待ち人

ハジは、不在になっているジョエルとアンシェルの代わりに、ゴルトシュミット所有の葡萄畑の担当の者の話を聞き終わったのは、すっかり夜が更けてからだった。パリの社交界の集まりに呼ばれたジョエルとアンシェルは、当分、戻ってこられそうにないらしい。ジョエルから、常々葡萄の話を聞いていたハジが、話を聞かなければならなかったのは止むを得ないことだった。醸造所で今年の葡萄の出来のこと、ワインの仕込の予定のこと、熱心に語り続ける葡萄畑担当の年配者の相手をしなければならなかった。

 ジョエルたちが不在になると、何故かワイン醸造の使用人たちがいっせいにハジのところへ話を次々と持ち込んでいた。
 大事な話は、取りあえず昔からいる家令や執事に預けてしまえばよいと思うのだが、彼らは城で采配の責任を担っている家令には、所詮、葡萄樹のことはわからないと思い込んでいるらしい。幼い頃から、城主でもあるジョエルについて葡萄畑や醸造所で出入りしていたハジは、望む望まざると関係なく、いつの間にか、葡萄の出来とワインの関係に少しばかり詳しくなってしまっていた。もっとも、一番詳しく、熱心なのはワイン愛好家でもあり、科学者でもあるジュエル自身だ。

 ハジに持ち込まれた話は、今年の葡萄の収穫の段取りについてだった。今年は雨も少なく、晴れた日も多かったのでよい収穫が望めるらしい。収穫人も多めに集め、人手が無駄になっても早熟の品種と晩熟の品種共に葡萄の実が十分に熟するまで待ち、一気に収穫へと持ち込みたいと言う。葡萄畑を見ながら育ったハジにとっても、楽しみな話だった。
 ジョエルが財力に物を言わせて買い取った斜面にある水はけの良い土地は葡萄の生育に極めて向いている。だが、家令やハジたちには人を雇うことについては、一任されていない。結局は当主の判断を待つしかないないのだが・・。

 今年のワインは、手さえ抜かなければ、品質のきわめて優れたものが見込め、高く売れることは間違いがないだろう。
 収穫を急いではならない・・。確かにそのとおりだと思う。葡萄の果実が十分に熟れるのを焦らずに待つこと、そして、収穫のタイミングを逃さないこと。


          *                *                *


  ハジは、ランプを手に、ワインの醸造計画に考えを巡らせながら、暗い館の廊下歩いていた。気がつけば、もう自分の部屋の前に立っている。今日は忙しかった。考えてみれば、ジョエルとその遠縁であるアンシェルが同時に不在になることは、きわめて珍しいことだった。
使用人たちも、気兼ねなく仕事を終え、早々と使用人用の別棟に引き上げてしまっていた。
ハジは、三年前から執事や家庭教師たちの私室のある最上階の一番奥の部屋を、個室としてを与えられている。ついさっき執事と家庭教師の部屋の前を通ったが、もう灯りは消えているようだった。

 ハジは、自分の部屋の前まで来ると、静かにドアを開け、ランプを掲げ持つ。薄闇の自室を、目を凝らしてみると、出るとき閉めておいたはずの格子窓が少し開いていた。

「・・・誰が、勝手に・・。」
掃除などのため、部屋には時々誰かが入っていたりすることも多い。残念ながら、私物がなくなってしまうこともあり、他人に入られることには抵抗があった。

「あまり、入ってもらいたくないな・・。」

そう呟きながら、開けられた窓に歩み寄ったときだった。へやの片すみのベッドの上で何かが、もぞもぞと動いた。青年は、驚いて凍りつく。誰かいる。だが暗闇で何も見えない。

「・・・ハジ?」

ベッドから響く聞きなれた少女の声に、ハジは全身の力が抜けるような気がした。

「何処へ行っていたの・・?いくら探しても見つかんないし・・。この部屋まで来ても、もぬけの殻だし・・。」
青年の気配で目を覚ましたらしい少女は寝ぼけ眼だった。彼女は、ジョエルに使用人の部屋のある階へ上がらないように言われているはずだ。ジョエルはいつも、就寝前にサヤが部屋にいるかどうか、女中に確認させている。女中が下がった後、勝手に出てきたのだろうか。

「・・サヤ、こんなところへ来ているのを見つかったら、ジョエルに怒られますよ。この階は、執事と家庭教師と私だけが使っている階ですので。」
サヤが、眠たそうに目をこすりながら、ベッドの上に身を起こした。
「・・ハジ、何を言っているの?ジョエルもアンシェルもパリに出かけちゃったじゃない。」
サヤの言葉に、ハジもまた、そのことを、やっと思い出していた。
「・・・随分、遅いのね。」
サヤが伸びをしている。ハジはランプをテーブルに置き、もうひとつの大きなランプに火を灯した。

「・・ええ、葡萄畑の収穫のことで、話が長引いてしまったんです。・・サヤ、わかっていますよ。いつもジョエルがアンシェルとやっているビリヤードをしてみたかったんでしょう。でも、もう遅いですから、御相手出来ません。明日にしましょう。今夜は、もう御部屋に戻ってください。」
そういって、ハジはランプをベッドの脇の小さなサイドテーブルの上に置こうと身を乗り出した。
そして、そのランプの揺らめく光がサヤを照らし出す。ハジは息を呑んだ。

