山里小学校 原爆資料室 
山里小学校 原爆資料室
長崎市立山里小学校は、長崎市の浦上地区にある現役の小学校です。
かつては山里国民学校と呼ばれたこの学校は、1882年に中馬込・山王・中野小学校が合併して誕生した小学校でした。 1932年には校舎を新築。
そして 1945年(昭和20年)8月9日11時2分、長崎市に原子爆弾が炸裂。

爆心地から北方約600mの場所にあった山里国民学校は、 被爆当時、コの字型の鉄筋コンクリート3階建て(一部は地階を含めて4階)の校舎は南及び西側の3階の部分のみ倒壊し、 まもなく発生した火災により、北側の1・2階を残して全焼しました。

山里小学校の人員被害は、当日の在校者32人のうち、校長以下職員26人、用務員2人が死亡し、生存者は4人でした。 これは当日が夏休みであり、児童は登校していなかったためです。

 ▲ 赤レンガ造りのモダンな山里小学校

 ▲ 児童記念館。この建物の1階に原爆資料室がある
児童の被害は、児童1582人(1945年6月末日現在)のうち、約1300人が自宅で亡くなったものと推定されています。 校区が爆心地帯であるだけに被害は大きく、通学区域内には、全焼また倒壊を免れた家屋は一戸もなく、 一家全滅も少なくなかったのです。
このほか、三菱重工業株式会社長崎兵器製作所の一部が、疎開により学校の教室を使用していて、 動員学徒を含め多数の死傷者が出たといわれています。

山里小学校には原爆資料室のほか、校舎の裏側には防空壕が保存されています。
また、校舎の正面には「あの子らの丘」と名付けられた広場があり、 永井隆博士が建立した「あの子らの碑」を中心に、折り鶴などが配置され、恒久平和を願うピースゾーンとなっています。

 ▲ 旧山里小学校全景の碑
旧校舎は昭和七年に建設され、昭和六十三年校舎新築に伴い解体された。 この校舎は原爆の熱線により内部は焼失したが爆風に耐え、焦土と化したこの山里の丘に 孤高を堅持しそびえていた。 爆風に揺るがなかった校舎の姿は山里の人々に生きる勇気と希望とを与える心の支えであった。 被爆校舎が学者となったその後の子らには強い平和希求の精神をも培ってくれた。 その校舎のありし日の姿を刻み、子らの健やかな成長と平和を念じて、正門跡のここに この碑を建立する。

 ▲ 山里国民学校の銘板
原爆の惨禍を被った山里国民学校(爆心地より北に約600m)

昭和20年8月9日、午前11時2分、突如として上空に閃光がひらめき、一瞬にして大地は原子爆弾の紅蓮の炎に包まれ、 家は倒れ、石はさけ、校庭にいた子供達や先生方は黒焦げとなりながら地獄絵図の様を呈した。
当時、今の運動場にあった鉄筋コンクリート3階建ての校舎も内部はすべて炎上し、3階の一部は崩壊した。 当日の在校者32人のうち馬渡久吉校長以下職員26人、用務員2人が死亡し、生存者はわずか4人であった。 児童の被害については在籍総数1581人のうち、およそ1300人が死亡したものと推定されている。
その後、本校では山里救護所として救護隊による治療が続けられたが、死亡者が続出し、 そのつど運動場で火葬され、荼毘の炎は何日も夜空を焦がし続けた。
被爆した校舎は、戦後補修を重ね教舎として使用したが、老朽化が激しいため昭和63年8月解体のうえ、 現位置へ改築したものである。
長崎市は、ここで亡くなった幾多の人たちのご冥福をお祈りするとともに、 二度とこのような惨禍が地球上に繰り返されることのないように願い、この地に銘板を設置するものである。

 ▲ 原爆資料室入口

 ▲ 山里小学校被爆記

 ▲ 焼失を免れた北側階段と北側階段の手すり

 ▲ 被爆後の山里国民学校全景のパネル(左)

