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吹雪 1

一瞬、ハジは、自分を呼ぶ女主人−サヤの声が聞こえたような気がした。どこかで。
この森の中のどこかで。

彼の手が思わず止まる。彼は、森のはずれの小さな小屋の木戸に手がかかったままの姿勢で動けなくなった。

---今のは、気のせいだろうか。

さっきよりも風が強くなっている。もしかしたら、その風の震えるような音のせいだろうか。
そこはかとなく、少年のような雰囲気を持つサヤという名の少女は、驚愕の身体能力を誇っていた。
   
従者が、その身を心配するに値しないほどの。
この氷点下の極寒さえ、ものともしないほどの。
それにサヤなら、今日、野宿することにした洞穴の中で、従者の帰りを、今か今かと心待ちにしているはずだった。

  チュメニで列車を降りた後、馬車を使うと人目に付くからと、徒歩で、と無謀なことを提案したのは、女主である、その少女だった。箱馬車かトロイカを使わないと、若い男と男装の少女の二人連れは、かえって目立つのではないかと言ったのだが、若すぎる女主人の意見は、絶対だった。

---もう、標的を逃がしたくない。

・・・確かにそう言った。もう、あまり時間がない、だから今回は逃したくないのだと。

  この雪の中を二人で延々と歩き続け、点在する広い森を駆け抜け、凍り付いた湖を、川を渡った。どこの村も、貧しく人気が少なく、幸いなことに人目に付くことはなかった。この辺り一帯の村では、どこへ行ったのか、若者が、めっきり少なくなっているようだ。
   極東の小国との敗戦。そしてロシア全土に広がる暴動とも取れる革命運動。さらにドイツへの開戦。このままでは、帝政ロシアは、混乱に陥りながら、崩壊の一途を辿っていくのは目に見えている。

  それにしても、ペテログラードで、グレゴリー・エフィモヴィッチを逃してしまったことは、あまりにも痛い。彼はデーヴァのシュヴァリエ。
彼を逃さなければ、デーヴァに辿り着けたはずだった。彼女は、あの皇女アナスタシア・ニコラエヴェナとして、行動を共にしている可能性も高い。

  ハジは、入った小屋の窓から雲のたれ込めた鉛色の重苦しい空を見上げた。冬の西シベリアの日没は早い。あっというまに闇に包まれる。それに雪が再び降り始めていた。気がつけば、風がさらに強くなっているようだ。この様子ではもうすぐ、吹雪くかもしれない。

----早く帰ろう。サヤの待っているところへ。

もうすぐ、暗くなり始めるだろう。なるべく、早く火を熾してやりたい。

  彼は、持ち主のいなくなった森番の小屋から、少しばかりの乾いた薪を拝借すると手早くまとめた。
ここには、多分、あまり長居しないほうがいい。その内、誰か来るかもしれないからだ。
シュヴァリエ達に接近しつつある今は、用心するべきだ。今は顔を見られるのは、まずい。

---早く帰った方がいいか。

彼は、薪を抱えると大急ぎで女主人の待つ洞穴へと向かった。

  ハジが、まだ降ったばかりの柔らかい雪を踏み分けて、森の奥の洞穴に帰ってみると、サヤはいなかった。彼女に渡したはずの毛皮と毛布と食料が地面に落ちているだけだった。
あれほど、「動かず、ここでお待ち下さい。」と何度も言ったはずなのに、勝手に出かけたようだ。
勝ち気な女主人は、いつも付き従う従者の助言にあまり耳を貸さない。待ちくたびれて、退屈し、さっき道すがら見かけた野兎でも、また見に行ったのだろうか。
予断を許さぬさしせまった追跡行動の最中だというのに、サヤは、今日も白い野兎を見つけ、可愛らしいと無邪気にはしゃいでいたことを思い出す。彼女は、獲物をつけねらう狼のような鋭い五感と険しい気性の持主であるにもかかわらず、時々妙なところで、それらとは対照的な幼さを発揮する。
   
そう・・どこか奔放というか・・。

  本人はわかっていないようだが、少女の行動は、昔からそんなところがあった。ハジは、ため息を漏らすと持ってきた薪を寄せるように重ね、脂を落とし、火種を置いた。乾いた薪には、あっという間に火が回る。その火が大きくなるにつれ、その灯りに照らされて次第に洞穴の中が明るくなっていった。そして、彼は、風下の狭い入り口に、厚い麻布と毛皮を掛けて塞ぎ、降り始めた 雪が入り込まないようにする。さらに、地面に毛皮と広げておいた。
  女主人は寒さなど、ものともしない。だが、ハジは、ペテログラードの住まいの様に、暖めてやりたかった。残念ながらここには、ペチカはない。何処かへ風が抜けていく冷え冷えとした凍りつくような洞穴の中の空気を、何とか暖めながら、そのまま女主人の帰りを待ち続けていたが、サヤは、なかなか帰ってこなかった。まだ、夢中になって、幼い子供のように野兎でも追いかけているのだろうか。何と呑気なことだ。もうすぐ日も暮れるというのに。

その時だった。森の方から灰色狼の遠吠えが聞こえてくる。

  急に、先ほど頭の中に響いたサヤの掠れたような声が、思い出された。そうハジには、しばしばサヤの思考が、彼の脳裏には流れ込んでくることがある。彼女の従者になったばかりの頃は、そのことに随分と混乱したこともあったが、今では、やっと慣れることが出来た。さっきもその様な現象だったのだ。それなのに今は、何も頭の中に何も響いてこないのは何故だろうか。

---サヤ。どこです?

ハジは、思わずサヤに心の中で呼びかけてみる。サヤに従者の声は届くのかは、わからなかった。けれど、サヤは、従者の思考に反応するかのように行動することは多い。そして、今も彼の従者としての感覚は、そのサヤの存在を、それほど遠くないところに感じことができる。

  何故か胸騒ぎがする。ハジは、先ほど洞穴に置いたままにして出かけたチェロケースを、慌ててたぐり寄せると手に取り、急いで開けた。

---サヤの刀が、ない。

  鞘だけが黒いチェロケースの中にぽつんと置かれている。ハジは、小夜には自分のいないところでは、刀を抜かせないようにしていた。刀を抜く必要のある時は、必ず、自分がサヤの側に控え、主が単独で刀を抜くことはさせていない。それが二人の原則だったはずだ。主が刀を抜いた後は、自分が必ずその鞘を拾った。

サヤは、何故か抜き身の刀だけを持ってここを出たのだ。いったい何故・・。

---まさか、グレゴリー・エフィモヴィッチが現れたとでも。

  ハジは、急いで黒い外套を引っかけると、さらにチェロケースを背負い、その場を飛び出した。