その二時間後、ハジはご馳走の並んだテーブルの向こうに惚けたように満面の笑みを浮かべているサヤを眺めることになった。グレゴリーを逃してしまうという緊迫した事態が続き、食事を楽しむ余裕もなく、固いパンや薫製肉、簡単なスープなどで済ませていた旅路だった。ここしばらく満足な食事をさせてやっていない。よく見れば前菜もメインもスープも一緒に並んでしまっている不思議な食卓には、ハジはおろか、下男までが付いていた。
「やっぱり、食事はみんなで楽しく食べるのが一番だね。・・・おや、せっかく食事だというのに、カーチャは、もう帰ってしまうのかい。仕方ないね、持って帰れるものは持ってお帰り。暗いから気をつけて帰るんだよ。」
カーチャと言われた女中は、布にパイと干し果物のお裾分けを包んでもらうと家へ帰るようだ。
サヤは、実だくさんのシチーにサワークリームをたっぷり放り込み、千切ったライ麦パンを付けて口へ運んだ。さらにピローグと言われる肉詰めパイを取り分けてもらい、美味しそうに食べている。そのあまりにも幸せそうな表情のサヤを、ハジは満ち足りた気持ちで眺めていた。
塔に閉じ込められていたデーヴァを解き放ってしまったしまったサヤは、翼手を狩り続けるという運命を背負わされている。出没する翼手の元凶でもあるデーヴァを狩るまで彼女の刀は血を吸い続けなければならない。そんなサヤがこの家の女主人と他愛ないおしゃべりをしながら、楽しそうに食べ物を口に運んでいるのだ。
下男や従者の立場であるはずのハジまで加わった賑やかな食事が終わると、火の番も兼ねている下男は下がり、ハジは席を外した。食卓にはオーリャとサヤだけが残っている。女二人で蜂蜜菓子を頬張りながら、他愛のないおしゃべりし、苦い紅茶を飲んでいた。田舎に住む年老いたオーリャには、都会からの若いお客が珍しくてたまらないらしい。ハジは、少し離れたところで二人の様子を見ながら、時々、サモワールからポットを取ると紅茶を作り足してやる。そうやって時間を過ごし、おしゃべりを十分堪能したらしいオーリャは、寝る準備をするようだった。彼女は大きなペーチカに付属している、程よく温まった広い台の上をお気に入りの寝台に拵えて使っているらしい。頃合いを見計らって、サヤとハジは、そっと二階へと上がる。
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「‥サヤ、ずいぶんと楽しそうでしたね。」
二階に上がってから、しばらくして部屋を尋ねてきたハジに、厚手の寝間着に毛織りのガウンを羽織ったサヤが衝立から顔を覗かせた。
「・・・だって、オーリャおばあちゃんの話、面白いんだもの。ハジだって聞いていたでしょう。」
「そうですね。でも、今夜はもう遅いですからお休みになって下さい。」
「うん。」
ハジはサヤを気遣って尋ねる。
「・・うん。私には暑いくらいだから。」
ハジは、二階の真ん中に作られている暖炉の炎を火かき棒で調節した。
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「では、もうお休み下さい。」
ハジはサヤの細い肩を抱きしめ額にキスをする。その姿を、たまたま階段を上がってきた下男が狼狽えた様子で見ていた。ハジは、それに気がつかぬ振りをするとサヤを部屋へ戻し、奥の自分の部屋に入った。
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朝、ハジが階下に降りていくと通いの女中のカーチャが朝食のソバ粥の準備をしていたところだった。
下男が、ペーチカに薪をくべている。彼は、ハジの姿を見ると慌てて視線を逸らした。ハジは、それに素知らぬふりをして、彼らに加わり朝の準備を手伝う。昔、ペテルブルグで買ってきたという、この家自慢のサモワールに煙突を立てた。少し間をおいて、この家の主人でもあるオーリャが入って来る。
「おはよう、皆。今朝は冷えるね。‥おや、ハジ、あんたはお客さんの一人なんだから手伝いはいらないよ。お茶でも飲んで、ゆっくりしておくれ。ところで、カーチャ、お客のサヤが起きたかどうか見てきてくれないかね。そろそろ、朝ご飯にしたいからね。」
女主人の言葉を聞いて、粥を作る手を止めたカーチャが台所を出ようとした。それをハジが制する。
「私が見てきますので。」
「何言ってるんだい。朝、ベッドに寝ているお嬢さんの部屋に、若い男が堂々と入るもんじゃないよ。」
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オーリャのたしなめる言葉が終わるか終わらないかのうちに、ハジは、勝手に台所を出て行ってしまっていた。その様子をオーリャが途方にくれたように見つめる。
「‥ペテログラードじゃ、嫁入り前のお嬢さまを若い男の召使いが起こすのが流行っているのかねえ‥。この頃の流行は、私にはわからんよ。」
呆れ顔のオーリャに下男が歩み寄ると、こっそり耳打ちする。その内容を聞いたオーリャは、少し驚いた表情をした。
ハジが二階に上がって暫くたった後、サヤは、白いルバーシカとサラファンを身に着け、髪にスカーフを巻いて、朝食の席に着いていた。それを見たオーリャは、いかにも愉快そうな表情を見せた。
