st2pt4dta3. 資料Aー3   文学部長室座り込み闘争を貫徹し企業募金阻止に向けて闘おう/文学部学生院生有志

資料A3 文学部学生・院生有志「文学部長室坐り込み闘争を貫徹し、企業募金阻止に向けて共に闘おう」78年4月

目次 第1章 我々は何故百年祭糾弾闘争を闘うか 1.情勢 p1
2.教育再編の動向              p1
3.東大再編の動向 p6
4.東大創立百年記念事業―百億円募金の問題   p8
5.東大再編と臨職問題               p12
  ?臨職とは何か  ②臨職体制は何故に存在するのか  p12
  ③これまでの臨職闘争と現在の動向 a. これまでの経過  p13
   b. 総長室弾圧体制 c. 日共-東職の敵対       p14
  資料:定員職員と臨職の給与等の格差表        p15
第2章 文学部における百年祭糾弾闘争の経過   Ⅱー1
(1)’76年7月~’77年2月16日         1
(2)77年2月16日~77年4月12日       2
(3)77年4月12日~77年10月26日      4
(4)77年10月26日~78年1月下旬       8 
(5)78年1月下旬~現在まで           11
第3章 百年祭闘争への敵対者=日共民青批判    Ⅲー1
(1)学生及び学問―教育に対するブルジョア的位置づけ  1
(2)その結果としての当局と一体となった再編加担   2
(3)百年祭糾弾闘争への日共民青の敵対         3
(4)東院協「百年記念事業“パンフ”批判」       5
第4章 今後の我々の闘いの方向性            Ⅳー1
1.文座り込み闘争を貫徹し、百年祭―企業募金を粉砕せよ Ⅳー1
2.さらなる闘いの深化に向けて             Ⅳー2
付録
今道友信 新学部長語録
その1.Ⅱー3  その2.Ⅱ―14 その3.Ⅱ―16


第1章われわれは何故、百年祭糾弾闘争を闘うか

1.情勢 第二次大戦後帝国主義世界はその腐朽性にもかかわらず、圧倒的な軍事力と経済力を背景としたアメリカ帝国主義のヘゲモニーの下で、一定の組織性を保つことによって、急速な成長・発展を遂げた。
だが、この過程は不均等発展の過程であり、日本、西独、等の帝国主義の成長と、それに伴うアメリカ帝国主義の帝国主義世界のチャンピオンたる地位の相対的低下をもたらし、帝国主義諸国間の相互矛盾の拡大の過程としてあった。
そして、こうした帝国主義世界に決定的な打撃を与えたのが、ベトナム人民の民族解放闘争革命戦争勝利をはじめとする第三世界の人民の力である。
現在帝国主義世界は、国際通貨体制の完全崩壊、日本、欧米におけるインフレと不況、オイルショックに端的に現れた資源・エネルギー問題、そして食料問題、環境問題の全面的噴出の中で、完全に危機的段階に突入している。
《 日本帝国主義の動向 》

(ⅰ)高度経済成長期
高度成長期においては日本帝国主義は、第一次安保改定、IMF八条国への移行、日韓条約の締結等によって、アメリカ帝国主義から相対的に自立し、欧米先進帝国主義国家によって支配されていた世界市場に対等な参入を行ない、また韓国及び東南アジア諸国への経済侵略(援助等による市場支配、資源収奪、資本輸出による労働力搾取)を開始していった。

そして対内的には自衛隊・警察力の増強、治安弾圧の強化(司法の反動化)、刑法改正の準備作業を進めるなど、外枠としての支配管理体制の再編を行ないつつ、また、労働力政策として初等教育部門においてはすでになし切った教育再編を中等的教育部門(高校、工業高校、さらに、工業高専の新設)へも押し進めつつ、農業、中小企業の選別的育成(切り捨て、独占資本への系列化、下請け化)により、昭和30年代に育成された基幹産業、重化学工業をさらにさらに強化することにより、すなわち、独占資本部門での部分的撤収(石炭→石油)、スクラップ&ビルド(繊維)、大型合併による独占・寡占体制の確立(鉄鋼、自動車)、官民を通じた、個々の企業、工場での合理化、さらに、それにとどまらない管理部門への合理化、全社会的な合理化(端的には、自動販売機のように多くの労働力をも動員する)などによって資本を蓄積し、「世界経済をけん引する機関車」の地位にのし上がる。
70年安保改訂とそれに続く沖縄返還とは、まさしくこのような強蓄積によって自己を確立した経済大国としての日帝が、東南アジア支配をなし切るために、アメリカ帝国主義との共同行動を強め、その肩代わりをしていくという方向を端的に示すものであった。

(ⅱ)日帝の現状と動向だが、前に述べたような帝国主義世界の政治経済的情勢に規定され、日本資本主義自身の内的矛盾の爆発によって、日帝は危機的な情況に突入した。
技術革新の波の退潮とともに欧米帝国主義国においてすでに表れていたスタグフレーションの傾向は、70年代初頭において成長を続けていた日本資本主義の内部にも表れてきており、これは73年のオイルショックを契機に「狂乱物価」とその後の全面的不況となって爆発する。オイルショック以来すでに5年を経過したにもかかわらず、不況は一層強まり、不況対策には常に激しいインフレの可能性が付きまとっている。
60年代後半の平均的経済成長率が12%であったのと比較し、74年-0.3%、75年3.4%、76年5.8%という「低成長」不況が続き、興人、永大など負債総額1千億をこえる大型倒産、そして輸出関連中小企業の倒産が続発し、また「完全失業者」が百万人を越え続ける一方、「円高」にもかかわらず、物価は依然として高水準を続けている。
そして日帝はこの全面的危機を乗り切り延命を図るべく、対外的経済侵略と国内的収奪、搾取の強化=経済の構造転換、合理化再編を、そしてそれをなし切るために、対外的な軍事力増強、国内治安管理体制の強化をはじめとする社会的な再編を、そしてそうした再編の一環として教育再編を推進しつつある。

(1)対外的経済侵略と国内的な収奪-搾取強化、合理化再編 p2
◆ 対外的経済進出
日帝の経済侵略は、欧米先進帝国主義諸国に向け、自動車、カラーテレビなど省力化、大規模化された業種を維持しつつも、より高度な知識集約型産業構造への転換を図ること、他方、東南アジア、南アメリカなど “後進国” に向けてより低廉な労働力の搾取を行うべく資本輸出を行い、また、資源収奪を行うべく「自主技術開発」、「共同開発」を推進していく、また、(低付加価値商品に代えて)プラント輸出を進めていくなど、概略二つの基調を示している。言うまでもないことだが、こうした経済進出は当該相手国に対して深刻な失業をもたらし、あるいは、産業の自律・発展を妨害しているということははっきりと押さえておかなければならない。
省エネルギー・高付加価値・知識集約型産業への転換は、現在的にはむしろ不況対策に追われることによって進行が遅れているものの、消費財に対するアメリカ・ECなどの輸入規制の動き、ロメ協定、UNCTADでの宣言・決議に表れている第三世界の「資源ナショナリズム」、資源・一次商品の高値安定による、鉄鋼などのエネルギー多消費型基礎素材及び生産財の輸出競争力の低下、あるいはまた、60年代高度成長がもたらした公害問題の噴出による大規模立地の困難化、そして繊維・造船などの低付加価値・労働集約型産業分野での、韓国、等 “中進国”の追い上げ、等の中で新たにコンピュータ、航空機、兵器、原子炉等の分野での市場開拓の必要性として、日帝が迫られているものである。
他方、東南アジア、南アメリカ等 “中進国”、“後進国” に対しては、その労働者の貧困に付け込んだ、 より一層の低賃金労力を求め、また国内の公害・環境問題の噴出によって困難になった工場立地を求め(韓国、東南アジア等への繊維・紡績資本の進出、フィリピンへの川崎製鉄のペレット工場、韓国への日本化工クロム工場の輸出)資本輸出を行い、また、石油・鉄鉱石・石炭など原燃料の収奪を目指して「技術協力」「経済協力」(南米諸国での精製プラント・製鉄所建設の「技術協力」、中近東・南米での石油化学コンビナート・肥料工場建設の「技術・経済協力」)を伴う、資源の共同開発、あるいは自主開発を行う等、経済侵略を強化している。また華国鋒・鄧小平体制の下で「四つの近代化(工業・農業・国防・科学技術)」路線を進めつつある中国に対しては、石油、石炭等の資源の獲得とプラント輸出を主軸に、技術・製品の市場開拓・支配を日帝は狙っている。(中国の「経済発展十ヵ年計画」、今後8年間で総額200億ドルに上る取引をうたった日中長期貿易取り決めの調印)

◆国内的な収奪強化と再編合理化
こうした同行の中で、昨年9月に福田内閣が打ち出した「総合経済対策」、現在国会上程中の「構造不況対策法」等による雇用調整事業転換対策、生産価格調整への補助金、あるいは金融上の優遇措置に表れている繊維、平電炉等「構造不況」業種に対する “救済措置” は、逆に一方で、寡占、独占体制を強化するものであると同時に、低賃金労働力を求める海外への資本投下を含め、日本資本主義体制の矛盾の一切を労働者にしわ寄せすることによって、資本のスクラップ&ビルドによる産業構造の転換を図っていく準備過程に他ならない。
こうした産業構造の転換が、総資本の再編合理化であるとすれば、個別資本においても、徹底的な合理化を推し進めることによって、労働者に対する搾取強化、切り捨てを図っている。繊維・鉄鋼においては、雇用労働者の1/4~1/3にも及ぶ大量の人員削減・首切りが行われ、そして、「なぐり込み輸出」によって売上、利潤を大幅に伸ばしている自動車業界においても、また、政府の公共事業への集中投資によって「ミニブーム」に沸くセメント業界においても、雇用を増大させるどころか、「過剰雇用」キャンペーンに便乗しつつ、首切りが(セメントでは半減)すすめられている。60年代の合理化が主に「若年低賃金労働力の不足」に対処する直接的生産部門の「省力化」、システム化、労働強化、下請け化、系列化としてあったのに対し、これは直接的生産部門の合理化を徹底強化しつつ、下請け、臨時労働者の切り捨て、間接管理部門、ホワイトカラー、高年齢層労働者への攻撃強化としてあり、個別企業にとどまらない「業界」レベルの「不況合理化」が進行している。そしてこの合理化がコンピュータ等の導入によって補完されることにより労働者に対する管理が徹底強化されつつある。
国独資機能による「不況対策」=公共事業への集中投資は「不況」による税収低下の現在、満州事変以後の戦時経済の時と同じく予算の40%近くを占める赤字国債と、大衆収奪による金のかきあつめによって可能となる。健保、学費、国鉄料金をはじめとする公共料金の値上げ、等々がそれであり、日帝は現在の危機を全人民に対する収奪強化によっても乗り切らんとしている。
さらに財政硬直化キャンペーンをおこないつつ、財政の矛盾を国家公務員労働者にしわ寄せする形で、69年に制定された総定員法をてことしつつ、すでに三次にわたり公務員の定員削減をおし進めている。最近においてはこの定員削減攻撃が「行政改革」を旗印としておし進められていることからはっきりわかるように、この国公合理化は単に公務員定数をおさえることにより、財政矛盾の軽減をはかるというものにとどまることなく、中央省庁の統廃合を含む、国家行政機構のスクラップ&ビルドを通じて帝国主義国家官僚機構の整備、強化を図るためのものである。更にまた、この攻撃は戦後労働運動の左翼的陣営の中軸をなしてきた官公労の階級解体を目論むものである。

