5.大山道道標
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この道標は市内ではかなり目立つものではないでしょうか。日立製作所東庭の整備された芝生の上にあります。
もともとは大山道とともに現在の日立工場敷地内にあったものがここに移されました。
かつてはこの上に不動明王像が乗っていたといいます。
寛永4年(1751年)の造立で、施主は堀山下村。右面に「そんふつミち」、左に「ふしみち」とあります。
この道は、千村の峠方面から、東地区を抜けて蓑毛から大山を目指すものです。
そんふつみちは「尊仏山」(塔ノ岳)を目指す道かな。
かつて塔ノ岳の頂上には尊仏岩がありましたが関東大震災で崩れてしまったそうです
4.坂本道道標
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藤棚のバス停近くにある道標です。坂本は今の伊勢原市子易あたりのことで、この道は現在の県道秦野清川線と、701号大山秦野線に近いものです(貫通してないけど)。
「さ可本道」と「ミの毛道」とあります。この道標がいつできたかは調べてません。いつか調べます。
ちなみに藤棚には道の反対側にも、天社神碑が並んでいます。
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3. 羽根の石仏
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羽根の畑の傍らにある石仏。文化5年とあります。
下の写真は、石仏のある道を少し上ったところからの眺めです。
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2. 砂川村の祠
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正確には秦野市内ではないですが、南が丘から中井町に入ってすぐの砂川地区。
●永五壬年(●は読めない部分)ということは嘉永5年(1852年)でしょうか。祠の側面には建立年と、その反対側には「村中」の文字が刻まれています。
できた頃は砂川の方が人の住むところで、南が丘は何にもなかったのに、砂川は大きく変わらず、南が丘側だけが大きく変わってしまったのでしょう。
南が丘の団地のすぐそばにこんな風景が残っているのが不思議です。
近年、新しい道ができてしまったので、もしかしたら開発されてなくなってしまうかも。ちょっと心配です。
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1. 一色の宮
ちょっと古いどころではなく、とっても古いものです。
時は室町時代中期の永享の乱(1438〜39年)。
鎌倉公方足柄持氏は幕府軍に敗北をします。
持氏の家臣であった一色伊代守六郎の近親者は追っ手から逃れ今泉の館にたどり着きます。
その後再び落ち延びていくのですが、ここは彼の館があった場所と伝えられています。
今は六間坂を上っていった畑の中に、サカキの木々に守られた正保2年(1645年)造立の庚申塔があるのみです。
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戦国時代の軍記物『鎌倉大草紙』には伊代守が落ち延びた場所は「相州今泉」とありますが、ここの事かは実ははっきりしません。
『新編相模国風土記稿』の今泉村の項には、
「今泉という村は鎌倉郡・高座郡にもあるが、ある本に伊代守の塁は梅澤より2里とあるからこの今泉村だろう」
という内容がありますが「其塁跡伝説共に失へり」とも書いてあります。
(むしろ高座郡の今泉の方には言い伝えも残っているようです)
もっともこの書物も天保12年(1841年)成立なので、乱からは400年もの時間が経っています。
とはいえ、ここにある庚申塔は年代が明らかなものとしては秦野でも最古のもので、これだけでも立派に貴重なものです。
いまだに、こんな風景の中に残っていることも素晴らしいことだと思います。
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