▼ 以下、現地案内板からの転記 ▼
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▲ 施工前の様子。6本のトンネルが見えている。(2007年8月当時)
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《整備内容》
6本あるトンネルのうち、3号から6号までの4本は、住吉側の出入口を壁でふさいで保存し、1号、2号は、
内部の補強を行い、できるだけ現状を維持したまま保存しています。
6本のトンネルは、この保存整備を行う前から、入口部分がコンクリートで補強されていました。トンネル
内部は全てが補強されておらず、途中からは掘削されたままの岩肌になっています。
道路拡幅により将来の交通増加や大型車の通行が予想されるので、それに耐えうる安全な構造にすることと、
岩肌部分に手を加えない等、できるかぎり現状を損なわないようにすることを考慮して、補強を行いました。
トンネル入口より奥側約2mのところから、1号トンネルは隔壁がある約8mまで、2号トンネルは約20mのところ
までを厚さ約20cmのコンクリートで補強しています。なお、防犯および安全への配慮からトンネル入口には
防護柵を設置し、施錠しています。防護柵には人感センサーを取り付けており、防護柵の前の来場者を感知
してトンネル内を照らすようにしています。
2号トンネルでは、コンクリート舗装部分より奥にある岩肌部分まで照らしていますので、防護柵越しに見る
ことができます。
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▲ 三菱兵器住吉トンネル工場跡周辺(2009年1月現在)
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第二次世界大戦(太平洋戦争)末期、三菱重工業株式会社長崎兵器製作所(三菱兵器)の疎開工場として、
この場所(住吉付近)から山を挟んで反対側の赤迫付近まで、並列した6本のトンネルが掘られました。
1本のトンネルは、高さ約3m、幅約4.5m、長さ約300mあります。
トンネルの中には完成した部分から順次、米軍の空襲による被害を免れるため機械が運び込まれ、交代勤務
により24時間体制で魚雷部品の製造が行われました。
このトンネルを総称して、「三菱兵器住吉トンネル工場」と呼んでいます。
昭和20年(1945年)8月9日11時2分、長崎市松山町の上空で原子爆弾がさく裂しました。すざまじい熱線、
爆風、放射線は、長崎のまちを一瞬にして破壊しましたが、爆心地から約2.3km北側に位置するトンネル工場
自体は、大きな被害を免れました。しかしながら、トンネルの外で作業などをしていた人々をはじめ、多数
の方が亡くなったり、ひどいやけどや重い傷を負うことになりました。また、被爆直後には、三菱兵器大橋
荒城や近隣にあった作業員宿舎等から、トンネル内に多くの避難者がありました。
この「三菱兵器住吉トンネル工場」(跡)は、長崎市の被爆建造物等に登録されています。上部の道路拡幅
に伴い、関係方々のご協力を得て保存整備を行ない、原爆被爆当時の状況を伝え、戦争や核兵器の廃絶を
願い、平和を尊ぶ気持ちを大切にする場所として、安全面等に配慮して公開することといたしました。
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▲ 戦後まもなく赤迫側から撮影されたトンネル工場周辺の外観
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《工場内の様子》
当時の残された記録や関係者の回想などによると、おおむね、以下のとおりでした。
「トンネルの中は、添え木もコンクリートも無く、岩肌が露出しており、しずくがおちてきていた。
海軍少将が工場長で、工場内は作業中に見回りがあり、厳しかった。
トンネルの手前の方には機会を据えて作業をしながら、奥の方では、掘削作業が並行して行われ、
発破した際には、硝煙で息もできないような状況もあった。」
「トンネル内に、突然、薄青い光、大きな音、爆風が走った直後、停電した。
頭上から岩のかけらがバラバラと落ち、水滴防止のトタンがガラガラと崩れ落ちた中を、手探りで
這うようにして外に出ると、点々と建っていたわらぶき屋根の農家がボウボウと音をたてて燃えて
いた。トンネルの外にいた人は、強烈な爆風で飛ばされて機械にぶつかって死んでいたり、飛来物
で負傷していた。皆、工場を目標に攻撃され、近くに爆弾が落ちたと思っていた。」
《被爆と救護活動》
1945年8月9日11時2分、長崎市松山町の上空で原爆がさく裂しました。
トンネル工場では、この日、三菱の工員をはじめ、各地からの動員学徒や挺身隊からなる約1800人
が魚雷部分の生産等に従事していました。
また、トンネル工場の稼動と並行して掘削が続けられており、朝鮮人約800人〜1000人が従事して
いました。
トンネル外にいた者は、ほとんどが死亡したり、全身におよぶやけどや重い傷を負いました。
トンネル内にいてかろうじて大きな被害を免れた者は、原爆を受けた直後からトンネルに避難して
きた負傷者の応急手当てをしたり、大橋工場等の同僚の救援に行ったりしました。彼らは、2〜3日
程、同僚の救援や集まった負傷者を病院へ搬送するため救援列車まで運ぶ手伝いをした後、家族の
ところへ帰るなど、それぞれトンネルを離れていきました。
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▲ 戦後まもなく米軍による調査の際に撮影されたトンネル内の様子
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《負傷者の手当て@》
当時の残された記録や関係者の回想などによると、おおむね、以下のとおりでした。
「原子爆弾のさく裂により、トンネル工場内は強い爆風を受けたものの大きな被害は無かったが、
