讃美歌61番 「かがやくみとのよ なが戸をひらけ」
18世紀前半のドイツの賛美歌である。ドイツ語の歌詞の出だしが賛美歌名になっている。
作詞者ベンヤミン・シュモルク(Benjamin Schmolck 1672-1730)は、ドイツで「第2のゲルハルト」と呼ばれるほどドイツ賛美
歌に大きな影響を与えた。
――パウル・ゲルハルト(Paul Gerhardt 1607-1676)―バッハがマタイ受難曲の重要な場面で取り入れて有名になった賛美歌136
番「血しおしたたる 主のみかしら、」の作詞者。
シュモルクはシュレジェン(英:Silesia 現ポーランドの西南ドイツとチェコの国境に近い)で牧師の子として生まれ、ライプチッヒ大学在学中、敬
虔派の感化を受けて、霊的な信仰の持ち主となった。卒業後、しばらく父の業を助けたが、1702年、シュヴァイトニッツの教会に赴任し、死に至るまで35
年間、その職にとどまり、多大の感化を周囲の人々に与えた。対抗宗教改革(16世紀半ばからドイツ30年戦争―1618~1648-にいたるローマ・カト
リック教会の復興運動の総称)の論争でも活躍したが、人生の後半では盲目となり又、全身不随の病に罹った。
曲名“UNSER HERRSCHER”はOur Lord‘我々の主よ’と言う意味で、(NEANDER)とあるのは、作曲家の名前である。
作曲者ヨーアヒム・ネアンダー(Joachim Neander 1650-1680)は音楽家を祖父に教育者を父に持ち、ブレーメンで生まれた。デユツ
セルドルフの改革派(この場合は、ルター派などを含めて宗教改革の原理に従う諸教会をさす)のラテン語学校に校長として招かれたが、敬虔主義(17世紀の
後半のドイツに起こった信仰覚醒運動・・・当時のルター派が神学或いは教条の解釈に力を入れたのに対し、教会の典礼よりも個人の静想に重きをおく)の影響
を受けて校長の職を辞し、デユツセルドルフの山奥(ライン河上流の渓谷)に洞窟を見つけて、そこに住み、大自然の美に接して数多くの賛美歌の作品を創っ
た。この曲もその当時に作曲されたものと言われる。1679年、生まれ故郷のブレーメンにある敬虔派の教会に招かれたが、翌年肺結核の為30歳で夭折し
た。
彼はその最後の年1680年に『アルファとオメガ』と言う聖歌集をブレーメンで出版したが、その中に当初彼の作品は19編であったが、彼の死後、更に8
編が加えられ、彼のコラールはドイツ人に愛され、あらゆるドイツコラール集に採り入れられた。9月12日の聖日の最初に歌った賛美歌73番「くすしきか
み、たえなる主よ、」もネアンダーの作詞である。
旧石器時代の旧人といわれるネアンデルタール人の名前は、この作曲家ネアンダーに因んだものである。即ち、ネアンダーが彷徨したライン河上流の渓谷はそ
の後、彼に因んでネアンデルタール(独:Neander-Thal、英:Neander Valley)と名づけられ、1856年の夏、石灰石採掘で渓谷
開発が進む中、ネアンデルタール人の骨が発見されたのである。
≪戻る
|