資料A4.『 反「百年」募金阻止闘争勝利のために―10月学生大会に向けて―』文学部学友会・団交を実行する会、78年10月

目 次
はじめに
第一章 反「百年」募金阻止運動の経過―総括、方針
【1】 反「百年」、募金阻止運動の経過
【2】運動の総括と方針
第二章「百年記念」批判の視点
―はじめに―
【1】中教審答申批判
【2】全国の大学再編と東大再編
【3】総長室体制の形成過程
【4】「大学の自治とは」
【5】臨職への差別構造
【6】医学部人体実験(研究至上主義体制批判の視点から)
 付)学生存在に関する試論
 結語

はじめに

我々一人一人を捕縛する鎖を断ち切らんとする呻吟が、10年の沈滞を打ち破る怒吼となって噴出してから、4か月になろうとしている。この間、我々は、様々な声が叫ばれるのを聞いた。アーケードの中にこだまするシュプレッヒコールの響きに、連帯の偉大さを感じ取った。はじめてマイクの前で話をする学友の声から、ういういしい活力を得てきた。その幾多の声の中で我々は4日間のストライキ、4回にわたる予備折衝を闘い抜くことによって、団交を獲得したのであった。

だがそこで目にしたのは、真理の探求を掲げる学者とは相いれない「居直り」「常識論」を告げる欺瞞の声であった。あまつさえ、教授会は7月10日、28日の二度の団交を、当日の一片の掲示で一方的に破棄するといった暴挙に出たのである。
我々は怒った。「団交実」結成時における、われわれの「百年」問題に対する認識・展望が不十分なものであったことはもとより承知していた。ただ、我々は、プディングの味であれ、梨の味であれ、ただ食べるという変革の行為においてのみ、検証されるということを確信していた。この確信の下に、団交実集会・学科討論・学科間討論・「団交実ニュース」(現在第24号まで)発行、等を行ってきたのである。
これら「反百年」の実践の蓄積を踏まえ、認識の深化、理論の構築を求めて、深夜にまで及ぶ討論が繰り広げられた。その場で基本的に一致した事柄が、今ここに「団交実パンフレット」として結実をみたわけである。したがって、このパンフレットは現時点における「団交実」の活動の総決算である。

我々はまず第一章において、過去4か月の運動の経過を振り返りその総括の下に今後の方針を提示する。第二章では、百年記念事業の持つ問題性を個々の側面において展開する。特に、第二章を通じて百年記念事業が一個人の「還暦」と同次元では語りえない、全学的全社会的意味をもっていることをより具体的に明らかにしたつもりである。

教授会側が我々の投げかけた問題を自らに真摯に問うことなく、いたずらに団交の逃亡・破壊を続けている以上、三度学生大会を成立させ、より強固な闘争方針の確立を急がねばならないことはもはや誰の眼にも明白になってきている。各学科あるいは他学部における討論の参考資料として、このパンフレットが活用されることを切に願うものである。

確かに、我々の行かんとしているのは終わりなき路である。だが、路は多くの人が歩くことによってはじめて作られるものであることを我々は知っている。我々は希望という名の路を作る歩みを決して休めてはならない。

第一章 反「百年」、募金阻止運動の経過―総括、方針

【1】 反「百年」、募金阻止運動の経過

Ⅰ 概括
2年前に始まった文学部の百年記念事業粉砕、百億円募金阻止に向けた運動は、今年〔’78年〕五月の学生大会成立、そして「団交を実行する会」(以下団交実)の結成により、新たな段階に突入した。それ以後、文学部学生の産み出した団交実は、二項目要求の獲得に向けて教授会と対峙してきた。教授会の出した不当な条件に対して、間に学生大会をはさみながら、2波4日間のストライキを打って撤廃させ、団交を獲得した。
しかしながら教授会は、団交の中においても、威丈高な対応、不都合な箇所での居直りを繰り返し、学生の怒りを買うのみであった。7月7日の団交においても、立会人の浜川〔学生委員〕は学生を愚弄する言を発して居直りつづけ、徹夜の追求の後にやっと謝罪するありさまだった。
この7月には、教授会は夏休みを利用しての団交逃亡を図ってきた。とりわけ学部長今道は前述浜川の謝罪文を一切不問に付し、学生側に一方的に謝罪要求を行うという挙に出てきた。当然にも団交実の激しい追及が行われ、今道は居直るのみでゲバルト職員に守られながら逃亡した。
こうして8月中、教授会は学生の前から完全に逃亡した。この秋、強圧的対応に出ている教授会に対する学生側の闘いは、さらに強固な陣形を必要とするだろう。「次は何か」を明らかにするためにも、以下に5月以来の我々文学部生の闘いの流れを捉えて行こう。

Ⅱ 団交実の結成(5.18~5.25)
1) 5.18学生大会
文学部のすべてのみなさん、5月18日学生大会が定足数をはるかに上回る多数の学生の参加によって成立したことをお知らせします。そしてその場において、文教授会に対し、自己批判と募金非協力体制確立を要求する学科連絡会の提案が、225名中、賛成146名の圧倒的な多数で可決され、それに基づいて「団交を実行する会(団交実)」が結成されました。(団交実ニュースNo.1)

上のニュースが伝える通り、5月18日の学生大会は、3番大教室を埋め尽くす学生の熱気の中で10年ぶりに成立した。次々に発言する学友は、旧来の執行部(民青)への不信、批判を表明し、ひと月前から地道な討論で運動を築いてきた募金反対学科連絡会への連帯を宣言した。そして多くの学友の歓呼の声の中で、募金反対学科連絡会の団交要求提案が賛成146反対48で可決された。


以下1)、2)の要求を貫徹するため---(中略)5月25日(木)までに対文教授会団交を行おう。
1)
文教授会は募金反対400署名無視、10.26確認空洞化と、3.3機動隊導入による反対運動弾圧への加担とを自己批判すること、および4.3今道学部長名文書を自己批判し白紙撤回すること。
2)
文教授会は文学部に募金非協力体制を確立すること。この団交開催要求への無条件かつ明確な受諾確約回答が22日正午までにない場合、我々文学部生は23,24両日、午前8時より午後5時までのストライキを行い、再度団交実は文教授会に団交を要求する。


この学生大会(以下学大)は募金反対をめぐって争われた。その争点は全学友の前で極めて明確に浮き彫りにされた。かといって、そのような争点の鮮明さあるいはそれをめぐって撒かれたおびただしいビラ、パンフのゆえに学大が成立したと考えるのは早計だろう。

5,18学大成立の根拠は、昨年の400署名にまでさかのぼって求められねばならない。400署名こそは文学部生の過半数が募金に反対する宣言であった。それ故、10.26山本学部長確認はかち取られたのだ。それゆえ自らの安穏とした存在基盤が脅かされる危険を感じた総長室‐文教授会の10.26確認圧殺策動は、きわめて露骨な強圧的なものだったのだ。10.26確認空洞化に抗して座り込み闘争を担った者たちには機動隊を導入するなど、その強圧的な対応は一貫して続いていた。また座り込み闘争は果敢に続行されたが、それのみで教授会の確認空洞化圧殺策動を突破することはできなかった。

大学当局―文教授会の現状を守らんとするこの態勢を打ち破るには、したがって、文学部生のさらなる闘いの前進(現状を拒否しての闘い)しかあり得ない。年度変わりという否定的な状況を克服し、進学生に闘いの息吹を伝え、地道な討論の中から募金反対学科連、さらには団交実を形成していった力こそは文学部生の現状を突破せんとし、教授会にノンを突き付けていく闘いの高揚‐前進だった。だからこそ、その文学部生の意思を体現する方針への圧倒的な支持は半ば当然の帰結であった。また現状に依拠することによってしか活路を見出せない民青系執行部のおびただしい誹謗・中傷のビラは、自らの存立基盤が崩壊せんとしている者の危機感の表現として登場したのであり、執行部の四面楚歌も少しも偶然ではなかったのである。

2) 5.23-24ストライキへ
こうして結成された団交実は、学大決議に狼狽する教授会の姑息な対応に直面した。翌19日に手渡された団交要求書に対し、教授会は20日、質問書を持ってきた。それは「教授会メンバー」は「話し合い」に応ずる用意があるなどという欺瞞的な言葉を使用しているために、団交実によって正しく拒否されると、教授会は22日に、「団交」要求にこたえ、「学部交渉のルールにのっとる交渉をする」(下線引用者)旨の回答を提出した。

「学部交渉のルール」という、仰々しい言葉の意味するところを問う団交実に対して、教授会は何も答えず、団交実は学大決議に従って23・24日のストライキ決行を宣言した。23・24の両日打ち抜かれたストライキは、こうして、教授会が学生の闘争力を見定めようとし、あわよくば学生を分断していこうとする対応の中で行われた。
教授会の対応はまことに巧妙なものであり、スト突入を待ち構えていたかのように、23日、「授業は平常通り行う」という掲示で、ストライキが授業妨害であるかのように恫喝する一方、午後には「文学生諸君へ」と称する怪文書を配布してきた。その中で、22日回答で一言も触れなかった「学部交渉のルール」について
一.文学部学生大会の決議に基づく以上、交渉に参加する資格は文学部の学部学生すべてに開かれており、かつ文学部の学部学生に限られること。
二.交渉の場において発言の自由が保障されること。
三.発言者は所属、専修課程及び氏名を明らかにすること。
四.交渉の形式・場所及び時間をあらかじめ協議すること。
という4項目を含意することを明らかにした。
また、その「5.23今道文書」の中では故意に団交実と文学部生を使い分けていて、学生を分断せんとする意図がありありとうかがわれた。
これに対し、団交実を主軸とするストライキには2日間で延べ300名が結集し、整然と強固に打ち抜かれた。そして24日には久保第二委員長に不当な 5.23 今道文書への抗議をつきつけた。このストを打ち抜いた力が「今道文書」等の教授会の分断策動をはねのけ、翌25日ふたたび開かれた学生大会を成立させ、強固な方針を確立した原動力となったのである。

3)5.25 学大
5.25 臨時学大は、5.18 学大から1週間、スト明け翌日という厳しい日程の中で行われた。それでも発行数は329に達し、団交実の方針は218名中、賛成132、反対57で可決された。


---(略)---再度の団交開催要求への無条件かつ明確な受諾確約回答が、6月2日(金)正午までにない場合、全文学部生は 6月5日(月)、6日(火)、両日---(中略)---抗議のストライキを行い、教授会の速やかな回答を促す.---(略)---


この内容の上に、もし回答がスト後にもない時には、さらに3日間のストライキを構えることも可決されていた。 この臨時学大ではインド哲学科から、5.23今道文書で言うルールにのっとった(ただし第三項目を除く)交渉を行うという、提案も出されたが、賛成69、反対103で否決された。

5.25学大では、その採決結果(団交実の提案は5.18より)賛成票がわずかに減り、イン哲提案は反対票が過半数を超えていない)にあらわされているように、学生の間に動揺が見られた。その動揺は、教授会がストライキの中で見せた恫喝と分断と懐柔によってもたらされたものであった。
しかし、教授会のこの強圧的かつ狡猾な姿勢の前に、一定の動揺があったとは言え、400署名の地平から一歩飛躍し、5.18学大からストライキへと高揚する文学部生の闘いのエネルギーは 5.23 今道文書によって示された分断策動を基本的に粉砕し、5.25 学大においても強固な方針を樹立していったのだった。p4
そして5.18学大によって成立した団交実は、2日間のストを打ち抜き、5.25 学大に勝利したことにより、文学部生総体の意思の表現としてしっかり地歩を築いたことも疑いない。
それは文教授会にとっても大きな脅威として立ちふさがったのであり、5.23 今道文書に現れた姑息な対応が決して小手先のものでなく、何とか団交を避け、われわれの二項目要求から逃れようとする教授会の姿勢そのものであることが、事態の進展の中で徐々に明らかになってくるのである。

Ⅲ 不当条件全面撤回を勝ち取る(5.29~6.16)
1)
教授会の団交ひきのばし
5月1日付東大新聞紙上で、2月より、企業募金が開始されたことが発表された。そして5月末には、卒業生宛に再度の個人募金要請が行われたことが明らかになり、二項目要求はますます重要になった。
他方、教授会の対応ははっきりと団交のひきのばしを策するものとなっていた。5月26日に、再度の団交要求書を教授会につきつけた団交実は29日から6月2日にかけ、各教官を追及し、この間の教授会の対応を批判した。そして個々の教官は学生から出されている百億円募金の問題性について何ら答えようとせず、無責任に事態の収拾を教授会執行部に一任していることが暴露された。
6月2日、教授会から回答があった。


