのだった。

・・・ハジったら、朝から私の事を放っておいて、どこで何をしているのかしら。

 少女は、白いリネンのレースの寝間着姿のままで、窓際に立つと、庭を見渡した。遠くに、養父であるジョエル自慢のバラ園がよく見えるが、その中には、それらしき少年の姿はない。
 サヤは、今度は、東側の牧場の方へ視線を移す。やはり、そこは、のんびり馬が草を食んでいるだけで、やはり、探している目当ての少年はいなかった。

・・・あの子、きっとお寝坊したんだわ。

 考えあぐねて、とうとう、ある考えに行き着いた少女は、音を立てないように大きなオークの扉の横に立った。もうじき、寝坊をして大慌ての少年が廊下を走ってくるに違いない。少女は、扉が開いた瞬間、彼を驚かせようといたずらを思いつき、くすりと笑った。わくわくする気持ちを抑えながら、耳をそばだてで、碧い目の少年の朝の来訪を待つ。

 ・・・だが、いつまで、たっても少年の来る気配はなかった。

 とうとう待つことに厭きた少女は、重いドアを開ける。薄暗く、ひんやりと冷え込んだ廊下には誰もいなかった。しんと静まり返っている。

 少女は、落胆から、ため息をつき、一方で半ば苛立ちながら毛織のベッドドレスを羽織り、部屋を出る。向かう先は、その、寝坊をしたであろう無礼な世話係の少年の部屋だ。お寝坊さんを起こすしか方法はあるまい。

 この館に来て、半年ほどしか経っていない少年は、執事などが個室として使用している部屋のある三階の奥の部屋を宛がわれている。少女は、いつも使用人たちが使っている、狭い隠し階段を使って三階へと、こっそりと向かった。朝の忙しい時間帯を過ぎたのか、上り下りしている使用人には、出会わない。小さな階段を回りながら上りきると廊下の一番奥に小さな扉が見える。

---ハジの部屋の扉だった。

 サヤは、辺りを見回した。ジョエルには、使用人が使っている三階には、勝手に上がらないように注意を受けている。少女が誰もいないことを確認し終わると、奥の扉を目指して一気に廊下を走っていった。そして、音を立てて思いっきり、その扉を開ける。

「ハジ!お寝坊したらだめよ!」

勝利を確信していたサヤは、大声と共に勢いよく部屋に転がり込んだ。

「・・・ハジ?」

 小さな部屋のカーテンは引かれたままで薄暗い。部屋を間違えてしまったのだろうか?
もしかしたら、別の部屋に移ったのかもしれない。少女が、自分で大きな窓のカーテンを空け、
どうしたものか、と考えあぐねて腕を組んだ。

・・・こうなったら、なんとしてでも、あのハジを探し出さないと・・・!そして、うんとお寝坊のことを叱ってやるんだわ!

少女が、固い決意をしたときだった。

「・・・サヤ?そこにいるの?」

 聞きなれた少年の掠れた弱々しい声が部屋の隅から聞こえてくる。少女は、振り向いた。
部屋の片隅に置かれた古いベッドの中には、よく見慣れた黒髪の少年が潜り込んだままだ。

「・・・もう!ハジ!寝坊はダメよっ!私、あなたの事、すっかり待ちくたびれちゃったわ!朝の散歩どころか、ジョエルお父様との朝食に間に合わなくなっちゃうじゃないの!」

不機嫌な少女はつかつかとベッドに歩み寄ると、上掛けの端を掴かんで捲り上げ、中にいる少年を睨み付けた。赤く潤んだ瞳で少年がサヤを見る。

「・・・ごめん、サヤ。風邪を引いたみたいで・・。前から具合がよくなかったんだけど、昨日からは、熱が出てしまって・・・。」
ベッドの中で、覇気なく火照った顔の少年がささやくように言い訳した。

「・・風邪・・?そ、そう・・。なら仕方ないわね。」

少年の言葉に少女は、がっかりし、少し驚いた様子で少年の顔を覗き込んだ。そして、ベッドの端にどすんと腰掛けると、その手のひらを彼の幼さの残る頬に当てる。

「・・ハジ。・・嘘かと思ったけど本当みたいね、とても熱いわ。確かに熱があるわね。・・誰かに、このことは、言ったの?」
少年は、息苦しそうに首を振る。
「・・ううん、まだ。」

