「急行ニセコ」は当時の道内では超有名列車でよく写真に撮られている。DD51が重連で堂々たる編成を引き、函館本線「山線」の急勾配を駆け上るのは迫力満点で人気も頷ける。しかしもともと「ニセコ」といえばあの巨機C62重連が天まで届くような爆煙を吹き上げて引いた時代こそ大本命である。「スワローエンゼル」と呼ばれたツバメのシンボルをデフに輝かせた勇姿は当時のSLマニアを熱狂させたが、その瞬間に立ち会いたければ、もはやタイムマシンの出現を待つほかない。「あと○年早く生まれていれば」は当時の鉄ちゃんの口癖ではあったが、言っても仕方の無い話。出来ることは、「今あるもの」にどう想いを込めるか、だ。
時は流れて、当時の「今あるもの」でさえ遠い憧憬の対象になろうとは、あの頃思いもよらなかったけれど。
さて、「今の」ニセコを撮ることにした風太郎だが、当時風太郎は自由な撮影のためには単独行こそ至上、の信念があったので群れて撮るのは好きでなかったものの、こういう目的のはっきりしたお祭り撮影は大勢居たほうが楽しい。風太郎が属していた鉄研の部室の壁に「ニセコ撮影有志募集。吹雪の倶知安峠、君は見たかスワローエンゼルの幻影を」と今なら赤面するようなコピーの紙を貼り出して参加者を募ったところ、総勢5人と思いのほか集まった。
1984年2月。
三々五々道内で合流した後、函館本線小沢へ。銀山側に歩いて道路とアンダークロスする場所を本命「ニセコ」撮影地と決めた。皆で三脚を構えて時間を待つ。結構降っていた雪はぴたりと止んだ。しかしブツは来ない。腕時計を睨むのだが通過予定時刻は5分、10分と過ぎていく。列車が近づいても音が雪に吸われるので注意深く耳を澄ますのだが、周囲の森はますます深閑とするばかりである。一同言葉も無い時間が随分過ぎた頃、突然カーブの向こうからドドドドドッと爆音が聞こえ、DD51重連が脱兎の如く飛び出してきた。巨体はファインダーに溢れ、鮮やかな「赤」のボディと吹き上がる排気煙。2両目のDD51は、熱気の陽炎のなかに揺れていた。
呆然となるような一瞬のあと、一同してやったりの笑顔を分け合った。
その後猛吹雪の中で雪まみれの「北海」などを撮った後、夜は倶知安の駅前旅館に泊まった。5名も居ながら予約もなしとは無謀なものだが、風太郎の長年の嗅覚で嗅ぎ当てた旅館は、当時でも珍しい純北海道風木造建築で、まあ一般的に言えばボロ旅館だ。部屋に通されるとこれまた古風な「薪ストーブ」がデンと据えられており、これをガンガン焚かなければ凍死してしまうような部屋であることは直ぐに分かった。その夜は、窓の外のダイヤモンドダストを見ながら皆でチラチラ燃える薪を囲み、更けるまで酒を酌み交わして暖まった。
それから2年後、「急行ニセコ」はC62どころか列車そのものが廃止を迎えることになる。しかし参加者一人ひとりのフイルムの中に、今も「スワローエンゼル」は息づいていることだろう。
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