教授会は、繰り返し言明しているように交渉に応ずる用意がある。教授会は5月23日文書で示した 4条件の第一項目[---(略)---交渉に参加する資格は---(略)---文学部生に限られること」についての合意が交渉の基本的前提であると考える。その点についての説明を含めて教授会の正式代表によって予備交渉に入りたい。


上のような回答に対し、団交実は「交渉」とは団交のことを指すのか、「説明」とは一方的な通告なのか、話し合いで詰めることか、ほかの項目の検討はどうなのか等質問したが、メッセンジャー・ボーイと称する久保第二委員長は何も答えなかった。
団交実はこれ以上のひきのばしをゆるさないために、同日、上の回答に対して第三項目(発言者の所属氏名をあきらかにすること)を撤回したうえで、第一項目に限っての予備折衝を要求した。しかし、翌 3日の教授会の回答は


第三項目の再検討を交渉事項に含めて予備交渉に入りたい。予備交渉の日時、場所は第二委員会を通じて決める


というもので、結局、5.23 文書の4条件はいずれも撤回されず、6.2 回答に、この日の回答を上積みされただけのことであることが明らかになった。

「今や、私たちは教授会の姿勢を次のように把握する。多くの教官は、いまだに自らに問われた責任に頬かむりし、学生との対応を執行部に一任している。そして執行部、特に今道学部長は、故意に形式に固執し続けて団交逃亡をはかろうとしている、と。
私たちの闘いの課題は10.26確認空洞化を自己批判させ、募金非協力を克ち取ることであった。これを実現するためには、以上のような姿勢と狙いを突破する必要性が絶対にある。それ故、5日、6日のストライキは断乎として闘い抜かれなければならない。」 団交実ニュース No.10

2)6.5~6.6ストライキ                            p5
こうして打たれた2日間のストは、前回ほどの結果がなかったという否定面はあったが、基本的にストやぶりを許さず、勝利のうちに闘い抜かれた。
結果の悪かったことは前述したように、5.25 学大以後、「ためにする」式の教授会の不当なひきのばし工作に混乱させられたからである。それは 5.25 学大の延長上にある。加えて、教授会の姿勢はこの時期には極めて強硬なものであることがはっきりしてきていた。教授会はより露骨な学生分断策動を見せた。今道、梅岡執行部を先頭にして授業を強行しようとしたのである。しかし、団交実を中心としてこのような教授会の策動は粉砕された。

教授会は6月8日の回答で第三項目の実質上の撤回を行うことを明らかにした。即ち、このストライキを打ち抜いた文学部生の闘いに追い詰められて、教授会は屈せざるを得なくなったのである。
だが、ちょうどこの時期の教授会で、昨年来不在になっていた募金推進委員に評議員を選出していたことが後の6.23団交の中で明らかになった。これは教授会が、5.18学大以来の学生の闘いの高揚に対して、真っ向から挑戦し、強圧的闘いを封じ込もうとする態度をとったことを示している。

即ち教授会の団交ひきのばし策動を看破し、ストライキで不当条件を打破せんとした団交実の指針はきわめて正鵠を射たものであった。他方、このストライキの際中「学友会委員有志」名で出された民青系執行部の「ストを回避し予備折衝へ」という提案は、予備折衝を収拾、分裂に利用しようとする教授会の掌中にそのままおさまったであろうことも、この脈絡の中から明らかになる。

3) 予備折衝(6.10~6.16)
6.5~6.6のストライキののち、8日に教授会の出した回答は「第三項目(発言者は所属氏名を明らかにすること)については予備折衝(交渉)の相互の確認を終えた段階で諸君の要請に応じたい」というものだった。あいかわらず、不分明な留保に固執しているが、基本的に第三項目の撤回を克ち取ったと判断し、また3日間のスト権留保は不当条件を粉砕し得るという展望に立って、団交実は予備折衝をおこなうことを、同日要求した。
こうして始まった予備折衝は
 第1回  6月10日
 第2回  6月13日
 第3回  6月15日
 第4回  6月16日
の4回にわたって行われ、その中で団交実は、5.23今道文書の不当条件を全面的に撤回させた。
予備折衝での教授会は、学生から自己批判を要求されている自らの立場を少しも省みることなく、団交の形骸化とひきのばしをはかる管理者然とした姿勢に終始した。最初に出された第三項目に関する見解は

    教授会が前から掲示している四条件は教授会の原則である。今回に限っては-----第三項目の柔軟な適用を図る。
 補足:今回に限っては、第三項目の適用を見合わせるるが、前例としない。

というものだった。しかし、四条件が5.23今道文書で初めて出されてきたいい加減なものであることを学生側から指摘されると、それに何ら反論できず


(この)交渉(団交)において、発言者は所属専修課程および氏名を明らかにする必要はない


ことが確認された。
このほかにも、第一項目に関して
1)来るべき本交渉は学友会団交実と教授会代表団の交渉であるから、そのオブザーバーが学部学生に限られるのは当然である。普通の情況であるならばさらに人数う制限を行るところであるが、今回はしない。
2) 略
という文面を示して、5.23文書からさらに後退し、学友会と教授会の団交を矮小化し、学部生をオブザーバーにするなど、まったく学生を愚弄するものだった。遂には             p6


-----交渉(断交)の当事者は教授会と学友会であり、文学部の学部学生は交渉(団交)の場において発言の自由を保証される。 (補足)文学部学生以外の者の出席は、議長団を通じその許可を得たものに限られる。

という文面が確認され、誰でも参加できることがかちとられたが、このような教授会の対応は、団交をなんとか形骸化しようとするものに他ならなかった。
そしてひとたび意思一致された内容を、次に用意してきた文面で再三にわたり逆戻りさせ反故にしようとしたことなどを考えあわせると、教授会が団交の形骸化とともに、それをなんとかひきのばそうと企んでいたことは明らかであろう。そこには管理者としての発想しかなく、学生の自己批判要求にたいし真摯に反省しようとする姿勢は微塵もなかったのである。

しかしながら、学生側の闘いはこれらの不当条件、教授会の団交ひきのばしを完全に打ち破った。それは粘り強い論理的追及とともに、3日間のスト権を背景にした攻勢により克ち取られたのだ。スト権の確立があったればこそ、教授会の不当な対応、夏休みへの逃げ切り=団交逃亡を阻止し得たのである。
不当条件を撤回させたことは、一人、文学部生にとってのみならず、今後の全学の学生、労働者の闘いにとっても大きな成果であったことを付言しておこう。

Ⅳ 学友会委員、学大議長選挙( 6.15~6.28 )
ここでこの時期並行して行われた学友会委員と学大征服議長の選挙について少しふれておこう。6月15日から始まったこの選挙においては 5.18 学大決議を受け継ぎ、団交実を支持する流れと、10.26 確認を中傷しその空洞化に加担し、なおかつ「学部交渉ルール」を「民主的」と称して団交実に敵対した前記学友会執行部系の争いとなった。
その結果、学友会委員選挙では、団交実を支持する潮流が圧勝し、学大議長選挙においても、5.18 学大を受け継ぐ、立候補者が 359 対 111 で勝利した。そのことは 5.18 ~ 5.25 の学大で示された文学部生の闘う力が決して衰えてはおらず、さらに募金阻止の闘いを繰り広げんとしていることを示していた。
選挙はあくまでも我々の意識を表わすバロメーターでしかないけれども、ここで示された学友会委員会の選出は、文学部生のさらなる闘争に向けた宣言であった。6月23日と29日の団交にはさまれた中で、劇的に選ばれた新学友会委員会は、それゆえ、教授会をますます追い詰めていくものであった。そして7月4日に誕生した学友会新執行部は、即座に団交実への支持と、共に闘うことを表明した。

Ⅴ 団交(6.23,6.29)
5.18,25の学大と二波4日間のストライキの力で不当条件を粉砕し団交は克ち取られた。教授会の団交逃亡=夏休み休暇への逃げきりは阻止されたとはいえ、それが学生の構える3日間ストを回避するための政治的対応であり、断交そのものを形骸化させようとする意思があらわになってくるのが、二度にわたる団交だった。p7
1)6.23団交
400名の結集の熱気あふれるこの団交の冒頭、今道学部長は教授会の立場、すなわち学生の闘争の高揚に対決するきわめて強圧的な姿勢を一方的に通告した。それはほぼ次の3点に集約される。
 一、団交はストで克ち取られたのではない。正規の交渉であり、文学部が学部長室座り込み、ストライキ中といった異常事態になっているので、教授会の考えを浸透させるために交渉に応じた。  一、二項目要求には応諾できない。  一、募金非協力体制を確立することなどできない。ただ、文学部は一貫して募金協力体制をとっている。2週間ほど前に5月1日付で辻村評議員を募金委員に決定した。

一見してわかるとおり、ここに示されているのは学大で示された自己批判要求に一片の反省もなく、居直っている姿勢であり、また団交の場を教授会の立場の説明会にしようとする、学生への挑戦的対応である。
その上、Ⅲの2)で触れたように、ストライキの最中に募金委員辻村を選んでいるという事実は、この団交に対する教授会の強圧的な態度が、すでに学大成立後から始まっていることを示していると同時に、先制的な攻勢で学生に闘争の無力感を与えようとするものであった。
この教授会の姿勢は、400署名を無視し10.26確認を空洞化していった対応と軌を一にするものである。学生の問いかけには真摯に答えようともせず、管理者的発想のみで何とか事態を収拾しようとする姿勢は、こうして学生の面前にはっきりと登場してきたのだ。この主調底流は教授会の対応に一貫して流れるものであり、これを突破することが常に学生に問われている。
6.23団交ではさらに学生側が10.26確認の内実について追及したが、教授会は「文学部は百年祭に関し、一定の権限(行動の自由)を学部長に与えてきた。しかし10.26確認はその権限を逸脱するものであった。したがって、あれは公的なものではありえないとして、明らかに居直り切れない諸事実に関しては、山本前学部長の「不適切な行為」に切り縮め、「3.17告示」の線で事態の説明をはかってきた。
そして、募金に対する立場については「今までの東大の歴史を反省するという立場から募金のことを考えてみても、募金はプラスのものであり、東大の本質(?)に反するものではない」(高橋)、「反対の人もいないではないが、議論の中で優勢なものが決定された」(今道)など、釈然としないことを並べ立てるばかりであった。また400署名は「世論調査に過ぎない」(辻村)とするなど、あれこれの言辞でその場を切り抜けるのみで、居直りつづけ、「協力体制」のいい加減さを暴露した。
半ばあざけるかのようなこの教授会の高飛車な対応は、実はもはや学生にストを打たれる心配はないと読み、団交を説明会として夏休みに流し込もうとする意図に裏打ちされていることは徐々に明らかになる。その教授会の極めて政治的な対応を明確に自覚できなかったがゆえに、学生側は何とも言えぬ歯がゆさを感じざるを得なかった。以後、この教授会の欺瞞的対応を突破するものが求められることになる。
2) 6.29団交
辻村募金委員の選出は、第一に、学大決定によるこの団交の無視=挑戦である。第二に、10.26確認のさらなる空洞化、積極的な募金への協力であり、第三に、開始された企業募金に対し「全学一致体制」の体裁を整えようという政治的意図のあらわれである。したがって、その辞任を克ち取ることが焦眉の課題となった。
辻村募金委員は「協力体制をとっている以上、募金委員を出すのは当然である」、「還暦を祝うように百年に当たって節目として、記念するのは常識である。教授会はこの常識の立場だ」として、企業募金についても、「公害企業かどうかの認定は困難だから、すべての企業から集めても良い」と言い切り、学生の追求に立ち往生しても、「募金委員はやめない」の一点張りで押し通した。       p8
辻村自ら「勉強不足である」ことを認めながら、辞任は頑として拒否し続けたその居直りを許したものは、6.23に劣らず、300名の学友が結集し弾劾した闘いがあったとはいえ、いまだ教授会を追い詰めるまでに至らなかった闘争の力量であった。すなわち教授会が学生を前にして開き直ることができた裏には、もはやストを打たれることはないという安心感が大きく作用したことがあった。
こうした教授会の、学生の声には耳を貸さず、ただただ事態の収拾=闘争の圧殺を図っていく姿勢は、はからずも団交受諾の背景にストを回避しようというたくらみが潜んでいたことを暴露していた。その姿勢は休暇を前にして露骨に顕れてくるのである。

