資料B4  東京高等裁判所第二刑事部『控訴審判決』81年3月17日

昭和55年(う)第1072号
            判決
本籍  ○○
住居  △△
      学生
  三好伸清
昭和〇〇年○月○日生まれ
   右の者に対する傷害被告事件について、昭和55年4月24日東京地方裁判所が言い渡した判決に対して、弁護人から控訴の申し立てがあったので、当裁判所は、検察官加藤泰也、弁護人遠藤直哉、同今村俊一出席の上審理し、次のとおり判決する。
        主文
本件控訴を棄却する。
当審における訴訟被告は全部被告人の負担とする。〔のちの更生決定では、この項は削除された〕
        理由
本件控訴の趣意は、弁護人遠藤直哉、同今村俊一が連名で提出した控訴趣意書及び控訴趣意補充書に、これに対する答弁は検察官加藤泰也が提出した答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。
控訴趣意第一 事実誤認及び訴訟手続きの法令違反を主張する点について
所論は、要するに、被告人は今道友信を殴打したことがなく、したがって、今道には外傷による傷害が存在しなかったから、被告人は無罪であるのに、有罪と認定した原判決には、事実誤認及び証拠の評価、取捨選択に関する経験則に違反し、自白心証主義の合理的範囲を逸脱した訴訟手続きの法令違反がある、というのである。
そこで調査するに、原判決挙示の関係各証拠によれば、原判決が、(事件の背景)及び(罪となるべき事実)として認定判示するところは、いずれも正当として是認することができる。所論にかんがみ、若干の補足説明を加える。
一 殴打行為についてp3
関係各証拠によれば以下の事実を認めることができる。すなわち、
(一)東京大学では、昭和52年の創立百周年を迎えるにあたり、かねてから創立百年記念事業を企画し、右記念事業の一環として百億円募金と称する募金計画を推進していたが、同大学の一部の学生及び大学院生らは、右記念事業が、同大学の歴史を一方的に美化するものであるうえ、百億円募金が、大学における学問研究と産業界とを密接にむすびつけるものである、などとして反対運動を続けていた。
(二)右の反対運動に同調していた被告人は、昭和53年4月同大学文学部哲学科に進学したが、同学部では、同年5月学生大会を開いて右記念事業に反対する旨の決議がなされ、翌6月には、同学部の学生自治組織である「文学部学友会」の執行部が、記念事業に反対する学生(以下反対派学生という)によって占められたことから、右学友会と、今道友信文学部長を中心とする同学部教授会との間で、右記念事業の問題について、いわゆる「団体交渉」がもたれたものの、進展を見なかったばかりか、かえって「団体交渉」の方法をめぐってあらたな紛糾が生ずるなど、一層の対立状態に入っていった。
(三)右のような対立状態が続くうち、文学部生を中心とする一部の反対派学生らは、同学部教授会との「団体交渉」を要求するための『座り込み」と称して、文学部長室を占拠して宿泊を続けていたところ、同年9月22日の夜、文学部長室で火災が発生するに至り、その責任をめぐって、同学部教授会が、「直接的原因はともかくとして、その場にいた学生らには責任がある。」とする見解を発表したのに対し、反対派学生らは、火災の原因糾明が先決であると主張して、激しく反発するに至った。
(四)p4被告人は、数名の文学部生及び大学院生らとともに、同学部当局による右火災発生に伴う責任者処分の動きに対抗するため、同年10月ころ、文京区本郷7丁目3番1号所在東京大学構内法文2号館前アーケード内に、立て看板などの板で囲った「闘争キャンプ」と称するものを作って待機し、付近を通りかかる教官らに対して、右の問題などについて、討論を要求する行動を続けていた。
(五)文学部当局は、同年11月6日、反対派学生らのうち、被告人を含む3名の学生を名指しして、前記火災の責任を追及する趣旨の今道文学部長名義の文書を、同学部学生及び研究室に配布したため、名指しされた被告人らはもちろんのこと、他の反対派学生らから、激しい反発を招き、これらの者との対立状態はさらに険悪なものとなった。