 ▲ 昭和20年(1945)8月9日のパネル

 ▲ 原爆資料室
原爆資料室は、無料で見学することができます。資料室内に案内人さんが常駐しておられました。

資料室内には、被爆当時の写真パネルや、原爆によって溶けたガラス瓶、燃え残った木材など、数十点を展示しています。 「被爆校舎の北側階段の手すり」という被爆遺構もあり、ぐっと現実味を帯びて感じました。
また永井隆博士が、山里小学校の被災児童の手記を中心にまとめた「原子雲の下に生きて」についてのパネルも展示されています。 被爆当時3歳であった永井博士の娘さんも、作文を書いており、その文章も展示されていました。

 ▲ 被爆2日前の爆心地と、被爆1ヶ月後の爆心地

 ▲ 昭和63年に解体された被爆校舎の一部


 ▲ 被爆後の山里国民学校、浦上天主堂、長崎医科大学

 ▲ 永井隆博士作詞の「あの子」

 ▲ 永井隆博士について

 ▲ 校舎正面に立つ「あの子らの碑」についてのパネル

 ▲ 被爆した瓦

 ▲ 永井隆博士が発案し、爆心地近くで被爆した子どもたちの体験をまとめた「原子雲の下に生きて」に投稿した37人の写真と、永井博士の娘さんの作文

 ▲ 原爆により燃えた被爆校舎の一部

 ▲ 原爆により変形・溶けた板ガラスとガラス瓶
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あの子らの丘
山里小学校には、原爆資料室だけでなく、屋外にも幾つかのモニュメントがあります。

校舎の正面には、「平和の鐘」 があります。
被爆後焼け野原になり、悲しみと失意にくれていた人々に、浦上教会から聞こえてきた「アンジェラスの鐘」の音が 生きる勇気を与えてくれたといわれています。 平和を求める心をこの鐘の音とともに育んでいくという思いで作られました。

「あの子らの丘」 と名付けられた緑豊かなピースゾーンには、 「あの子らの碑」 を中心に、 永井隆博士の筆による 「平和の碑」 が右手に、 その後ろには平和を願った千羽鶴が飾られています。
「あの子らの碑」は永井隆博士発案により出版された『原子雲の下に生きて』の印税で建立されました。
原爆で亡くなった「あの子ら」の霊を慰めるとともに、幸いにして生き残った子供たちが、 平和な世界への希望を永遠に持ち続けるようにとの願いが込められています。

 ▲ あの子らの丘

 ▲ 平和の鐘

 ▲ 永井隆博士筆による「平和の碑」

 ▲ あの子らの碑についての説明

 ▲ 中央の碑が「あの子らの碑」、右手に「平和の碑」
昭和二十年八月九日、長崎に原爆が投下され、山里小学校校区では、千三百名余の児童と職員、その親、兄弟姉妹の命がうばわれた。
この原爆で亡くなった「あの子ら」の霊を慰めるとともに、幸いにして生き残った子どもたちが、 人類が求めてやまない平和な世界への希望を永遠に持ち続けるようにと、この「あの子ら」の碑は建立された。 この碑には、白みかけ石の中に、少女像をレリーフした銅板がはめこまれている。
おかっぱ頭に、もんぺをはいた少女は、原爆の炎の中にひざまずき、天に向かって合掌し祈っている。 碑には作者の名もなく、碑銘もない小さな碑で、そばに建っている石柱には、「平和を」、裏には「あの子らの碑」と、 永井隆博士の筆よなる言葉が記されているだけである。
この「あの子らの碑」が建立されるようになったのは、原子病のため病床にあった永井隆博士の発案で、 生き残った子供たちが目で見、体験した悲惨さを文につづり、それが体験記「原子雲の下に生きて」として出版されることによって実現された。
そして、昭和二十四年十一月三日に除幕式が行われ、以来、本校では毎年この期に、全校あけて碑のまえで「平和祈念式」を行い、 平和への誓いをあらたにしている。 校舎の新改築により「あの子らの碑」は、ここピース・ゾーンの中心に移設された。