サヤは、熱を持った少年の肌に手のひらを沿わせながら、その首筋を撫でる。

「・・・これ、かなり高い熱じゃないの。・・・それに。」

少女の手のひらは、滑るように、少年の素肌を撫でながら色白の胸元まで降りていく。

「・・・く、くすぐったいよ、サヤ。」

少年は、恥ずかしそうに少女の手を払いのけようとした。だが、真剣な表情の少女は返事をしなかった。勝手に胸元の白いシャツの袷を押し広げている。さらに、シャツを捲ってしまう。少年は、うろたえて自分のシャツを引っ張り下ろそうとした。

「・・・ねえ、それに、この体一面の赤い斑点はいったいなんなの?ハジ?」

少年には、サヤが何の話をしているのかわからなかった。

「・・・ハジ、待っていて。誰か呼んでくるから。」
少女は、ベッドから立ち上がり、足早に部屋を飛び出していった。



        *                    *                   *


「・・・なんということだ!あのロマの連中め、私を騙したな!」

奥に見えるハジの部屋の中からアンシェルの大声がする。

 サヤは、ハジの様子がおかしいことを、皆に知らせてから,急に少年の部屋に入れてもらえなくなっていたのだった。
 突然の出来事に戸惑っている少女は、背後にいる養父のジョエルを振り返る。老いの見え始めているその表情は硬いままだ。

「・・・ねえ、ジョエルお父様、私、もうハジのところへ行っていいかしら?熱があるのよ。」
ジョエルは、静かに首を振る。

「ダメだよ。サヤ。さっきも言っただろう。お前は、自分の部屋に戻りなさい。ハジはね、流行り病の『はしか』らしいんだよ。お前に病気がうつるといけないからね。・・・しかし、アンシェルは、『はしか』や『水疱瘡』の済んでいる子を連れてきたはずなんだが・・。」
「・・・はしか?」 サヤは、切なげな表情を浮かべた。
「・・・なら、なおのことハジの傍にいなくちゃ。それにジョエルお父様、私、病気したことないから、きっと大丈夫よ。」

 暫くして、ドアの周りにいる使用人たちを押しのけて、アンシェルが出てくる。階段のところに、ジョエルとサヤがいるのを見つけると近くまでやってきた。

「ムッシュ・ゴルトシュミット、やはり、おそらくハジは『はしか』ですね。この間、町へ買い物に行かせましたから、そこで病気を貰ってきたのでしょう。・・熱も高いようですし、この様子だと、死ぬかもしれません・・私は、ロマの奴らには、病気の済んだ子どもを頼んだはずなんですが、『はしか』に罹っていなかったのでしょう。全く、連中と来たら、一人でも食い扶持を減らしたかったんでしょうな。忌々しいことです。」
ジョエルが、同意したかのように頷く。
「ロマから子どもを手に入れたこと事態、まずかったね、アンシェル。・・・まあ、仕方あるまい。それより、あの部屋に入れるのは、当面『はしか』にかかったことのある下男だけにしよう。屋敷で『はしか』がはやると厄介だからね。」
「ハジが死んだら、念のため、奴の身の回りのものは、すぐ焼き捨てた方がいいかもしれませんね。」
アンシェルは、不機嫌そうに言った。傍らで、二人のやり取りを聞き、青ざめたサヤは、ジョエルの後ろから、そっと顔を出す。

「・・ハジが死・・・まさか・・。ねえ、ジョエルお父様、ハジを診てくれるお医者様は、もうすぐ来てくださるんでしょ?お医者様がいらっしゃれば、大丈夫よね。」

そのサヤの声を目ざとく聞きつけたアンシェルが、怒気荒く、一蹴する。

「ハジに医者だと!パン一切れと引き換えの子どもに医者だと!何をふざけたことを!」

忌々しそうに怒鳴り、階段を下りていくアンシェルの後姿を、サヤは不安な気持ちで見つめる。

「・・・ジョエルお父様、やっぱり私、ハジのところに行ってくる!」
少女は、廊下を駆け出した。
「サヤ、ダメだよ。お前は、はしかに罹ったことがないんだからね。」




*                  *                 *



午前は晴れていたはずのボルドー空は、東の端から灰色に曇り始め、それが次第に広い空を覆いつくしていった。やがて、この地方では珍しい湿った風が吹き始め、その風に屋敷の前の大きな古い楡の木の葉が擦れあい、ざわめいていた。

