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 それは、ハジがこの館へ「サヤの友達」としてと引き取られてから、三度目の春が来た頃だった。古城の広大な庭の片隅では、春の光の中で様々の種類のリラの花が咲き誇り、鼻をくすぐる甘い香りが漂っていた。
 サヤは、朝早く、広い庭の散策を楽しんで、その薫り高いリラの枝を腕いっぱいに切り取ると館のダイニングルームへと帰ってきた。そして、部屋にある染付けのシノワズリの花瓶に、薄紫の春の花を生ける。すると、部屋は、甘い春の香りでいっぱいになった。ダイニングルームは、大きな硝子窓に覆われていて、春の陽光が燦々と差し込んでいる。その中で、リラの花が瑞々しい春の気配を感じさせてくれた。

「おや、お帰り、サヤ。今日は独りなのかい。」
   
朝食の支度の整ったダイニングルームへ召使いを伴って、入ってきたジョエルは、サヤに微笑みかけた。
   
「おはようございます。ジョエルお父様。そうよ、今日は独りなの。ハジが朝の散策に付き合ってくれなかったから。」
養父に少女は答えた。
「・・・そうだったのかい。ハジなら、着替えたら、ここへ降りてくるだろう。昨日、夕方に新しい服が届いたばかりなんだよ。」
「・・・服?」
少女は訝しげに首を傾げた。
「・・そうだよ、ハジの背が随分高くなってしまったから、新しく仕立てたんだよ。せっかくだから、見ておやり。」
サヤは、不機嫌になった。
「ジョエル、ハジの服なんか、どうでもいいわ。背が高くて彼のズボンが短くなって膝が丸見えでも、私は気にしないもの。」
「一体、どうしたのかね。ハジのことになると、関心があるんじゃなかったのかね。」
「・・もう、あまり、興味を持たなくなるかもしれないわ。だって、これからは、嫌いになっちゃうかもしれないから。」
「おやおや、穏やかでない事を言うんだね。」
それは、まるで娘の気まぐれに戸惑う、本当の父親の様でもあった。
「・・・あのね、ジュエル。ハジったら 、この頃、何か、私に冷たいのよ・・。」
「・・そうかね。私には、そうは、見えないが・・。」
「・・あら、とっても、よそよそしいわ・・。ほんと、頭に来ちゃう。」
サヤが、ジョエルに自分へのハジの仕打ちを報告しようとしたときだった。

「おはようございます。ムッシュ、ゴルトシュミット。」

開け放たれた樫の扉のところに、当のハジが立っていた。ハジが部屋へ入ると、その背後でお仕着せの召使いが大きな扉を閉める。
   
「・・・おはよう、ハジ。今までのように、ジョエルと呼んでくれると助かるが。私はここでは、実業家、ムッシュ・ゴルトシュミットではないからね。」
「 すみません・・つい。」
   微笑んだジョエルが、今度は傍らのサヤを見ると、不機嫌でふくれた少女は、何故か顔を背けたままだった。
「サヤ、機嫌を直して、ハジに挨拶をしておやり。」
仕方なく小夜は、ハジを見る。彼は小夜の直ぐ横に立っていた。
「・・・おはよう、ハジ。」
そしてそのまま、小夜は、ハジの姿に釘付けになった。
   
何故なら 、目の前にいる彼は、今まで来ていたチャコールグレーの子供服を着ていなかった。真っ白のコットンのシャツに踵まである黒いズローサーズを履いている。足元も、黒い靴だった。
「・・・・ハジ。」
「おや、似合っているよ、ハジ。あと、帽子と手袋とタイも一緒に届いたと思うが。」
ジョエルが、楽しそうに微笑んだ。
「ええ、届いています。どれも、ぴったりです、ムッシュ・ゴルトシュミット、いえ、ジョエル、ありがとうございました。」
呆然とハジに見入っているサヤの様子に気がついたのか、彼が少し照れたようにサヤを見た。
   