大橋工場や近隣にあった学徒や挺身隊、徴用工の宿舎では大きな被害を受けた。
トンネル工場は、大橋工場や宿舎等からの重軽傷者が殺到して避難所と化した。
手が吹き飛ばされている人、内臓が露出している人、全身血まみれの人、全身にやけどを負った人、
やけどした部分が水ぶくれになったり皮が垂れ下がっている人で、トンネル内は混乱状態になった。
トンネル工場は避難してきた負傷者等でいっぱいになったが、医薬品は多くなかった。布等で出血を
止めてやるくらいで、重傷者は寝かせてやるのが最高の手当てだった。旋盤に使う油を、やけどした
部分に落としてやると、痛みが和らいだようだった。」
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▲ 戦後まもなく撮影されたトンネル工場の外観
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《負傷者の手当てA》
「ひどいやけどを負った負傷者の多くは水を欲しがったが、飲んだら死ぬと、水は与えられなかった。
トンネル内で息絶えた人々も多かった。」
「次の爆撃を受けたらトンネルが崩れるかもしれないということで、トンネル内に避難していた人々は
赤迫側の山手の野原に移動をした。ここで力尽きる人も多かった。」
「原爆を受けた翌日の8月10日夜11時頃、大橋工場の復旧応援のための海軍からの救援隊がトンネル工場
に到着し、その一員の軍医らにより応急手当てがされた。1号トンネルを受付にして、2号トンネルで種油
を塗布する等の手当てがされた。ガラスの破片を抜き取ったり傷口を縫合するなどの外傷的な手当てを
要する負傷者には、所定の救護所に行くよう助言された。」
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《トンネル工場建設の背景》
戦況の悪化に伴い、国内が空襲されるようになってくると、計画的・系統的に工場疎開を実施し、効果的に
分散したり地下移設等をして軍需生産の長期確保と強化を図ることが時の内閣で閣議決定されました。
その内容をまとめると、@特に緊急な施設は、既存のトンネルを流用するか、もしくは新たに地下施設を
建設して、地下に移設すること A軍・官・民を総合的に動員し、他の工事よりも優先して行うこと
B必要な場所への労働力は、官・民の組織的な挺身を強力に指導して確保すること、となっていました。
長崎にあった軍需工場等は、この計画を受けて分散して、工場の疎開が進められることになりました。
魚雷を作っていた三菱兵器製作所は、大橋工場の機械の一部を、この住吉の山腹に掘られたトンネルに
逐次疎開させていきました。工場の運転と機械の疎開、トンネルの掘削を並行して行われ、被爆同時は
1、2号は稼働中で、3〜6号はトンネルの工事中でした。トンネル完成前に終戦となり、その後役目が無く
なったトンネルは放棄されました。
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《掘削主体と構造》
昭和19年(1944年)8月頃から海軍当局により運輸省下の地下建設隊に工事が委託されました。長さ約300m、
幅約4.5mのトンネルが約10mの間隔で並列して掘削され、住吉隧道とも呼ばれました。トンネルの入口部分
は約18cmの厚さのコンクリートで仕上げられ、並列するトンネルの中では、直交するトンネルでつながって
いました。
トンネルは6本掘られる計画でした。
三菱兵器製作所はこのトンネルの提供を受けることになり、トンネルから約1kmのところにあった大橋工場
の機械を疎開させることにしました。大橋工場は、魚雷生産の主力工場でした。全部稼働した時には、
機械工2,500人が働くことのできる規模のものでした。
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《動員された人々》
記録や当時を知る人の話によると、当時の長崎には、軍需工場が多数あり、学徒、挺身隊、徴用工等が
動員されて各地で働いていました。
トンネル工場では軍の管轄下で兵器(魚雷)生産に関わる作業が行われており、その作業に動員された
人達が従事していました。
トンネル工場周辺には工員として動員された人達のための寮が建てられていました。また、土木工事を
する人達等のための飯場がいくつかあり、その居住者の多くは朝鮮人労働者でした。
その中には、強制的に動員された者もおり、トンネルの掘削工事で過酷な労働に従事していました。
彼らは3交代で、発破後のトンネル内での掘削作業や、発破により排出される土や石をトロッコで搬出
したり、トラックに積んだりするような屋外作業を主に行っていたと言われています。
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▲ 戦後まもなく撮影されたトンネル工場内部の様子
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兵器生産にあたった人達の多くは、年齢は10代や20代くらいで、長崎市内のほか、県内外からも動員
されていました。
就業体制としては、2交代の者と3交代の者がいました。2交代の者は昼勤もしくは夜勤で1日約12時間
働き、3交代の者は一番方、二番方、三番方と呼ばれ、朝8時から夕方5時まで、5時から12時まで、
12時から朝8時まで働き、魚雷の部品を作っていました。
《作業内容》
当時の記録や体験談によると、トンネル工場では、次のような部品の製作が行われたと言われています。
1号トンネルでは、魚雷の胴体部分や舵の部分、部品の継ぎ目を削る作業が行われていました。
2号トンネルには精密部門が入っており、航空機用魚雷の推進の部分、舵の部分、動きを安定させる部分
を作っていました。
トンネル工場で作った部品は大橋工場に運ばれ、そこで組み立てて魚雷を完成させていました。
航空機用の魚雷は月産、80本くらいでした。
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