木漏れ日

夜明けと共に敵が去り、取りあえずハジが動けるようになるのを待つと、二人が暗い森を抜けて、ようやく辿り着いたのは、葡萄畑を見下ろすことの出来る小高い丘だった。今まで経験したことのない激しい襲撃をたった二人だけでギリギリのところでしのぐことが出来たのは、もはや運がよかったとしか言いようがなかった。今は、少しでも体力の回復に努めるしかない。

 湿り気のない乾いた暖かい風が心地よかった。その小高い丘から見える丘陵地帯には、見渡す限り、重なり合うように葡萄畑が広がっている。南風が葉を揺らし、次から次へと砂浜に打ち寄せる波のように地平線の彼方から、爽やかな風が吹き寄せてくる。

   小夜は、その丘にある大木の根元に、寝ころんだまま、目を覚ました。老樹の根元の地面の下に 大きく張りめぐらされた根からは、湿った土の中にある命の水を吸い上げ、幹へ、繁る若葉へと、送り続ける、まるで脈動のような水音が聞えていた。
 久しぶりに戻ってきた小夜の鋭い聴覚がその微かな音を捉える。葉の一枚一枚が、芽吹き、葉を広げる生き生きとした息づかいさえも聞こえてくるようだった。

---どのくらい眠っていたんだろう。きっと、そんなに長い時間ではないよね。

 小夜は、誰が見ても酷い手負いであろうハジから、ついさっき、休むように言われたばかりだった。
本来なら安静と休養を取るべきなのは、小夜ではなくハジ自身のはず。それなのに、肝心の小夜は、もう起きあがることすら出来なくて、怪我を負ったハジの血を分けてもらうしかなかった。

「ごめんね・・。ハジ。」

 かろうじて出た言葉にハジは、休むよう言っただけだった。自分は、もっと沢山の感謝と謝罪を 述べなければならないのに、出てきた言葉はそれだけ。その言葉だけで、精一杯だった。
 彼が、再び自ら傷つけたごつごつした右手の平に、唇を当て、流れ出てくる血を飲み込む。困惑しながらもハジの血を身体に取り入れる小夜を、ハジはじっと見つめているだけだった。飲んだ後は 突如、強い疲労感に襲われ、気を失うように眠りに落ちたのだった。

 少し、朦朧としたままの小夜は、寝ころんだまま、頭をめぐらせてみる。すぐ、頭の横の辺りにハジの気配があった。彼を感じる感覚は、さっき彼から血を分けてもらった時から、特に強くなっているようだ。今度は、顔を上に向け、少し目を細めて空を見る。
 空には、小夜の視界を遮るように、空いっぱい巨木の梢が広がっている。小さく重なり合う 多くの葉が、目のくらむような明るい日差しを受けて、ちらちらと光っていた。

 そして、頭の直ぐ横のところでも、生命の蘇っていく音色が聞こえていた。ハジの傷つき、弱った身体が急速に回復していく音だ。
 耳を澄ますと信じられぬような早さで彼の千切れた多くの血管が自ら繋がり、その中を血が流れ始める音が聞こえる。激しい攻撃で潰れてしまった身体の奥深くの内臓も、再び膨らみ、恐ろしいほどの速さで再生を始めているだろう。砕けた骨が静かに元の位置へと収まっていく。ひび割れた骨の断面は、ふさがり、また結びつき一本の骨の姿となる。さらに彼の白い皮膚が血で瘡蓋を作り、あっという間にその瘡蓋を脱落させ、新たな柔らかい皮膚を形成しながら、損傷した部位を覆い始める。
 ハジの細胞の一つ一つが、命を帯び、鮮やかに蘇っていくのがわかる。落ちた種が、土の中で芽吹き、その芽を伸ばし地上に現れるように。
 ハジは、広い背中を木の幹に預けるように、その根元に腰掛けていた。片方だけ立てた膝に包帯が巻かれた右腕を置いている。彼もまた、目を閉じていた。何かの音を、耳を澄まして聞いているかのように。
   
 静かに吹く風の中で、彼の黒い前髪が、揺れていた。透けるような白い皮膚。長い手足。
その背の高い美しい青年からは、もう血のにおいはしない。

 小夜は、また瞼を閉じた。とても、眠い。



          *                 *                 *
   

 それは、暖かな、晴れて明るい午後だった。どこまでも続く葡萄畑と麦畑の間を横切る細く長い小道を、馬に乗ってゆっくりと歩いていく。日差しが眩しい。先を行ったはずの少年は、どこまで行っしまったのだろう。見あたらなかった。もしかしたら、丘の上まで行こうと誘ったのが
気に入らなかったのだろうか。それとも、何処かで迷っているのだろうか。手綱を左手で束ねて持ち、右手を額のところで翳して、周りを見渡してみる。だが、眩しくてよく見えない。
 すると、どこかで、声がした。誰かが呼んでいる。

「サヤ!」

 見れば、腐って壊れた柵の隙間から少年を乗せた馬が、麦畑へ入り込んでしまっていた。
馬は、生い茂った麦の中に頭を突っ込み、食べることに夢中で動く気配がない。
 少年は、馬を道に戻そうと鞍の上で懸命に手綱を引いているが、びくともしなかった。
   