「・・・サヤ、どうかな。」
ハジに話しかけられたサヤは、ぷいっと視線を逸らした。
「・・・ハジったら、大人みたいな服着て。」
「・・・似合わないかな。」
「似合わない!全然!」
「・・・・・・・・・・。」

サヤは、テーブルに向かうと、召使いが運んできたスープをジョエルに断りもなく、スプーンですくって飲み始めた。
   
「・・・ハジ、サヤは、驚いているだけだよ。よく似合っている。今度は、ぜひ馬も贈ってあげるとしよう。」
ジョエルの機嫌の良さにハジが、ほっとしたような表情をした。そして、席に着く。その様子を見た召使いが、彼の前にもスープの入った皿を置いた。
「・・ところで、ハジ。サヤが、このように、朝からご機嫌斜めなんだが、どうしたものかね。名案があるといいのだが。」
「・・・・・・・・・・。」
ハジは、返事をしなかった。サヤはそれを見て、ますます不機嫌になる。
「・・ジョエル、ハジったら、今日は、朝、起こしに来てくれなかったの。」
ジョエルが、あきれたようにサヤを見た。
「サヤ、起こすのはメイドに頼んでいないのかね。」
「あら、以前、私の世話係のメイドがやめてからは、ずっとハジが起こしに来てくれたのよ。」
「・・・おやおや。」
「それに、夕食の後、夜はいつも、私の部屋で一緒に本を読んだりチェスをしたり、お話ししたりするのに、昨夜も、来てくれなかったわ。私に冷たいのよ。」
ジョエルが、サヤの話に微笑んだ。
「サヤ、朝起こすのは、メイドの役目だよ。それに昨日の夕食後は、ハジは私と少し話をしたんだ。それでサヤのところに行けなかっただけだよ。たまには、私にもハジを貸してくれないとね。」
「・・ジョエルお父様、それなら、私も呼んでくださったら、よかったのに・・。」
「・・・おやおや。」
サヤが、ハジを見て強調する。
「ハジも、今度からは、私も呼んで頂戴。それで、昨日はいったい何の話をしたの?ハジ、私にも教えて。」
ハジは、少し、赤くなり、俯いて小さな声で答えた。
   
「・・・サヤ、昨夜は球戯室にいたんだ。あそこは、大人の男がビリヤードを嗜みながら、話をする社交場だし・・。サヤのようなレディの入るところではないと思う。」
むっとしたサヤがハジを睨み付けた。
   
「これからは、私もビリヤードをするわ!」
「・・・・・・・・・・。」
慌てたように、ジョエルが割って入った。
「・・これこれ、サヤ。夕べは、私が葉巻を吸ったのでね。サヤは、葉巻の匂いが嫌いだったはずだよ。それにハジは、私がビリヤードを教えてやろうと思って誘ったんだよ。」
サヤが突然立ち上がった。
「ハジったら、私をのけ者にしたいんでしょ!夜だって、今までは私の部屋のベッドまで送ってくれて、お休みのキスをしてくれたのに、今じゃ、してくれない!朝もベッドまで起こしに来てくれたのに、もう来てくれない!ハジなんか、ジョエルとビリヤードして、葉巻でも吸っていれば、いいのよ!」
サヤは、涙ぐむとダイニングルームを飛び出していった。




