貧乏旅行にとって最大の敵は「宿泊費」である。食費については切り詰めれば1日1,000円でも何とかなるが、どんなボロ旅館でも素泊まりで最低3,000円は当時でもかかった。交通費を別にすれば北海道で20日間粘るための軍資金は50,000円程度だったから、旅館に泊まれるのはせいぜい7〜8泊というところ。
それ以外は当然パブリックスペースに寝場所を求めざるを得ない。待合室終夜開放駅のベンチで寝るという、いわゆる「駅ネ」も常套手段だが、田舎は大らかとはいえ駅員や他の乗客の目は気になる。また駅のベンチは泣きそうなほど硬い。夜行列車で移動しながら、というのも同じ場所に滞在したい場合は使えない。
急行利尻
そこで登場するのが夜行列車でA地点とB地点の間を往復して一夜を明かすという「ブランコ」と呼ばれる手法である。当時まだ多く残っていた夜行急行上り列車でまずA地点を出発、深夜、下り列車との交換駅で下車、今度は下りに乗り換えて翌朝めでたくA地点に戻ってくるという寸法だ。行って帰ってくるから「ブランコ」で、最低周遊券を持ち、急行列車は乗り放題の権利は必要だが、慣れれば結構イケるやり方である。
当時の典型的なブランコ区間は、宗谷本線なら「利尻」の稚内〜士別往復、根室本線なら「まりも」の根室〜新得往復、東北本線なら「八甲田」の青森〜一ノ関往復などなど。
さて「ブランコ」を成立させるための条件は、深夜の交換駅で「絶対に下車」することであるのは言うまでもない。寝過ごしたらアウトというか、「八甲田」あたりでやったら「目が覚めたら上野駅」という致命的な事態になりかねない。結局往路は寝られないのである。風太郎の経験では3日連続が限界で、それ以上は足がむくんできてさすがに音を上げることになる。
それでもタダでは起きない風太郎は、短い乗り換え時間を利用してホームに三脚を立てバルブ撮影をよくやった。深夜の交換駅は森閑として、冬など冷気のなか機関車の吐き出すスチームが夜空に立ち上り、昼間と違う独特な鉄道風景を見せてくれたもの。
とにかく一夜を車中で過ごす訳だから特に復路の列車などは快適な睡眠環境を作ることは重要である。夏の北海道などは通路まで人が溢れることもしばしばだが、シーズンを外せばどの列車もガラガラでワンボックスを占有できた。寝るときは体をくの字に曲げて横になり、向かいの座席に両足を投げ出すのが基本形だが、モケットから滑り落ちそうになるのが難点だ。改良型としては持ち上げれば外れるモケットの片方を持ち上げてコーラの缶などを挟み込み、頭が高くなるよう傾斜をつけるやり方もあるが、いかにも不安定で、夜中に大音響をあげて倒壊する事もあるとされるのであまりやっていない。
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