(六)p4被告人は、同年11月7日午前10時30分ころ、前記「闘争キャンプ」付近に医仲間の学生2名位と一緒にいたところ、乗用車で出勤してきた今道友信学部長(当時55歳)を認め、直ちに右の仲間の学生2名とともに、法文2号館アーケード東側の中央玄関前で下車した今道学部長のもとに駆け付けて、話合いを要求しようとした。しかし、同学部長が、これに取り合わず、振り切るようにして同玄関前の階段を上がり、玄関に入ろうとしたので、被告人は、同学部長の前に立ちふさがり、両手で同人の両襟を掴んで入り口鉄扉に押し付け、横に逃げようとした同人を壁に押し付けながら、「処分をするのか。名前を出したな。処分の理由はなんだ。」などと激しく抗議した。これに対して今道学部長が「自分で考えろ。」とか「公務の執行をしに来たんだ。2時間目の授業があるんだから通してもらいたい。」などと言いながら、阻止しようとした被告人及び他の学生の間をすり抜けるようにして逃れ、玄関ホール内に入ったので、これを追いかけた被告人は、同所において、同学部長の左わき腹を右手拳でつきあげるように一回殴打した。殴打された今道学部長は、とっさに被告人に対して「貴様殴ったな。」と、普段には使ったことのない言葉と口調で申し向け、被告人が一瞬ひるんだすきに、その場を逃れた、文学部事務長室に入り、しばらくの間同室のソファーに横になっていたが、殴打された部位の痛みがおさまらなかったため、2時間目の授業の教室には出なかった。
(七)p5しかし、今道学部長は、同日正午から開かれた同大学総長との会食には出席したものの、食欲がなく、更に、同日午後2時から開かれた学部長会議にも出席したが、痛みがやまなかったばかりか、その途中で吐き気さえ覚えたものの、これを我慢して、その後に行われた委員会に出席するなどして、午後7時半過ぎころ下校し、一晩も眠れば、痛みもとれるであろうとの考えから、自宅で痛むところを冷やすなどして寝たところ、翌8日朝になっても、痛みが去らなかったため、同日午前、東京大学保健センターで佐々木智也医師の診察を受けるに至った。
以上の事実を認めることができる。
ところで、所論は、被告人の殴打を肯定する唯一の証拠である原審証人今道友信の供述は、同人が反対派学生らと対立する一方当事者として偏頗な立場にある者であるうえ、その供述自体も、殴打されたという際における被告人との位置関係、傷害の部位など重要な点で微妙に二転三転しており、全体として信用するに足りないものであるのみならず、殴打されたという際の現場付近には、M2、S2、中村健、柏原宗太郎及び松原幸子等の目撃者がいたのであり、これら目撃者の位置関係、目撃状況等に照らせば、これらの者から見られることなく、被告人が今道学部長を殴打することはきわめて不自然であるところ、これら目撃者の誰一人として、被告人の殴打行為を見た者がいないというのであるから、被告人の殴打行為を認定することはできない、と主張する。
p7しかしながら、原審証人今道友信の供述は、前記認定の事実に沿うものであって、特に誇張や作為を疑わしめる不自然さは見当たらず、十分にこれを信用できるものといわなければならない。
もっとも、今道学部長が被告人から殴打された際、その付近に居合わせたという被告人の仲間であるM2、S2及び文学部事務長中村健、同事務長補佐柏原宗太郎、文学部事務官松原幸子等は、原審証人として、いずれも被告人の殴打行為を見ていないと供述していることは所論のとおりである。しかしながら、右M2、S2、中村、柏原の4名は、今道学部長がその際口に出した「貴様殴ったな。」との言葉を、それぞれ、表現に若干の差異があるとしても、ほぼこれと同趣旨の言葉として聞いたことを供述し、右の言葉は、被告人自身も聞いた旨を述べているのである。のみならず、右中村、柏原は、今道学部長の右の言葉を聞いた際には、被告人の殴打行為を見得る位置にいなかったというのであるから、この両名が被告人の殴打行為を見なかったとしても当然のことであり、右松原は今道学部長の右の言葉すらきいていないのであるが、ことは一回だけの瞬間的な殴打であるから、同人がこれを目撃しなかったからと言ってこれを否定することはできないのであろう。