Ⅵ 七夕団交での追及(7.7)
余りに理不尽な教授会の居直りは、一連の事態の進展の中で照らし合わせるとき、彼等が構えた基本姿勢であることは歴然としていた。団交で理を尽くして論破しても、彼らは居直りを崩そうとしなかった。加えて夏休みは目前にある。
7月7日の団交はこうした流れの中で開かれようとしていた。その直前、会場の最後部に座っていた某教官に対し、学生側から「教授会の一員である以上、前に出て我々の質問があるときには答えてほしい」と提起があった。しかし、その教官は言を左右にして拒否し、5,6分の討論ののち、「では出てゆきます」と言い残して退出した。これを捉えて浜川第二委員は「理由の如何を問わず、教官を追っ払うというのはおかしい」と怒り出した。
すぐさま学生側は「追っ払う」とは事実に反した言いがかりであり、教授会自らの責任を没却していることこそ問題であると反論し、発言の撤回を求めた。しかし浜川は頑なに撤回要求を拒み続け、「本当にそんな言葉を言ったのか」「言っていたら取り消す」と言いながら、言ったことが証明されるとダンマリを決め込んでしまった。途中休憩を挟みつつ深夜に及んでも頑なな態度を崩さない浜川に業を煮やした学生側は、その辞任を要求し、さらに「この事態を引き起こしたのが浜川委員の暴言であり、中断された団交の継続を行おう」との確認書を教授会と交わした。
これ以前、6時前に「ちょっと保健センターへ行き、15分で戻ってくる」と言い残して去った今道学部長は、診断書のみを帰らせ、待ち構えていた車で姿を消してしまった。
確認書を交わした直後、浜川は第二委員を辞めると言い出し、この事態を惹起したことを陳謝し、第二委員を辞任表明する旨の確認書を交わして会場から去った。こうして終った徹夜の追求での浜川の硬骨漢ぶりは決して彼個人の特性にのみ帰せられるものではない。これまで二度の団交の中で示されたあの威丈高な対応、居直りの姿勢が、教授会が学生の二項目要求に与えた回答であり、その教授会の意思こそが浜川の傲岸無礼を支えた根本的要因であった。学生の怒りの追求は、浜川の態度の中に、教授会のこの居直りの姿勢が潜んでいるのを見出していたからこそ、厳しいものとなったのだ。それは過去2度の教授会の無反省な態度に現れていたものではなかったか!             p9
そして教授会代表団が浜川の暴言をそのままにして、傍観を決め込んだことを見るならば、二度の団交で学生の「説得」は不可能とみて、これ以上の団交を望まず、何らかの形で断交を打ち切りたいという思惑が読み取れる。それだからこそ、浜川の追求に、これ幸いと乗っかり、扇子を振って一晩中「知らぬ存ぜぬ」を決め込んでいたのである。
この打ち切り策動は、やがて露骨なものとなってくる。また学生側も、夏休みを目前にして居直りを許さぬ方針を求めた模索していた。こうして学生側には、居直りを突破する闘いとともに、団交打ち切り策動を粉砕することが課題となった。それ故、七夕団交での追及を不毛とみる「東大新聞」に問わねばならぬ。不毛と称するのは、闘いを担っている者に、この教授会の居直りを打ち破る指針を君が与えたときにのみ、そして共に闘うときにのみ可能となるのだ。それを為さないならば、不毛と称するのは、自らを第三者にとどめる君の自慰に過ぎない、と。

Ⅶ 今道執行部の団交破壊―逃亡(7.10~7.28)
1) 7.10団交逃亡
七夕団交で、浜川委員の暴言によって延期された団交は10日に行われることが確認されていた。ところが教授会は当日になって
  本日-----午後の学部交渉は中止する。これは第3回交渉の-----7月7日午後3時20分より、翌8日午前8時20分に及んだ17時間にわたる異常な事態に鑑み、やむを得ず取った措置である。
という一片の掲示で一方的に団交を中止してきた。同日夜、団交実は教授会執行部の密議に介入し、団交中止の理由説明と自己批判を要求して追及したが、教授会側は中止の理由として1)教授会メンバーの健康上の理由と第二委員会の不整備 2)7~8日の「異常な事態」の2点をあげるのみで何らの説明も行わず遁走した。同じ10日付の学内広報においては、七夕団交について、事実の歪曲、不穏当な表現での誇張をいたるところにちりばめている「部局ニュース」が掲載されていた。
この連関を捉えるならば、教授会が7.7も事態をフルに利用して、一方では歪曲と捏造によって世論操作を行い、他方で団交から逃亡しようとしていることが明瞭となる。勿論夏休みの学生の拡散状況は百も承知しての思惑である。あわよくばこのまま団交を反故にし闘争を封じ込められるかもしれない-----
しかし、団交実を先頭として学生側の反撃は鋭かった。10日の追及で、7月下旬の団交を口頭で克ち取った学生側は、団交ひきのばしを許さない闘いを継続し、12日開かれた教授会の中でアピールし、同日夜現れた戸川交渉委員にたいして学内広報の記事の全面訂正を迫った。広報記事については知らぬ存ぜぬの1点張りで、また団交も今道学部長の海外出張に加えて、唐突な辻村委員の韓国出張という理由で、28日に引き延ばされたが、この間の学生の闘いが団交からの完全逃亡を粉砕していったのである。
その後14日には、学友会委員会が全学に呼び掛けて、夏休み中にもかかわらず100名近い結集で、経団連に向けてのデモを行い、後援会の集金人、経団連副会長花村仁八郎に、募金中止を要求し、抗議書を突き付けた。

2) 7.28団交破壊―逃亡
こうして決定した7月28日の第3回団交は、またしても!今道の狡猾な団交破壊―逃亡に直面した。27日夜、翌日の団交に備えて結集した団交実のもとに突然今道が現れた。彼は「7~8日の事態について陳謝してもらいたい。そうしなければ明日の団交には応じられない」と切り出した。学生の憤激の前で、一蹴されるや、団交実の一メンバーに、あらかじめ用意してきた「陳謝文」への署名捺印を要求する封書を投げ捨てて行った。同封書には「決められた時間を守る、等の団交の条件も書かれていたが、中心問題が謝罪要求であることははっきりしていた。
学生の絶対容認できない陳謝文をことさらのように用意し、言語道断にも署名捺印まで求めるというこのやり方は、すなわち断交を蹴るための口実とするためのものである。これを看破した団交実は、翌日、陳謝文を待つという今道を追及し、その卑劣な手口を糾弾するとともに、七夕団交の事態について粘り強く今道に説き明かした。
しかし、今道は、都合の悪い部分には頬かむりし、とにかく謝れと要求してはばからなかった。そして、いわゆるゲバルト職員(本部人事課)を動員し、「陳謝文を持ってこないのなら帰る」と言い残してゲバ職の学生への暴行をしり目に団交から逃亡していき、掲示で団交中止を通告してきた。学生側が、その謝罪要求を絶対に呑まないことを熟知しながら、なおかつ陳謝文に執拗にこだわった事実の裏には、学生の謝罪要求拒否により、団交はおこなわなくて済むだろうし、夏休み拡散の中で逃げ切れるというよみが潜んでいる。p10
注目すべきことには、この陳謝文要求を他の教授会メンバーは全く知らず、事後にあるいは団交会場に赴いてしらされていることである。7.12教授会で浜川委員が委員の辞表を提出し、学部長不在のため預かりの形で受理されていることである。浜川が辞表を提出するのは七夕団交での確認ではなかったか?ところが追及された今道は、7.7確認を一切認めぬ上に、浜川に非はなく、辞任は認めていない、と強弁するのみであった。

この今道と教授会の乖離は今道個人の個性に色濃くいろどられていることは疑いない。しかし、陳謝文の内容は、学内広報の歪曲、捏造された記事に依拠するものであり、それは 7.28今道の団交破壊―逃亡が 7.10以来、教授会が一貫して持つ姿勢の上にあることを雄弁に物語っている。即ち、7.7の事態を、手前みそに味付けし、学生側に非があるかのようにみせかけ、団交を逃亡し、夏休み拡散の中で闘争の鎮静化を待つこと、これである。
この後、教授会は一切の呼び出しに応じず、夏休み中完全に逃亡した。学生側は主体的な拡散情況があったとはいえ、経団連、後援会への抗議を行い、ほぼすべての文学部生へ事態の推移を書き送り、9月の授業再開を迎えた。8月23日の文学部長室座り込み闘争に対する今道の弱弱しい恫喝は、31日の80余名の結集による弾圧粉砕集会ではねのけられた。

Ⅶ ふたたび概括
こうして、この秋に新たな局面での闘いが問われている。
おりふしに言及した状況の構図の中で、6.23断交以来、教授会の対応を主軸として、表現されてきたのは故のないことではない。断言すれば、団交の中では居直り、団交を実質的に空洞化する、さらに団交を破壊して夏休みの中に逃げ込み、闘争を圧殺しようという、(それ自体、学生の声に一切耳を貸さず、無反省に管理者としてのみふるまう)教授会の強圧的な対応。その教授会のペースで6.23団交以後進んできたのである。
他方、学生の闘争は、5.18、25学大、2波4日間のストライキといった形で高揚し、その力あればこそ教授会を団交に引っ張り出すことを可能とした。しかし、その力では教授会を追い詰めるには至らなかった。そこに団交実の苦悩があったし、それはとりもなおさず文学部生の抱えたジレンマの表現だったのである。
巨視的に眺めるならば、このように捉えられる展開の中で、では文学部生の闘うエネルギーは消失してしまったのだろうか?そうではない。学友会選挙で団交実の流れを圧倒的に支持し、2回の団交にそれぞれ400,300を結集してきた文学部生の姿は、5.18,25学大のエネルギーを枯渇したのではなく、その出口を求めるエネルギーに満ちていることを示している。                    p11
蒸気があふれんばかりになっている状況の中で、必要なものはピストンである。これを得たとき、物を動かすのは容易であろう。こうして「次は何か」を見定めるとき、次に問われるのは、教授会のあの威丈高な居直りを打ち破る指針である。400署名の力を一歩飛躍させた5.18学大からさらに飛躍する闘いのみが、あの教授会の傲慢な居直りと逃亡とを打ち破っていくことができる。
全文学部生の諸君、さらなる闘いで教授会の逃亡を許さず、2項目要求を貫徹しよう!

