石炭が燃える時の、独特な匂いがある。紙や木の燃えかすの匂いに近いが、含まれた油分の匂いが混じる。もっとも石炭を燃やすことなど現代の生活ではほとんど無いし、保存されている蒸気機関車のキャブなどに少し漂うものを嗅ぐくらいだ。
1983年冬、風太郎が訪ねた夕張は、折からの低気圧の接近で朝から大荒れの天気となった。吹雪が激しく、気温がぐんぐん下がっているのが分かった。目的は三菱石炭鉱業鉄道線である。かつて「大夕張鉄道」としてボールドウィンの古典ロコ9200形や、自社発注・払い下げ入り乱れた9600形などが煙を上げ、屈指の運炭鉄道だった。路線縮小し、無煙化した後も「人より石炭」の体制で運炭列車が行き来している。ここに生き残っている「明治の客車」を見に行ったのだ。
朝の清水沢
清水沢のホームで何枚か撮ったが、あまりの寒さに客車に逃げ込むと一瞬でレンズが曇った。車内は石炭ストーブ2基が据えられ、暑いくらいの温度なのだ。今やストーブを乗せた車両は、ここと津軽鉄道のみ。乗った客車は「スハニ6」という明治45年製の木造客車を鋼体化改造した古豪3軸ボギー車だ。と言っても分からないかも知れないが、車軸が6本、車輪が12個付いている。(一般的な鉄道車両は4軸・車輪8個) 昔としては重い車両を支えるためそうなったらしい。走り出すと普通の鉄道の「タタン、タタン」というジョイント音ではなく、「タタタン、タタタン」という独特な音がする。また外から写した写真にある通り、T字型の煙突が屋根から突き出てストーブの煙を吐き出しながら走る。外側こそ大改造を受けているが車内は明治時代のままである。濃厚な石炭の匂いが充満していた。
スハニ6 車内
乗客はというと圧倒的に高校生だ。実はこの鉄道、一日3往復しか客車は走らないが沿線の通学列車として大いに活用されている。おしゃべりが止まらない女のコはそれなりに可愛らしいが、男のコは聳え立つリーゼントにソリまで入ってコワイ。客車の壁にはこんな紙が貼ってある。「通学生に告ぐ。座席シートを破ったり切り裂いたりした場合、刑法第261条、鉄道法第36条、またはその他の罰則により厳重に処分いたします。」当時でも珍しい余りに高飛車な警告文だが、この面々を見る限り必要度は高いのであろう。
それはともかく、津々浦々のローカル線に乗った風太郎だが、ここの乗客の平均年齢の低さはピカ一だ。若い人の数は、取りも直さずその地域の経済活力のバロメーターであり、石炭産業の斜陽が叫ばれつつも、この当時の夕張は我々の想像以上に元気があったのだ。高校生の大部分は炭鉱関係者の子弟だったと思われる。終点の南大夕張の構内は石炭を満載したセキが溢れ轟音を上げて発車していく。こぼれた石炭は地面を覆い、その上から雪が降り積もって白と黒のコントラストを作り出す。町のスーパーもパチンコ屋も人が溢れて、日本の石炭産業もまだまだいけるわ、と思ったものだ。
車内
ところで、夕張の山中から大量に運び出された石炭は、主に何に使われたかご存知だろうか。答えは「鉄」である。集まった石炭は、2000トン列車と呼ばれた長大なセキの群れとなってD51に引かれ、勇払原野を突っ走って室蘭や、船に積み替え各地の製鉄所に運ばれた。カロリーが高く良質な夕張の石炭は、溶鉱炉の燃料として鉄に生まれ変わったのだ。「鉄は国家なり」の言葉通り、敗戦から立ち上がろうとする日本を、夕張の石炭が支えたことは間違いない。
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