また右M2の供述は『部長が「貴様殴ったな。」といったのを聞いたとき、デッチ上げだと思った。部長の顔は殴られたようにはみえなかったし、被告人に殴るような素振りとか、これを推測させるようなものがなかったから。』と、また、右S2の供述は、『部長の声で、「殴ったな」とか言ったのを聞いたとき、部長は、よろめくとかの様子にはみえなかった。』というにとどまるものであるから、これらの供述をもって、被告人の殴打行為の存在に合理的な疑いを生ぜしめるべき資料とすることはできないと言わなければならない。
結局、本件現場付近に当時居合わせた前記5名の者が、被告人の殴打行為を目撃しなかったからとと言って、直ちに、被告人の今道学部長に対する殴打行為を肯定する原審証人今道友信の供述の信憑性を左右するものとは認められない。
したがって、右の今道証言を信用し、被告人の殴打行為を認定した原判決には採証法則の誤りなどの訴訟手続きの法令違反はなく、事実の誤認もないから、この点に関する所論は採用することができない。
二 傷害について
p8
関係各証拠及び当審証人佐々木智也の供述によると、次の事実を認めることができる。すなわち、
(一)今道学部長は、前記一の(七)で説示したとおり、被告人から殴打された日の翌8日の午前中、東京大学保健センターを訪ねて、佐々木智也医師に対し、昨日(7日)、左側腹部に暴行による外傷を受け(但し、暴行の具体的態様については話さなかった。)、その2、3時間後に、左側胸部の痛みと吐き気を覚えた旨を訴えて、診察を求めた。そこで佐々木医師が、触診などの方法で診察したところ、今道学部長の腋の下から腰骨部付近にかけて、かなり広範囲にわたる圧痛と一部に筋硬症が認められたので、同医師は、左腸腰筋、あるいは前鋸筋に挫傷があるとあると診断したが、これが急性の症状であるのに、皮膚の表面には、出血、あざ、もしくは発赤がみられなかったうえ、内出血の有無も不明であったので、症状の様子をみるべく、右外傷に対する投薬を差し控えた。しかし、今道学部長は、以前から右保健センターで心臓病の診察を受けていたので、この点の診察をするため、心電図をとったところ、頻発する心室性期外収縮がみられたが、冠動脈の変化はなかったので、佐々木医師は、今道学部長に対し、無理をしないで、安静にするようにと指示した。
p9
(二)そこで今道学部長は同月9日ころから歩行するのに杖を使用するようになったが、左側胸部一体の痛みがとれないかったため、同月10日、ふたたび保健センターを訪ねて、澤井廣量医師の診察を受けたが、同医師が不整脈の診断をしただけで、特に痛みに対する治療乃至投薬をしてくれなかったので、さらに、同月14日、保健センターで、澤井医師に対し、気分が悪いと訴えて診察を受けたところ、同医師から、消化剤と貼り薬をもらい受け、これを服用したり、貼付したりしたが、左側胸部全体にわたる痛みは、一向にとれなかった。
p10
(三)それでも痛みを我慢して執務を続けた今道学部長は、同月27日、佐々木医師に電話で投薬を依頼し、同医師の処方で約10日分の貼り薬と不整脈の薬をもらい受けたが、同月30日には、同医師に対し、左側胸部全体にわたる痛みを訴えて、これについての精密な診断を求めるに至った。そこで、佐々木医師は、レントゲン検査を実施するなどして、診察した結果、中腋窩線部、左前鋸筋の第九肋骨付着部挫傷による圧痛があることを確認したので、今道学部長の求めに応じて、同日付の「外傷による前鋸筋第九肋骨付着部挫傷」という診断書を作成して交付した。なお今道学部長が右の診断書を求めたのは、その後に出席を予定していた学会に、出席できなくなる場合にそなえるためであって、本件を告訴するためのものではなかった。今道学部長は、その後も痛みが消えなかったため、同年12月5日、保健センターから貼り薬等の投与を受けたが、昭和54年1月8日診察を受けた際には、心臓病の薬のみをもらい受けた。
以上の事実を認めることができる。