                   (文中、敬称略)

【2】運動の総括と方針                     

本年5月18日の学生大会からすでに4か月がたっている。その中には、2波4日のストライキを打ち抜くことによって、教授会が打ち出してきた団交への4つの不当条件を、内実において撤回させるという中間的な勝利もあった。
しかし、学生を説得できると自信満々登場した今道学部長をはじめとする執行部は、本団交の場で学生に論理的に追及されて、自らの没論理を全面的に暴露するや、浜川発言による7月7日の長時間の議論を口実に、7月10日、28日に予定されていた団交を一方的に破壊―逃亡し、全面的に文学部闘争を圧殺せんとし始めたのである。
我々はこのような教授会の頑なな対応を前にして、自らの闘いを総括する必要に迫られた。以下、明らかにするのは、夏休み中の団交実の徹底的な討論の中から出された、一定の総括と今後の方針である。

(Ⅰ) 5.18学生大会成立―勝利から、文学部団交実現まで
 基本的には、5.18学大決議、5.25学大決議の方針の正しさによる勝利と言えよう。5.18学大での団交実結成、および二項目要求実現のための団交要求というドラスティックな流れの中で、教授会は団交に関する四つの不当条件をつけ、我々の団交要求に応じなかった。しかし、二波四日に渡るストライキを打ちぬき、更に三日間のストライキ権を文学部生が有するという状況下、文教授会も四つの不当条件を撤回する方向で動き始めたのだ。その中で開始された予備折衝は、教授会があくまでも四つの不当条件に個室するなら即すトライに突入するという学生側の堅い意志一致の下に展開され、終始、論理的に議論を進めて行った我々文学部生によって、四つの不当条件は実質的に粉砕されたのである。我々にとって、ここでの闘いは、今後、文教授会の対応を打ち破るためには大いに教訓とすべきであろう。

(Ⅱ)文団交実現から教授会の団交破壊―逃亡まで          p12
この間の総括を、われわれは、苦い思いを抱かずには語ることはできない。夏休み前の闘いの過程は、文教授会の良心に対する我々の一片の期待が全く幻想であったことを思い知らされる過程でもあったのだ。
6月28日の第一回団交の冒頭、今道学部長は“辻村募金委員就任”と“二項目要求には応じられない”こととを明らかにすることによって、我々の前に現れた。以後我々の追及に対して、何ら論理的に反論をなし得ず、「常識論」を振りかざし、ともかく、我々から逃げ切ろうとするのが教授会の一貫した姿勢であった。夏休みに突入する7月10日には、当日になって、文団交を一方的に中止し、更に7月28日に予定されていた団交は一方的に破壊し、学生がいないことを計算して、本部ゲバルト職員を導入して、団交実メンバーに暴行をくわえさせる、これが文教授会の対応だったのだ。
この一連の流れから、我々は、文団交の開始を機に、「文団交実現」の闘いが「二項目要求実現」の闘いへと変化したことから確認されねばならない。そしてその際問題とすべきなのは、5.25学大決議のもつ限界性である。確かに、5.25学大提案は「団交実現」に向けて周到な方針が提起されてはいたが、「二項目要求実現」に向けた闘争方針は何ら記されていなかったのである。その主たる原因で、5月25日の学生大会が「文教授会にいかに団交を受け入れさせるか」という点に集約されていたことに求められよう。さらに言えば、「二項目要求実現については、団交の成り行きを見てから学大を開催すればよい」との判断があったのだろう。しかし、5月25日段階で、これ以上の判断を出しえたか否かについて云々することはあまり意味がない。ここでは5.25学大提案の内容では、教授会の居直りに抗しきれなかったことだけを確認しておきたい。

一回、二回と文団交を続け、教授会の驚くべき居直りを目前にして、我々は、団交の中で教授会を説得することは極めて困難であることを思い知らされた。と同時に、5.25学大決議の内容では、それ以上の強固な闘いを構築することもできないということにも気付き始めた。となると、当然、二項目要求貫徹に向けた学生大会の開催となるのであるが、我々はここで大きな壁にぶつからざるをえなかった。夏休みの拡散状況を粉砕できなかった我々文学部生は、学大成立を空想でしか語れなかった。文教授会の居直りを前にして、二項目要求貫徹の方針を全学友の意思一致で確立し得ない、これが我々の最大のジレンマであった。

一方教授会は前述のように、夏休みという学生の拡散状況を最大限に利用してやりたい放題の強硬策を打ち出してきた。これに対しては7月10日、12日と学外で行われていた教授会に対して、断乎とした抗議行動を展開するなど、最大限の闘いが展開された。しかし、それに対する回答が7月28日のゲバ職導入を含めた団交破壊―逃亡だったのである。7.28のこの対応によって、我々は教授会(今道執行部)の姿勢を最終的に確認した。と同時に、我々がその後の方針を決定する必要に迫られたのである。

(Ⅲ) 団交逃亡の現局面を見極め、今道・辻村を断固追及しつつ、10月学生大会成立、二項目要求貫徹に向けた学科討論を作り出そう!
7月の教授会の強硬姿勢には団交実を力によって抑え込み、夏休みでの消耗を図り、あわよくば文学部長室座り込み闘争をも弾圧し、一気に文学部ん反100年闘争を封じ込めようとする狙いがあったと考える。文学部闘争が全学の先端を担っていることを考えれば、これは総長室の狙いでもある。それに対してわれわれは、夏休み中、自らの「反百年」の論理の再検証を行い、更に今までの運動の総括と今後の方針を徹底的に討論することによって、9月の新学期からの闘いに備えることにした。
一方、文学部長室座り込み闘争も文有志によって、夏休み中も貫徹されている。
夏休みを乗り越えた今となっては、7月の教授会の対応は、いかに弁明しようとも、もはや墓穴を掘る役割しか果たさないはずである。我々は。7.28の文教授会の対応に関して、一切の釈明を許しはしない。7.28のゲバ職を使っての逃亡を機に、教授会と我々とは、今や全面的な対立情況に入っていると言わざるを得ない。
p13
文団交の過程、そして文団交の破壊―逃亡の過程で、「文教授会が我々の問題的に耳を傾け、真摯に討論する」ということがまったくありえないことを多くの学友とともに我々は確認した。彼等にあるのは、辻村募金委員の就任、さらには、7.28ゲバ職導入による我々への暴行によって明らかなように、完全な居直りと学生の闘いの圧殺の姿勢である。もはや、さらに大きな闘いを全学友一致のもとに、突きつけること以外に、2項目要求貫徹はあり得ない。この点こそ、6月、7月の闘争の総括の要であろう。
「学生大会開催が不可能」という7月段階の我々のジレンマは、夏休み中を闘い抜くことによって乗り越えることができた。今や,我々は、文教授会の不当な居直りと、力による収拾の論理を断乎として打ち砕くため、再度の強固な闘争方針を確立する必要を痛感している。

文教授会の小手先の政治技術的な立ち回りには、もっと大きな視点から反撃することを我々は提起する。10月学生大会成立―勝利、そして5.25学大提案以上の強固な方針確立による2項目要求貫徹の闘い、これが今の教授会の居直りを突破する最善の策だと考える。同時に現局面が7月の団交破壊―逃亡を許しているところにあることを見極め、今道・辻村(募金委員)に対して逃亡の自己批判を要求する追及も同時になし切っていかねばならない。
この追及をなし切りつつ、7月団交逃亡の不当性と10月学大の必要性を提起してゆきたい。断乎たる追及の質を保ちつつ、広範な学科討論を蓄積することによってのみ、学大での強固な方針が確立し得ることを、今こそ確認し合おう。

全ての学友は、百年問題に関する学科討論に積極的に参加され、5月~7月にまさる闘いを構築するために、意思表示されることを訴えたい。

Ⅳ 終りに
文学部のこの間の闘いは、とりあえず、個別文学部における過大を中心に展開されているが、これが全学的百年祭糾弾闘争にたいして持つ意義は決定的に大きい。
東大当局は、個人募金の集まりの悪さを企業募金によってまかなわんとして努力しているが、その際、文学部の現在の反百年の闘いは決定的なネックとなっている。また更には、この文学部闘争の影響を直接的、間接的に受ける中から、闘う農学部自治会が結成されているし、文学部においても6月の学友会選挙で団交実と主張を同じくする委員会が圧倒的樹立されている。
7月14日には、この両学部自治会の主催で、夏休み中にもかかわらず、経団連デモが貫徹され、企業募金責任者花村副会長に抗議書が手渡され、百年祭への怒りの声が突き付けられている。このような流れを見るならば、、団交実がなしてきた闘いは、徐々に大きな形へと結実しつつあり、この文闘争に勝利すること(当面は二項目要求貫徹)は、全学の反百年・募金阻止闘争に確たる展望を指し示すことが出来よう。

我々はこの文闘争をやりきることによってのみ、全学的闘いもまた展開し得るのだと確信している。学部の運動も低調なまま、学部代表という体裁だけを整えた中央委員会が、何度総長交渉をやっても百年祭問題で成果を挙げえないのは、我々の反面教師として、あまりにもふさわしい例ではあるまいか。

第二章 「百年記念」批判の視点 

―はじめに― 

                     p14
1.東大百年記念事業は、再三言明されているような「単なるお祭り」に過ぎないものでは断じてない。では、全学一致体制という名の下に強行されんとしている「百年祭」とは一体何なのか。我々はまず、百億もの金を集めようと各企業にすでに配られている募金趣意書の分析から始めようと思う。

「創立以来今日にいたる百年間において、東京大学は15万余の優れた人材を社会に送り出し、国際的水準において、数々の輝かしい研究業績を挙げつつ---歩み続けてまいりました。」 「これら歴史の急流の中にあって、学問の自由と大学の自治とを確保し、国際的水準において研究・教育を推進することは、多くの先人の並々ならぬ努力なくしては不可能であったと思われます。東大が創立百年を迎えるにあたり、その歴史を振り返って先人の偉業をしのぶとともに、さらに今後一層の発展を期して、記念事業を企画し、後世に実り豊かな遺産を残すことは極めて意義のあることと考えられます。」

募金趣意書にはこのように、東大の過去が、あるいは現在が語られてしまっている。だが、しかし、社会に送り出されたその「15万余の優れた人材」が日本の近代化の過程でどのような役割を担ってきたのか。海外侵略・戦争・労働者への抑圧・公害発生など様々な汚点に自ら演出者として、あるいはその一翼を担うといった形で多くの「優れた人材」が加担してきたのではないだろうか。「数々の輝かしい研究業績」は「国際的水準」といういわば研究それ自体のとでもいうべき尺度で評されているが、では、社会の、あるいは歴史のうちで、それらの「輝かしい研究業績」はどのように機能していたのだろうか。戦争中、哲学者や歴史学者はどのようなイデオロギーをばらまいていたのか。戦後の復興期・成長期を通じて、理工系研究者が生み出した公害垂れ流しの技術は、誰のために役立ったのであり、また誰を殺してきたのか。脳外科や精神外科の医者たちが行ったロボトミー手術、人体実験はどのような立場で、あるいは誰のために、植物人間をつくりだしてきたのか。-----

ここには近代化100年の過程における「優れた人材」や「輝かしい研究業績」の機能を批判的に検討する視点が全く欠落している。「優れた」、「輝かしい」というような美辞麗句の背後には、歴史的、社会的な総体から浮き上がらせて「人材」、「業績」を論じるという致命的な誤りが潜んでいることを見逃してはならない。

さらに、「学問の自由と大学の自治とを確保し」と趣意書は続いていく。しかしながら、10年前の東大闘争における機動隊導入、まだ記憶に新しい 3.3機動隊導入、あるいは毎晩行われている夜間パトロール等、国家権力による東大への直接的介入は恒常的なものになりつつある。
このような状態のもとで「大学の自治の確保」を語るということは、矛盾に満ちている学内現行秩序(後の分析で詳述)が維持され、自らの研究がつつがなく行われていることイコール「大学の自治」の確立と考えてしまうことと同じであろう。学問の存立基盤を執拗に問い返した東大闘争を弾圧し、あるいは東京大学という組織の一員としての責任を自覚することなく、百年祭を無気力に容認している研究者たちへの我々の告発を無視した一方で語られる「学問の自由」とは、自己の研究営為の、あるいは研究結果の社会における位置、機能を捉え返そうとせず、好き勝手に「学問」をする「自由」ということに過ぎないであろう。

このように見てくれば、100年にわたって東大が産み落とした「人材」、「業績」をして学内における研究・教育・管理の体制などすべて歴史的な、社会的なコンテクストから浮かび上がらせたうえで、「優れた」「輝かしい」「国際的」といった空疎な形容詞をかぶせ、あるいは、自由・自治といった言葉を無反省に使い、自らの、また自ら属している東京大学の社会的基盤を問い返すことのない惰性的な研究生活を正当化するといった姿勢が終始一貫していることは明らかである。

さらに言うならば、「百年祭=お祭り」論も、以上述べてきた当局による過去・現在の語り方と、まったく同様の根拠で、その欺瞞性が暴露されるように思われる。なぜならば、百年祭が明らかに持つであろう社会的機能(ここでは一般的に語っておくが結語で詳述)を不当にも黙殺してしまう考え方があるからである。現在・過去・未来に及ぶ東京大学があたかも離れ小島であるかのような組織としての自己確認を、我々は断じて許してはならない。              p15

4.3 今道文書には、「東大百年の歴史をいかに評価しいかに位置づけるかという問題は、教授会として特定の結論を出すべき、また出し得る事柄ではなく、それ自体学問の対象である。」と語っている。我々も東大百年の評価、位置づけは非常に困難な課題であることを認める。しかし、困難であることが、現在・過去・未来における社会での東大及びその事業の機能や学内の諸矛盾に一切批判の目を向けず、それどころか自画自賛することにどうしてなってしまうのか。正確な把握が困難であることを痛切に感じているのであるならば、なぜ、留保をつけた記述をしないのか。