 ▲ 「あの子らの碑」

 ▲ 「あの子」の歌詞
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防空壕跡
山里小学校の校舎の裏手には、第二次世界大戦の終わりごろに掘られた防空壕跡が保存整備されています。
第二次世界大戦の終わりころ、山里小学校の崖には20数か所の防空壕が掘られ、 避難場所になっていました。
長崎に原子爆弾が投下されたその時も、新しい防空壕を作るための作業が行われており、 作業をしていた先生方や近所の方々が亡くなられました。

 ▲ 保存整備された防空壕。手前の石柱はかつての裏門の石柱

 ▲ 保存整備された防空壕
防空壕に近づいて見ると、壕の入口はしっかりしたコンクリートのアーチであり、周囲は石垣が組まれていて、 頑丈さに感心してしまいましたが、これは後年の保存整備で崩落防止に補強したためだそうです。
もともとは崖に掘られたただの穴がぽっかりと開いているだけだったそうです。 保存整備前のもとの姿は、防空壕横に建てられた説明版の写真で見ることができます。
正面から見ると防空壕の穴は3つ並んで掘られており、真ん中の穴だけは奥行きが余りないのですが、 左右の穴は奥行きがあり、奥の方で2つの壕が繋がっています。

 ▲ 保存整備された防空壕内部

 ▲ 奥行きが浅いのが真ん中の壕


 ▲ 中央の碑が「あの子らの碑」、右手に「平和の碑」
山里国民学校の防空ごう
爆心地から北北東へ約700m、山里小学校の校舎裏(原爆投下当時は山里国民学校の運動場脇)の崖に残る防空ごう。
第二次世界大戦の末期には、頻繁になった空襲から命を守るためにあちらこちらに防空ごうが掘られ、この山里国民 学校にも、東側から北側にかけての崖に20個をこえる防空ごうが掘られていた。戦後、東側にあった浅い防空ごうは 埋め戻され、現在ではこの北側の防空ごうが残されているだけである。北側の崖に掘られた防空ごうは比較的深く、 その中に、理科室の実験器具や学校の重要書類が運び込まれていたため、山里国民学校は爆心地に近かったにも かかわらず、学籍簿や卒業生台帳などの焼失を免れた。
1945年8月9日午前11時2分、原子爆弾さく裂の瞬間、この北側防空では教職員の手によって、さらに深くするための 作業が行われていたが、一瞬の差で防空ごうに飛び込んだ3人の先生方が無事であったものの、熱線や爆風によって たくさんの方々が爆死したり、負傷したりした。また、負傷しこの防空ごうに運ばれた方々もその後次々に亡くなられた。

保存整備工事を行った防空ごう

『突然警報発令もないのに聞こえてきた爆音に、平素なら「敵機何処に」と空を見上げたであろうに、(中略) その時に限って身の危険を感じ無意識に崖を飛び降り、掘りかけの壕に駆け込んだ一瞬が生と死の別れ路だった。 壕の奥に「やもり」のようにへばりついた瞬間、百雷が一時に落ちたような強烈な破裂音が聞こえ続いて言語に 絶する熱風が壕の中に侵入してきた。』
この様子は、原爆炸裂の瞬間、この防空ごうに駆け込んで助かった山里国民学校の教員の林英之氏の手記の一節です。
二度とこのようなことがないように、戦争や核兵器の廃絶を願い、平和を尊ぶ気持ちを大切にする場所として この防空ごうを残してきましたが、長い年月の経過によって、表面は雨水による浸食のため次第に後退し、 内部は木の根の侵入などによる崩落が見られるなど、風化が著しく進行し、非常に危険な状態になってきたため、 平成12年度に保存整備工事を行いました。
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永井坂 / 永井桜
山里小学校の正門から続く坂道は、「永井坂」 と名付けられています。
「あの子らの碑」とともに、永井隆博士の出版本の印税から、1948年12月に桜の木が寄贈され、 校門下の坂道などに植えられたことにちなんで名付けられたものです。
この桜は「永井桜」「永井千本桜」と呼ばれています。

 ▲ 山里小学校正門前の坂道「永井坂」
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山里小学校 DATA
住所長崎県長崎市橋口町20-56
電話番号
開館時間9:30〜16:30
休館日
入館料無料
駐車場
公式HP
備考
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