そして、次の節でふれるように、この総定員法は、自衛隊等の軍事・治安部門定員については何ら規制するものではなく、むしろ一般公務員の数を抑えることによって治安部門の人員を増強するものである。

(2)対外軍事力増強と国内治安管理体制の再編強化 p3

◆軍備の増強
坂田防衛庁長官時代の、GNP比1%以内の「基盤的防衛力」構想、量的には一定の枠をはめることをうたい文句に、質的強化と日米共同作戦の強化等準備段階を経て、在韓地上軍の撤退に示される米帝の “アジア離れ” を契機に、ミグ25事件、200海里に絡む対ソ漁業交渉などで国内世論の操作をおこないつつ、また「安保ただ乗り論」をかわし、対米黒字減らしを行うのだと国会における政府の軍事力増強に向けた攻勢が強まっている。
福田政府は「核兵器は憲法上は持てるが(今は)政策上持たない」と公言し、F15(空中空輸、爆撃装置をそのままつけた)、P3?の輸入などによって、日米共同行動を前提とした対ソ、対北朝鮮に向けた戦略の質的強化を計ろうとしている。こうした軍備増強に向けた動きは、長期不況下にあって、兵器、武器産業部門での拡張を一貫して狙ってきた財界、独占ブルジョアジーの意向、そして、三菱や松下労組の強い後押しを直接的原因としつつも、まさしく、前節でみたような、アジアに向けた侵略と反革命という日帝ブルジョアジーの本質的な欲望が、この全面的危機の段階ではっきり前面にでたということを示している。

◆国内的な治安管理の再編強化1963年5月の部落青年石川一雄氏の逮捕に始まり、74年10月31日の高裁判決、77年8月9日の最高裁での上告棄却決定に至る狭山差別裁判の強行は、赤堀差別裁判強行と並び、人民内部にそんざいする差別構造を利用した治安管理攻撃であり、差別を固定・強化する、被支配階級人民に対する分断攻撃である。
また、日弁連、精神神経学会等の反対を押し切り、またもろもろの反対闘争を弾圧しつつ、欺瞞的公聴会開催強行という最終段階を迎えた刑法改正保安処分新設、また、開示訴訟法の改正の動きは、60年代末以来の司法の反動化、戦闘的学生運動、労働運動に対する掲示弾圧の徹底強化等をうけ、全般的な量刑の引き上げ、多衆〇〇罪、常習〇〇罪、まるまる予備罪の新設による政治犯の重罰化組織そのものへの弾圧強化、等を体系的に完成せんとするものであり、保安処分しんせつによって「過激派」弾圧の途を開くとともに、精神障碍者を社会から徹底的に隔離・永久追放しようとする人民分断攻撃である。
成田空港は60年代日帝の農業切り捨て、地域乱開発を促進するための高速交通網、通信網確率政策の産物に過ぎないが、現段階において、日帝福田政権は国家的威信をかけ、また三里塚を頂点とする全国の地域住民闘争への弾圧を込めてしゃにむに開港を強行せんとしている。13年に及ぶ三里塚農民の強固な粘り強い戦いと、反対同盟に連帯する戦闘的な労働者、学生、市民の闘いによって、1万5千の警察機動隊を駆り集めるという空前の警備にもかかわらず、三月末開港という福田の野望は木っ端みじんにうち砕かれた。福田は開港を5月に延期するが、こんどは絶対に開港すると、「一部農民と過激派を区別する」という分断を行いつつ、ブルジョワ法の建前をもかなぐり捨てて、鉄塔の不当撤去、東山さん虐殺に続き、要塞の「差し押さえ」を行い、拳銃使用を含む徹底的な弾圧を目論んでいるこうして日帝は、一方で、人民分断の反革命階級攻撃を行うとともに、海外侵略に向け、国民統合、挙国一致体制を確率せんとしている。75年の天皇訪米に始まる天皇の政治過程への登場、天皇制イデオロギー攻撃がそれである。
こうして、日帝は、不況の長期・泥沼化の危機の中で、戦後民主主義という支配様式を放棄し、ファシズム的な支配様式の確立を準備しているのである。

2.教育再編の動向 p4
このような全面的な社会再編の一環として、科学技術政策、労働力政策に見合った、そして国民統合に向けたイデオロギー政策と、治安管理政策に見合った再編として、教育再編が進行している。即ち、すでに70年代初頭に出された、中教審最終答申でいうところの、諸中等教育における「国民の教育」、「生徒の能力・適性・希望などの多様な分化に応じた教育の多様化」であり、高等教育機関=大学・高専の目的別「多様化」と「種別化」そして、「管理運営の責任体制の確立」「大学の管理組織の抜本的改善」が現段階の日帝の要請に見合って進行している。

◆まず、科学技術政策、労働力政策との関連においては次のような目的別「多様化」「種別化」が現実に進行している。まず、知識集約型産業構造への転換に必要な自主技術の開発を担い得る、独占企業において直ちに役立ちうる研究者・高級技術者の養成と企業の技術者の再教育を行うための大学院の拡充と東大の総合大学院構想にあるような、学部から独立した大学院、「研究院」(中教審)の新設の動きがある(九大、東大、京大など)。また科学技術大学、医科大学(及び産業医大)などが新設されており、教員養成大学院の新設計画がだされるなど、科学技術政策、労働力政策に見合った「多様化」「種別化」そして流動化と再配置が進んでいる。

他方60年代から70年代初期まで、理工系を中心に大学の新・増設、定員増などによって全体として学卒者の数が増大してきたが、最近になってその学卒者の数に枠をはめようとする傾向が現れてきている。これは60年代半ばから中教審等が打ち出していた3%のハイタレント・マンパワーを頂点とし、最底辺の単純労働者に至るピラミッド型体系による労働力配分により、一層、緻密化、効率化せんとする動向であって、共通一次試験による差別選別---〔一行ほど判別できず〕----と同時に、長期不況の中で企業自身が学卒者を非羽陽とせず、また吸収し得なくなってという事態に見合ったものである。学費値上げによる底辺労働者階層子弟の大学からの排除=階級固定化も奨学金制度の”拡充”による体制への屈服を前提にした、これら子弟に対する進学ルートの部分的開放と相まって、上のような動向と同じものである。そして資本が要求する能力を有しない一般大衆に対しては「大学卒は必ずしも経済的に得にはならない」といったキャンペーンを行いつつ、職業訓練所の“拡充”、放送大学、専修学校制度の新設により、半ば体制内上昇志向にはけ口を与え、半ばそれを押さえつけ、労働力配分=教育の効率化を図ろうとしているのである。
総合大学院のような大学における再編は、候教育体系における科学技術政策に沿った頂点での再編である。これに対して73年の---養護学校義務化の動きは労働力政策に沿った----における再編を示している。これはこれまで普通学級内部で行ってきた「できる子」と「できない子」に振り分ける差別選別体制を一層強化し “これから選別される” “できる可能性を有する子供”と“選別の対象にならない子供”、“可能性を持たない子供”に予め差別選別し、しかもそもそも普通学級から・学校から追い出し、空間的にも切り離すというものである。

◆以上のような能力主義的差別・分断攻撃は一般的にブルジョワ社会に人民を統合していくイデオロギー攻撃の機能を果たしている。そして初・中等教育分野では、教科書検定制度、指導要領の「規範力」強化、等による教育内容への直接的介入、勤評・主任制度等による教師への締め付け(体制順応・上昇志向)等の中で、とりわけ、歴史教育における神話の復活、太平洋戦争の肯定・賛美、国家主義の鼓吹などとして、露骨に帝国主義国家への統合を図るイデオロギー攻撃が強化されている。

◆60年代末の全国学園---〔2行ほど読めず〕---ブルジョアジーは「紛争」長期化の場合、大学を一時的に休校にする、あるいは廃校にする権限を文部大臣に与えるという大学当局及び民青―右翼秩序派学生に対するドウカツを含め、大学管理の強化を義務付けた大学運営臨時措置法を打ち出した。また中教審最終答申等に答える形で参与―副学長制度という新たに強化された管理形態をもった筑波大学をモデル大学として新設した。(70年代前半)。
現在的には、広島大、大阪大、東北大などで筑波型再編攻撃が「自然延長」化されているが、さらに九大での学館闘争、阪大での授業料値上げ反対闘争、また東大での精神科病棟自主管理闘争に対する対策を契機として、また三里塚闘争の出撃拠点つぶし、学生叛乱の予防弾圧として新大管法国会上程の動きがある。
また私大においては法政大(町田へ)、中大(八王子へ)、東洋大(朝霞へ)をはじめとして、移転-再編が進められており、教育大の---(1行読めず)---で首都圏からの学生のたたき出しが目論まれている。
また大学の「種別化」のもとに新設計画が打ち出されている防衛医大は自衛隊のアジア派兵を前提として従軍医官の養成を目的としたものであり、侵略と反革命の役割を直接担うものである。

3.東大再編の動向           p6
◆60年代末から70年代はじめにかけての学生と労働者の反乱に恐怖した東大当局は、研究者(教官)の最大の関心事たる「研究の自由」即ち、学内管理者としての責任、自己の研究成果の社会的機能についての責任から免れ、好きな研究に好きなだけ埋没する「自由」を守り抜くことを至上命令とした。
当局が打ち出した「自主改革」は従来からの高級官僚、エリート技術者、管理職の養成、すなわち、教育機能は維持しつつも、中教審構想で言うところの「研究院」、即ち「高度の学術研究を行う者に対し研究・修練の場を提供するとともに、その研究に指導を与える高等教育機関」としての機能拡充を図ることを基調とする。この研究者養成の場としての東大の役割を強調することによって、つまり「研究の自由」→「研究者(教官)の自由」を押し出すことによって、政府・文部省の筑波モデル大学=学生のみならず、教官(研究者)をも対象とする管理強化攻撃から免れようとしたのである。