 サヤを探して屋敷中を歩いて回っていたアンシェルは、少女が見つからないことに苛立ち、開いた扉の向こうの書斎に当主がいるのを見つける。そして、彼は、その深々と絨毯の敷き詰められた格式高い書斎へと足を踏み入れた。

「・・ムッシュ・ゴルトシュミット、実はサヤを見かけないのですが、あれからあの娘は、一体どこに・・・?」

その声に、書斎の机にぼんやりと頬杖を付いていたジョエル・ゴルトシュミットが顔を上げた。

「・・なんだ、アンシャルかね・・。」

当主は、助手の、自分の部屋への来訪にも気がつかずに、何か考え事をしていたらしい。
ジョエルの研究の担い手でもあるアンシェルは、再度、同じことを尋ねた。

「ああ、サヤ・・かね?」

老人は、もはや彼にとっては、愛娘も同然となりつつある翼手の少女の名を繰り返した。

「ムッシュ、私たちは、貴重な実験体の居所は常に把握していないければなりません。」

アンシェルは、少し咎めるような声色で説明し始めた。もっともそれは、彼のいつもの癖に過ぎない。
「私が思うに、おそらくハジのところだと思うが・・。」

当主は、あたかも他人事のように答えた。

「ハジ・・?のところですと?」

アンシェルの紺色の瞳の上の黒い片眉が上がった。

「・・ムッシュ。何度もいろいろご進言申し上げていますが、翼手が人の感染症にかからないという保障は、今のところありません。サヤをハジのところへから、早急に回収しましょう・・・。貴重な翼手の被検体に、なにか不測の事態が起きてはなりません。ムッシュ、今のところ、私たちは二体しか、翼手を確保していないのですぞ。あの病人のハジからサヤを隔離して、身の安全を確保したいと思います。」
アンシェルの言葉が聞こえているのか、いないのか、当のジョエルは、机の上の一点を見つめたまま、当惑したように口元を動かした。

「・・・ああ、わかっている。わかっているとも、アンシェル。お前はよい助手だ。しかし、あの子は、意地になってしまって、ハジの部屋から出ないのだよ。・・考えてもみれば、お前がサヤに余分なことを言ったからだと思うがね。もう、誰を呼びに行かせても出てこなくなってしまって・・。おかげで、このまま、ハジのことも放置しておくわけには、いけないと思って、今、町へ医者を呼びに行かせているところだよ。」
サヤを言い訳にはしているが、当主の人の良すぎる話を聞いたアンシェルは、大仰にため息をついて見せた。

「ムッシュ、これは、心外です。私は、現実を口にしたまでです。どうか、サヤの我侭と一緒になさいませんよう・・。ところで、あのハジに医者ですと・・?卑しい身の上のハジに?ムッシュ、貴方ともあろう方が、何を血迷っったことを・・。あんな子どもでも、死ねば、墓堀人夫代もかかるのですよ。パン一切れの子どもに医者などと・・・。酔狂なことです。そのことも御考えください。もちろん、ハジが死んでしまっても、ご心配には及びません。ハジの代わりなら、また、探してきましょう。あとくされの無いサヤの交配相手なら、私がいくらでも見つけてみせますから。」

 ジョエルは己の助手をちらりと軽蔑したように横目で見ると、問いかけには答えず、無言のまま、今度は懐から金の懐中時計を取り出した。さらに右手の親指で蓋を開け、小さな丸い時計盤を、焦点の定まらぬ眼で、じっと、眺めて始めている。

 アンシェルは、老いて、どこか俗世から離れていこうとしているジョエルを、ただ忌々しい気持ちで見つめるしかなかった。

・・・科学者に必要なのは、妙な憐憫ではなく、冷徹な判断力だ。その大切な判断力が、老いていく彼から、今まさに失われようとしているのだ。

・・・この老いぼれめ!

