宮崎特攻基地慰霊碑 
宮崎特攻基地慰霊碑
宮崎空港の西側の一角に、「宮崎特攻基地慰霊碑」が立っています。
宮崎空港は太平洋戦争中は旧日本帝国海軍の航空基地であり、 特攻作戦が始まると、ここからも海軍の特攻兵たちが飛び立っていきました。

宮崎空港(旧赤江飛行場)から飛び立った特攻隊を含む英霊385柱と、宮崎県出身者で宮崎基地以外の基地から発信した英霊414柱、 合計799柱の英霊が合祀されています。

 ▲ 宮崎特攻基地慰霊碑

 ▲ 赤江海軍練習航空隊発足時にされた門柱


【 宮崎基地の沿革 】
1943年(昭和18年)12月より、陸上攻撃機[双発(エンジン二基)の爆撃機]の練習航空隊、宮崎空として開隊した宮崎基地。 翌1944年(昭和19年)7月より始まった空地分離(航空隊の移動等の便を良くする為に、基地が固有の航空部隊を持たないこと) により陸攻の練習航空隊は松島へ移動。その後はいくつかの陸攻部隊等が、短期間訓練基地や南方戦線への中継基地として使用した。
1944年(昭和19年)10月には台湾東方沖に接近した米機動部隊を攻撃する為に宮崎基地は前進中継基地 (最終出撃基地は鹿屋と那覇)として使用(台湾沖航空戦)。 これ以降フィリピン戦が始まり戦線は徐々に日本本土に向け後退し、宮崎基地は前線基地としての様相を呈していった。
そして遂に1945年(昭和20年)3月18日都井岬南東沖210km付近に接近した米機動部隊が艦載機を発艦させ、宮崎基地を攻撃、 基地は基地機能を一時的に喪失した。 この攻撃は4月1日より始まる沖縄攻略戦の事前攻撃であった。 この米機動部隊を攻撃する為、3月18日より九州各地の基地より攻撃隊が連日発進した(九州沖航空戦)。 宮崎基地からは、3月21日に銀河が数機発信、内3機が未帰還となった。
この3月18日から21日迄の銀河の未帰還を『神風特別攻撃隊 菊水部隊銀河隊』として全軍布告した。 これを皮切りに、沖縄周辺の米艦隊に向け3月27日に『第一銀河隊』、4月2日に『第二銀河隊』、 4月3日に『第三銀河隊』、4月7日に『第四銀河隊』と『第三御盾隊(七〇六部隊)』、 4月11日に『第五銀河隊』、4月16日に『第六銀河隊』、5月11日に『第九銀河隊』、 そして5月25日の『第十銀河隊』を最後に、現在判明しているだけで未帰還機総数43機、搭乗員217名が、 宮崎を最後の地として飛び立ち、還らぬ人となった。
その他にも一時的に海軍の指揮下に入った陸軍飛行第七・第九十八戦隊の四式重爆撃機 飛龍が、 7月1日に海軍の指揮下を離脱するまで、沖縄周辺の米艦隊に向け雷撃を繰返し、多数の犠牲者を出した。 海軍側も七六二空K(攻撃)−五〇一飛行隊が、6月一杯まで宮崎基地より夜間や薄暮の雷撃を繰返し、 多数の犠牲者を出した。
その後、本土決戦の準備のため、宮崎基地を離れ島根県の大社基地へ順次後退した。 この間、宮崎基地は度重なる空襲を受け、飛行場施設は軒並み破壊され、8月15日の終戦を迎えた。
[ 現地案内板より転記 ]





【 碑文 】
この地は、「旧海軍赤江飛行場宮崎海軍航空隊跡地」である。
昭和20年8月15日の終戦にいたるまで日本防衛の南九州最大の航空基地として陸海軍共同作戦を含む数多くの戦闘作戦に 特別攻撃隊及び雷撃隊出撃の基地となって大東亜戦の戦史に残る偉跡の地である。
私共現在平和と繁栄の生活を享受しております。 然しこの平和と繁栄の陰には大戦中における数多くの国民の犠牲と数百万の戦死戦没戦傷病者、 大多数の国民の困苦欠乏の生活があったことを忘れてはならない。 なかでも特に祖国の悠久の平和と最後の勝利を信じて、“祖国のために”を合い言葉に南海の空で散った 陸海軍特別攻撃隊員及び雷撃隊員たちの崇高なる精神と遺徳は永く後世に伝承したい。
赤江飛行場は昭和18年12月1日付で海軍航空隊の練習基地として開隊、 昭和19年7月赤江基地は練習基地から第一線の作戦基地への編成方針が打ち出され正式に作戦基地として開隊したのは、 昭和19年10月10日である。
昭和19年10月12日台湾沖航空戦に突入した。 当日赤江基地に展開していた陸海軍期の攻撃隊及び雷撃隊の出撃となった。 赤江基地を主軸として発進又は中継基地として作戦に参加した海軍機は、「一式陸上攻撃機」をはじめ344機、 陸軍期は「飛龍」延200機、総機数544機である。 この作戦による戦死者は海軍635名、陸軍80名である。
戦局はこの作戦終結とともに勝機が空しく去った。 一死これが戦局の好転をもたらすとは思わない。 徒死を待つより大空に散るを潔しとする特別攻撃隊にすべてを托し国に報ゆる信念に燃える陸海の若鷹は 愛機とともに敵空母に体当たり攻撃を敢行した。 それは総力をあげて比島レイテ湾に突入する帝国連合艦隊に悲運の翼なき第一航空艦隊が送る最後のはなむけであった。
昭和19年10月25日第一神風特別攻撃隊敷島隊の第一陣である。 海軍における神風特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は布告第59号をは始め布告第259号を最後に2507名になる。 陸軍における特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は1392名になる。 特別攻撃隊の隊員のほとんどがこの赤江飛行場を飛びたち直接攻撃に参加したもの、 或は中継基地として比島、台湾、沖縄で特攻作戦に参加し、 我が身命を捧げることにより愛する肉親や懐しい故郷そして祖国を救い得るならばの一念に燃え 未曽有の国難に殉じて散華した特別攻撃隊員若鷹の最後の地である。
昭和20年3月18日宮崎初空襲である。 米艦載機による銃撃は午前5時48分夜戦一機の銃撃に始まり午前8時までグラマン戦闘機延150機、 午前10時まで延540機、正午より午後4時45分まで延200機、これを反撃したのが、 第721航空隊の戦闘306、307両飛行隊の「零戦」90機である。
この初空襲以降の宮崎空襲による民間人の人的被害は死亡123名、負傷者176名である。
今大東亜戦線において、有能な人材を失った戦争の責任は大きい。 若桜の蕾のまま散華した献身無私の先輩同期そして後輩の崇高な精神を今再び結び合い白砂清松の海岸線、 無限に広がる紺碧の赤江灘と青い空は今もなお美しい姿を留めているこの地に無量の感をもって当時を偲び我々同志相集い 宮崎県民及び全国の有志の浄財によって碑を建立し愛国の赤誠に殉じた友たち、宮崎大空襲における民間戦災犠牲者の 鎮魂と世界恒久の平和と旅するものの空の安全の祈りをこめて民間航空空の殉職者の霊を合祀し忘れ去らんとする先人の 偉業を顕彰し永く後世に伝え希うためゆかりのこの地に碑を建立し碑名を「鎮魂之碑」と銘記しここに碑を捧ぐ。
[ 現地案内板より転記 ]
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宮崎特攻基地慰霊碑 DATA
住所宮崎県宮崎市本郷北方181-7
電話番号
公式HP
備考
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last visited : 2018/09/19