「・・・サヤ!どうしたんです、その姿は!」

ベッドの身を起こしているサヤは、ハジの見たことのない寝間着を着ている。ハジの記憶にあるサヤの寝間着姿は、もう3、4年前のものだが、肩を覆った、いかにも寝間着と言ったゆったりとしたコットンの白のドレスだった。ところが、目の前にいるサヤは、安物の透けるレースがふんだんに使われている薄物の布地だけで作られた、寝間着と言うより、下着に近いナイトドレスを身に着けている。・・・まるで高級娼婦のような、いでたちだ。

「・・・そんな品のないナイトドレスを一体誰にもらったんです!どこにいる使用人ですか!?」
サヤは、不思議そうに首を傾げて、ハジを見つめていた。
「・・・サヤ、こんな商売女のような姿をジョエルに見つかったら、そのメイドまでクビになりますよ!」
少女は、首を振る。
「違うわ・・。アンシェルが、くれたの。流行のナイトドレスだって・・。」
「・・・まさか!あの堅物のアンシェルが、そんなもの買うはずありません!いい加減にしてください!」
少女は首を振る。
「・・そりゃ、アンシェルが誰かに買いに行かせたんだと思うけど・・・。彼が、これを着るといいんじゃないかって教えてくれたの・・・。」
少女が俯いた。
「・・はあ・・?」
ハジは、呆れてものも言えない。サヤは、自分が咎められないよう、懸命に嘘をついているに違いなかった。

「・・この姿で、ハジの部屋に行けば、ハジが私のこと構ってくれるだろうって・・。」
サヤは、ハジに突然、怒鳴られたせいか、瞳を潤ませて言い訳していた。

「・・だって、ハジ、このごろ、構ってくれないんだもの・・。忙しいとか言って・・。それで、その話をアンシェルにしてみたの。そうしたら、それは大変困ったことだとか、ぶつぶつ言い出して・・・。大事な計画が頓挫するとかなんとか、わけのわかんないことを言ったの。」
少女は懸命にしゃべり続けている。
「・・計画?・・・一体、何の話です・・・・?」
「・・そ、そんなこと、私に聞かれてもわかんない・・。」

アンシェルは、何を考えているのだろう・・。彼は、時々理解できない行動を取ることがあった。
あの出入りを禁じられている古い塔にも、こっそり通っていることも噂で知っている。彼のやることは、わけがわからない。しかも城主であるジョエルの大事な娘も同然のサヤにとんでもないことを助言したものだ。
「・・・でね、もうすぐ、ジョエルお父様が、暫く不在にするから、そのとき、湯浴みをして、ほんの少しのコロンをつけて、これを着て、ハジの部屋に行くように言われたの。ジョエルお父様には、絶対内緒だって・・。なんでかしら・・・?」
「・・はあ・・・・・・・・。」

ハジは、サヤを見下ろした。青年に御小言をもらった少女は、しょげ返っている。ジョエルによって、外の世界から遮断されて育てられている彼女は、実は自分が男を誘っている姿をしていることさえ、気がついていないのだ。

「・・それで、ジョエルお父様たちが出かけたから、言われたとおりにして来たのに、ハジは全然、帰ってこないし・・。」
ハジは、深々とため息を付いた。
「でも、このドレス落ち着かなくって・・。」
ハジの視線が泳ぐ。ベッドの上でそわそわと落ち着きをなくしているサヤの、広く開いた肩と膨らみを持った胸元につい、目が行ってしまう。
「そりゃ、そうでしょう・・。貴女らしくない格好ですからね。」
「・・・うん・・。おしゃれなのはいいんだけどね・・。」
サヤは、上掛けを胸の辺りに引き寄せる。
「薄いから寒いんですね。そんなもの着るから、寒くなるんです・・。風邪を引いても、私は知りませんから。全く・・子どもと同じですね。」
サヤは、恥ずかしそうに俯いた。
「・・・確かに寒くって・・。こんなに寒いとは思わなくて・・。」
少女は、戸惑った表情を浮かべている。

「・・・それに実は・・アンシェルに言われた通り、下着を付けなかったの。この寝間着の下は、裸なんだもん。おかげで、とっても寒くて、ベッドからも出られなくなっちゃって・・・。」
それを聞いたハジは、体が硬直したまま、動けなくなっていた。

「・・・下着は、ないと落ち着かないよね。おなか冷えるし・・・。ねえ、ハジ、どうしたらいい・・?ハジが私の御行儀が悪いのを気にしないでくれるなら、ベッドから出て、あの赤いガウンを取りに行って、羽織ってもいいかな・・?」
サヤが、部屋の片すみの瀟洒な布張りの小椅子を指差した。その背もたれには赤いガウンが、言葉通りに掛けられていた。
 サヤのあまりにも無防備な提案に、ハジは無言になった。二人は、薄闇の中で暫くの間、一言も交わさず見詰め合っていたが、青年は黙ったままランプを置くと、突然きびすを返し、不自然な足取りで、部屋を慌てて出て行ったきり、その夜は、部屋に戻ってこなかった。

 この古い大きな館で孤独な身であったサヤは、涙ぐましい多大な努力をしたにもかかわらず、今日もまた、親愛の情を寄せる従者である青年に構ってもらえず、放って置かれたのだ
った。




ちょっとした小話を書いてみました。何か唐突に話が終わってしまってすみません・・。