◆東大の改革
『改革フォーラム』No.1~28によって知られる70年代初頭の東大の改革の動きは以下のようなものである。 「教育への反映を直接目的にするのではなく学術の発展に寄与する」ことを目的とした研究、つまり、“ 研究のための研究 ”の重視がまず打ち出され、教育は研究に従属するものとされる。研究者養成機関たる大学院の拡充がうたわれ、附置研の存在意義が強調される。
なお75年には前年の大学院の設置基準の改訂に沿いつつ、第一種(修士2年+博士3年)、第二種(5年一貫)のコースをはっきり制度化し、さらに5年制においては、「優れた研究業績を上げ、所定の要件を満たした場合」に「3年で終了」し得るという特別コースを設けている。
このような体制の下で、個々の研究者が自己の研究(教育)に「専念」しうるよう「研究教育機能」と「管理運営機能」が分化される。60年代国大協路線、すなわち、各学部教授会自治が廃止され、全学的な管理・運営の権限・機能が総長室(その翼賛機関に格下げされた学部長会議・評議会)に集中され、各学部においては学部長の権限が強化されている。総長室とは強力なリーダーシップをもって全学的な事業を執行・推進する機関であり、学内秩序維持のための“臨機応変”の処置を専断的に行う機関である。

◆立川移転・総合大学院新設計画、および最近の動向
上でその概略を見た「改革」作業の中には、さらに、学生処分の問題、総長選挙の問題、「教官自己規律」の問題等が含まれていたが、それらは一切具体化されず、「改革」は研究(教育)施設、資金の拡充計画に完全に成りきってしまう。そして73年には、立川への移転がとり沙汰され、74~75年には「総合大学院構想」が発表され、立川移転計画が評議会で承認される。
立川への理工系全学部、全研究所の移転・統合とは、研究者利害の貫徹のために、既存部局の拡充を図るとともに、大学院、研究所の拡充、とりわけ、原子力、核融合を主軸とするビッグ・サイエンス部門の飛躍的拡充を図ることによって、資源エネルギー問題の解決を迫られている日帝ブルジョアジーの要請に答えようとするものである。(向坊総長は原発推進学者のチャンピオンである。)
総合大学院計画構想はこの既存部局の研究者利害=立川移転を実現するために、ブルジョアジーの目玉商品として打ち出されてきたものである。つまりそれは前で示されている「知識集約型産業」構造への転換、等々へのブルジョアジーの現在的要請を(主観的に)先取りするものである。
総合大学院に設置されようとしている「情報システム科学系」、「物質科学系」は知識集約型産業構造への転換の要である、コンピューター、(原子炉、ロケット等に用いる)特殊合金等の開発に向けた自主技術を担う研究者養成を意図するものであり、「生命科学系」、「地域環境科学系」は食料問題、公害問題に対する対処の要請に応えんとするものである。 p7
また、企業(独占資本、大企業)の技術者の再教育のためのコースを別枠で設けるなど、中教審構想に直接応えるものである。
最近の『学内広報』No.398によれば、各学部、研究所各一名の委員からなる『大学院総合計画委員会」(委員長は向坊総長)が設置され、従来からの「総合大学院問題専門委員会」と併存して、大学院の改革問題を討議するとともに「総合大学院の位置づけ、総合大学院を設置した場合の問題点---」をも検討することになったという。
これは理工系部局の立川移転計画が、自衛隊の米軍立川基地跡への居坐りによって困難になった(これは危機にあえぐ日帝が軍事・治安管理的再編強化を優先させたということである)ことに伴い、ブルジョアジー向け目玉商品という従来の総合大学院の位置づけそのものの再検討を東大当局が迫られているということに他ならない。だが、これまでの「改革」、再編動向からして、そこに貫徹される基調は、ブルジョアジーの要請に沿いつつ、研究者の利害=「自由な研究」、十分な設備、資金、ポストの獲得を実現しようということだ、というのは明確である。(そして、その現在的な形態が百年記念事業に関する次節で明らかになる。)

◆以上の動向を踏まえたうえで、次の諸点をはっきり確認しなければならない。
まず第一に、現体制の性格を一切問うことなく、「研究の自由」、「研究者の自由」のイデオロギーに依拠してなされる研究・教育は、当局の強弁にもかかわらず、「大学の中立性」を意味するどころか、全く逆である。この研究・教育体制の下で生み出される細分化された専門領域にのみ通じた研究者・技術者・官僚は目的と全体とを把握した支配階級、ブルジョアジーの支配を補助するだけである。そこで産み出される「学問的研究」、「基礎研究」は、その応用のためにはますます巨大な資金と設備、人的能力が必要となるにつれ(情報システム科学、ビッグサイエンス)、研究成果を独占資本、大企業の手に一層集中的にゆだねる結果にしかならないことは明白であり、産学協同を、従来の企業との個別的な結合携帯から、一層普遍化・合理化した形態に転化することに過ぎない。
また、他方、東大では、企業の代弁者として公害隠ぺいに積極的役割を果たした(水俣における田宮医学部教授)、あるいは現在、原子力発電を積極的に推進している(向坊隆。原子力安全審査会長として欠陥原子炉にお墨付きを与えている内田秀雄工学部教授等)ような、目的意識的にブルジョアジーの尖兵として働く御用学者を多数生みだしている。これは国立大額の頂点を占める東大の位置そのものと関連しているとともに、「研究者の自由」という支配的イデオロギーとも関連を有しているのである。
そして、研究結果の社会的責任について問うことのない「研究のための研究」は、より狭義の研究至上主義的な研究、人間そのものをも単に研究材料としてしか見ないような人体実験や生体解剖を生みだしさえする。

さらに東大の研究体制は他大学に比べて圧倒的に多数の差別され抑圧された存在たる臨時職員を生み出している。60年代に附置研をはじめとする理工系の研究室では、他大学に比べ潤沢な研究資金を利用して、研究補助を行わしめるための労働者を次々と雇い入れた。そして、その後総定員法等による国家公務員合理化攻撃が始まるや、教授、研究者は雇用者としての責任を一切放棄し、定員化要求を圧殺しようとした。現在的には、国家合理化攻撃が一層強化される中、政府・人事院と一体となって「定員化のための選別試験」を強行するなど、差別と抑圧をいっそう強めている。現在の研究体制は労働者に対する抑圧の体制そのものであり(日共=民青のいう全構成員自治なる幻想とは全く反対に)企業におけるのと同様な支配が貫徹しているのである。

4.「東大創立百年記念事業」「百億円募金」の問題点     p8
現在、東大においては「創立百年記念事業」なるものがすすめられつつあり、今春にはその財政的基盤の中核をなす法人募金が開始される可能性があることが、昨年11月東大当局者によって言明されている。われわれはこの「百年記念事業」は、これまでの東大の社会的位置・機能を考えるとき、また今後の東大の在り方との関わりにおいて、重大な問題を孕んでいると考え、昨年春以来これを阻止すべく闘ってきた。以下この「事業」の概要を説明し、これに反対する我々の論拠をを若干述べてみたい。

◆「百年記念事業」の概要と進行経過
この「事業」の計画は今から12年前、66年から始められている。67年には評議会において「事業」を行う体制が承認されたのであるが、東大闘争により当局も「中断のやむなきに至り」、その後6年間計画は中断された。そして「紛争収拾」後、73年から計画は再開され、74年にはその計画が評議会によって承認されている。
それによると、事業内容として、①記念式典の挙行、②東大百年史の編集・刊行、③記念建造物の建設(ゲストハウスその他、所要経費約60億円)④学術研究奨励資金(40億円)の設置が計画された。そしてその所要経費総額百億を卒業生及び企業から募ることにしたのである。
現在に至るまでの事業の進行過程について言えば、75年度中に学内拠金を行い(約5,500万円)、76年にはそれを基にして「記念事業後援会」が設立され、10月から卒業生一般に対する個人向け募金依頼が開始された。昨春、いったん集約され、その停滞を受けて「企業ぐるみ個人募金」を強化し、この個人募金は77年9月段階で約7億円集まったと伝えられている。そして4月3日付の文学部長告示によると「今年1月以来法人団体への依頼が進められている由である」(これは法人募金の開始を意味するのか。)
また百年史の編集は、74年「編集委員会」設立、75年「編集室」発足、そして75年9月には「編集要綱」が決定され、それに基づいて着々と進みつつある。「百年記念式典」は77年4月12日、当初安田講堂において千人規模の式典が挙行される予定であったが、我々の反対運動に恐れをなし、学外の神田学士会館に、三百人規模に縮小して逃亡し、実際は当日は欠席者も多く、180人程度の、それも五百名もの機動隊に守られた式典になり、当局の面目は丸つぶれ、式典の実態は明確に粉砕された。

◆「百年記念事業」の問題点            p8
われわれの「記念事業」反対の主要な根拠は、教育、研究、管理の三点から論ずることができる。
〔Ⅰ〕教育:
この「記念事業」がこれまで教育の中で東大の果たしてきた役割、機能―差別・選別の公教育体系のかなめとして位置づけられ日本帝国主義の枢要を担う支配エリート、高級頭脳労働者輩出機関として機能してきたこと、即ち、国家、資本の要請に応える官僚、技術者、研究者、等の産出にひたすら邁進してきた歴史を、一切反省することのなかった点。
むしろ、その位置、役割、機能を強化する方向でただただ「その歴史を振り返って先人の偉業をしのぶとともに、さらに今後の一層の発展を期して」(記念事業後援資金募集趣意書)のみ企画、推進されてきたという点。
趣意書に言う「発展」とは76年、77年段階においては、明確に立川移転・総合大学院新設であった。それは77年3月30日朝日新聞紙上の逸見前広報委員長の言(「百年記念事業は移転推進の一環である。」)となってあらわれている通り、東大当局によっても、そのように位置づけられていることは間違いないが、主観的意図はどうであれ、客観的に見て、記念事業計画と移転計画が同時に進行している以上、これまでの東大の業績(社会的貢献)の宣伝を中心とする記念事業の成功が移転を推進することになるのは必定である。
そして移転を有利に進めるために、政府に予算を計上させる、いわば“目玉商品”として計画されたのが総合大学院新設構想であり、ここに東大当局の、移転に込めた姿勢が如実に示されている。即ち、日本帝国主義が現在焦眉の課題としているところの知識集約型産業構造への転換に即応する東大の研究教育の再編―大学院教育の充実を主眼とする再編の方向を先取り的に打ち出したものこそ、この総合大学院新設計画に他ならないのである。これは大学の付属機関的存在であった大学院を大学体系の上に聳立する学校体系として整備し、学際領域の研究を開拓することによって、国家・資本の要請により一層応える研究者、技術者の養成に努めようとするものであり、中教審答申に基づく高等教育の能力差別主義的再編の一環として、まさにその要として位置づけ得るものであろう。