 ハジは困ったようにサヤが出て行った方角を、黙って眺めている。ジョエルが嘆息した。

「・・・ハジ、後で仲直りしておいで。あれでは、サヤが可哀想だよ・・。」
「でも・・・。」
「後で執事から女中頭に事情を話してもらって、サヤにきちんと説明してもらうことにしよう。あの子のことだから、わかってくれるかどうかわからないが・・。意外と幼いからね。ハジの方が、ずっと大人かもしれないよ。」
ハジが目を伏せる。
「・・・・・・・・・・。」
「恥ずかしがったり、気にしたりすることはない。もう、身体は大人になったんだからね。男性なら 誰にでも訪れることだよ。私にも、昔、そういうことがあった。今は戸惑いの方が大きいかもしれないが時間共に、慣れる。ただし、これからは、夜遅くサヤの部屋に入ってはいけないよ。
わかるね。キスもなるべく手の甲にするようにしなさい。子どもの頃のように、安易に抱きつくのも控えなさい。何かの拍子に自分が抑えられなくなるからね。あと、朝も、ベッドで眠っているレディのところまで行ってはいけないよ。わかったね。」
「・・・はい。」



*               *               *


 館を飛び出したサヤは、屋敷の敷地中にある羊の放牧された牧場を駆け、橋を渡り、森を抜けて走り続け、丘の上に辿り着いていた。
そしてお気に入りの年老いた菩提樹の大木によじ登ったまま、空を眺めている。そこからは、古めかしい城館から続いている小道がよく見える。その道は、湖を渡る石橋を通っていた。敷地の中央にあるその湖は湖面が太陽の光を受けて、きらきらと鏡のように輝いている。
 サヤは、鬱蒼と茂るその老木の上で深呼吸した。

---私がここへよじ登ることを知っているのは、ハジだけ。ハジはきっと私を迎えに来る。
私には、わかるの。ほら、案の定、途方に暮れたように、馬に乗ってやってくるのはハジだもの。

サヤは、身を乗り出してハジがやってくる小道を見下ろす。

---ハジが謝るまで、ここから降りないわよ・・。
だって、ハジが悪いのよ。私に冷たくしたんだから・・!

サヤは、勝ち誇ったような気持ちで胸を反らす。慌ててよじ登ったため、枝にモスリンのスカートの裾を引っかけてしまい、お気に入りのドレスが少し裂けてしまっているけれど。

---・・でもこれも、ハジのせいなんだから。

湖に近い小道でハジが馬を止め、サヤを探しているように辺りを見回していた。

---・・・あら、ハジがこっちを見ている。やっぱり、気にしているのね。

慌てているハジの様子に、思わず、サヤの口元が緩む。

---そうよ、ハジ。ここまで迎えにきたら、許してあげる・・・。




      *                      *                      *





  大きなマホガニーの扉が音を立てて開き、アンシェルがジョエルの書斎に転がり込んできた。
   
「ムッシュ・ゴルトシュミット、今朝、ハジから聞きました・・・!」
アンシェルは、昨日の夜遅く、科学関係のサロンの集まりに顔を出すために出かけたパリから到着したばかりだった。アンシェルの興奮とは別に、当主のジョエルは、無言で大きな格子窓から、静かに広い庭を眺めている。眼下には左右対称のチェス盤のごとき植え込み模様の続く庭園が広がっていた。
「・・・待ったかいがありましたね!」
アンシャルの声は、喜びで満ちていた。
「・・・・・・・・・・。」
だが、肝心のジョエルは、その科学研究の片腕でもあるアンシェルに背を向けたままで、ひと言の返事もなかった。もちろん、アンシェルは、そんな館の主の様子に気が付くはずもない。
   
「あの・・ムッシュ、今日にでも、ハジの部屋をサヤの部屋の隣に移せませんか。まあ、今日から、同じ部屋というわけにはいきませんし・・。」
「・・・・・・・・・・。」
ジョエルは、無言のまま、今度はアンシェルの方を向いた。
   
「ぜひとも、このまま研究を続けたいものです!そして、成果を科学アカデミーにも発表したいと思っています!翼手の繁殖は、注目を浴びることでしょう!」
「・・・・アンシェル。」
「・・何か、ムッシュ。」
ジョエルは、部屋の飾り棚にある中国渡来の花瓶を見る。そこには、純白の百合の花と共に朝露の付いた紫のリラが飾られていた。
   