いや、むしろ我々は、今年1月の西洋史学科柴田三千雄教授との対応を思い出すべきである。「この募金趣意書はあなたの歴史哲学と矛盾しないのか?」、彼は断言した「しない。」と---。
この募金趣意書は東大100年の正確な認識が短時日では不可能であるがゆえに、とりあえず、というような形で書かれたような代物ではない。東大の研究者たちの意識を代表し、かつ募金を推進しようとする者たちにとっては、積極的な意義を持つ文書なのである。歴史的・社会的な背景を全く捨象し、東大それ自体を論じようとする荒唐無稽な欲望に貫かれたこの文書は、二乗の機能を持っている。一つには、百億もの金を引き出すための、政府・財界に対する宣伝である。もう一つは、政府・財界に対する貢献の隠ぺいである。この宣伝と隠ぺいという機能を過剰なまでに担わされているのが、優れた人材、輝かしい業績、国際的な研究・教育、先人の偉業などという空疎な詞なのである。

歴史的・社会的なコンテクストをきれいさっぱりと無視するという当局の一貫したイデオロギーは、一方においては有用な人材・業績を政府・財界に供給し続けているという歴史的事実を語る必要性を消滅させ、他方においては政府・財界にとって有用なことは何よりも事実が雄弁に語っている人材・業績を無条件で誉めそやせるという、当局にとって誠に都合の良い手品を可能にしているのである。手品師の見事な手腕にあんぐりと口をあけて感心するだけの観客に甘んじていてはいけない。

2. しかしながら、結果的には体制への貢献を声を大にして訴えるという性格を持つ募金趣意書の分析のみでは、反百年―募金阻止闘争を実践する根拠が明らかにされたとは言い難い。政府・財界が研究・教育機構にどのような要請をし、それに対して東大当局はどのような対応をしているのか。あるいは何よりもまず第一に研究を優先させていく姿勢は、その研究過程において、また教官・労働者・学生のあり方において、どのような矛盾を強いているのか、そしてまた総資本の支配下に置かれた効率の良い研究・人材生産工場としての東大の役割を「学問の自由・大学の自治」といった言葉がどのように正当化してしまうのか。以上のような問題設定に基づいて東大の存立基盤を明らかにした後に初めて、我々は百年祭の機能を捉えることができるであろう。さらに反百年―募金阻止闘争をあくまで継続してゆくべき根拠を獲得することができるであろう。

【1】中教審答申批判 

 p16 中央教育審議会(中教審)は1952年設置され、翌年発足した。前身に当たる教育刷新審議会は教育基本法の構想等、占領期の教育改革を推進してきた。そして50年代になって、産業復興にともなう教育制度の再検討の要請に応えるものとして中教審は建議されたのである。51年には産業教育振興法が制定されており、以後一貫して教育は産業再建、振興と密接につなげて語られることになる。

技術革新の時代であった50年代には、日経連など産業界から続々と科学技術教育への要求が行われた。それは一方では、初等・中等教育の段階から、計画的に技術者を養成するための制度の改革、充実方針となって表れた。なぜなら、この時代、最も必要とされたのは技術を実地に活用できる中堅技術者だったからである。これは具体的には工業高校、理工系大学の拡充、整備、そして高専の設置(62年から)となって実施された。

また一方では社会科、道徳教育への締め付け、教科書検定権の文部省独占、教員の政治的中立に関する法改正等に表出している教育の場における思想統制が行われたのである。
1960年の閣議決定「国民の所得倍増計画」は「経済政策の一環として人的能力の向上を図る必要がある」と述べた。ここにおいて教育そのものが国家の政策を実行していく一つの手段として語られたのである。そして資本主義社会を円滑に運営するために必要な人間のピラミッド型構成の頂点であるハイタレント・マンパワーの要請、そのための徹底した能力主義教育、その前段階としての早期の振り分けが構想される。

63年には「大学教育の改善についての答申」が出されている。これは現行の大学制度の範囲内での改善を述べたものであるが、大学の組織形態、管理運営について詳細に規定していること、大学の種別、教育内容への言及の点で、すでにその骨子は71年の最終答申に繋がるものである。また大学院大学が構想されている。

66年の「後期中等教育の拡充整備についての答申」は中等教育の多様化=人的能力開発のための、「個人の適性」に名を借りた早期振り分けの徹底を主軸としている。(なお女子について「将来多くの場合家庭生活において独特の役割を担うことを考え---」等、女子の特性への配慮と称して教育の場において差別的振り分けが主張されていることを付け加えておきたい。)

かの有名な「期待される人間像」は別記として答申されている。これはまさに資本主義社会の一歯車としてしか自己規定し得ない人間疎外の現状を「生きがい」という甘言で隠し、教育の場における人格形成=国家目標の追求を担う精神の育成という超論理を納得させようとしているものである。

70年には、政府財界からの全国大学闘争の収拾要請に応える形で「当面する大学教育の課題に対応するための方策について」がある。これは62年以降、大管法策動と相伴う形で審議されてきた大学管理の構想の集大成であり、同年「大学の運営に関する臨時措置法」が強行採決されている。

このような経過を踏まえた結論として、71年の最終答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」が在るのである。これは“第三の教育改革”として、全教育制度の再編を段階的に進めて行こうとするものである。

初等・中等教育では、就学年齢の引き下げと6・3制解体による再編成―4・4・6として中学、高校を一本化する試案。これを先導的試行として一部の実験校で実施して、成果を観察、研究しつつ全体化することが考えられている。他に校長を中心とした学内管理体制の確立、教員養成大学の整備、教員インターン制度、教員の高度専門性のための大学院設置などがある。また養護学校の義務教育化が明言されている。

高等教育改革案において特徴的なことは、初中等教育のように思い切った再編を出さず、むしろ現行の制度のまま内側を変えていく従来からの路線の踏襲であることである。まずそれらは5種に分類される。大学---これはA.専門教養のための総合領域型、B.専門体系型、C.目的専修型(教員。芸術家、海技職員、etc.)。短大はA教養型とB職業型に分けられる。高専はほぼ現在と同じもの。現修士課程に当たる大学院は、研究のためというよりは高度な専門技術のためとし、研究機関としては、研究院を置く。研究院は経済同友会、日経連の提案する大学院大学、研究大学構想と同質なものと考えてよさそうだ。
さらに東大においては、これらの構想のいわば先取りとして、”総合大学院”が着想され、東大再編の重要な部分をなしている。戦後の産業振興に忠実に人材を開発してきた中教審路線は、ここで技術開発を先導する、より高度な研究の推進を打ち出しているのである。

p17
次に大学管理に関しては、学長(総長)を中心とする中枢的管理機関をおき、学外からも意見を求めるが、学生の声は一応問題提起として受け、決定への参加は認めないとしている。この路線を最も端的に体現しているのが東大の総長室体制だと言えよう。(辻村の〝四百署名=世論”論を見よ。)その中で日共=民青の牛耳る中央委などは、そのボス交的性格といい、欺瞞的「学生参加」を示す内実といい、よくこの体制を補完しているのだ。

教育組織と研究組織の分離という項目は、1人の教官の二面としての研究、教育を組織分割によって区別して、一方で研究至上主義を擁護しつつ、一方で合理的に学生を教化する意図であろう。これら教育制度再編と管理強化とは、たとえば“期待される人間像”に表現されているような従順な歯車とトップに立つ技術者、研究者、管理者を養成するための枠組みである。それはまさに資本主義社会の産業構造の要請、即ち、政府財界一体となった教育界への要求と見事に合致する。

そこで高等教育の各場面の全体としての調整を国として行う体制の確立が提案される。これは69年に経済同友会が提案した「高次福祉社会」のための再編への一環である「国民教育計画会議」に呼応しているのではないだろうか。
他に財政援助面では私学の公的教育計画の受け入れ程度による助成のランク分けの他、一般社会からの援助大いに結構という部分もある。また、すでに共通一次テストとして実施されつつある共通テストによる高校較差補正が入試制度改革の目玉として描かれている。

以上極めて大雑把に述べたが、中教審路線の基本線は冒頭で述べた通り、産業界と教育界の連携を国家レベルで行なおうとするものである。中教審は文部大臣の諮問機関ということになっているが、実際は文部大臣に任命された委員が再選を繰り返しているのである。

中教審答申には文系に関する記述はほとんどない。それは一つには、すでに再三述べたように、理工系教育がまず必要とされたからであり、文系はそれに先導されるものでよい、という考えがあること。今一つには、思想統制的な役割を押し付けるには、法や世論の眼が気になるというところだろうか。しかしながら、初等教育以後一貫して行われる“期待される人間”教育は、かなり効果をあらわしつつあり、また昨今の自衛隊関係、元号関係の政府の暴走を見るとき、私たちは文系の学生として、この後に来るであろう思想統制的教育に対してどのように立ち向かっていくかを考えねばなるまい。

【2】全国の大学再編と東大再編  

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60年代中期までの初中等教育課程(高校まで)の再編によって日本の世界市場への進出を可能とする一定の教育水準を有する均質な労働力が確保された。それに続く支配階級の教育政策の主要課題は、自前で技術革新を成し遂げていく(管理面を含む)に必要な「ハイタレントマンパワー」を作り出し、層の厚い中堅技術者(「大学の大衆化」)を前提しつつ、専門の深化と分業体制のち密化を推進することである。それは養護学校義務化の動向に見られるごとく、小学校段階からの差別-選別体制の強化であり、学校体系の「多様化」、「種別化」であり、そのヒエラルヒー化である。

1.全国の大学再編の動向
’71年中教審答申と筑波化攻撃
’71年中教審答申は戦後の教育再編の集大成であり、眼目は高等教育(短大・大学以上)の再編にある。これによって教育体系全体の再編が30年にわたる1サイクルを終えることになるはずのものなのだ。
目指される大学再編の内容は大略次のようなものである。
1) 目的別の類別化=それぞれの大学あるいは各課程の目的・機能を明確に限定し、研究教育の効率を上げる。戦後型一般教養重視の否定。
2)ひろくは、研究と教育を分離し、それぞれの効率を高める。特に“社会の中で実際に役に立つ”ような教育(統制)を重視する。職業人の再教育も重点課題である。[大学を教育機能の観点から重視する点については国大協などから相当批判を受けている。(71年4月「中教審構想『中間報告』に対する見解」etc.) 高等教育懇談会(茅会長、文部省)はこれらを踏まえ、74.3.76.3の答申で、大学院を中心にした研究機能の「拡充・整備」を打ち出している。旧七帝大を中心に「大学院大学への再編=拡充」は自民党文教部会も打ち出している。(74.5「高等教育に関する基本方針」)]
この研究と教育の分離に対応した新たな大学の組織を作ることがそれにともなう。
3)1)2)に対応する中央集権的管理体制。学外者の管理参加。60年代末の全国学園闘争を反映した全般的な管理強化策。
4)体制内上昇志向(進学熱!)を安上がりに吸収すること。専修学校制度の援用。放送大学の新設など。

以上の中教審構想の全体は政府によってモデルとして作られた筑波大で実現(実験)される。以下に筑波大を中心にして、全国の大学再編の動向を見ていく。
(1)研究と教育の分離
筑波大では、学部・学科に代わって、研究組織たる「学系」と教育組織たる「学群」が置かれ、研究と教育の機能が分離されている。これは第二学群(文化・生物)、第三学群(経営・工学)の設置に主要にかかわる。これらは答申で言う「総合領域型」に当たり、“直接社会で役立つ”教育を行う。教官は同時に専門研究者でもあるが、狭い専門知識は伝達されても役に立たない。「研究は自由でもよい」(とは言え、筑波では研究も締め付けられている)が、教育には特別な配慮が必要だ。こうして、教官は研究者としての頭を切り替え、教育運営局の統制に服して教育を行う。

他方、研究は従来の講座-研究室体制によらず、プロジェクトチーム方式で進められる。毎年、プロジェクトごとに予算の査定がなされるなど、業績主義の厳しい管理がなされている。素粒子など花形プロジェクトは集中的な投資を受けている。