そしてこれは、初等中等教育における決定的な能力差別主義的再編としての54年度養護学校義務化」(「障害児」の普通学級からの締め出し、囲い込み)と軌を一にするものである。
人間をその知的能力(それも一面的な)によってのみ、資本の要請を基準としてその価値がはかられる「人材」としてのみ評価し、いっそう合理的に選別する体制を生み出す点において、両者は構造的に同じ性質の問題であり「養護学校義務化」を学校教育体系のいわば「下へ」向けての能力差別主義的再編とするならば、総合大学院新設は、いわば、「上へ」むけての能力差別主義的再編である。

本年2月、総合大学院構想は、移転と切り離して、既存大学院改革の一環として位置づける方向で軌道修正されたようであるが、これは、当面の移転予定地が一定困難になった今日、移転を待つことなく、大学院の充実-再編を行おうとする当局の意欲をあらわすものであり、事の本質は少しも変わるものではない。立川移転、総合大学院新設構想にあらわれた、大学院教育の充実(研究教育機関としての大学院体系の整備拡充)は日帝の要請を先取りするものであり、これを積極的に推進する東大百年祭は、東大の占める社会的位置に鑑みれば、教育の、さらには日本社会の一層の帝国主義的及び能力差別主義的再編に向けて象徴として機能せずにはおかないであろう。p9

〔Ⅱ〕研究:
この記念事業が、これまでの東大の「研究教育体制」が抱えてきた問題―研究及び研究の成果が惹き起こす様々な問題に対する社会的責任を問わない「研究のための研究」、研究のためなら公害企業との癒着もいとわない研究者を生み出す体制、労働者の犠牲を強いてまで優先される研究(臨職体制)―を一切不問に付し、むしろこうした研究(者)至上主義的な体制を一層強化する形で進みつつある立川移転、総合大学院新設構想の実現を促進するよう機能する点。
東大の「研究教育体制」の問題性を端的に規定すれば、それは研究(者)至上主義体制とでも呼びうる。(それは学内労働者に対しては支配秩序として存在する。)それは医学部における生体実験と医局講座制との関係に典型的に示されている。患者を実験材料としてのみ扱い、そのために死者をも出した、台(ウテナ)、白木らによる生体実験、ロボトミーを産み出したのは、学位認定者としての教授の独裁体制がしかれ、研究業績をあげなければ学位を認定されず、地位を上昇することができない医局講座制である。この医局講座制と対決する学生・医者の粘り強い戦いによって、生体実験、ロボトミーは社会的に告発され、一定その可能性はなくなったものの、こうした医学部の研究至上主義体制は、何ら自己批判されず、改められてはいない。

また研究のためには公害企業との癒着をいとわない例として、60年に、東大医学部の教授を中心に作られた「田宮委員会」が典型的である。チッソも加入している日本化学工業界から研究費をもらい、チッソ側の資料だけを参照して、熊本大学の出した有機水銀説は誤りといった類いの報告をする。これがいかに水俣病を蔓延させるのに与ったかは計り知れない。このほか、東大の教授が公害問題で(加害者側(企業、国側)に立った例は枚挙にいとまがない。が、被害者側に立った例は明治時代に一度あっただけである。
理工系学部、研究所への、企業からの委託研究は後を絶たず、それがかなり問題な研究であっても研究者はその責任をとろうとしない。研究ができるなら、研究費を出してくれるなら、喜んで委託に応ずる姿勢は今でも何ら変わるところがない。
また東大教授には、国の諸種の審査会等の委員(長)をしている者が多いが、彼等は(当然ながら)国側、企業側に有利な審査をして積極的に住民に敵対する。現在的には工学部教授の内田秀雄はその典型である。彼は原子炉安全審査会会長として、全くでたらめな安全審査を行い、また企業にべったりな姿勢を露骨に示しているのである。その実態は、愛媛県伊方町住民の伊方原発行政訴訟によって満天下に明らかにされている。
このような東大教授の姿は彼らが常に研究費を出してくれる側につく傾向の行きついた果てにあるものであろう(このことは東大には「企業寄りの学者が多い」という断片的な現象として捉えるべきではなく、「研究」という相対的独自性のもとに国家権力の体制にがっちり組み込まれた「研究体制」の構造から必然的に生産されてくることを知る必要がある)。

自己の専門分野に埋没し、研究者利害を守るのに汲々としてきた研究者の行き着いた先が、公害被害者に敵対して疚しさを感じない心性であり、告発に対して居直るその見にくい姿なのだ。われわれはここにもその研究至上主義体制によって形成された東大の研究者の姿を見るのである。
そしてその研究至上主義は、学内の労働者との関係においては臨職問題として現れる。それは総定員法の下、国家公務員合理化政策という日帝の攻撃と、また、他方学内において研究者が自らの研究に専念し、研究業績を上げるために、劣悪な待遇、雇用条件を顧みることなく臨職を雇うという言った研究者専制の支配秩序=研究至上主義体制に起因している。
そして数次にわたる定員削減の中でも教官数は増え続け、非研究職の労働者にその負担がすべてしわ寄せされ、臨職体制は固定化されてきたのである。ここに貫徹されているのは、常に研究者の利害を第一に考える研究(者)至上主義である(それは臨職闘争の中で応微研所長が吐いた「教官ポストは人類に対して責任を果たすためのものであるから、教官空きポストの流用による定員化はできない」といった言葉に端的に示されている)。

そして、こうした不当な差別に抗して闘われた臨職闘争に対しては警察力による弾圧(5・25及び5・24弾圧など)をもって臨んできたのが、総長であり、部局教授会なのだ。現在においても東大全学で600余名の臨職が存在するのだが、今また新たな形での攻撃がかけられている。それは、昨年三次にわたって行われた、臨職に対する学内試験であり、従来、部局ごとの協議採用によって定員化していた臨職を、年齢制限・男女差別を設けるなどした上で時計台本部が一括して筆記試験で選別するものである。これは移転に向けた先取り的な、職員管理の強化=中央集権化であり、移転の条件づくりであることを我々ははっきりと銘記しておく必要があるだろう。
演習林においても、政府の国内林業切り捨て、外材依存政策に基づく、現業部門切り捨ての策動が進行し、労働者に対する露骨な首切り賃下げ攻撃が行われている。これに対し、移転に際して統廃合される可能性のある林学・林産学科の教官は、移転後もなんとか研究者としての地位・教官ポストを確保しようと、当局と一体となって労働者に敵対している。
このように研究至上主義の生み出す矛盾がうっ積し、労働者の待遇破壊がおこなわれているとき、こうした矛盾を一切省みることなく、東大百年を祝おうとする百年祭とは一体何なのか。賃下げ攻撃にあえぐ労働者の眼には一体どのように映るであろうか。

その抑圧的性格は計り知れないものがあるが、それにとどまらず、百年祭はその移転機能によって、そうした抑圧を実体的にもはたすことになるのは必至である。もし移転が成就するとすれば、教官ポストの増加、研究費の増大、新たな研究分野の開拓を願う研究者の利害と、知識集約型産業構造への転換の要請に見合った研究と人材を必要とする政府・産業界の利害が一致したときであるが、筑波を見れば明らかなごとく、労働者管理の強化は政府側の第一の要求となるだろう。そして移転の必要性が「国際的水準を維持し得る」研究、研究教育設備の充実という観点からのみ言われている現状を見れば、移転が東大の研究至上主義体制を拡大・強化・再生産することになるのは必定である。
われわれはこうした移転には断固反対するし、移転実現へむけての業績宣伝の場として確実に機能する百年記念事業は最大限粉砕していく必要があると考える。

〔Ⅲ〕:
東大の意思決定機構、管理機構の問題           p11
この記念事業が東大の公的事業であり、東大のこれまでの、そして現在の在り方をどのように評価するのか、どのような評価の上に立ってなされる、どのような行事であるのかという基本的な問題に関する、全学的な討論をぬきにしては、実行に移しえない性質のものであるにもかかわらず、全学の学生、労働者の声に一切耳を傾けることなく、また教授会においてすらほとんど議論されることなく、総長室-評議会といった学内中枢によって一方的に決定され、推進されつつあるという点。
この記念事業のすすめられ方そのものが、東大闘争以降の東大の意思決定機構、管理機構の在り方を如実に語っている。即ち総長室(中央集権)体制の問題である。これは東大闘争のさなか、「紛争収拾」のためになされた、総長への権限の集中、総長室独裁の体制が、その後、既成事実化され日常化されたものであり、従来の学部教授会自治をほぼ形骸化し、実質的権力を総長に集中してゆくという、新たな管理体制である。これによって実質的に評議会は、総長室で決定された事項の事後承認機関となった。
そしてこれは、教官が大学の管理・運営問題に煩わされることなく、個々の専門分野の研究に没頭=埋没しうるような学内管理体制であり、その意味で研究至上主義体制を支える管理体制であるともいえる。記念事業にしろ、移転計画・総合大学院新設計画にしろ、大学の最も重要な意思決定は総長室(及びその取り巻き)によって実質的行われ、評議会で了承されて正式に決定され、各部局教授会で報告・了承される、という形で進められている。百年記念事業に関しても、大学の公的行事であるにも関わらず、学生・院生・労働者の声は一切無視してすすめられているのが現状である。
75年12月の東院協(東大院生協議会)の総長交渉においても、林前総長は「大学院学生の合意がなければ実施できない性格のものではない」とはっきり言っている。このように公的行事を学生・労働者を無視して遂行している点からだけでも、百年記念事業は粉砕の対象であろう。即ち、これを黙って見過ごすことは、現在の東大の意思決定機構そのものを認めてしまうことになるからである。もしこうした形で決定・推進されている百年記念事業が成功したとしたら、それは学内管理体制=総長室体制の確立宣言として、学内「正常化」の確立宣言として、移転推進に大きな意味を持つことになるであろう。事実77年4月12日の百年記念式典は当初そのような意味を付与され、あの安田講堂で盛大に挙行されようとしていたのである。