 声に出すことなく、心の中で当主を謗ると、アンシェルは、既に助手の話に興味を失ったらしい彼に背を向け、静かに部屋を出て行くしかなかった。


               *               *                *



 いつのまにか降り出した小雨の中、町からハジの診察に訪れた医者は、診察を終えると、数人の召使たちに玄関まで送られて、留めてあった古い馬車に乗り、屋敷を出て行った。

 その医者が屋敷を訪れたとき、ジョエルの指示で、再び、ハジの部屋から引き離されていたサヤは、医者を乗せた馬車が広大は庭を通って、大きな錬鉄の門を出て行く様子を自分の部屋の窓から確認すると、大急ぎで部屋を後にし、ジョエルのいる居間まで走っていった。

「ジョエルお父様!お医者様は、なんて・・!」

息せき切って現れた少女に老人は、少し笑みを見せて振り返った。

「はっきりとしたことは・・。しかし、ハジに充分な体力があれば、回復するだろうと言っていたよ。思ったほど、熱も高くないようだし、このまま、何も起こらなければ、なんとかなりそうだと。」

養父のその言葉に、少女は、胸をなでおろした。・・・せめて、早くハジのところへ行かなくては。



               *               *                 *



 サヤが気にかけてやまない黒い巻き毛のスラブ訛りのフランス語を話す少年は、誰もいない小さな部屋で、一人でベッドで眠っていた。冷え切った粗末な食事がベッドから離れた扉のすぐ傍に、まるで犬の餌のように、ぽつんと置かれている。思わず、少女がベッドに歩み寄った。

「・・・ねえ、ハジ。お医者様に診てもらえてよかったわね。・・まだ苦しいの?なかなか熱が下がらないのね。」

サヤの声に、ベッドの中の少年がうっすらと目を開けた。額には汗が滲んでいる。

「・・・サヤ、どうして、ここにいるの?決められた下男以外、入っちゃいけないって言われなかった?・・サヤは、ここへ来たらだめなんだよ・・。オレ、いや僕、うつる病気だって聞いていないの?」

少女は、ベッドの端に腰掛け、少し微笑むと、少年の額を白い麻布で拭ってやった。
「・・ハジ、私なら、大丈夫だと思うわ。たぶん。」
少年は、首を振った。

「たぶん、じゃだめだ。ジョエルに、だめだって怒られるよ。・・・それより、・・オレ・・僕。」

少年は寒気があるのか、ぶるっと身体を震わせ、ベッドへ深く潜り込むと寒いのか、掠れくぐもった声で、答えた。
「もう大丈夫よ、お医者様が診てくださったから。ハジは、いつも元気だから、きっと、すぐ良くなるわよ。・・ねえ、そんなに震えて寒いの?ハジ?」
少年は、目を閉じて、力なくなく頷いた。少女は、心配そうに覗き込む。

 早めの夕食を終えて、既に部屋着になっていた彼女は、やおら立ち上がり、突然、ガウンを脱いだ。そして、白いコットンレースの寝間着だけになると、少年の上掛けを捲り、子猫のようにベッドへと入り込む。

「‥サ、サヤ・・?」
想定外のことに驚いた少年は、声を上げる。だが、少女は気にも留めない。そして、ハジの身体に自分の身体をぴったりとくっつけるように抱きしめた。

「・・・ねえ、ハジ。今夜はここで寝ることにするわ。それに、こうすれば、少しは温かいでしょ?ハジは、寒いんじゃなくて?」

 少年は、普段なら、きわめて気位の高いサヤの行った行為に、当惑し、驚きながらも、それを受け入れる。温もりのあるサヤの身体。ドレスの下に付けているはずのコルセットを硬い感触はない。
 ハジには、母親に抱きしめてもらった記憶はほとんどなかった。母親は、物心が付いたときには、もういなかった。それに母親だった人物は、身持ちも悪く、息子であるはずの自分に関心を持つことはなかったと噂に聞いた。
 その上、ロマの一座には、自分の父親はいなかった。心無い者に母が、行きずりの男と寝て出来た子どもだといわれたことがある。確かに、この旅の一行に、碧い瞳を持つ、スラブ系の容姿を持つ者はいなかった。

「・・・ハジ。もう大丈夫だから、頑張るのよ。絶対に死んだりしないのよ。でないと私・・・私、また独りぼっちになってしまうわ・・。」

何かを恐れる少女の声は、微かに、わなないていた。サヤは、自分の胸にハジの頭を抱きしめる。柔らかな胸のふくらみが、少年の頬を包んだ。そこはなとなく漂ってくる湿った甘ったるい匂い。

「・・・ハジ、私が守ってあげる。だから、あなたのことを誰も屋敷から追い出したりしないわ。私がジョエルお父様に頼んだから大丈夫。だから・・・。」

だが、少年がその言葉の続きを聞くことはなかった。熱の中で襲ってくる強い眠りの中へ急速に落ちていってしまったから。



          *               *                 *

  


