知覧特攻平和会館周辺の戦争遺跡 
知覧平和公園
鹿児島県南九州市知覧町は、今でこそ知覧茶が名産品で、 また武家屋敷の残る「薩摩の小京都」と称される観光地でもありますが、 太平洋戦争末期の沖縄戦では、本土最南端の特別攻撃隊の出撃地となり、 多くの若き特攻隊員たちが南の空に散華しました。

知覧平和公園は、知覧飛行場跡の北側に整備された公園で、 知覧特攻平和会館、陸上競技場、多目的球場、サッカー場、庭球場、弓道場、相撲場、武道館があります。 春には知覧特攻平和会館を中心に沢山の桜が咲く、桜の名所としても知られています。

知覧平和公園の周辺には、今でも戦争に関する史跡が幾つか残っています。 右図のコースと番号を元にご紹介します。

 ▲ 知覧特攻平和会館周辺の戦争遺跡MAP

 ▲ 知覧特攻平和会館
知覧特攻平和会館
第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関する資料を展示する施設です。 写真、遺書などの遺品約6,000点、特攻隊員の遺影1,036柱などが展示されています。
特攻に関する遺品、遺書、遺影の展示がメインなので、特攻作戦に至った経緯の説明や、 知覧と戦争との関わりは展示されていますが、 戦争に至った経緯や国家の流れ、世界情勢など、戦争全体に関する解説展示は殆どありません。 子供さんなどを連れて行かれるときには、多少予備知識が必要かなとも思いました。


知覧特攻平和会館のページへ
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一式戦闘機「隼」
平成19年に公開された映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(製作総指揮・石原慎太郎)で 忠実に復元され、実際の撮影に使われた陸軍戦闘機「隼」です。

大東亜戦争(太平洋戦争)において、陸軍の主力戦闘機であった一式戦闘機「隼」V型甲を モデルに忠実に復元製作されたものです。
「隼」は当時知覧の特攻基地からは九七式戦闘機に次いで多い120機が飛び立ちました。

 ▲ 一式戦闘機「隼」



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特攻勇士の像「とこしえに」
知覧町護国神社の前には、特攻勇士の像「とこしえに」(昭和49(1974)年建立)があり、 向かい合うように母の像「やすらかに」(昭和61(1986)年建立)があります。

特攻勇士の像の右側には、 航空自衛隊防府北基地(山口県)で使用されていた初等練習機T-3が展示されています。 T-3は昭和53(1978)年に運用開始された機体なので、特攻との関連はない物です。

 ▲ 特攻勇士の像

 ▲ 特攻勇士の像「とこしえに」と航空自衛隊の初等練習機

 ▲ 特攻勇士の像「とこしえに」と、右の方に兵士を見守る母の像「やすらかに」がある
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鳥濱トメの灯ろう
“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメさんの奉納した灯ろうが参道の脇にあります。 写真には写っていませんが、この沢山ある灯ろうの中にある様です。



鳥濱トメさんは、知覧町で「富屋食堂」を営んでいました。 昭和17(1942)年に富屋食堂が旧陸軍の指定食堂になり、知覧飛行場の隊員たちが訪れる様になり、 昭和20(1945)年に特攻作戦が始まると、出撃前のわずかな日々を富屋食堂で過ごす特攻隊員たちとの交流が始まりました。 トメさんは出撃していく特攻隊員たちをわが子の様に思い、親身に接しておられたそうです。 そして隊員たちの家族へ出撃の様子を綴った手紙を送るなどされました。

「富屋食堂」はコチラ

 ▲ 参道の灯ろう
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 ▲ 大刀洗陸軍飛行学校 知覧教育隊の正門
飛行場の門柱
この門柱は、昭和16(1941)年12月に開校された、大刀洗陸軍飛行学校知覧文教所(のちに教育隊)の正門です。 終戦後昭和26(1951)年、旧知覧中学校の正門として使用されていましたが、 昭和56(1981)年に統合により閉校となったため、ここに移設復元したものです。

 ▲ 第40教育飛行隊について

 ▲ 第40教育飛行隊の門柱

 ▲ 大刀洗陸軍飛行学校 知覧教育隊の門柱
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特攻平和観音堂
太平洋戦争末期の沖縄戦において散華した1036名の特攻隊員たちの殉国精神を顕彰し、 世界の恒久平和を祈念するため、 昭和30(1955)年9月28日に旧知覧飛行場跡地に建立された観音像です。
この観音像は大和法隆寺の夢殿に奉安してある秘仏「夢ちがい観音像」を 特別のお許しを受けて謹鋳した一尺八寸(54cm)の金銅像です。
観音堂の体内には特攻勇士の芳名を謹記した霊名録が奉蔵されています。

観音堂では昭和30年の奉安以来、毎年5月3日に知覧特攻基地戦没者慰霊祭が行われています。

 ▲ 特攻平和観音堂



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 ▲ 知覧町護国神社
知覧町護国神社
「特攻勇士の像」から奥へ進むと、参道には幾つもの灯ろうが並び、オレンジ色の屋根に石造りの社殿の 知覧町護国神社が鎮座しています。