◆百億円募金」の問題点
百年記念事業の中でも現在的に問題となるのは百億円募金、とりわけ企業募金である。まず百億という募金としての巨額の数字が出てくるのは、それ自体特権根性のあらわれであろうが、東大教官の大企業に対する信頼のあらわれでもある。
東大は人材面でも研究面でもそれなりに企業に貢献してきたのだから、これぐらい出してもおかしくない、企業はこれぐらい出してくれるはずだ、という読みがあらかじめあったのだろう。当初個人募金と法人募金の割合を5対5にしていたのを、昨年11月3対7に変更したが、これは茶番であり、はじめから法人からの募金に圧倒的な比重を置いていたに違いない。
今回の募金は東大始まって以来、形としては後援会を通してであれ、はじめて企業から直接募金を募るというものであり、そうでなくても、大企業と密着して行われている研究・教育が、さらにその接合点を増す方向で作用することは必定である。

後援会には水野重雄、桜田武、稲山嘉寛ら財界の重鎮が副会長として顔をそろえ、経団連の花村副会長を窓口として募金活動を行うことになっている。また、日本で反対運動にあい、建設できなくなった焼結炉(製鉄工程で最大の公害源)をフィリピンのミンダナオ島にもっていき、住民を強制移住させて、アジア最大規模で建設するなど、公害輸出を積極的におし進めている川崎製鉄の藤本社長は後援会の常任理事になっているが、こうした公害や労災職業病を出してもなおかつ居直っているような企業からも募金を仰ぐこと、出してくれるところからはどこからでももらうというのが、東大当局ー後援会の方針である。

もちろん、企業が東大に募金するにあたって、企業内の労働者の合意がとりつけられているわけではない。不況の中で首切りが行われ、昇給が大幅にダウンとなっている今日、東大への募金など労働者の憤激をかうだけであろう。こうした不況の中で企業が東大に募金するとしたら、それは財界の東大の研究・人材養成に寄せる期待がいかに大きいかを示すものであり、百年祭成功の意義(移転の推進)についての相互了解の深さを証拠立てるものである。
もらう側、東大当局にしてみれば、百億円は、記念建造物等を作ることにより、移転反対派の大衆的登場をあらかじめ封ずるアメとして機能させ、研究奨励金によって何としても研究費のほしい教官・研究者の研究至上主義的意識を刺激し、移転に向けての全学一致体制を作っていこうというものである。個々の(とくに理工系の)研究者にしてみれば、全く即自的な利害―とにかく研究費が足りない、研究費が欲しい、という意識で募金に賛成しているのだし、それ以上でも以下でもない。またこれこそ、政府、財界、東大当局にととっては最も好ましい意識傾向なのである。

さらに募金の問題点としてあげなければならないのは、募金推進の体制である。学内の募金関係機関は募金連絡推進委員会である。この委員長となっているのが大石泰彦経済学部教授である。彼は原理研の顧問であり、昨年末問題となった「東大成進学寮」(原理研のオルグ寮)の顧問でもあったのだ。学内きっての反動ボス教官として知られた人物である。文学部全募金委員である早島氏によっても、募金委員会での彼の独裁ぶりは批判の対象とされている。(早島氏の辞任の理由にも明確に示されている。)
大石委員長は総長と一体となって、文学部(9月)、医学部(10月)からだされた募金委員辞任をもみ消し、11月の募金委員会名簿には、文学部、医学部の委員も名前を連ねているようにし、何とか募金に全学一致体制を取り繕い、法人募金開拓が全学一致で決定されたかのようにしたのである。
これは募金の全学一致体制を基礎にして、移転に向けた全学一致体制を確立しようとする総長室の必死のあがきであり、われわれはこのような、姑息な手段に訴えてまで企業募金を強行しようとする総長室―大石募金委員長を断固糾弾するとともに、こうした総長室と一体となって、10.26文学部長「募金非協力」声明圧殺の挙に出た、文教授会の責任をあくまで追及し、文学部募金非協力体制の再構築、企業募金粉砕に向け、文学部長室坐り込み闘争を中軸とする、大衆的な運動を展開していくつもりである。
すべてのみなさんが文学部長室に結集され、各学科での運動を展開されるよう訴えます。
(補記)研究奨励金の配分権の問題
百億円のうち40億円は学術奨励金となるが、この使い方、配分の問題については一切明らかにされていない。一応「民主・自主・公開」という原則だけは唱えているものの、その具体的対策はなんらだされておらず、全くの空文句になっている。使い方・配分方法について一切明らかにすることなく、ともかくもらうものだけはもらいましょうという姿勢自体問題であるが、その大部分が理工系の研究、とりわけ学際領域の研究にまわるであろうことはよそうされる。
そこで一番問題になるのは、配分権の問題である。今の百年記念事業のすすめ方から言っても、配分権を総長室周辺が握るのは必定である。研究費はのどから手が出るほどほしい理工系を中心とする研究者たちは奨励金の周りに群がるであろうし、この研究者意識につけこんで総長室は研究者を自らの掌中にとりこみ、管理支配を強化しして行こうというのだ。とってつけたような「民主・自主・公開」の原則と称するものの実態はおして知るべしというものだ。

5.東大再編と臨職問題        p12
(1)臨職とは何か
まず、これまでたびたび言及してきた臨職とはいかなるものかを述べて置く。東大の臨職とは、その「正式」名称が常勤的非常勤職員と呼ばれている通り、日々、定員と同等の仕事を行い、東大の研究機能にとって必要不可欠な要員でありながらも、雇用形態はあくまでも日々雇用で、年度末の3月31日には解雇されるという、きわめて不安定な地位にある職員のことである。給与等についても、同等の労働をしている定員に比べ、差別的な待遇を受けている。詳しくは表を参照。
特に臨職闘争が起こらなかった理学部における差別待遇は、賞与なし、等ひどいの一言につきる。が、たとえ、闘争が起こり、一定の待遇改善がかちとられた病院・農学部においても、定員と比較して極めて差別的であるという根本的矛盾に変わりはない。

《 正規の職員と部局の臨職の待遇の比較表 》 (2)臨職問題は何故に存在するのか。
東大には現在600名以上(最高時には1000名以上)もの臨時職員がはたらいている。彼等は定員と同等の仕事を行い、東大の研究機能にとって不可欠な存在なのである。それにもかかわらず、彼等に対する待遇は極めて差別的であり、雇用責任を有する東大当局は何ら責任ある対応をしていないというのが現状である。

では何故に多数の臨職の存在という矛盾が起こったのか。その矛盾の第一の所在は国家公務員総定員法の制定(69年)にある。これは国家公務員の総数(治安面に必要な警察・自衛隊等の特別公務員を除く)の上限を506,571人と定めたもので、そして臨職とはその総定員法の枠外で雇われた職員のことである。この総定員法は国家公務員への合理化政策としてあるわけだが、その具体的な狙いは、(一)各行政官庁の「行政改革」による再編合理化、(二)財政硬直化キャンペーンによるところの公務員給与減らし、(三)戦後労働運動史上、最先端で闘ってきた官公労働者への配転・解雇・管理強化攻撃の三点にある。臨職体制のそもそもの矛盾が、日帝が官公労働者へ加えてきた階級的な攻撃にあるという点を見極めておく必要がある。

では何故東大において多数の臨職を生み出し激烈な矛盾を露呈しているのか?それは個別東大において存在する「研究至上主義」と呼ぶべき研究者専制の学内支配秩序にある。
そもそも東大においては、研究者=精神労働者と職員=肉体労働者の分業体制の貫徹、そして前者による後者の収奪という矛盾が浮き彫りにされていると言える。研究者は自分の研究を拡大再生産するため(この秩序の中では研究業績によってその地位が決定される)、職員=肉体労働者に対しあらゆる形での抑圧を強いている。
臨職とは、前述のとおり、定員外の職員である故、その賃金は講座の研究費等からだされている。研究者たちは自分たちの業績をあげることしか眼中になく、新しい実験器械を購入することはしても、臨職に対する待遇改善をおこなおうとはしない。時には研究が終ったからと言って、即、解雇ということすら行う。また独占資本の要請に応ずるべく講座の増設、新設を行う場合にも、職員ポストを吸い上げて研究者にあて、臨職体制の矛盾を拡大して省みない。

この支配秩序の中で研究者は職員=肉体労働者の労働(具体的に、たとえば、データ測定、微生物の菌種保存)の総和を個人の研究業績として収奪しているのである。このように、研究者が自分の研究の拡大再生産にのみ埋没し労働者の不当な雇用を顧みないばかりか、多大な抑圧を強いている、この支配秩序を研究至上主義体制と呼ぶのである。
ゆえに臨職体制が存在する矛盾の第二の所在は、研究至上主義体制という東大学内秩序にあり、ひいては東大で行われている研究のありかたそのものにあると言える。
したがって臨職闘争の闘いの方向は一定明らかになったであろう。つまり国家公務員総定員法という日帝の階級的な攻撃に対決し、かつ、学内の研究至上主義体制そのものを粉砕してゆく闘いの方向である。

(3)これまでの臨職闘争と現在の動向
a. これまでの経過
全学臨職闘争とは70年8月地震研の石川氏が直接の雇用責任者である宮村教授に定員化を要求して立ち上がったことに端を発する。しかし、某「前衛」党の党員である宮村は、身体障がい者である石川氏に対しありとあらゆる愚弄の言葉を吐き、その上、空手2段の腕前で、彼に傷害を負わせたのである。そして臨職定員化要求の闘いは、応微研・農学部をはじめとする労働者、そして学生による全学臨職闘争として発展していった。
この闘争の過程で、71年5月25日、臨職闘争を闘う3名の労働者、学生に対し、応微研教授会は刑事事件をデッチ上げ、逮捕→起訴→(職員2名に対し)休職処分→解雇(職員の1名)という攻撃を加えた。
この攻撃は臨職体制そのものが不当であり、それに対する原則的な闘争に対する政治的にかけられた闘争潰し、見せしめ弾圧であるということから、二重の意味で許しがたいものである。しかしながら、この職員にかけられた解雇・休職処分撤回要求に対し、総長室は一切の話し合いを拒否し続けたのである。