(2)目的別多様化第二、第三学群はすでにふれた。そのほかに第一学群―「基礎学群」が置かれており、これは答申の「専門大系型」に当たり、大学院進学を主とする研究者養成コースである。更に、体育、芸術、医学の3つの「専門学群」が置かれており、答申の「目的専修型」に当たる。特別の資格や能力を有する専門家養成コースである。
これら類別化をモデルとして、医科大、科学技術大、教員養成大学院大学など単科大学の新増設が進められている。科学技術大(豊橋、長岡)は管理運営面でも筑波をモデルにしている。さらに民間企業での実務訓練、研究・教育への民間資金の導入を行うなど、完全に産学協同大学である。むしろ、企業内の学校を政府が直接肩代わりしているようなものである。
教員養成大学院大学(上越)は、現職教員の再教育を行うもので、「専門職としての高度の資質・能力」を要請することとされている。専門的知識だけでなく、市民的教養、学問研究の批判的精神を培うことを目指し、総合大学の中で教員養成を行なおうとした戦後の理念を完全に否定し、師範学校を復活させたものだ。p19
広島大は教養学部(一般教養課程)を廃止し、地域文化学科、情報行動科学科、等々専門コースからなる、総合科学部を創設した。これは大学全体としては、4年一貫縦割り型の専門重視の再編であり、また総合科学部自体は、筑波の第二、第三学群にならったものである。

(3)筑波大では、教授会の自治を完全に否定した中央集権的管理体制をとっている。学長は、法的権限をもった(ライン)副学長を補佐として持っている。この副学長が、審議会、委員会を通じて、研究・教育さらには教官の人事まで、統制する。さらに学外者を含む参与会というものがあり、学長に対して勧告等を行う。
筑波大では学生の自治活動は完全に規制されており、唯一原理研だけが自由な活動を保証されている。また研究者に対するイデオロギー的な統制が強く、中国人講師に対し、一方的に解雇を行う(’75.6)など、している。
(4)最近では、大学院の再編に手が付けられはじめている。中教審による学部レベルの再編が相当程度進行した結果であろう。

2.東大再編の動向 東大闘争末期に開始される「東大改革」は東大闘争を直接的な契機とする。東大の研究者・教官は学生の反乱に対する弾圧を目的とした、政府・文部省による大学の直接管理が、彼等自身にも及ぶことを恐れたのである。自主改革は、彼等研究者の自由を守ることを一つの目的とする。他方、全国大学中最も潤沢な資金によって、建物や設備を拡張に拡張してきた結果、キャンパスは狭隘化してきた。とりわけ、理工系研究者にとって、中教審が打ち出した、大学の「拡充整備計画」は願ったりのものであった。東大改革はこの中教審構想に乗り遅れまいとする研究者の積極的関心をもう一つの契機とする。その主要な点は以下のようなものである。

(1)高級官僚、エリート技術者の養成など、従来通りの教育機能を維持しつつも、大学院、あるいは附置研究所等の研究ないし研究者養成機能を強化すること。東大を研究機関として位置づけることにより、筑波型の介入を免れ「研究(者)の自由」を確保しようとしたのである。
(70年5月加藤総長による中教審答申中間報告に対する批判<改革フォーラムNo.7>を見よ。)一連の『フォーラム』で「研究は教育への反映を直接目的にしない。学術の発展に寄与することが目的」、「教育は研究者にとって刺激」つまり研究のための研究、教育は研究にとって従属的な契機、等のイデオロギーが打ち出される。

そして75年には、大学院5年制一貫コース、特別コースが制度化され、また、教養課程への専門科目の大幅くり込みと履修義務付け、ゼミ方式の増加など、4年一貫専門的教育強化がなされる。また74年には「総合大学院構想専門委員会」が設置され、77年には最終的に理工系4系100講座から成る、学部から独立した大学院新設計画を打ち出した。今春にはこの「構想委」に併存して「大学院総合計画委員会」が設置された。(広報No.398)これは、のちの総長の発言(No.412)などと考えあわせると、設置計画が一層進み、既存の講座の統廃合を検討する段階にまで至っていることを示していると思われる。

我々が現在、それを粉砕すべく闘っている百億円募金も、その40億円が「研究奨励金」にあてられる計画になっている。それが総合大学院構想で打ち出されている、情報システム科学、物質科学、等の学際領域の開拓に重点投資されるであろうことは間違いない。こうして「研究の自由」を守ることを直接の契機とした再編過程は、理工系研究者の利害を拡大貫徹すべく進行しているのだ。

(2)管理運営機能の研究・教育機能からの分離と集中強化
東大闘争以後、個々の教官は学生に対する(「教育者」としての)管理を放棄し、もっぱら研究者として「研究者の卵」に接することにした。学部での管理運営問題は学部長室に集中され、管理運営事項に関する討議を行う場合には教授会は居眠りの場と化した。また、各部局での「自治」は放棄され、全学的な管理運営事項は、総長室(及び、その翼賛機関に格下げされた学部長会議、評議会)に集中された。
総長室は数名の総長補佐をスタッフとしてかかえ、強力なリーダーシップをもって全学的な事業etc.を推進する機関である。(ただし筑波大副学長と違い部局ごとになされる研究・教育には直接関与していない。)百年問題にみられるように、一部局長が学生との間に交わした確認すら、「全学的見地から破棄させることができるほどの力を有している。また、総長室は、学内秩序維持のための専決的権限を有する弾圧体制でもある。(74年の5.24弾圧や78年の3.3弾圧。)そして現在、総長室は上で見た再編計画を実現させようとますますその権限を強化しつつあるのだ。

【3】総長室体制の形成過程 

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《 究明の契機 》
大多数の学生が反対する「記念―募金」を総長室が強行し得る根拠はどこにあるのか?各学部教授会はこの推進に関し明確な論拠も自信も示していない。しかも「記念―募金」は大学の“公的”事業とされているのだ!総長室による独断決定・強行の現実と各学部教官の驚くべき無責任の現実、3月3日総長室ホット・ラインによる即自の機動隊導入、そして時計台ゲヴァルト職員の育成と文闘争への敵対・破壊行動、政府文部省と総長の(学内闘争弾圧に向けた)度重なるボス交渉。

今、私たちは反百年―募金阻止闘争をを通して見えてきつつある学内支配秩序を保障する全体的管理支配体系としての総長室体制をあらためて考えてみる必要があろう。

1.歴史的背景としての国大協自主規制路線:その概括
60年の安保闘争の高揚におそれた政府自民党は予防的な弾圧措置として「国立大学管理法案」の国会上程を策動し、様々な世論工作を行う。これに対していわゆる大管法闘争が展開され「大学の自治と研究の自由を守れ」との立場から多くの学内研究者も反対の意思を表明した。
しかしこれは「守るべき大学の自治と自由」の内実を問うことを忘れていたがゆえに、その後マイナスの遺産を残した。現象的には国会上程阻止=勝利に見えたが背後では国大協・学会重鎮と政府自民党の間に裏取引が行われた。それは政治闘争を先進的に闘う学生を大学当局が積極的に処分し、政府・国家権力の直接的介入弾圧を先取り的に肩代わりしてゆき、研究者の利害を守ろうとする自主規制の了解であった。

処分は当の大管法闘争を闘った学生にまず行われた。自主規制路線はその後『東大パンフ』に到って、イデオロギー的定式化がなされ、制度的にも具体化されていった結果として、東大闘争、全国学園闘争の過程でその 本質をあからさまにしていった。

2.総長室体制の出現

68年東大闘争の一大高揚の中で、大河内体制が退き、従来の「各学部の独自的自治」「教授会の自治」では、闘争を抑えられなくなるや、より効率的、機能的集中的な弾圧・管理・懐柔を全学的に展開する必要に迫られ、学内権限が大きく総長(室)に集中されていった。

68年加藤一郎が総長事務取扱代行に選出されたとき、代行受諾と引き換えに次の条件を認めさせた。
「1)今回の紛争解決について意見が分かれたときは、また急を要するときには、その決定の責任を総長事務取扱に任せる事、2)評議会、学部長会議の---秘密については厳守をお願いしたいこと、3)総長事務取扱を補佐助言するものとして、非公式にではあるが総長事務取扱補佐を設けること」
ここに総長室体制は発足した。

69年3月加藤は総長に選出されるにあたり「---総長の補佐機関を充実すること」を要請し、4月、総長就任と同時に「臨時総長室規定」が制定された。「紛争収拾」のための特別措置として発足した「非常大権」=総長室はかくして既成事実化(恒常化)されたのである。

国大協自主規制路線に基づく学内処分を直接的契機として高揚した東大闘争が、大河内退陣まで高揚するや、これを管理者側から総括し、登場した加藤執行部は、69年1月18、19日の血の大弾圧をもってその路線を発動させ、一方では秩序派を巻き込んだ巧妙な「収集・正常化」を狙ってゆく。その過程で効率的な弾圧・処分システムとして一層整備され、林時代に受け継がれ、今日の向坊体制にまで発展、定着化してきたと言えよう。

3.諸権限の集中
これは70年代臨職闘争に対するもろもろの弾圧を具体的に検討することで明らかになろう。現在、学友会委員会で取り組んでいる '74年5月24日、総長団交を要求しての総長室坐り込み闘争に対する弾圧に反対する書名運動を通じて、具体的例をもって考えていきたいが、ここでは以下のごとく概括するにとどめる。「学内立ち入り禁止」「退去命令」「警察力出動要請」「職員処分」等はすべて総長の専決事項とされ、学部長会議や評議会ですら状況に応じては、相談相手にされたりされなかったりする形式的相談機関となっており、そこにはほとんど決定権がなく、事後承認期間に転化している。総長室出現以前に比べれば、重大な変化である。しかも、上記の権限行使の基準ないし要件があいまい化され恣意的なものとなっていることが、「東大裁判闘争」の中においても明らかにされている。時には学内慣行はおろか、明文化されている職務分掌、権限移譲すら無視した決定を、臨職闘争弾圧の過程で幾度も行ってきているのだ。

4.総長室体制を支える研究者の利害意識
東大闘争の過程で、すべての研究者に対して、大学の社会的機能、学問研究のありかたなどの、大学の存在に関わる基本的な問題が突き付けられた。しかし、大半の研究者は、これを自己の専門領域の研究業績の獲得にとって阻害であると受け取ったと思われる。さもなければ、あのような苛烈な弾圧に加担するはずがなかった。しかもその背後には、東大を頂点とする権威主義的な学問大系(序列)から外れるならば自分が何者でもなくなってしまう、ということへの危機意識があっただろう。
一方、同時に大半の研究者は、大学の管理が円滑に行われていない(機能マヒ)と痛感したことも事実であり、「改革」の一般的必要性が語られた。結果として何が起こったか?大半の研究者は、基本的な問題で学生の追及を受けるのはたまらんといった気持で、管理運営に関する煩雑な業務をよろこんで総長室に奉納し、嬉々として自己の専門領域に舞い戻っていったのである。今や彼等にとって、行跡を積み上げてゆくこと、そのための環境設備が一層改善されることが、何にもまして最重要関心事となってしまった。

決定過程においては総長に一任して無責任であったにもかかわらず、百億円募金には異常な執着と驚くべき没論理を示す文教授会の姿勢は、このような背景から出ているのではないか ? また[自分らは専門領域の研究で手いっぱいで、『記念』の持つ意味などよく分からない。常識次元で考えているに過ぎない」などといった、自己限定への居直りが堂々と行われている。

重要な権限は総長室に一任して、「自分らはよくわからない」立場に身を置き、専門研究の忙しさをタテにして「常識論」レベルで学生野問題的をかわそうとするその姿勢は、思うさま公費(募金!)を使った十分な設備の中で業績を積みあげて以降とする研究者利害への固執を意味し、それは研究至上主義体制として構造化され、臨職問題等の事柄は、黙殺ないしは合理化されてゆくことになる。
総長室専決体制は、同時に研究者の専門への埋没―学内運営への無責任と表裏一体となって存在している。。