a右の点に関して所論は、今道学部長の傷害は、外傷によるものではないと主張し、その論拠として、(1) 佐々木医師の昭和53年11月8日付けのカルテには、ミオゲローシスという医学用語が記載されているが、この用語は、医学上、筋肉の疲労から生ずる慢性的症状を指す場合に使用されるものであって、急性の外傷性炎症には使用されないものであるから、この用語が記載された右カルテによっては、今道学部長の傷害を外傷性炎症であると断定することはできないばかりか、佐々木、澤井両医師の診察並びに投薬態度に照らせば、むしろ、外傷による筋肉炎はなかったと言い得ること、(2)今道学部長が医師に訴えたという気分の悪化、食欲不振は、同学部長がかねて診察を受けていた心臓病の症状である期外収縮ないし不整脈によるものであって、外傷によるものでないこと、(3)佐々木医師が昭和53年11月30日の診断で、今道学部長の傷害を外傷によるものと診断した根拠は不合理なものであること、などの事実を挙げるほか、これらの点に関する原審証人今道友信の供述は信用できないものである、と主張するa'
bしかしながら、当審証人佐々木智也の供述によると、佐々木医師が、昭和53年11月8日付のカルテに、ミオゲローシス(又はミオゲローゼ)と記載したのは、所論のいうような意味ではなく、同医師が専門とする内科学的用例にしたがったもの、すなわち、筋肉の一部または広い部分に、触診でわかるような硬い部分がある場合、この症状をさすものとして使用したものであることがあきらかであるから、これと異なる医学上の定義乃至用法を前提とする右(1)の所論は前提を異にするものとして失当といわなければならないb'
p12
c また、当審証人佐々木智也の供述によると、佐々木医師が、ミオゲローシスなる医学用語を使用するのは、筋肉の病気である多発性筋炎、腫瘍のアレルギーで起こる筋肉炎、外傷性の筋肉炎、あるいは、心臓疾患に伴う動脈塞栓症などの症状として使用していること、もしくこのうち動脈塞栓症は、心臓疾患、特に不整脈は、頻発する心室性期外収縮によっても起こり得るし、この場合、筋肉にしこりができて、痛み(阻血痛)を訴えることもあり得るところ、今道学部長の昭和53年11月8日当時における心臓の状態、すなわち、心室性期外収縮が頻発していた症状に徴すると、d同学部長が動脈塞栓症を起こしていた可能性もあり、これに基づく阻血痛があったことも可能性としては否定できないd'が、外傷による痛みであったことも充分にあり得たこと、したがって、同月e8日の診察時において、動脈塞栓症の有無を検査し、これのないことを確定しておれば、診察としては完全であったe'が、fこの時以前の、しかも心臓の状態がより悪い時期の診察時においてさえ、今道学部長から動脈塞栓症に基づく阻血痛を疑わしめるような訴えはなかったf'こと、そこで、同月30日の「外傷による左前鋸筋第九肋骨部付着部挫傷」という診断をするに至ったのであるが、この診断は、今道学部長の主訴と挫傷の部位が左前鋸筋であると特定できたことの二つを根拠にしたものであること、以上の事実が認められるのであるc'
しかして、右の根拠の一つとされた挫傷部位の特定とは、右の診察をした際、佐々木医師が今道学部長に、足、上肢、肩甲骨の連動をさせて、医学的検査をしたところ、肩甲骨の回転運動のときだけ痛みがあることが判明したため、左前鋸筋の挫傷であることを特定できた、というものであるから、十分に理由のある正当な医学的判断であるというべきでありg’、またもう一つの根拠となった、今道学部長の主訴も、これに沿う供述をしたh原審証人今道友信の供述が、特に信用性を疑わしめるものが認められないh’のに加えて、i今道学部長が佐々木、澤井の両医師に訴えたという気分の悪化や食欲不振などの症状は、今道学部長が被告人から殴打される以前にはなかったものであることに徴すると、これもまた真実性のある正当なものであるi’jのみならず、原審及び当審の証人佐々木智也の供述中には11月30日の右診断結果が誤りであったとして、その正当性を自ら否定する供述は見当たらないj'。ただ、同証人の当審における供述の中に、11月8日の診察時に、動脈塞栓症に基づく阻血痛の有無を検査して、これを否定しておけば、完全な診察であったと思う、と述べている部分があるのは、先に指摘したとおりであるが、これはその供述全体にかんがみると、k11月8日の診察時に、動脈塞栓症に基づく阻血痛でないことを判定しておれば、11月30日の前記診断結果が、より完全なものであったという趣旨を供述したもので、同診断結果が誤りであるとの主旨を述べたものでないことは明らかであるk'
