平塚街道

平塚街道は名前の通り秦野から平塚を結ぶ道で、現在は県道62号線として堀山下から平塚の花水橋までを結んでいます。
現在の県道は河原町で二宮街道と重複して、西大竹から堀山下へ向かう新しい道ですが、本来のこの街道は四つ角がスタートです。

ちなみに室川橋を経由するこのの道は明治時代に開通したものです。
それ以前については旧二宮街道と同じ道から養泉院前で分岐し上大槻を通る道と思いますがまだちゃんと調べていません。

参謀本部陸軍部測量局の実測図(明治45年、平塚市史 資料編4所収)によると、次の通り。
平塚側から(こちらからは秦野道または曽屋道)は南原で橋(現在の玉川橋付近)を渡り、そこから現在の南金目交差点までは、ほぼ今と同じルート。
ここから、やや右寄りに北金目・南矢名方面へ向かう(南金目交差点少し先の下り坂から東海大の前の道がかなり近いけれど相当整理されていそう)。
県道と平行する東海大の前の道が市境とぶつかったところにかつての宿矢名の交差点(?)が今もあり、そこから欠ノ上方面に行けば橋(?、現在の人道橋あたり)を渡って土屋へ。
右へ行けば真田・北金目方面へ(ただしこの道は失われている可能性が高そう)。
直進ルートは、県道と、下大槻団地方面の信号へ向かいます。(その間の細い道がそれ)
この地図だと、青柳付近には現在の県道に当たるような大きな道は見当たらず、土屋橋もなさそう。
明治18年(1885年)に新川(と秦野誌にあるので、おそらく金目川の流れを変えるか、河道を狭めるかして治水工事をしたのだと思います)
へ堤防をかけ「水神堤」が完成、そこへ道路を通し両端に室川橋、蓬莱橋を架けて街道が通じたのが明治25年。
現在も室川橋たもとのコンビニ裏に水神様とおぼしき祠(大正11年建立)があります。大正元年にはバスの運行も始まります。


サンクス裏の祠

この頃は、室川橋を左折するコースで、現在の中里橋付近で再び、下大槻の集落の中へ左折します。
この付近の県道の指定が、いつ堤防上の新道へ変わったかは現在調べ中ですが、おそらく昭和30年代のことと思われます。
秦才橋は昭和36年、県央地区初の立体交差となる斉家分跨線橋は翌年の昭和37年の開通です。



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☆参考文献
『秦野誌並震災復興誌』秦野町
『秦野市史項目辞典』秦野市
『秦野の近代交通』秦野市教育研究所