トロイカが走っていく道は白い積雪で覆われていたが、もう雪は降ってはなかった。グレゴリーを取り
逃がした混乱の最中、急ぎ準備された小夜達の馬橇には、幌が付いてない。さすがの小夜も、身体に
凍み込む寒さと辺り一面の雪景色を見渡して、今日は雪が降っていなくて、本当に良かったと思った。
少し身体を起こして、橇の中に敷かれた毛皮の上に座り直す。
「・・・サヤ、気分はどうですか?随分お疲れのようでしたが。」
前の席で御者として手綱を取っているハジが声をかける。
「・・大丈夫。ペテログラードを立つときに、赤い盾の人達に血を分けてもらったから。」
「・・これで、しばらくは体力を維持できますね。」
「・・うん。」
「もし、もっと必要でしたら、私の血を・・。」
それを聞いて、サヤは苦笑した。この青年は、昔から心配性だ。
「大丈夫よ、ハジ。ところで、この馬橇は随分速いよね。」
「三頭立てですから。」
「私、『三頭立て』なんて初めて。」
「三頭立ては、ロシアでは『トロイカ』というんです。御存知じゃなかったんですね。」
「・・・だって、私は動物園の外のことは、ほとんど知らないもの。」
「・・・そうでしたね。」
ハジは、穏やかに返答する。
「・・ハジは、外から来た子だったし、外のことをよく知っているから、とても羨ましかった。私と違って
『動物園』の外に行くこともよくあったじゃない。」
「・・ただ単に用があって出かけただけですよ、サヤ。」
ハジは小夜を宥めるように、静かに微笑んだ。
「・・・そうね。」
思い起こせば、定期的に血を必要とし、『人』ではないサヤには、ジョエルの判断からか、行動の自由
は許されていなかったのだ。
「それより、もうすぐ着くと思います。この森を抜けると家が見えるはずです。」
ハジは、渡された地図を見ながら言った。目の前には、葉の落ちた白樺の大きな森が広がっており、
そこへ吸い込まれるように細い雪道が続いている。
「サヤ、わかっていますね。赤い盾から連絡が届くまで、その家に滞在します。あなたは療養のため田
舎の親戚を尋ねるペテログラードからの旅行者です。」
ハジは、サヤに確認するかのように話しかけた。
「・・・わかっているわ。ハジ、でも、私たちは、のんびり滞在している暇なんてないのよ・・!まさか、
ペテログラードでグレゴリーを仕留め損ねるとは思ってもいなかったの。よもや・・逃げられてしまうなん
て!デーヴァにも!」
サヤは悔しそうに声を荒げる。
「サヤ、焦って闇雲に動き回っても仕方ありません。グレゴリーたちの逃亡先を突き止めてから行動
すべきです。」
「・・・もちろん、わかっている・・!でも、こうしている間にも・・・!」
「落ち着いて、サヤ。」
従者にそう言われて、少女は俯いた。
「滞在する家は赤い盾から紹介されましたが、もちろん組織とは関係ありません。くれぐれも言動には
気をつけてください。」
速い橇は、冬枯れの白樺の森の中へと飛び込んでいった。
* * *
その家は、森を抜けたばかりの広々とした場所にあった。辺り一帯の牧場らしき場所とライ麦畑、ジ
ャガイモ畑などを所有しているらしい。敷地の隅に立つ家は、地主といえるほど立派な建物とは言えな
かったが、農民の家としては、かなり大きい。何代もかけて、農奴から身を起こした富農のようだった。
トロイカは、その家の素朴で細やかな彫刻の施された木造りの門の前で止まった。完全に橇をめると
早速、ハジが降り立つ。そして、その青年が小夜の手をとると、少女は橇のステップに足をかけて、雪の
上へ降りた。ハジはさらに、橇を覆う麻布の下から大きなトランクを運び出す。それを見た小夜が、思わ
ず手伝おうと手を出すとハジが首を振った。
「・・・貴方は、良家の令嬢と言うことになっています。荷物運びなどすれば、身元を疑われることもあり
ますから私がします。」
「・・・でも。」
「それよりサヤ、玄関へ。」
「・・あ、うん。」
ハジは荷物を持って、玄関先までサヤをいざなうと足元に荷物を置いた。
「わかっていますね、良家の令嬢らしく上品に振る舞ってください。」
「・・・ねえ、ハジ、それって、もしかして私が上品じゃないって言っていない?」
サヤの声は、どこか不満げだ。
「ドレス姿で、木によじ登ったり、ジャムの瓶に指を突っ込んだりするのは、お嬢様のすることではない
と思いますが。」
「・・・この頃、そんなことしてないじゃない!」
「・・・では今朝、準備が終わる前に朝食をつまみ食いしていたのは誰ですか?」
ハジの指摘は鋭い。
ハジは、木の扉に取りつけられた古い金環に手を掛けるとノックした。中で人が近づいてくる気配が
あるのを確認し、急いでサヤを自分の前へ移動させる。扉が軋んだ音を立てて開くと女中らしき中年
の女性が顔を出した。その背後から、年老いた婦人が現れる。彼女はサヤを見ると親しげな微笑を浮
かべた。