「待って。今行くから。」
急いで馬を下り、自分の馬の手綱を引き、その馬をつれ、さらにドレスの裾をたくし上げるように持つと、自分も麦畑へ入っていく。足元に麦の青く鋭い穂が擦れて、ざわざわと音を立てた。そして、少年の馬の側まで行くとその頭絡を握って、馬に声を掛け、手前へ引き寄せるように馬の頭をを麦の中から引っ張り出す。少女の気配に驚いたように馬がやっと頭を上げ、少年は、安堵したのか嬉しそうに笑った。二人で麦畑を脱出すると、後は丘を目指して、一気に駆け上がっていく。少年の乗った馬は、思っていたより速い。まだ、乗り慣れていないのだから、落ちて怪我をしないといいのだけれど・・。

 辿り着いたその丘からの見晴らしは見事だった。眼下にどこまでも葡萄畑が広がっている。資産家の養父ジョエルの葡萄畑だ。遠くには、古い城が見える。私たちの住んでいる城だ。
 敷地内とはいえ、少し遠くまで来すぎたかもしれない。でも、たまの遠出もいいだろう。遊びたい盛りの彼には、屋敷の中ばかりでは、さぞかし気詰まりだろうから。外出が嬉しいのか、彼も楽しそうだ。
やはり、来てよかったと思う。
 少年が、景色を指差しながら何かしゃべっている。その利発そうな口調に、気がつくと思わず引き込まれてしまっていた。懸命にしゃべろうとして、思わず出てしまうスラヴ訛りのアクセントが、可愛らしい。少年がこちらを見た。黒い髪が、風の中で、ふわふわとそよいでいる。その時、透明硝子のような水色の瞳と視線が交わった。透き通った綺麗な瞳。彼が、何かを言おうとして 口を開く・・・。



                *                 *               *
   
「小夜。」

 突然頭上で、低く澄んだ声が響いた。小夜は驚いて、目を開ける。
「驚かせて、すみません。大丈夫ですか。」
   
---今のは、夢?
   
「・・・私、眠っていたの?」
「ええ。ぐっすりお休みでした。ここ数日の疲れが貯まっていたのでしょう。」
「・・・ここ、どこ?」
小夜には、状況がよく飲み込めなかった。
「どこって、あなたの生まれた場所のすぐ近くです。」
「・・・もしかして丘の上?」
「そうです。先ほどと同じ場所ですが。」
「・・・葡萄畑が見える?」

そう、確かに見渡し限りジョエルの葡萄畑が広がっていたはず。

「見えますよ。小夜も、さっき見ていたじゃありませんか。」
小夜は、急いで身体を起こすと、きょろきょろと辺りを見渡す。
「・・あの、ハジ。私が乗ってきた馬は?一緒にいた男の子はどこへ行ったの?」
「・・小夜、一体、何の話をしているんですか。ここには、馬も子供もいません。」
「・・・いたよ。」

----黒髪の碧眼の利発そうな少年

「・・たぶん、夢でも見ていたんでしょう、小夜。」
ハジが困ったような表情をしている。
「・・・では、そろそろ、出かけましょうか。」
ハジの言葉に、我に返ると膝で立ち、周りの景色を見る。いつのまにか辺りには煙るように白い霧がかかっていた。今にも雨が降り出しそうだ。そして、やはり、眼下に、一面の葡萄畑が霞んで広がっていた。
その遠く向こうには、古びた城らしきものも建っているのが小さく見える。しかしそれは、似てはいるが、すっかり荒れており、夢で見た物とはかなり違っているようだ。

---やっぱり、夢だったんだ。

 実際に見えるその城は、城と言うより、ただの廃墟に過ぎなかった。

---思い出した。私達、夜、シフに襲われて、もう少しで殺されそうになったんだ・・・。
そして、私、ハジに血を飲ませてもらって、ここで休んで・・・。やだ、私。すっかり寝ぼけちゃって・・。そうだ、ハジ、酷い怪我をしていたはず・・。


「・・・ハジ、もう大丈夫なの?怪我はどう?」
「もう大丈夫です。ご心配をおかけしました。」
ハジは、落ち着いた声で答える。
 次に、彼は、立ち上がりチェロケースを肩に背負った。その様子を見た小夜も毛布をたたむと、上着を羽織り、急いで支度を調える。彼女は、まだ霞んでいる頭を振りながら、同じように立ち
上ろうと試みた。起きたばかりで、少し目眩がする。ハジがそのふらつく小夜の手を取った。
   
「小夜。目指しているのはあの場所です。」
ハジは、広がる景色の彼方にある廃墟を指差した。そして、小夜の方を見る。
 解けた彼の癖のある黒い髪が風の中で乱れて靡いていた。硝子のような透明な水色の瞳が小夜を見る。
彼が口を開いた。

「小夜。あと少しです。さあ、行きましょう。」








21話の後のお話のつもりです。