【4】「大学の自治とは」 

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理念なり理想は不断に現実の検証に付されるのでなければ、それはむしろ事実を隠ぺいするイデオロギー としていかようにも機能することをわすれてはならない。耳あたりの良い「大学の自治」なる言葉に私たちは現実を見透かす冷静なる視点を奪われてはいないだろうか。
(1)国大協自主規制路線の中での「大学の自治」とは何か? 前項【 3 】のなかで若干論及された問題であるが、大管法反対闘争から考えてみる必要がある。この法案の狙いは、66年安保闘争を契機とした学生の政治活動に対する報復的、予防的弾圧に他ならず、また、高度経済成長のさらなる飛躍を掛けた大学管理の徹底化であったと言えよう。
結果として、法案は国会に上程されなかったが、その狙いは実質的には達成され、ドーカツとしての十分な成果を挙げたものと思われる。

学内研究者たちの反対運動は「学問の自由」「大学の自治」を守れとする視点からなされ、当の「守らるべき」内実の検証が欠落していたがゆえに、実はそれが研究者利害を確保せんとする特権保持の運動であることに無自覚であった。政府・国家権力の直接介入を防ぎ、「自治」「自由」(実は学内研究者の特権)を守るためには大学として学生に対する管理・処分を積極的に厳しくしようとする路線が選ばれたのである。
大管法闘争はかくして、「民主勢力による勝利」等では決してなく「敗北と意識されない最悪の敗北」(折原浩)であったと言えよう。

国家権力は、学内の研究者が管理者として、学生への処分・弾圧を先取り的に肩代わりして遂行する間は、直接的介入を必要としない。大学の自主規制路線が定着化し、構造的に体制化されてゆくのを待てばよいだけなのだ。そしてその現実は出来上がっていた!政府・財界・国大協の様々な世論操作ののち、65年「東大パンフ」に至って、明確に定式化されてゆく。ここでは「大学の自治は教授会の自治であり、学生の自治は教育の一環」であるとされている。
かくて学内研究者は、国家権力に研究者としての資格を保障されつつ、学生の活動を抑え込むための管理者に任命されていった。(自ら任命した!)
この段階で「大学の自治」とは、国家権力に許容された、これに対する学内研究者の利害の一定の相対的自律性を意味するものにすぎなくなっている。また「学問の自由」とは、研究者の特権を失わず「ともかく研究だけはやっていける」といった内実しか持たず、むしろ「研究を邪魔する者」を積極的に処分してゆくことを意味していた。

(2)前項【 3 】で 概括した総長室体制による弾圧に抗する闘いの中で「自治」を抽象的に語ることはいかなる意味を持つであろうか。
民青諸君によれば、政府文部省がその反動的文教政策によって「自治」「自由」を侵害しようとしていることが強調される。しかし、この場合学内に既存する研究・教育体制の現実―それを私たちは総長室体制とその枠で保障される研究至上主義体制として見てゆくであろう―を検証する視点がなく、「予算さえ増えれば」といった現状肯定に基づく、拡大・傍聴へと傾斜せざるを得ない。

また彼等は「東大闘争の偉大なる勝利」として「全構成員の理念が確立された」ことをあげる。しかし総長室、研究者がもつ権力と、学生・労働者が持つ力の絶対的な差異という現実の力関係を無視して語られる“理念”は、私たちに幻想のみを振りまき、むしろ個々人の闘争への決起を鈍らせることに機能している。
こればかりではない。彼等は一定の勝利の地平として、「総長交渉」の公認化を語ろうとする。ではその交渉は現実にはどのように展開されてきたか。「百年問題」に関するこの2年来の経意を見るならば、明らかに、それは陳情窓口、苦情代弁機関に転化しているのだ。このことは現実の力関係の差異を見極め、これを突破し得る闘いの団結を学生、労働者が背景に持つのでなければ「交渉」はむしろ、柔軟管理の補完的機能を果すことを証明している。それはあたかも「参加している」かのごときイメージを与え、課題と各人との深く鋭い対決と行動への主体的決起を不断に挫く収拾的機能をもつのである。

以上のことはこの間の文闘争にも言える。2波4日のストライキと3日間のスト権留保は、わたしたち学生の闘う団結を意味し、それゆえ、条件撤廃と文団交が勝ち取られた。しかし、文当局は団交そのものを「説得」=収拾の場に転化せんとし、論理的追及には“常識論”で居直っている。これを許しているのは、私たちの闘いの団結の不十分性なのである。
今後さらに反百年の闘いを通じて、学内の権力構造と国家権力との関係を明確にとらえ、その現実を指し示すことによって、「自治」「自由」を抽象的に取り上げあたかもそれらが現実に克ち取られているかのごとき前提に立った議論が、むしろ現実の矛盾の隠ぺいに繋がることを明らかにしていこう。

【5】臨職への差別構造 


                 p23
 〔略 →資料A1.『全学実五月祭企画パンフ』第一章第4節「大学労働者から見た移転・再編」参照〕

【6】医学部人体実験(研究至上主義体制批判の視点から)

 p25
われわれは、自ら現実的にそこに属し、幻想的な仕方でそこに埋没することによって、特定の人びとに犠牲を強い、その犠牲を再生産する研究・教育体制を支え続けている。このような東大の一側面を研究至上主義体制と一般によぶことができよう。研究至上主義とは、自らの《研究》をあるいは研究者利害を優先させることにより、他者に犠牲を強いるイデオロギーであり、その装置である。そしてそのような意味での研究至上主義の問題性を、典型的にまた鋭く示すものの一つとして、医学部における人体実験の諸事例がある。

人体実験は、患者を治療のではなく、実験の対象として、あるいはむしろ実験材料の入手の場として見るといったまなざしに裏打ちされている。そこでは医療ではなく研究が問題なのだ。
一事例を挙げてみよう。それは白木博次氏(精神医学者)によって7歳の少女に対してなされた「脳採取術」である。
白木博次氏は昭和20年東大精神科助手、25年医局長、28年脳研教授、43年医学部長、都立府中療育センター初代院長というコースを歩みながら、原爆投下後の広島へ、炭鉱爆発後の三池へ、また水俣へと脳標本を求めて奔走してきた研究者である。
そして昭和24年9月、7歳3か月の少女 Sさんが東大神経科に入院したとき、その担当医の一人が白木氏であった。Sさんは数週間にわたり各種の検査を受けている。9月21日には気脳写(*)を施行され、その後発熱、白血球数の甚大、頭痛、嘔吐等、髄膜炎を疑わせる症状が続いた。
(*) 頭蓋内にある脳せき髄液にみたされた脳脊髄液腔と総称される間隙に、腰椎穿刺により気体(酸素、空気等)を注入してⅩ線撮影をすることで得られる像によって、脳腫瘍、水頭症などの診断を行う。この撮影が気脳写。今日ではCT,MRIなどでおこなわれることが多い。Web.日本大百科全書(ニッポニカ)

その中で白木氏は2回の手術を行うのである。10月11日開頭術を施行し、脳表面を観察したのち、「脳の障害を見るために」(カルテより-----以下この項「 」はカルテより)右前頭葉小片を20~30gの試験切除する。そしてこの後、再度発熱し、熱の上下する中、10月28日「左の麻痺、筋強剛に対する視床の影響を見るため、左前頭葉の試験切除のため再手術」するのである。「視床切断術、前頭葉片切除を行な」い「術中暴れるためエーテル麻酔(を)施行」する。そしてSさんは出血とエーテル麻酔による呼吸障害のために手術台の上で亡くなったのである。白木氏はしかも、Sさん死亡後なお前頭葉片30gを切除し、当初の目的を見事完遂している。

Sさんは先天性脳性まひ児として気づかれた後も7歳になるまで放置されていた。そしてはるばる上京し東大神経科に入院してから彼女の死まではわずか1か月予である。その死をもたらした白木氏の手術とは一体なんであったのか。カルテによっても明らかに治療ではない。「脳の障害を見るため」また「脳片試験切除のため」のものであったのだ。更に実験目的の不明瞭、実験による不利益の甚大、実験を行う緊急性・必然性の乏しさ、危険に対する予防手段の無為無策等、白木氏のこの作業は人体<実験>の要件すらも備えていない「脳病理組織標本づくりのために行った生体解剖」でしかない、そう言わざるをえない。

この事例は、白木氏の特殊個人的な例ではない。台(うてな)弘氏のロボトミー(前頭葉白質切截)に便乗したエクトミー(皮質採取-切断)による恣意的「研究材料入手」(対象は120~180人に上る)、佐野圭司氏の病的状態(分裂病等々)の治療でなく、それに付随して現れる「暴力的な落ち着きのない動作」の鎮静を目的とする脳破壊術(佐野氏(は)名付けて曰く「鎮静的脳手術」---少なくとも51例---

われわれは白木氏の事例を通して患者を実験の対象としてはおろか、研究材料入手の場としてみるまなざしを確認した。このようなまなざし・思想はたとえば医局講座制下において患者を「マテリアル」と呼ぶ風習があったことに端的に示されている。ではこの人体実験の思想はどのように形成されどのように再生産されているのか。

その思想・まなざしが東大精神科に限定された問題ではなく、近代医学・医療の本質そのものに根ざしているのだとしたら、始めの問いへの回答は非常に困難である。ここではそれゆえ、その形成については暫定的に精医連パンフを引照し、その再生産の装置の一つである医局-講座制の問題へと論を進めたい。
------医療制度の近代的再編成は施療院と医師教育の結合により解決され、「病院」が新たな疾病研究と医師教育の場となった。ここで患者は、冷徹なまなざしのもとにむき出しにされ、観察され「客観的に」記述される対象=「マテリアル」となる。診療・研究・伝達(教育)の三身一体としての近代医学の方法の基築が築かれたのである。このような「科学的」まなざしの成立、つまり患者のマテリアル化は、施療院という場においてはじめて成立し得た。ここにおいて、治療者-患者の関係は恵むもの-恵まれるものの関係へと転化する。「患者は医学のために耐えねばならない」という構造の起源はここにある。---‐ (台人体実験糾弾p.12、要約)

恵むもの-恵まれるものという関係を孕むマテリアル化の視線は、それ故開業医の下では挫折せざるを得ない。このまなざしは権威主義に基づく、大学の講座制において再生産されていく。そして東大の医局講座制はこのマテリアル化のまなざしを補強し拡大再生産する装置なのである(とりわけ、精神医療においては、精神病者の人権無視=マテリアル化というしかたで。)

明治20年の学位例施行、26年大学令施行、等により、医師の開業のためには学位(博士号)取得が必要であり、、そのためには臨床系大学院での教授の下での「研究」、研究室での「ティーテル・アルバイト」による教授の認定のどちらかが必要となる。教授を頂点として学位を軸とする医師の統制管理機構がここに成立する。医局講座制である。(医局―若年医師の雑居部屋、講座―大学の研究・教育の単位)そして学位は、西洋医学の導入摂取に明け暮れる日本医学の歴史ゆえに、「優秀な研究業績」を示すものに与えられるのである。

研究至上主義は学位を必須としながら、その認定において診療体験を軽んじ研究室における成果のみを重視するこの医局講座制の構造によって補強されるのである。さらに学位取得のみならず、医師の統制管理機構としての医局講座制の位階を上昇する(すなわち助手→講師→助教授→教授へと)ためには、診療実績ではなくやはり、「優秀な研究業績」を挙げねばならないのであり、そこにおいて患者を研究のための「標本」と見て顧みない研究至上主義が、さらにはびこることは見やすいことである。医局講座制が人体実験の思想を、研究至上主義を補強し拡大再生産する機能を果たしているのである。

研究者利害を優先させ、患者の生命、臨時職員の生活を犠牲にしたはばからぬこの東大の機構を、我々自身が支えていることを思い返すとき、そしてまた、医・人体実験の問題が、東大闘争以来の医学部のとりわけ精医連の闘争によって暴き出され告発されてきたことを思い合わせるとき、われわれの反百年・募金阻止の運動が、研究至上主義体制を射程に収めて築かれていくべきことは勿論、よりいっそう強固な運動を展開していかねばならないとあらためて考えるのである。
(事例・分析ともに精医連パンフに多大に依拠。)

付)学生存在に関する試論 

p27
これまでの分析によって、大学をとりまく、そして大学そのものの情況と学内の諸問題の存在が、ある程度明らかになったと思われるが、では、その中で学生は一体どのように存在しているのであろうか。これはその在り方を考えていく上での一つの試論である。

