風太郎の「旅の空」
 
 日中線 夏の日  ( 福島県 日中線  )  
 
 
風太郎の初めての泊りがけ撮影は1979年夏、高校3年の夏休みだ。奥手である。風太郎の知り合いの中には尾小屋鉄道の最終日に行くため、中2にして北陸まで遠征、しかも親を拝み倒して学校に連絡させ、先輩の卒業式当日に出撃という武勇伝を誇る者もいる。もっと早い時期から飛び出せばよかったのに残念なことをしたものであり、遅ればせながら企画したのが会津方面一人旅だ。世間的に高3といえば受験で忙しいはずだが、風太郎は某大学の付属高だったので夏休みはフリーに遊び呆けていたのだ。


本命は日中線だ。いささか渋すぎるが、写真で見る夏草に覆われた線路と駅は、まさにローカル線中のローカル線の趣があり、一日三往復きりの茶色の客車列車と相まって当時の風太郎の旅心をあまりにも強く揺さぶる存在だったのだ。





                  日中線 熱塩駅


「会津磐梯ミニ周遊券」という切符があり、学割で
4,000円と格安な上、自由乗降区間の末端になぜか渋い日中線が加えられているのを見れば、最初の「鉄旅」のターゲットに日中線を選ぶ事は当然であった。しかしアルバイトをしている訳でもないから予算は極少、当然ながらまともな宿泊など考えておらず、夜行か駅寝。これは後で大いにビビる事になるのだが、なんと終着の無人駅「熱塩」に寝袋で泊まることまで計画内だったのだ。 

ひとつ大問題だったのは、なんとこの時風太郎は家のバカチョンカメラしか持っていなかった事だ。さすがに遠征ではあるし、バカチョンはないだろと悩んだ挙句、中学時代の友人を拝み倒してオリンパスのOM1を標準レンズ付で借り出し、何とか体裁を整えた。「最初にカメラを買え」というごもっともな指摘もあろうが、当時写真に関して素人同然の風太郎は、カメラを揃えるよりも、とりあえず旅に出たいという憧憬の方がよっぽど強かったのだ。しかしフィルムだけはしっかりリバーサルをチョイスしているところが我ながら面白い。

最初になぜか足尾線に立ち寄った後、上越線の夜行利用で小出から只見線の始発に乗る。この当時の只見線はキハ10系から20系、果ては55系まで入り乱れたデコボコ編成で面白く、会津宮下で降りてしばらく周辺を撮った後、会津若松に向かう。






ところが、ここでとんだアクシデントが起きた。窓を開け放して涼しい風に吹かれているうちに、風太郎は夜行疲れから虎の子の周遊券を手に持ったまま居眠りしてしまったのだ。はっと目が覚めた手に周遊券は無く、周囲を青くなって探したものの見つからない。「窓から飛んでいった」という最悪の事態を否定できなかった。会津若松で駅員に事情を話したところ、気の毒に思ったのかそこまでの運賃は取られずラッキーではあったが、ここから先の切符は買わねばならない。
 


とんだ失態であったがへこんでいる暇は無く、いよいよ本命の日中線である。喜多方で渋いオハフ
61に乗り込むと、夕日に照らされた山里をゴロゴロ走る。途中会津加納で貨車を連結して客貨混合列車になる。機関車のDE10はいったん客車を放り出して連結作業をするので、その間乗客は待ちぼうけだがのんびりしたものだ。







次はいよいよ熱塩駅である。暮れなずむ終着駅は夏草に覆われてイメージ通りの場所だった。しかし駅舎は呆然となるほどボロく、もはや廃屋・お化け屋敷に近い。もともと瀟洒な洋風建築のようで素敵な建物だった痕跡あるが、これでは台無しである。汽笛を鳴らして最終上り列車が行ってしまうと、一人取り残された。

 さて問題は、「この不気味な建物の中で一夜を過ごすのか」ということである。風太郎に弱気の虫が起きても理解されよう。あたりが真っ暗になろうとする中で風太郎は「駅寝」中止を決断したのだが、泊まる場所といえば近くの「熱塩温泉郷」しかない。田舎道を歩いて温泉に着くと、「叶屋」という旅館に飛び込んで今晩泊まりたい、なるべく安く、と正直に頼む。女将は目を丸くしていたが、「はあ、いいですよ。5千円」と言う。温泉旅館の2食付だから、思ったより安い。それともあんまり情けない顔をしていたのでスペシャル価格だったのか、今となっては分からない。

 

夕食の後、温泉に入る。「熱塩」の名の由来は湯に含まれる塩分で、なめると結構塩辛い。海が無い会津地方では「塩」は重要な生活物資であり、岩塩が採れるこのような場所は貴重で「塩」のつく地名が多い。熱塩の湯からも笹の葉を使って塩を採ったと聞いた。湯に漬かっているうちに、旅に出た実感が足元からじわじわ湧いてくる。何はともあれ風太郎の旅らしい旅はここから始まったのだ。最初が温泉旅館とは、その後の貧乏旅行を考えると豪奢ではあるが。

ちなみに熱塩温泉「叶屋」は現在でもある。是非一度ゆっくり訪ねてみたいものだ。
 
















翌朝、「鉄」に戻る。爽やかな夏の朝の空気を吸いながら一番列車を撮り、駅に戻ると今の列車で到着したらしい鉄ちゃんがいた。聞けば風太郎と同い年で、都立高校に通っているが
勉強など放り出してきた、という。周遊券紛失の話をすると「災い転じて福となせ」と語り、本来なら乗れないはずの水郡線あたりで帰ったらどうか、という提案だったのでそうすることにする。本HPの「風太郎のプロフィール」に載せている、ウエストのキュッと締まった風太郎の写真はこの時彼と撮り合ったものだ。

彼は一足早く並行する会津バスで帰っていったが、風太郎は長い夏の一日を日中線で過ごした。夕方、ピーっと汽笛を残してガタガタ混合列車が行くと、畑の農夫が手を止めて見送るのが印象的だった。日中線は時計代わりになっているのだろう。

 






撮った写真はご覧の通りで、「何を撮りたかったのか不明」や、露出が怪しいもの、構図がユル過ぎとお粗末なものだが、夏草に埋もれたローカル線の風情を一生懸命写し取ろうとした努力は見てとれる。まあ借り物カメラに標準一本で良く撮ったとも言えるだろう。

   

その後郡山駅で夜を明かし朝一番の水郡線で水戸へ。茨城交通を覗いた後帰路についた。財布は見事にスッカラカンであった。
 



後に撮った写真は冬が圧倒的に多いのだが、日中線は真夏が似合った。子供の頃の遠い夏の記憶と、日中線の風景はなぜか溶け合うのだ。ひぐらしの合唱のなか、まだ陽炎の残る線路をゆらゆらと遠ざかる茶色の客車が、今も目に浮かぶ。

 
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