  「・・・私は、あの二人はそっとしておこうと思うのだがね。」
「・・・何をおっしゃるんです・・!。」
当主は、静かに首を振った。
「・・私には、娘はいない。そして、実の息子には顧みられない。」
「・・・・・・・・・・。」
「ハジもここに来たときはどうなるかと思ったのだが、すっかり、落ち着いた子になったよ。きっと、いい青年になる。サヤも、頻繁に起こしていた癇癪を起こさなくなった。」
「それは、よいことではありませんか・・!私たちの研究計画が順調に進んでいると言うことですから。これで、このまま、彼らの交配が試みられたら、人類の改良という研究に、素晴らしい成果をもたらすことでしょう・・!」
だが、ジョエルは、アンシェルの話に上の空のようだった。
「アンシェル、私は、今になって、人としてとんでもない間違いを犯したではないかと思うことがあるのだよ・・・。」
「・・いいえ!いいえ、ムッシュ・ゴルトシュミット。何をおっしゃいます。私たち、人間には科学の発展は必要です!」
ジョエルはアンシェルの言葉に、嘆くように首を振った。
   
「・・アンシェル、私にはわからない・・。こんな研究は本当に必要なのだろうか・・?」
ジョエルは、老いの忍び寄る身体でよろよろと席を立ち、窓の側に立った。窓からは館の広い敷地が広がっている。そして、乾いた風の吹く西フランスの青い空に雲が流れていた。牧場の緑が眩しい。
「アンシェル、私は、サヤの行く末を見守ってやることは出来ない・・。彼女をひとりぼっちにしないでやれたのが、せめてもの慰めかもしれないと思っているよ。もっとも、あのハジにもサヤの行く末を見守ることは出来ないかもしれないが。」

   アンシェルは、深い失望感を持って当主を見た。彼は変わってしまったのだろうか。出会ったあのころ、彼は科学への燃えるような情熱を持っていた。彼は私のよき理解者だった・・・。だが、彼もまた、やはり気まぐれな富豪の一人に過ぎかったのだろうか。凡庸な彼には科学という分野を理解することができなかったのだ。金が有り余る彼にとって、科学など、所詮道楽の一つに過ぎない。
なんと言うことだ。

私は、諦めない・・。そうとも、そうでないと今までの絶え間ない努力に培われた研究が全て無駄になってしまう・・。


            *             *              *


「サヤ、ジョエルが心配しています。帰りましょう。」
   
馬に乗ったハジがサヤがいる菩提樹の側に寄ろうとすると、馬が怯えて跳ね、飛び退る。その馬を何とか、ハジは宥めながら乗っていたが、やがて諦めると少し離れたところで、馬から下りた。そして、サヤのいるところまでやってくる。

「サヤ。」

ハジが木に足をかけ、サヤの方へ手を伸ばした。サヤは、嬉々として、その手を掴むと木の上から勢いよく飛び降りる。勢い余って飛びつかれたハジは、サヤともに草地へと倒れ込んだ。
   
「・・・・サヤ!」
   
困惑し、上ずった声を出したハジを見て、サヤは楽しげに笑った。
「ハジは迎えに来ると思っていたのよ。だけど、今度からはもっと早く来てくれないといや・・・!」
サヤは、すっくと立ち上がるとドレスの裾を掴んで、走り出した。勝手に丘を駆け降りていく。
突然、途中で立ち止まると振り向いた。
   
「・・・ハジ!早く帰ってお茶にしましょう!今日のお茶はティユールにしてね!」

言い終わるとサヤはまた、風を受けながら牧場へと再び駆け下りていった。
丘の上に一人残されてしまったハジは、草を払いながら立ち上がる。そして手綱を取ると乗って来た馬を引きながら、牧草と花の香りに満ちた大気の中をサヤの後を追うように、ゆっくりと小道を帰っていったのだった。




難しい年齢に入ったハジを書いてみたくて
取りあえず、書いてみました。