74年5月24日、話合い要求という正当な要求をもって職員5名が総長室に坐り込むが、これに対しても、林前総長は「逮捕されても良い」という判断のもとに、直ちに機動隊を導入し坐り込んだ職員5名を全員逮捕させた(5.24弾圧)。そしてさらに起訴→一審有罪(76年7月)→解雇攻撃として攻撃が続けられている。
しかし、これに対して、昨77年7月、2回の総長団交がかちとられ、高裁に対する(向坊)総長からの5.24被告の無罪上申提出という、一定の成果がかちとられた。われわれも、この総長団交において労働者とともに交渉団の一翼を担ってたたかってきたことを付け加えておきたい。

b. 総長室弾圧体制
臨職闘争に対して度重なる弾圧がくわえられてきたことは、これまで述べたとおりである。臨職闘争が学内においては研究至上主義という支配秩序と真っ向から対決する闘いであるがゆえに当局は弾圧を行ってきたのである。
そして、これらの弾圧をやり切ってきたのが総長室弾圧体制である。これは東大闘争の過程で加藤一郎が総長代行になることと引き換えに「総長の非常大権」を要求し、それが後に既成事実として定着していった「制度」である。この制度の下では総長は、特別補佐等学内のボス教官との相談は別として、まったくの専決事項=非常大権として、「退去命令」、「機動隊導入要請」、「職員懲戒」等ができるのである。(評議会では事後了承のみ。)
そしてこの専制的な弾圧制度に保障されて、5.25や5.24の弾圧が行われたのであるが、その意図として国公法欠格条項(禁固以上の刑に処せられた場合、職員の身分をはく奪する)を盾にして、闘う学内労働者にくわえられた、みせしめ闘争潰しであったということも、はっきり確認しておく必要がある。
またこういった露骨な弾圧に限らず、日常的にも、本富士警察署夜間パトロール、時計台ゲバルト職員養成(われわれは2月、彼等の攻撃によって鼻骨骨折等の傷害を負った)、活動家の学内立ち入り禁止処分、等々といった弾圧が加えられている。

現在の向坊総長は、昨年5.24弾圧をめぐる団交において、われわれの追求の前に、一定の責任を表明している。しかしながら、彼が原子力発電の御用学者―財界・政界の顔役―立川移転の推進派であるということは一体何を意味しているのか?彼が東大の百年記念→立川移転という再編をなし切るという歴史的任務を負って登場していることは明らかではないか!それならば、いっそうのこと彼はその歴史的任務をやりきるためにありとあらゆる手段を尽くし、闘争に対する攻撃を加えてくるであろう。
百億円募金阻止に向け非和解的に闘ってきたわれわれの坐り込み闘争に対し彼は機動隊導入弾圧をはっきりなしきってきたではないか。自称「話し合い路線」の向坊体制が、加藤、そして弾圧のチャンピオン林の路線と本質的にはなんら代わりのないものであることは明々白々である。
そして総長の「非常大権」と表裏一体のものとして、学内労働者に対する管理権が、従来の部局から時計台文部官僚に中央集権化されているということも付け加えておく。

c. 日共-東職の敵対
臨職闘争が激烈に闘われてきた中、一貫して日共-東職(東大教職員組合)は当局の補完物となり、敵対を繰り返してきた。
あの70年8月定員化要求をした臨職石川氏に暴行をふるった宮村教授こそ、何を隠そう、日共党員、初代東職委員長であったのだが、『赤旗』は「宮村教授も政府の少ない文教予算に苦しむ一大学人として被害者だ」という論評を行い、東職も追随した。
そもそも東職とは、助教授クラスが執行部を握る研究者と労働者を統合した組合である。ゆえに、現在学内で起こっている研究者と労働者の矛盾には目を向けず、政府の劣悪な文教予算に問題があると唱えるのみである。(この問題は、そもそも、日共の反人民的科学論、科学者論、大学論からくるものであるが、それについては別の機会に譲ることにする。)

4)立川移転に向けた移転再編の先取りとしての現在的に進行している労働者への再編合理化攻撃
東大の立川移転-再編は「単に2DKが狭くなったので3DKへ引っ越すというような単純なものではない」(学内広報No.362、近藤前工学部長)と当局が言う通り、単なる研究機構の拡大ではなく、危機に瀕した日帝の産業構造の転換を先取りする方向で、より独占資本の要請に応ずる部局は拡大し、逆に切り捨てるべき部局のスクラップ化、また学際領域開発として打ち出されている「新しい学問分野」の開発等、ドラスティックな再編として行われる。そしてそれには、当然職員に対する配転等の職員の整理が伴うのである。この「職員の整理」は立川移転に向けた再編の先取りとして現在的に開始されている。
その攻撃の第一番目のものとして、学内臨時労働者に対して、露骨な形での「整理」が進行している。
昨年7月東大当局は、学内臨時労働者に対して定員化に際する学内試験というものを行った。しかしこの学内試験は、28歳以下の男子にのみ受験資格を限ったこと、試験に合格して定員化される場合も多くは待遇ダウン、配転を伴うこと、そして現に労働している臨職に対してさらに試験を行い、能力を判定するという労働者にとって屈辱的な試験である等、学内労働者に対する差別・分断をもたらすものであった。
そしてとりわけ立川再編という動向の中で、定員化に際して、中央集権的な配転を伴う攻撃(従来、部局ごとでポストが空いて定員化される場合、このようなことはなかった)がかけられてくることが、この試験の本質が前述したところの「職員整理」であることを物語っている。

この学内試験に反対し、臨職への学内試験阻止連絡会議が臨職を中心に結成された。しかし、向坊総長は団交の場で居直りを続け、第二回、第三回の試験を強行した。ここにも向坊の本質見たり!であるが、この学内試験の導入と強行は、時計台の文部官僚を中心として行われていることを考える必要がある。それは何を意味するか?移転・再編に向けて、職員管理の中央集権化が行われ、そしてその攻撃の歯車はすでに回り始めたのだということをわれわれははっきりと確認しなければならない。
立川移転-再編に向けた部局のスクラップ&ビルドの大きなあらわれとして、演習林労働者(臨時労働者)に対する首切り・賃下げ攻撃が開始されている。これは国内林業切り捨てという日帝の方針を背景としつつ、時計台直結の浅野林長による強権的な再編合理化=演習林スクラップ&ビルド化攻撃としてかけられている。
また東大病院においても、事務系にコンピューターが導入され、合理化が進められている。

総じて言うなら、臨時職員に対する再編に向けた「整理」は、中央集権的にすでに開始されており、一般職員に対しても、日常的な業務量の増大や退職後の空きポストの不補充、当局にとって好ましからざる職員に対する退職・配転強行といった攻撃が加えられている。そして更に矛盾が露呈しやすい臨職の雇用を減らす代わりに、より劣悪な条件を強いられるパートや外注の労働者を、当局は積極的に導入していることも忘れてはならない。定員外労働者をさらに分断し、そして移転する場合等には、安易な切り捨てが可能であると、当局は目論んでいるからである。 以上のとおり、立川移転再編を先取りした労働者への攻撃はますます激化されているのである。

第2章 文学部における百年祭糾弾闘争の経過

(pⅡ-1 ~Ⅱ-16)

文学部における闘争は大別すると5つの時期に区分できる。それは
(1)76年7月~77年2月16日(百年祭糾弾全学実結成)
(2)77.2.16~4月12日(4.12式典粉砕)
(3)4.12~10月26日(募金に反対する文学部生400署名の力で山本学部長が文学部の募金協力拒否声明を出した日)
(4)10.26~78年1月19、23両日における柴田学部長代理との団交(この団交の中で10.26確認の圧殺策動が学生の前で明らかになった。)
(5)1月27日(学部長室座り込み闘争開始)~3.3弾圧と今道の登場

  はじめに概括 

約2年にわたる文学部の百年祭糾弾闘争は即自的な異議申し立て運動として開始され、百年祭糾弾全学実(以下全学実)の結成により、全学の労働者・学生の連帯を深め、「百年祭」を具体的に阻止・粉砕し、移転再編に抗する闘いへと前進してきた。
全学300余名の実力デモで4.12式典を粉砕したのち、われわれは77年4月以降11回にわたる公開交渉を山本学部長・早島募金委員と行い、その過程で、早島辞任、学部としての募金推進活動の凍結、募金推進委員会への文学部事務員の派遣の中止、等々を克ちとってきた。
また9月下旬より「百億円募金中止に向けて文学部当局の募金協力全面中止を要求する署名」を開始し、400という圧倒的結果を達成して、10月26日にこれを山本学部長に突き付け、10・26学部長確認『募金にはいろいろ問題があり、400の署名を尊重して、募金には協力しない』が大衆的にかちとられたのであった。

この文学部の募金協力拒否声明は、個人募金の低迷を受け、企業募金への衝動を強くする総長の敵視するところとなり、総長は再度「全学一致体制」を取り繕い、78年春より企業募金を開始するべく、陰湿で系統的な10.26確認の圧殺策動を行うのである。文教授会はこの総長室の策動に屈し、従来の無責任な「記念」との関係に更に無責任を上塗りし、77年12月14日「10.26確認は私的個人的なものであった」と教授会で了承するのであった。

78年1月23日の柴田学部長代理との団交の中でこの策動を明確に知った我々は、試験ー春休み―山本の任期切れによって、なし崩し的に確認の圧殺を完成せんとする総長室ー文当局の狙いを、怒りを込めて糾弾し1月27日より断乎たる決意で座り込みを開始した。向坊-文当局はこれに対し何が何でも「全学一致体制」の体裁をとりつくろい、企業募金強行を目指して、200余名の完全機動隊による〔入試を口実にした〕3.3弾圧を加えてきたのである。ここに今回の「百年祭」が国家権力の庇護の下になされるその本質が満天下にさらけ出された。

しかし、弾圧は闘いの思想を打ち鍛えるに過ぎない。弾圧に屈することなく、我々は400署名ー10.26確認貫徹・企業募金阻止に向け、今日にいたるまで坐り込み実力闘争を闘い抜いている。即自的な疑問からの異議申し立ての運動は、次第に労働者との連帯を深化させつつ、今や実力闘争をもって企業募金を阻止し東大の帝国主義的移転ー再編に抗する闘いへと前進しつつある。

すべての進学生の諸君!われわれは、このように闘ってきた。この坐り込み闘争の地平から、我々は諸君を熱い連帯のアピールで迎え入れたい。同時に3.3弾圧への怒りの頂点から諸君に強い連帯を呼びかけたい!