 少年が目を覚ましたとき見たのは、着替えを済ませたいつものサヤだった。お気に入りの薄桃色のモスリンドレスを纏い、結い上げられた黒髪には、細工の施された銀の櫛が飾られていた。
大きく開けられたカーテン。窓からは白く明るい光が差し込んでいる。汗も、熱も、嘘のように引いてしまっているようだ。

「・・すっかり熱も下がったみたいだし、よかったわね。」

機嫌の良いサヤが、親しげに少年の額を触り、首筋を撫でた。
「・・・うん。」
「今日も、午後に一応お医者様がきてくださるそうよ。ジョエルお父様が言っていたわ。」
「・・うん。」
少年は少女の白いレースの飾りのある胸元を見ながら、頬を染めた。赤ん坊のように抱きしめられながらサヤと眠った一夜。

「そうそう、着替えを持ってきてあげたわ。すぐに着替えましょうね。ハジ。」

少女は、傍らから洗いたての着替えを一式取り出してみせる
「・・う、うん。でも、大丈夫だよ。あとで、自分で着替えておくから。」
「だめよ、ハジ。あなたは、病み上がりだんだから、きちんと着替えないと。」

サヤは、身を乗り出して、ハジの湿った寝間着を脱がせにかかろうとシャツに手をかけた。

「・・・い、いいよ!オレ、小さい子じゃないんだから!」
「・・何言っているのよ、ハジ。あなた、まだ子どもでしょ。ああ・・全く世話が焼けるわね。」

ハジは、慌ててサヤが掴んでいる汗で汚れた麻のシャツを引っ張り返した。だが、熱で体力を消耗してしまったハジの抵抗はかなわず、再びシャツを掴まれると、引きあげられ、いとも簡単に寝間着が奪われてしまった。

「・・・わ、わかったよ、サヤ。自分でちゃんと着替えるから、新しいのを渡してよ。」
「・・あら。」

サヤは、得意そうに微笑んで見せた。

「それは、良い心がけね、ハジ。病人は、言うことを聞かなくちゃ。でも、その前に下も脱いで頂戴。」
少女は、視線を落とすと半裸の少年がはいているリネンの下穿きを指差した。

「・・・・・・・・・・。」

「全部換えましょう。ひどい汗だったもの。全部、着替えて清潔にしましょうね。」
まるで看護婦のように、振る舞ってみせるサヤに全く悪意はないようだった。

だが・・・。

「な、何考えているんだよ!サヤは、女の子だろ!」

 みるみるうちに可哀想なほど蒼ざめた少年は、大慌てで両手で自分の下穿きを押さえた。ところが、少女は、その様子に不思議そうに小首を傾げただけで・・・。そして、甲斐甲斐しく我が子の世話を焼く母親のように、少年に手を伸ばした。

「ハジ!」

 少年は、捕らえようとする少女の手から、するりとぬけると廊下へと走り出していった。

 薄暗く寒い廊下を通り抜け、階段を飛び降り、洗濯女たちのいるランドリーを抜けると、すばやく裏庭へと逃走する。だが、病から回復したばかりの身体は、まだ鉛のように重い。

 腐り朽ちかけた色の剥げた木戸をくぐり抜け、裏庭へ出てみると、雨上がりの湿り気のある暖かい風がそよいでいた。足元の黒い土には、どこからか種が零れてしまったのか小さな赤いひなげしが咲いている。傍には、深緑色の蔦の絡んだ古い石造りのの塀。

 どこかで、サヤが自分の名を呼んでいるのが聞こえた。だが少年は、少女が追ってこないことを知ると、自分の頬を、そっと両手で触れてみる。
 
 昨夜、ベッドの中でサヤの東洋の絹糸のような長い黒髪が自分の額の上に掛かっていた。細く白い首筋。円く膨らみ、ふんわりとした乳房の感触が今も残っている。サヤの腿が自分の腰に触れていたことも・・。温もりのあるベッドの中に混ざる、鼻をくすぐる芳しい少女の匂い。

 少年は、そんな記憶を振り払うかのように首を大きく振ると、雨が上がったばかりの青い空を見上げる。

 裏庭では、洗濯女が洗う洗濯物がはためいていた。その隙間から青く澄んだ空が見えている。
まだ、館の窓辺で、少女が懸命に少年を呼んでいるらしい声が聞こえていた。




拙いお話を読んでくださって、ありがとうございます。
しかし、アニメでも動物園時代のハジとサヤがもっと見たかったですね・・。