風太郎の「旅の空」
 
 番外編その4  シグナルとシグナレス
 

宮沢賢治の童話には、鉄道を題材にしたものが結構多い。「銀河鉄道の夜」は言うに及ばず、線路際に林立する通信柱を軍服を着た兵隊の行進に見立て、月夜の晩にそれを目撃してしまう少年を描いて妖気漂う「月夜のでんしんばしら」もあるが、鉄道信号機という無機質な物体をこれでもかと擬人化し、ロミオとジュリエットばりの恋物語にまで仕立てた「シグナルとシグナレス」は、鉄道モノとして白眉の一作と言えるだろう。

 

「シグナル」は男性で、本線の立派な信号機、「シグナレス」は女性で、軽便鉄道の小振りな信号機だ。賢治は岩手・花巻に住んでいたので、それぞれ東北本線、岩手軽便鉄道(現釜石線)の信号機から着想を得たと言われている。夜明けの星空の下、シグナルは隣り合わせて立つシグナレスに秘めた恋を告白する。本線と軽便では身分違いとシグナレスは躊躇するものの、シグナルの言葉を尽くした口説きによって次第に惹かれてゆく。しかしこの手の話には邪魔が入るもので、シグナルの後見人と称する「古株信号柱」が妨害工作に入り、それをたしなめる「線路際の倉庫の屋根」がお節介親父のように登場してどんどん複雑になっていく。とにかく線路際にあるものを手当たり次第に擬人化し、滔々と愛を語らせる賢治の強引さも凄い。



さて、賢治の時代(明治末期〜昭和初期)の「シグナル」は当然ながら「腕木式信号機」である。独特な形は長らく鉄道のシンボリックな図案にもなっていた。現在では全国でも数箇所しか残っていないが、80年代はまだまだ各地にあった。


横に伸びた腕木は進行・停止を表しており、水平に伸びると停止(赤信号)、斜め下に傾くと進行(青信号)である。一般的には駅の入口に「場内信号機」、出口に「出発信号機」の2対が設置されており、いわゆる「出発進行!」は、「出発信号機が進行を現示している」ことを指す確認称呼だ。











       名寄本線 上興部




 天北線 曲淵



煮え切らないシグナレスに対しシグナルはこう宣言する。

シグナレスさん、どうかまじめで聞いて下さい。僕あなたの為なら、次の十時の汽車が来る時腕を下げないで、じっと頑張り通してでも見せますよ」
 

これは迷惑な話で、つまり「赤信号」出しっぱなしだ。文脈を追うとシグナルは「場内信号機」であり、シグナレスが色よい返事をしない限り、いつまで経っても列車は駅に到着しない。

これらの信号は駅から遠隔操作出来るようになっている。もちろん超アナログな仕組みであり、ホームに設置された小屋に収まっている「信号テコ」を倒すと、信号機まで繋がった長いワイヤーが引っ張られ、腕木の向きが変わる。

路線の廃止後、記念館になっている駅で操作した事があるが、これが重い。特に倒したテコを戻すときはエイヤと気合が必要になる。テコについた重りでワイヤーの張力を維持しているのだから仕方がないが、昔の鉄道は人間の筋肉が動かしていた、としみじみ思う。

「月夜のでんしんばしら」もそうだが、賢治は遠隔操作で動く信号機を作品中しばしば印象的に描いている。あたりに人もいないのに、突然ガタリと音を立てて向きを変える信号機に賢治はびっくりし、何か「意思あるもの」を感じたのだろうか。


 天北線 敏音知


シグナレスは言う。


「でもあなたは金でできてるでしょう。新式でしょう。赤青眼鏡を二組みも持っていらっしゃるわ。夜も電燈でしょう。あたしは夜だってランプですわ。眼鏡もただ一つきり、それに木ですわ。


ここでいう「眼鏡」とは腕木の根元についている2つ目の色ガラス部分で、赤と青のガラスが入っている。夜は腕木が見えないから、裏側からの照明により腕木の向きと連動して色で進行停止を表示する。

シグナレスの一つ目というのは風太郎も見たことが無いが、「赤」
のみを表示するのだろうか。また当時の簡易な鉄道では電燈ではなく、石油ランプで色を燈したらしい。




                                     

                                  
                                             足尾線 神戸



1987
10月半ば。天北線の曲淵は既に晩秋を迎え、日が暮れてくると冷気が身に沁みた。空気が澄んでいるのだろう、鮮やかな色彩の黄昏になった。北海道らしく広々とした構内に立つ腕木式信号機は空に伸びてよく目立ち、シルエットになると独特な形が茜色をバックに浮かび上がる。日が沈むと茜色から紫、そして深い群青色と、パレットの絵の具が溶け合うように空は表情を変え、やがて上弦の月が赤を燈す信号機の背後に浮かび上がった。


   


物語のラスト。
「倉庫の屋根」の計らいで2本の信号機は天空に昇り、手を取り合って銀河を旅する。賢治独特の幻想的でめくるめくような宇宙の色彩描写が続いたのち、うたかたの夢が覚め、信号機たちはまたいつものように星空の線路際に戻ってエンディングとなる。現実と幻想の間を行き来するような、不思議な作品だと思う。



「シグナルとシグナレス」は、その死までついぞ評価される事が無かった宮沢賢治の数少ない生前発表作だ。地元新聞の隅にひっそり載ったという。夜空に伸びて色を燈す信号機を見上げていると、瞬く夜明けの星座のもと線路際に佇む賢治の心に、少し触れたような気がする。

 
 
天北線 曲淵
 
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