「・・ようこそ、田舎の我が家へ。あんたたちだね、暫く滞在したいっていうのは。私は、ここの家主のオ
リガだよ。初めまして、お嬢さん。遠慮なくオーリャとでも呼んでおくれ。」
サヤは背筋を伸ばし、老婦人が差し出した手を握って握手した。オリガの農婦らしくない挨拶に応じる
少女の緊張がハジにまで伝わってくる。
「初めまして。えっ・・と、サヤ・・サヤ=ゴルトシュミットといいます。ペテログラードから来ました。暫くお
世話になります。」
『ゴルトシュミット』は、咄嗟に出た名字だった。考えてみれば、自分には、元々名字など存在しないの
だった。本当は動物園で飼われていたジョエルの愛玩動物のような存在に過ぎなかったのだもの。
サヤは、心の中で一瞬苦笑いした。
「・・こちらは、ハジ。私の昔からの世話係です。えっ・・と、息子さんから聞いていると思いますが、
実は、連絡を待たなければいけないんです。ここで連絡を待って、それから、親戚の家へ向かうことに
なっています。」
傍らで、ハジがトランクを床へ置く。
「挨拶は後で良いよ。それより、随分と寒いから中へお入り。外套は、そんなところで脱がずに、家の
中で脱ぎなさい。」
サヤとハジは招かれるままに、家の中へと入った。小さな玄関ホールらしきところで外套を脱ぐと奧
へ進む。通された部屋は暖かく、大きな暖炉が燃えていた。部屋の奥の片隅には小さなイコンが刺繍
布に包まれて飾られている。老婦人は、そのイコンに向かって、なにやら呟ぶやき、それが終わるとサ
ヤたちのほうを向いた。
「さてと。まずは、ここの習慣に従って、このパンに塩をつけて食べてごらん。歓迎の慣わしだよ。」
女中らしい女性が刺繍布に乗せた大きなパンを差し出した。そのパンの上には塩が入っている小さな
木の器が乗っている。サヤは言われるままに、そのパンをちぎって塩をつけ、口に運んだ。このような
習慣については、あらかじめハジから聞かされていたから戸惑いはない。サヤの後にハジもパンに塩
をつけ口にした。塩が大変貴重なこのロシアでは、大切な客を歓迎する行事にこのようなしきたりがあ
るらしい。
「そうだ、濡れたものがあったら、このペーチカ(ロシア式暖炉)の横の台の上に置いておきなさい。そ
うすれば、直ぐ乾くからね。そうそう、もちろん、あんたのことは息子からは聞いているよ。あんた、身
体が弱いんだってね。田舎で療養するのかい?だったら何もこんな寒い時じゃなくて、もっと暖かくなっ
てから行けばいいのにね、しかも、この国じゃ、今あちこちで内戦が起きているっていうのに・・。ね、
お嬢さん。」
「・・サヤって呼んでください。」
少女は、そう言葉を継いだ。
「じゃあ、サヤ。あんたは二階の部屋を使いなさい。以前、嫁いだ娘が使っていたんだ。安心おし、
二階にもちゃんと暖炉部屋を作ってあるよ。ええと、ハジとかいうあんたの召使いは、二階の一番
奥の部屋を。今、ペテログラードにいる息子が使っていた部屋だからね。」
傍でハジは、サヤに声をかける。
「・・では、私は先に荷物を部屋に置いて来ます。」
ハジは、両手に大きなトランクを持って、階段を上がっていった。小夜が、その後を女中に案内されて
暖炉部屋の隣にある部屋に入るとハジが先に運んだ荷物が部屋の隅に置かれていた。もう、着替え
た方が良いだろう。女中に手伝ってもらい、衝立の陰で楽な服装に着替える。そして彼女に下がって
もらうと、待っていたかのように早速ハジが部屋を訪れた。
「ハジ。いいところね。落ち着けそう。」
サヤは、ハジの顔を見るとほっとしたように言った。
「そうですね。私は、夕食の手伝いでもしてきます。下男の話だと、今日は夕食にいろいろと用意して
くださるようですから。」
「・・へえ、楽しそうだから、私も手伝おうかな。だって、ここにいても下から美味しそうな匂いがしてきて
落ち着かないんだもの。」
サヤが、そわそわしている。
「・・・手伝いは私が行ってきますので、サヤはここで寛いでいてください。台所で勝手につまみ食いされ
たら、私が困りますから。」
ハジの言葉にサヤが頬を膨らませた。
「・・・なによ、それ。」
それを見たハジの口元が綻ぶ。
「この辺りには、翼手の気配はなさそうですね。せっかくですから、ゆっくりしてください。」
閲覧をありがとうございます。コミックマーケット70(夏コミ)で
出した本を元に掲載しています。最近、BLOOD+のファンの方が減少しているような気が
していますが、どうなのかな・・?
このお話では、ロシア編に挑戦してみたのですが、当時の時代設定は、
私には、よくわからないことが
多いので、あんまり深く考えないでくださいね・・・。雰囲気だけ・・ということで。
(でも、間違えているところがありましたら、こっそり教えてください・・・。)
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