以下5つの時期に沿って闘争過程を書く。

 (1)東大百年を告発し糾弾するシンポジウム運動(76年7月~77年2月16日)   


この時期、東大の百年は果たして祝わるべき歴史だったのか、をテーマとして、東大の歴史とは何か、現今、公教育体制の矛盾、日本社会の差別構造、東大闘争、日韓関係と東大の歴史、等々のシンポジウムが精力的に展開された。76年7月生越忠、10月五十嵐良雄、11月折原浩(駒場にて)、高杉晋吾、「墨東から公害をなくす公民の会」、12月山川暁夫らを招いての討論会がそれらである。
かくて76年12月には文学部・駒場の学生の連帯の力で、安田講堂前における百年祭糾弾テント闘争が闘われた。また10月22日より、10回にわたって安田前水曜集会が行われ、反「百年祭」闘争の呼びかけが全学になされた。pⅡ-2

(2)百年祭糾弾全学実の結成による労学の連帯と4・12式典実力粉砕デモ(77年2月16日~4月12日)

この時期は
1)  4.12式典実力阻止・粉砕を当面の目標として労学の固い連帯がかちとられた。(2.16全学実結成) 2)学生存在を起点とした闘争が、学内労働者の反合理化闘争(研究至上主義体制と表裏一体)と必然的に結合し、移転-再編合理化に抗する闘いへと課題を深化させ、(臨職闘争への連帯) 3)「百年祭」-「式典」を阻止・粉砕する実力闘争へと発展する過程であった。
今や一般的に「東大百年糾弾」が「記念」に対置されるだけでなく、今日、国公私立大学の移転-再編の要に位置する東大の再編(移転ー総合大学院新設)を射程に入れた現在的な学内再編・合理化との闘いが「記念」に対置されてきたのである。
問題提出の具体性は闘争の具体性となって現れる。全学の労学の団結は2.16全学実結成を100余名でなしきり、その直後、向坊総長に対し断固たる公開質問状の突き付けがなされ、「式典」粉砕に向けた宣戦布告がなされる。 また3月12日には、高等教育の再編をもくろむ財界・独占ブルジョアジーの象徴的存在である経団連と、「式典」を1か月後に控えた学士会館に200余名の実力デモが貫徹され、「式典粉砕・募金阻止」の陣形が強固に撃ち固められる。

3月31日、「臨職一斉解雇粉砕、全臨職即時定員化貫徹全学総決起集会」を闘い抜いた後、我々は、安田前テント闘争に突入し、4.12式典粉砕に向けた実力拠点をそこに構え、テントは連日の情宣、デモの中心と化していった。


2.16 百余名の結集で安田前、全学実結成集会、当局「式典」を神田学士会館へ逃亡さす。
3.12  学士会館―経団連デモ
3.3~3.8、3.9  入試情宣
3.31  臨職一斉解雇粉砕集会に結集、安田前テント闘争開始
4.3  向坊総長への公開質問状―時計台ゲバルト職員の妨害敵対
4.5  第1回対山本文学部長公開交渉
4.10  第2回対山本交渉「式典に疑義もあるので出席しない」と確認。
4.11  入学式介入アピール  4.12  全学300余名、神田学士会館逃亡「式典」実力粉砕デモを勝利的に貫徹。

<4.5 山本学部長との公開交渉が大衆的に獲得される>
学生・職員の反対意見を無視しての「式典」強行に対し文学部では圧倒的な「式典反対」の声が盛り上がる。しかし〔東大闘争以降〕日共=民青が牛耳る〔自治会〕中央委と文学友会は「緊急総長交渉」の破産(総長に拒否される)を大衆に知らせることもせず、「式典」については、ただ、「内容をあらかじめ公表せよ」などと口先で語るのみであった。今やかれらの無方針は大衆の憤激の的となった。
かかる中、4月4日文学部の学生、院生は学部長に対し討論を申入れ、4月5日50余名の結集によって、対学部長公開交渉が断乎として闘い取られたのである。

反対運動の圧倒的高揚と、文学部生の大衆的立ちあがりの前に、学部長は公開交渉に応じざるをえなかったのだ。
当日、我々は以下の4項目をはっきりと学部長につきつけた。             pⅡ-3
1.「百年記念事業」全体の中止要求を東大当局に行え。
2.「記念式典」への出席を中止せよ。
3.「百億円募金」に対する文学部としての協力をやめよ。
4.「百年史編纂」に対する文学部としての協力をやめよ。

更に当日、我々は東大の現実の矛盾を示すものとして、74年5月24日の5名の職員による臨職問題及び応微研における職員の処分等についての話し合い要求に対する、総長室の弾圧と、その後応微研所長から総長室に5.24の弾圧で起訴された職員が有罪・解雇されないように働きかけがなされたが放置されている事実を指摘した。われわれはまた、東大闘争で最後まで問われた、67年に文学部生に対して行われた「矢内原三原則」に基づくという「教育的処分」についても、その問題性を指摘した。
これについて学部長は我々との継続的公開交渉に応ずることを約束するとともに、次のように確認した。

  4月5日公開交渉での確認 
1.百年祭については継続討論する。
2.(74年5月24日の5名の職員への弾圧については)応微研などからの総長への働きかけについては知らなかったが、まず、事実を調べ、総長になぜそれを放置しているのかを尋ね、理由がなければ裁判所への上申を行うよう、進言する。
3.矢内原三原則等学生処分に関する規則は早急に撤廃するよう文学部教授会で話し合いを行った後、評議会に提起する。

この大衆的な力による公開交渉の獲得と、継続的な討論の確約は、日共=民青による右翼=秩序派を巻き込んでのセクト的引き回し、闘争放棄を乗り越え、一人一人の怒りと疑問を当局者にはっきり突き付けるものであった。日共=民青の「記念」ー「式典」容認方針を大衆的な力で乗り越えたのち、4月10日第2回交渉が獲得された。

《 4・10交渉での学部長確認 》
この日、山本氏は「式典」の挙行には何一つ積極的主張を提出し得ず、「式典は知的に見てあまり上等ではない」とか「個人としては寝ころんでいたい」とか言いつつ、「学部長という職責上」「しきたり」で出席するのだと居直り続けたが、多くの学友の追及の前に、以下の確認を行うのである。
 4月10日公開交渉での確認 
1.4月12日の式典には、疑義もあるので出席しない。
2.67年の文処分については、学生側は問題点を指摘しており、それについて、継続的に学生・職員と話し合ってゆきたい。さしあたり一か月1回ていどで3時間とし、電話で前もって連絡することとする。
3.百年祭に関しての次回の話し合いを、4月いっぱいをめどに行う。その際、募金委員、百年史編纂委員に出席を要請する。
  以上 文学部長 山本 信

なお、このころ、ほかの学部においても、百年祭糾弾全学実に結集する労・学の力で大衆団交が行われ、医学部長、応用微生物研究所(応微研)所長の「式典」不参加が確認されていった。
また、4月10日、大学論自主講座による「反東大百年祭」が安田講堂前で行われ、全国から500余名の市民・学生・労働者が結集し、集会の後、神田学士会館まで、圧倒的なデモを貫徹した。我々ははっきりとこれに連帯し、また1月以来の反百年祭講座(折原浩、宇井純、高橋晄正、生越忠)にも積極的に参加していった。

《 駒場「東大百年を告発する会」とともに4.11入学式介入アピール 》
4.11入学式は「式典」―募金を前にして、その欺瞞的「全学一致体制」=「挙学一致体制」を打ち固めるための新入生オルグの場としてあった。彼ら当局者は相次ぐ「式辞」の中で「百年祭」の本質を隠蔽し、新入生に百年祭イデオロギー吹き込もうとしたのである。
我々は全学の人びとと力を合わせて入学式介入闘争を展開し、当局によるオルグ儀式を粉砕し、百年祭と移転の本質をすべての新入生に問題提起したのである。

《全学300の力で4・12式典粉砕デモを貫徹》
76年12月まで林(前)総長は「式典を千名規模とし、学内で行なう」と息巻いていた。しかし、全学的な百年祭糾弾闘争の高揚と、全学実結成への結集に恐れをなした当局は、2月中旬に「式典」を三百規模に縮小し、学外神田学士会館へと”逃亡”させてゆくのであった。彼らは、市民法・警察力の庇護の下に型通りに「式典」をなし切らんとしたのである。

《ちょっとコラム   新学部長今道氏のお言葉より》
我々は正義贈与を介しての正義の実現と不正を犯した人の精神を癒すためにむしろ進んでその犯人を告訴しなければならない。応報の理念ではなく、むしろ教育的処分の理念によって告訴に励まなければならない。---その処分が気に入らないからと言って処分を受けた人やその朋輩が騒ぎ立てても、それはさわぐ方が悪いのであって〔ナンデヤ?〕本当はその騒ぎたてた方がまた処分の対象になるであろう。御名御璽(?)
「告訴の倫理性と処分撤回の非合理性について」より

当初より我々が指摘していた「式典」の持つ政治的イデオロギー的機能は大略以下のとおりである。pⅡ-4
1) 東大闘争への弾圧とその後の70年代臨職闘争への一連の弾圧、逮捕による「学内収拾・正常化」の完了宣言を学内外に発し、
2) もって「正常化」の業績を引っ提げて政財界・高級官僚らと一堂に会し、百億円達成と移転再編に向けた強固な意志一致を作り上げ、産学協同の既成事実を積み上げ、
3) 学内的には「式典」を皮切りに百年祭イデオロギーを煽り立て、その欺瞞的「全学一致体制」の確立を目指し、学生・職員を「東大ナショナリズム」「大学共同体幻想」の中に包摂し、学内諸矛盾の存在を隠ぺいし、
4) そのうえで国民に対し「日本の学術文化の発展と人材育成に貢献した百年」とその「業績」を大きく謳いあげ、東大の再編とそれを要とする教育体制全体の再編に向けたイデオロギー的国民統合を大きく狙おうとするものであった。

かくて「式典」が当局-政財界一致による移転-再編への出発宣言(これは3月下旬逸見見広報委員長が「朝日」紙上に明言していた)である以上、阻止・粉砕の対象以外ではありえなかった。日共=民青のごとく「式典」は東大の歴史の一方的賛美にならないように、といった要求は、事の本質を捉えられない、彼らの論理性の欠如を物語っている。