 ▲ 社殿左手にある碑
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三角兵舎
知覧町護国神社の社殿の裏に、復元された三角兵舎が立っています。
三角兵舎とは、特攻隊員の宿舎で、敵機から発見されない様に松林の中に半地下壕をつくり、 屋根の上に杉の幼木をかぶせて擬装してありました。 地上には三角の屋根の部分しか見えていなかったので、三角兵舎と呼ばれました。
各地から集まった特攻隊員たちは、三角兵舎で2〜3日過ごし、沖縄の空へ散華されました。 出撃の前夜には、三角兵舎で壮行会が催され、酒を汲みかわしながら隊歌を歌い、 薄暗い裸電球の下で遺書を書き、別れの手紙等をしたためてたのです。 夜には声を殺して泣いていた隊員も多く、枕がぐっしょりと濡れていたそうです。

復元された三角兵舎の中には当時の様子が復元され、三角兵舎で撮られた写真パネルが展示されています。 実際に三角兵舎が立っていたのは、この場所ではなく、飛行場から少し離れた松林の中でした。

旧陸軍特攻基地「三角兵舎」跡

 ▲ 復元された三角兵舎


 ▲ 三角兵舎にて

 ▲ 三角兵舎にて
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油脂庫
練習機の潤滑油やグリースなどを保管した倉庫です。 この場所は知覧教育隊本部地区の北側に当たり、周囲には燃料置き場や弾薬庫がありました。
壁面には荒々しい円錐状の窪みが何ヶ所も刻まれています。 これは昭和20(1945)年3月以降、米軍の空襲を受けた時の傷跡です。
当時からこの場所にあったもので、レンガ造りで表面はコンクリートに覆われた構造です。
弾薬庫
飛行学校の訓練を行っていた教官たちが実弾による射撃を行っていました。 長い吹き流しをロープで引いて飛び、その上方、下方から射撃の練習を高等訓練機である 九七式戦闘機で行いました。 飛行学校は昭和18(1943)年の夏に知覧教育隊となりますが、 その訓練用実弾の倉庫跡です。 壁面には当時、米軍に攻撃された弾痕が数多く残っています。
知覧飛行場正門跡地
弾薬庫近くの脇道は、知覧飛行場正門のあった跡地です。 当時ここに立っていた門柱は、現在、特攻平和観音堂の参道に移設されています。

当時飛行兵の訓練場として使われていたこの地も、 現在では知覧茶の畑があり、民家が建っています。

 ▲ 油脂庫

 ▲ 弾薬庫

 ▲ 知覧飛行場正門があった辺りも、今では知覧茶の茶畑が
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10給水塔
飛行場は台地にあるので水の確保に苦労しました。 昭和16(1941)年、飛行学校の一つの施設として建設され、 町の麓を流れる思川から取水したポンプで、高架式のタンクに貯水しました。 この水は主に飲料水や飛行機の整備のための水に利用されました。
当時の原型をとどめている唯一の施設で、 高さ約13m、直径約6mです。
戦時中は真っすぐ立っていましたが、現在は少し傾いています。

 ▲ 給水塔

 ▲ 給水塔
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 ▲ 防火水槽
11防火水槽
防火用の水槽で、 4基ほどあったと伝えられています。 現在1基しか残っていません。
近くに本部があったため本部用の防火水槽と予想されます。 半地下式でお椀形に地面を掘り、砂利を敷きその上をコンクリートで固めてあります。 鉄筋も入っていない簡単な構造です。
三箇所につけられた階段は、水の汲みだしと管理のためとされています。
現在の場所から東側約100mのところの私有地にあった為、平成16年度に移設されました。

 ▲ 防火水槽

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12着陸訓練施設跡
現在目にする飛行機の着陸は、機首をやや持ち上げ両翼の車輪を接地させてから、 機首の車輪を接地させるというやり方です。
しかし当時の飛行機は両翼と機体後方の三ヶ所に車輪がついていたため三輪とも同時に接地させる3点着陸でした。
うまく着陸できないと機体がバウンドし、機体を痛めたり、搭乗員が首を痛め鞭打ちになったりしました。
そのため、どのくらいの高度で3点を接地させたらよいかを訓練するための施設跡です。 当時の飛行訓練施設の状況を知る貴重な遺構です。
約150m先に櫓があり、そこからワイヤーを引き、簡易な練習機を滑車で滑らせて訓練しました。

 ▲ 着陸訓練施設跡
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知覧特攻平和会館 DATA
住所鹿児島県南九州市知覧町郡17881
電話番号0993-83-2525
営業時間9:00〜17:00(入館16:30まで)
入館料大人:500円、小・中学生:300円
休館日年中無休
公式HPhttp://www.chiran-tokkou.jp/index.html
備考
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last visited : 2017/06/16