「おやまあ、着替えたんだね。あんた、よく似合っているよ。その妙ちきりんなに短い髪を除けば、なんとも可愛い村娘だね。」
「‥ありがとう。オーリャおばあちゃん。これはハジが用意してくれたの。一度、着たかったから嬉しくて。」
それを聞いたオーリャは、後ろにいる下男と顔を見合わせた。ハジは、その様子に気がついていないのか、すぐ横で皆に紅茶を注いでいた。そして、やはり今回も使用人も含めた全員での食事が済み、ハジが席を立ち、どこかへ行ったのをオーリャが確認する。それを終えると彼女は言いにくそうに、サヤに話を切り出した。
「‥サヤ、あのハジって青年は、あんたの何なんだね?」
ふいに聞かれたサヤは、きょとんとする。
「‥ハジ?そうですね。私は彼が子どもの時から、身の回りの世話をしてもらっていますけど。‥えっと‥一応、私の専属の従者になるのかな。」
「いくら世話係でもあんな若い男が、うら若い娘の寝室に入っていくなんて、どういう御家柄なんだい。全く驚いたよ。」
オーリャの表情は、明らかに困惑の色を宿しているのだった。
「‥実は、私がよく寝坊してしまうので、いつも起こしてくれるんです‥。」
サヤは、恥ずかしそうに答えた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。」
「それに、彼は、子どもの時から私の世話をしてくれたし、その時から、よく朝は起こしてもらっていました。」
サヤは淀みなく、にこやかに説明する。
「‥もしかして、‥あんたたち、子どもの頃から一緒にいるのかい?」
オーリャは、驚いているようだった。
「‥そうです。お屋敷には、同年代のお友達も家族もいなかったので、ジョエルお父様が私のお友達として引き取ったって聞きました。私には、ハジだけが友達でした。」
それを聞いた老婦人は、溜息をついた。
「‥私には、あんたの父親の気持ちがわからないね。私なら女の子を引き取ると思うけど。何も、男の子をわざわざ‥。あとで面倒なことになったら困るじゃないか。」
オーリャのハジを遠回しに非難する言葉を聞いたサヤは、大きく首を振った。
「‥ハジは、今までも面倒なんて起こしたりしていません‥!面倒を起こすのは、いつも私なんです。彼は、小さい頃から、私と違って、とても良い子でした。いつも親切だし、ジョエルお父様にも信頼されていましたし‥!」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。」
サヤの捲くし立てるような物言いに押されて、オーリャは黙り込んだ。
「‥ご、ごめんなさい、つい大きな声を出してしまって。それに、ジョエルお父様は、実は私の本当のお父様ではなかったんです。‥そのジョエルお父様が亡くなって‥。」
目の前に、真っ赤な炎が現れる。火に包まれ、焼け落ちていく古い館。楽しみにしていた華やかな誕生会は、デーヴァによって血の海とかしていた。
「‥私たち、そのお父様が亡くなってお屋敷にいられなくなったの‥私たちは、どうしてもやり遂げなければならないことが出来て、二人でお屋敷を出たんです。今は赤い盾‥いえ、ジョエルお父様のご親戚の方のところにいるんです。」
何の不自由もなく見える少女の、意外な身の上話を聞いてしまったオーリャは、いきなりサヤを抱きしめた。
「‥知らなかったけど、あんたは本当は複雑な立場なんだね。聞いて悪かったよ。でも、若い男には気をつけないといけないよ。いくら信用している召使いでもね。」
「ハジのこと?‥なら、心配いりません。私たちは昔から一緒だったし、これからもずっと一緒だもの。」
予想もしなかったサヤの返事にオーリャが驚いている。
「‥あんた、嫁ぐときにも、あのハジを連れて行く気かい?それは、ちょっと不味いと思うよ。」
「‥やだ、オーリャおばあちゃん、私はどこにも嫁いだりしないわ。私は、そういう普通の女の子じゃないの。」
サヤの娘らしくない考えを聞いてオーリャの表情には戸惑いの感情が表れていた。サヤとハジの普通の女主人と召使いとはいえない不思議な関係が、うまく理解できないようだった。
サヤは、食堂からペーチカのある居間の窓際に立っているハジをそっと覗き見た。ハジは、いつものように、何にも気がつかぬ振りをして、チェロケースから愛用の古い楽器を取り出している。
赤い盾の中でも、言葉では言い表すことの出来ないハジの立場に興味を持つ者は多い。
昔、サヤが『動物園』にいた頃、子どもだったハジは、実は『翼手』であるサヤの後腐れのない『交配用の相手』として連れてこられてきたのだった。そんなことを少しも知らなかったハジは、サヤに懐き、いつも一緒に過ごした。その彼には、成長した後、サヤの『繁殖用の雄』として役目があったのだ。赤い盾が結成されたときに、ジョエルの日記のより明らかになったその事実は、幼い頃からサヤを純粋に慕ってきたハジの感情をより複雑なものにした。
ハジは、静かに小椅子に腰掛け、チェロを奏で始める。
歪んだガラスがはめ込まれている窓には、霜が白く凍り付いていた。そんなロシアの片田舎に似合わぬ洗練された調べが、オーリャの飾り気のない家に流れる。