いまだ根強い理念型としての学生像に「学生とは自らの問題意識にもとづき学問を選び取り、その研究に充実感と価値を見出し、学問と学問以外の様々な活動において、文化を継承すると同時に、創造していく、能動的で、自由で、生き生きとした存在」というものがあると言えよう。しかもこれが単に理念型というにとどまらず、とくにこの文学部においては、ときに一種の現実感をもって立ち現れてくることすらある。これを「小研究者」としての学生存在と呼ぶことも出来よう。

一方事実として、また実感として学生は束縛された存在でもある。たとえばその「学問」の場においても、我々は決められた授業に基づく一定の単位を取ることを義務付けられている。つまり教官による単位認定権(卒論等の審査もふくめ)の下に置かれている。自分のやりたいことが現実にできるとは限らないわけで、学生は、この一点をとっても、学生であるために有形、無形の(時には心理的な)一定の拘束を受けている。

またたとえば、何か能動的に活動しようとしたときに、現象的に顕れてくることでも、7:00に建物がロックアウトされ、研究室にいることすらできないこと、その他教室使用等に関しては駒場と比べてさえ極めて窮屈であること等、常にある制約のもとにおかれている。そしてこれまでの分析が示しているように、外部からあてがわれ、内部から裏打ちされた枠が大學のそして学生の上にかぶさっているわけである。

これを被教育者-被管理者としての学生と呼ぶこともできよう。そしてこういった存在であることで、大学全体の状況を規定している構造に捉えられていると言える。では、この一見つながりの見えない二つの学生像はどのような関係にあるのか。そしてそれは「百年」とどのように結びついていくのだろうか。

それは後者であることにおいてのみ,前者が保証される、あるいは自らが前者であると思い込むという関係といえよう。しかもここで重要なのは、この関係が、自分を「小研究者」としての存在としてのみ強く意識するか、または、学生の「本来の姿」はこのような「小研究者」としての存在であると意識するという形をとって現れてくることである。

「大学の理念」「学問の自由」といったそれだけでは全く内実をもいたないにもかかわらず、きわめて美しい響きを持つ空虚な概念も時に持ち出されて役を買う。(しかも「学問の自由」と言われるとき、「学問とは自由であるべきだ」―これとても空虚さに変わりはないが)―という意味ですらなく、「学問はとにかく自由なのだ」という意味で使われてしまっている。)

このような形で学生像が幻想されるとき、そこに結果されるものは何か。それは学生が被教育者―被管理者という存在性格を持つこと、そしてそうであることによって一見自由な「小研究者」としての存在性格をもちうること、この事実の隠ぺいである。そしてこの隠ぺいによって「管理化」はますます進行し、学生は学内外の諸矛盾を維持する構造の一端を担っていくことになるのである。

というのも、もっと具体的に見て行けば、たとえば、自らを無条件に「研究者」としてidentifyするものは、自分が全く独立した自由な存在であるかの如く錯視し、自らを取りまく関係性が見えなくなる。彼はこう言うかもしれない。「私がやりたいことをやること自体のどこが悪いのだ。しかもそれは価値があることだというのに。」そこでは、本来それ自体としては論じられない、価値の実体化すらおこなわれることになるだろう。

一方、自らをそのようにはidentifyできない者にとっては、被教育者―被管理者としての自分が強く感じられることになる。しかし、その管理の構造が対自化されない限り、自らを取り巻く状況は判然としないままに動かしがたいものとして実体化され、それに対して無力感を抱くことになるだろう。彼の取る道はそこからの「逃避」であろう。(ただしこの「逃避」という語は価値中立的に使っているのであり、また、これは快適な場合も不快な場合もあるだろう。)つまり、その「実体」とのかかわりを合いをできるだけ少なくしようとするわけである。

しかし学生である限り、この管理の構造から離れられるわけではなく、しかも関わり合いを避けようとすればするほど、それが見えなくなっていくであろう。この両者、すなわち盲目的に自らを自由であると感じる者も、盲目的に逃避しようとする者も、共に、管理の構造にとってきわめて御しやすい存在であることは明らかであり、学内外の諸矛盾もますます隠蔽されていくことであろう。

しかし、学生が「小研究者」としての存在性格だけを持つのではなく、被教育者―被管理者としての存在性格を極めて強く持っている以上、しかも、それが様々な現象において現れてくる以上、「美しき幻想」に亀裂が入るときがある。そしてその亀裂から管理の構造が垣間見えるであろう。

しかしここでもさらに二重のワナが仕掛けられている。一つは言うまでもなく、無視-忘却のワナであるが、もう一つのワナはもっと巧妙である。それはさきほどのように「動かしがたいもの」として実体化したうえで、それをよくないものだとしながらも、そう頭の中で規定することで、自分はそれから逃れているかの如く思い込んでしまうワナである。

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しかし考えてみよう。管理とは日常性のなかで働いているからこそ管理なのである。頭の中で悪だと規定しただけで、揺らぐはずもない。日常性のなかでそれを揺るがしていかなければならないのである。

どうも我々は難しいところに来てしまったように見える。日常性において揺るがすとはどうすればいいのか。日常性の全否定?それは不可能だ。また新しい日常性が形作られるだけだ。日常性とはそこにおいてのみ人間が生きられるから日常性というのであろう。だがあわてることはない。逆に内側から動かしてゆけば、日常性ほど変わりやすいものもあるまい。管理の構造といったところで、われわれは管理されているがゆえに、その一端を担っているのであり、我々が変わればその構造自体変わっていかざるを得ないのである。しかも大学とは、学生がいて始めて大学なのである。ここに、一見極めて弱い立場にあるように見える学生が、時に大きな力を持つ理由がある。さらに我々は、学内外の状況を分析し、自らの位置を対自化し始めている。「内側の内側」はすでに動き始めたのである。

結語 

  政府・財界の研究・教育機構に対する要請を集約している中教審答申の分析に始まり、被「教育」者ー被管理者としての学生存在の分析に終る我々のレポートが、東大内外の諸状況を十分に語りつくしているとは言い難い。しかしながら、政府・財界が自らに有益な人材・研究を求め、さらにそのような供給が滞りなく行われるように大学の管理機構の集中化に強い関心を示しているということ。それに呼応する形で、東大当局は、移転、総合大学院計画を画策し、あるいは現に、総長室に大きな権限を集中させつつあること。そのような政府・財界と東大当局との密接な関係は、まず明らかにし得たと思う。
また、「大学の自治」「学問の自由」という言葉が、両者(政財界と東大)の関係を隠蔽し、自己目的化された研究を正当化する役割を持っていること、そして学内各階層からの闘争を抑圧する機能を持っていることなどを語りえたと思う。
政府・財界からの研究・人材生産工場としての期待に応え、かつまたその関係を隠ぺいするイデオロギーに浸されている東大内における研究営為の、教官の、労働者の、そしてまた我々学生のあり方の矛盾もまた指摘し得たと思う。
このような関係性の中で、今道=文教授会、現に進行中の「百年記念事業」について考えてみなければならない。
1.「百年記念事業」の概要と進行経過
この「事業」の計画は今から12年前、66年から始められている。67年には評議会において「事業」を行う体制が承認されたのであるが、東大闘争により当局も「中断の止むなきに到り」その後、6年間計画は中断されていた。そして「紛争収拾」後、73年から計画は再開され、74年にはその計画が評議会で承認されている。

それによると、内容として1)記念式典の挙行、2)東大百年史の編纂・刊行、3)記念建造物の建設(ゲストハウスその他―所要経費60億円)、4)学術研究奨励資金(40億円)の設置が計画された。そしてその所要経費総額百億円を卒業生及び企業から得ることにしたのである。
事業の進行過程についていえば、75年中に学内醵金を行ない(約5500万)76年にそれを基にして「記念事業後援会」が設立され、10月から卒業生一般に対する個人向け募金依頼が開始された。昨年春、いったん集約され、その停滞を受けて「企業ぐるみ個人募金」を強化し、この個人募金は77年9月段階で約7億円集まったと伝えられている。そして、今春、企業募金が開始され、おそらくこの夏休みには、学生の拡散に乗じて、かき集めに当局は奔走したであろう。

また、百年史の編纂は74年「編集委員会」設立、75年「編集室」発足、そして75年9月には「編集要綱」が決定され、それに基づいて着々と進みつつある。
「百年記念式典」は、77年4月12日、当初安田講堂において千人規模の式典が挙行される予定であったが、学内の反対運動に恐れをなし、学外神田学士会館へと逃亡し、実際には当日の欠席者も多く、180人規模の、それも500名の機動隊に守られた式典になり、当局の面目は丸つぶれ、式典の「学内正常化」確立宣言という役割は明らかに粉砕された。

2.「百年記念事業」の問題点
「はじめに」以降の分析を踏まえるならば、自らに有益な人材・研究者の供給を期待する政府・財界と、何よりも研究を優先させる教官・研究者との利害が一致するところに、この「百年記念事業」推進の土壌があると判断しなければならない。さらに、その土壌は、「東大の再編動向」の分析において示されたような移転・総合大学院構想をすでに宿していることに我々は注意すべきである。
教育においては、人間をその一面的な知的能力によってのみ、それも資本の要請を基準としてその価値がはかられる「人材」としてのみ評価し、かつ合理的に選別する体制に安住し、研究においては、研究過程での労働者への抑圧、企業からのひも付き研究費、あるいは研究成果の社会的責任などを全く無視する研究至上主義体制を選び取り、管理執行においては、総長室へ非常大権ともいうべき大幅な権限が託されていることなどを我々は指摘してきた。

移転、総合大学院構想においては、これら研究・教育管理上の問題性を等閑視するどころか、ますます拡大再生産する方向が示されている。「百年記念事業」は、我々が、指摘したような問題を隠蔽し、かつその上で百億もの金を大企業中心になりふり構わず集めようとするものである。確かに、そのこと自体、学問の、大学の真のありかたを模索する者として、許すべきでないし、断乎粉砕すべき性格のものだ。
しかしながら、「百年記念事業」と同時に進められている移転・総合大学院構想の方向性、つまり当局による東大の将来像を視野に収めつつ、我々はより明確に「百年記念事業」の問題性を浮かび上がらせ、批判していかなければならない。

むしろ「百年記念事業」とは移転・総合大学院構想実現の布石として捉えられるべきものである。「百年記念事業」推進の過程で東大にはまったく取り上げるべき問題がないかのごとき「学内正常化」確立宣言を行い、これまでの政府・財界に対する東大の貢献を訴えて行く。そのことにより「百年記念事業」遂行レベルでは、多額の金を手中にし、なおかつ「移転・総合大学院構想」実現へ向けて有効な宣伝を行なおうとしているのである。

更に言うならば、「百年記念事業」は「構想」実現へ向けた宣伝の場となるのみならず、「構想」が実現された際の学内体制、研究者意識を先取り的に示しているものでもある。たとえば「百年記念事業」」を遂行する際の意思決定過程はどのようなものであったか。反対する学生・労働者の声はいくらかでも反映されたのか?否である。

あるいは学部長・評議員以外の一般教官は教授会でどのような討論をやってきたのか。文教授会の10.26確認空洞化の理由の一つに「記念事業はすでに評議会で決定されていたものである―ゆえに山本前文学部長が非協力声明を出すはずがない」というものがある。これは端的に、管理決定機構の集中化をしめしているものではないだろうか。また、百億円募金という華々しいプロジェクトの背後では、移転・再編へ向けて、臨時職員に対する合理化・首切り攻撃が、学内試験導入によりさらに一掃、狡猾な方法で行われつつあるのだ。

政府・財界に対しては、移転実現へ向けた東大の貢献宣伝の場として、学内においては教官、学生労働者に対する集中的管理体制=総長室体制の確立をはかり、研究・学問さえできればという研究者・学生の意識を研究奨励資金・厚生施設でますます助長させ、かつ学内諸矛盾に対して盲目にさせていく、全学でなだれををうって東大再編へと向かっていく基盤を形成させるもの―それが「百年記念事業」」なのである。

現在の諸矛盾を隠蔽し、大企業から研究のためにはと、多額の金を集めようとする「百年記念事業」は、諸矛盾を拡大再生産するしかない移転・再編への大きなステップなのである。このような役割を担う「百年記念事業」を我々は粉砕し、かつ無気力に容認している教授会を徹底的に糾弾していかなければならない。

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