風太郎の「旅の空」
 
 流線型とイモ畑  ( 鹿児島県 鹿児島交通  )  
 

「全国を旅した」と言いながら風太郎の行き先は北海道・東北ばかりじゃないか、というのはよくあるツッコミである。雪景色が好きなこともあるが、確かに風太郎はことのほか「北志向」が強く、西日本側が手薄なのは認めざるを得ない。九州や山陰は大いに興味があるのだが、「その土地らしい最も特徴的な季節に訪ねるべき」という風太郎のポリシーに則れば、特に九州は「真夏」という季節限定で選択すべきであり、なかなかチャンスが廻って来なかった。遂に九州行きが実現したのは1982年、大学3年の夏だ。


鹿児島本線伊集院から枕崎に伸びる鹿児島交通は、一番行きたかった所。キハ
100形というキハ07もどきの自社発注車が、トラックさながらにギアチェンジしながら走る。いわゆる機械式気動車で、当時残っていたのはここと南部縦貫のレールバス位のものだ。


何とも魅力があるのはこの車両のスタイリングで、昭和初期にはやった「流線型」という奴。車体正面が半円形にカーブして、その形に合わせるべく小窓がいくつも並んでいる。今の目で見るとどこが流線型かと言いたくなるが、四角四面の鉄道車両が当たり前だった時代に、精一杯背伸びして「モダン」を追及したものの、時を経て逆に田舎臭さを撒き散らすデザインが何ともいじらしい。朱色に濃紺の帯を締めた何とも暑苦しい塗装なのだが、緑濃い沿線風景にマッチして、逆にこの色以外にはないと思えてくるから不思議だ。











   

 伊集院からの列車を日置で捨て、吉利〜永吉と歩く。沿線はさしたる景勝地もなく、薩摩焼酎の原料にするというイモ畑や水田が淡々と続くのだが、線路のペンペン草はもの凄く、レールの所在もよく分からない程で、列車が通ると踏みつけた草の匂いがあたりに漂う。南九州の日差しは強烈で、へろへろになりながら吉利駅に辿り着く。「吉利」にしても「永吉」にしても何やら有難い駅名で入場券でも売れそうだが、現実はものの見事な廃屋であった。壁の割れ目には「物の怪」でも潜んでいそうである。キハ100がホームに入って来ると、車掌の操作でドア下のステップが飛び出して来るのが面白い。(下の写真)

次の永吉駅も駅というより草原で、草が高くなっている所にベンチを見つけたらそこがホームだった。


  吉利駅

永吉駅  
永吉駅  

ローカル私鉄の経営難はどこも似たようなものだが、ここまで「放置」された鉄道は珍しい。「廃線」がすぐそこまで迫っているのを感じずにはいられない。くだんのキハ100もそんな環境があって奇跡的に生き残ったという訳だが。この鉄道のお立ち台といわれている、永吉の鉄橋で撮る。きらめく海をを背に、古い鉄橋を軋ませながら「流線型」は通り過ぎていった。

 


さて、キハ
100の客となり今日の宿泊先である「吹上浜」に向かう。流線型の先頭部に陣取るといい眺めだ。新規の採用など皆無なのだろう、乗務員は皆相当な高齢のおじいさんが目立った。線路の状態が悪く、凄い振動のなかで運転士はマスコンを握り、ギヤチェンジをこなすという芸を見せるのだが、写真を撮る方はカメラが暴れて撮影不能。停車中にやっと撮る。






















しばらく行くと珍しい事が起きた。田んぼの真ん中の小さな踏切上に車が停まったままで、警笛を鳴らすが動く気配なし。あれよあれよと迫ってきてガシャンとぶつかり、車は5
m位吹っ飛んだ。車の運転手は直前に脱出して無事であり、こっちの運転士も降りていって何事か話しているがお互い薩摩弁まるだしでまったく意味不明。キハ100はジャンパーのあたりが少し壊れて、運転士がやおら石を拾うとそれでゴンゴン叩いて直していたが、結局自走不能となったようで、国鉄キハ10に似たキハ300が迎えに来て引かれていくことになった。
 集まった野次馬

時間にして30分位だろうか警察の現場検証が始まることも無く再び発車。のどかな田舎の踏切事故であった。



泊まりは「吹上浜YH」である。「ユースホステル」という奴は、本来風太郎のような貧乏旅行者には最適な宿のはずなのだが、せっかく自由な旅に出ているのに「青少年の教育施設」なる触れ込みのもと「規律正しい生活」などという看板がうっとおしく、風太郎は敬遠していたのだが、他に適当な宿が無いので仕方が無い。


ところが、「吹上浜YH」はとんでもない連泊者の巣窟と知るのに時間はかからなかった。夕食後、宿泊者は強制的に集合させられ、「ど貧民大会」という「大貧民」をさらにえげつないルールに変更したトランプ大会が始まった。無論不参加などということは許されない。10名程の連泊者に囲まれて始めたのは良いが、敵は何泊も同じ事をして慣れきっており、元来風太郎はこの手のカードゲームにからきし弱い。ど貧民地獄から抜けられないばかりか恐ろしい罰ゲームまで待っていた。また、「明日は朝から海に出て、戸板サーフィン。」という訳の分からない企画に取り込まれそうになるのを、「明日は早いから」と必死に逃げた。ドラムカンを改造したという「五右衛門風呂」が名物らしいが、それも入らずじまい。こういう「濃い」ユースは当時各地に点在して「気違いユース」と恐れられていた。「吹上浜YH」は今でもあるらしい。元小学校の校長という老夫婦がペアレントをしていたはずだが、潰れるユースが多い中でまだ残っているとは意外だった。ひょっとしたらあの常連組あたりが跡を継いでいるのだろうか。いずれにしても昨今の少子高齢化でユースからは若者の姿が消え、代わりに高齢者に占拠されていると聞く。「気違いユース」も既に遠い過去の遺物なのかも知れない。

 




 翌日は大きな車庫がある加世田に出て構内を見物する。赤錆びたSLや朽ちた木造客車が放置されていて、ちゃんと整備すれば貴重な博物館だが、そんな余裕はないのであろう、古い車両の墓場と化していた。

     
枕崎方面に向けて歩き出すが、とにかく暑い。台風が迫っており曇っているのだが、湿気交じりの熱い空気がまとわりついてくる。イモ畑の中をトボトボ行くと線路の彼方にまた「廃屋」が見え、近づいたら干河駅でこれまたボロい。野良ネコが住み着いており、時ならぬ乱入者を見咎めて睨みつけられてしまった。いい加減疲れたので夕方までここに居たところ、近所のおじさんがお茶を飲んでいけ、と言う。ひぐらしの声を聞きながら涼しい縁側は快適だったが、何の話をしたかはよく覚えていない。とにかく相手の薩摩弁が凄まじく、何を言っているのかほとんど分からなかったのだ。

   


鹿児島交通はこの後2年間生き残ったが、この地方を襲った大水害により線路が分断され、復旧不能なまま1984年に廃止となって、結局風太郎の訪問はこれが最初で最後になった。大した写真も残っていないが、一枚一枚を見返すと、むせるような草いきれの中、汗を滴らせながら線路際を這いずった夏の日が蘇る。夕日を浴びた「流線型」の「赤」と、ペンペン草の「緑」のコントラストが、風太郎にとって最も鮮やかな「鹿交」の記憶だ。
 
 
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