したがって、今道学部長が負った前記傷害が、被告人の殴打という外傷によるものと認定判示した原審判決には、事実誤認はなく、前記(2)、(3)の所論もまた採用することができない。
三 結論
以上に説示してきたとおり、被告人が、原判示の日時場所において、今道学部長の左わき腹を手拳で一回殴打した結果、同人に全治約一か月間を要する右前鋸筋第九肋骨付着部挫傷の傷害を負わせたことは明らかであるから、この事実を認定した原判決には、事実誤認、訴訟手続きの法令違反はないといわなければならない。
論旨は理由がない。

控訴趣意第二 控訴権濫用を主張する点について
所論は、要するに、被告人が逮捕勾留されたのは、昭和53年12月26日の現場共謀による暴力行為等処罰に関する法律一条違反の事実を被疑事実とするものであったところ、右の逮捕、勾留は、もともと、被告人に嫌疑のない事実を被疑事実としたもので、起訴もできないものであったから、捜査当局が、当初から被告人の運動弾圧と本件操作を意図したところの違法な逮捕、勾留でであるというべきものであり、したがって、これに基づく本件起訴も違法なものというべきであるほか、本件起訴自体も、嫌疑なき不当起訴であって、検察官の適正手続き順守義務違反のものであるから、控訴を棄却さるべきものであるのに、原判決が、これらの違法を裏付ける各般の事実を無視して、控訴棄却をしなかったのは、事実を誤認し、法令の解釈適用を誤ったものである、というのである。

そこで調査するに、原審記録によると、被告人は、昭和54年2月14日、被告人が、ほか20数名と共謀のうえ、昭和53年12月26日東京大学赤門付近において、今道友信文学部長に対し、共謀して暴行を加えた、という被疑事実で逮捕され、昭和54年2月17日、同事実勾留されたうえ、さらに延長された勾留期間の満了日である同年3月8日、本件でいわゆる求令状起訴され、即日本件起訴事実で勾留されたもので、あることがみちめられるところ、右第一次逮捕、勾留の基礎となった被疑事実の被害者及び背景事情は、本件のそれと同じくするものであるから、仮に、捜査当局が、この勾留期間中に、本件の傷害事件を捜査したとしても、このことをもって直ちに違法捜査であるということはできないばかりか、被告人が、この間、本件に関する供述をした形跡もうかがわれないから、右勾留期間の満了日に、本件求令状起訴した検察官の措置に、所論のいうような違法があったということはできないし、原審記録を精査しても、捜査当局が所論のいうような被告人らの連動弾圧の意図で、被告人を逮捕勾留し、本件を起訴したという証跡もないのみならず、本件の傷害事実は、すでに明らかにしたとおり、優にこれを認定できるものであって、嫌疑がないものであったということはできないものであるから、いずれにしても、本件起訴が、検察官の適正手続き順守義務に違反した違法な起訴であるということはとうていできないところといわなければならない。
なお、一般論としては、控訴権濫用を理由に控訴を棄却すべき場合のあり得ることは、これを肯定できるとしても、それは、たとえば、控訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限られると解すべきところ、(昭和55年12月17日、最高裁第一小法廷決定参照)、本件が右の場合に該当することを窺わせる証跡は全く認められない。
したがって本件公訴を棄却せず、被告人を有罪とした原審判決には、事実の誤認も法令の解釈適用のあやまりもないと言わなければならない。
論旨は理由がない。
そこで刑訴法396条により本件控訴を棄却し、刑訴法181条1項本文により答申における書証費用の前部を被告人に負担させることとして、主文のとおり判決する。(*)
昭和56年3月17日
         
       東京高等裁判所第二刑事部

           裁判長裁判官  船田三雄
(*) 下線部分は、昭和56年4月27日付けの「更正決定」なるもの、すなわち、「右の者(被告)に対する、昭和55年(う)第1072号傷害被告事件について、昭和56年3月17日当該裁判所がした判決に明白な違算があったので、職権で次のとおり決定をする」、として削除された。

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