4.12当日、安田前を出発した全学300余の労学は、500名機動隊の弾圧のさなか、果敢にジグザグデモを貫徹し、「式典」会場前に断乎として座り込み、現場を我々の力によって制圧し、「式典」を完全に混乱に陥れた。千名から300名に縮小された「式典」は、参加者180名というみじめな数に激減し、その実体は完膚なきまでに粉砕されたのであった。一方当局は国家権力に庇護された「式典」-「記念」の本質を公然化させたのであった。
「式典」は日共=民青諸君の”要求”に反して、一方的な東大百年の賛美に終始し、参加者も政府自民党、高級官僚がほとんどであったことは遍く知られているところである。
粉砕デモを勝利的に貫徹し、安田前に帰還した我々は、募金阻止への固い決意を確認し、当日、「式典」に抗議せず、アリバイ的なシンポジウムを挙行し、全都動員の党派宣伝を行っていた日共-民青に対する糾弾が確認された。

  (3)11回の公開交渉の中から文学部学生400の募金反対署名が達成され、10.26学部長確認が克ち取られる

すでに4月5日と10日の公開交渉で山本学部長は次の諸点を認めていた。
これまで東大は研究-教育の立場からのみ、大学を考えてきており、そのため労働者に対して不当な差別を行ってき、臨職定員化要求闘争に対して弾圧を行ってきたこと、
74年5月24日の5名の職員の逮捕について、学部長も評議員の一員として当然総長のやり方を批判すべきであったにもかかわらずこれを放置してきたこと、等への反省を示していた。
また「立川移転・総合大学院新設には、臨職の切り捨ての危険、研究至上主義的な大学の在り方の、一層の強化の危険があり、安易に事を運ぶべきではない」と、この言葉通りに山本学部長は認めていた。

 《 日共=民青の姑息な敵対策動始まる 》
4月25日、日共系学友会正副委員長は、学友会委員会の了解もなしに山本学部長と密謀し、我々を「暴力的で反社会的集団」と決めつけ「氏名がわかれば処分せよ」などと進言し、あろうことか、警察力の導入までも示唆したのだ。さすがに山本氏は「あなたもすごいことを言いますね」とこれをたしなめている。
正副委員長がその名を用いて学部長との交渉を持つには学友会委員会の討論が必要であり、彼らはそのルール(お得意の民主的手続き)に違反して「質問状」を山本氏に提出。山本氏はこれに「確認書」なるものをもって答え、日共の尻馬に乗って、我々との討論から逃亡しようとしたのである。

 《 4月27日第3回交渉、山本学部長、民青の尻馬に乗った不当な「要求」を撤回 》       pⅡ-5
この日5.24問題でも、処分規則の問題でも、何ら具体的な調査活動を行っていないことが判明し、学生の怒りを買った。また、早島募金委員、尾藤編集委員の出席も約束していたが、それも十分に行わず、再度出席を要請することが確認された。

一方、山本学部長は、4月25日の日共=民青との密会に基づく、1)ビラ・立て看に「交渉」という語を用いるな!2)交渉相手は学部の人だけで所属氏名を名乗ること! 3)時間は3時間! なる「要求」を出してきた。
1)、2)については全学的な要求をもっての交渉であり、名称は我々の自由である。所属指名を名乗れというのは予防弾圧的なものであり、今後信頼関係ができれば名乗るようになる、との反論を認めて、山本学部長自らが撤回した。3)については、時間内に討論がまとまるよう山本氏が十分調査し、準備してくることが要請され、これは相互に了解された。

  《 5月18日 第4回交渉 》
  すでに、第一回、第二回交渉で処分規則等、学生の自治活動を阻害・規制するもの、つまり諸規則の早期撤廃に向けて、学部長が評議会に検討委員会設置を提起することを確認してきたが、この日、山本氏は、検討委員会設置を評議会ではなく学部長会議に提起したこと、その席で、向坊総長自ら、学生委員会を通じて行うように言われたことを明らかにし、討論の末、次のことを確認した。

「文学部長は、撤廃すべき条項を文学部学生、院生有志と討論したうえで、意見が一致したら、その方向で検討するよう総長に要望する。」

また、5.24弾圧については、総長に会い、総長から「この問題については直接本人(弾圧された職員ら)と会ってから考える」と言われた旨報告し、以下の確認を行った。

  5月18日 第4回交渉での確認 
「74年5月24日以前に、総長(林)は応微研の解雇休職処分について、職員との話し合いに応じるよう努力すべきであった。5月24日当日も機動隊を導入するのでなく、話し合いに応じて問題を解決するよう努力すべきであった。以上文学部長 山本信」

また出席した早島募金委員を追及した結果、「法人募金については、ほとんど知らない。それは本部=事務局の仕事であろう」と無責任な姿勢をしめし、また公害企業などからの募金の是非を問われて「どういう企業から募金を受けるのか、ケジメをどこにつけるか、まだ考えていない。事務局でもまだ決めていないだろう」という。
他方、山本学部長は、企業募金一般の問題性を指摘するや、「企業がなければ、君たちも困るだろう」とその無責任、無反省ぶりを暴露した。

早島委員は「仏教でいうところの、喜捨をうけるようなもの」ととらえ、「よいことに使うのだから問題はない」と語り、多くの学生の失笑を買った。

これに対し我々は「募金=喜捨論」を反駁し、追及した結果、早島氏はついに事の重大性を理解するに至り、「法人募金について、検討しなおす必要がある」ことを認め、また委員を辞めるとしたら、ただ辞めるのでなく、募金の在り方について、委員会に堂々と問題点を指摘・提言し、それが容れられなかったら、そう(辞任)したい、と述べたのである。

《 6月1日第5回交渉 早島委員のみ出席 》
5月18日の討論を受けて、我々の主張を一定理解した早島氏は、この日、若干の討論ののち、以下のことを認めた。
1)これまでの活動が無責任であったことを反省する。
2)百億円募金に関して、使途に疑義がある。また、集め方について、少なくとも社会的に問題となっている企業(公害企業、その他)から集めることに反対である。(「ミソもクソもないような卑劣な真似はしない」)
3)以上を踏まえて、大石募金委員長に問い質し、委員長の返答如何によっては、募金委員としての活動を考え直す。

《6月8日 第6回公開交渉》               pⅡ-6
当局側、早島委員のみ出席
6.1確認に基づいて、早島氏は大石委員長と連絡をとり、次の回答を得たことを報告した。
1)使途については、募金の趣意書以上何もない。
2)出所については企業募金はまだ先のことであり、何も考えていない。そのような問題は茅後援会長のところへ持って行くように。

この大石の対応に、早島氏は、疑問や批判を提出するものは黙殺していく大石の独裁的なシステムに疑問を表し、次のことを確認、表明した。

「現在の募金委員会は自分の考えとは食い違うので、自分の意見を委員会で述べ、また委員会のありかたそのものを改革する必要がある。これまで募金委員としてかかわってきたが、募金の使い方(研究基金をどのような研究に使うか等も含めて)、募金のもらい先などに問題があるにもかかわらず放置してきた点は無責任であり、反省する。これまでの大学の在り方(企業との癒着等々)からして、企業募金一般についても疑義があるが、少なくとも社会的に問題になっているような(公害、医療被害など)企業からはもらうべきではない。」

しかし早島氏は「このような委員会の在り方では、改革は極めて困難だ」と自分の力量の問題を持ち出し、さらに健康上の問題も持ち出して、責任の取り方としては辞任するしかないという無責任な態度を示した。
また彼は「募金活動はともかく凍結する。(だが、健康上積極的な反対活動はできないので)文学部からの後継者は選ばず、文学部として協力しないよう、山本文学部長に働きかける。次回の交渉に出席して、働きかけの結果を彼自身の口から報告する」ことを約束した。

かくて、早島氏は、我々の主張の前に、単に「悪い企業」ばかりではなく、企業一般が問題であることを認めたのである。そもそも企業に「良い企業」「悪い企業」の線引きなどできようはずがない。チッソは水俣病が問題化されなければ「良い企業」だったのか?

《 6月15日 第7回交渉 文学部長、募金活動凍結を確認 》
早島氏の学部長への働きかけの報告から始められ、山本氏は「早島氏の考えは聞いたが、それは個人の意見として尊重する」または「しばらく事態を見守る」などの逃げ口上を述べたが、最終的には次の確認を行った。

 6月15日公開交渉確認 
「早島委員は募金(推進連絡)委員会の現在の募金方針、また委員会の在り方に疑問を持っている。学部長は、委員会は後援会の意を受けて募金推進活動だけを行うのではなく、基本方針などについて検討してゆくべき場であると考える。今後、募金の方針、委員会の在り方を含め、早島委員の考え方を受けて問題提起していく方向で、次の委員の選定に努める。それまでは募金推進活動は凍結する。」

また5.24弾圧について、5月18日の我々との間の「確認」を受け、5.24被告ら職員有志が総長に対して話し合い要求を行っている現在、総長の取るべき態度についての学部長の考えを質し、以下の確認を行った。

「総長は、74年5月24日の機動隊導入を反省し、職員・被告らと話し合い、高裁への無罪上申を含めて、被告が有罪失職とならないよう、努力すべきである。学部長はこのことを総長に進言する。
   以上  文学部長 山本信 」

《 6月29日第8回公開交渉 》
  当日の学部長の報告によれば、総長は「5.24問題で話し合いを行う」。「職員らの要求(臨職問題、5.24問題での反省、責任を踏まえた無罪上申)については話し合って考えを決めたい」と答えたという。学部長は「総長が被告の有利になる方向で努力することはまちがいないとの確信を得ている」と断言した。
次いで、学部長は「問題提起を行う募金委員は選出できなかった(なり手てがなかった)と報告した。これに対する責任追及に彼は以下の確認を行った。

 6月29日公開交渉での確認 
「公害、労働者への労災・職業病等を考えれば、企業の中には企業(資本)の論理だけで動いているものもあり、それは生産(利潤)を自己目的とし、人間労働者を手段としてのみ扱うものであって、問題がある。このような企業からは、募金を行うべきではない。ゆえに、無差別な企業募金はやるべきではない。文学部長は、向坊総長・大石募金委員長など然るべき筋に進言し、上の内容が実現されるべく努力を行ってゆく。
  文学部長 山本信 」

確かに我々は「資本の論理だけで動いていない」ような企業を知らない。しかし、学部長として、企業一般からの募金に向けて反対できない立場から、彼はかかる珍妙な論理の確認を行ったのであった。
実際、山本氏は交渉の中で完全に論理破綻し、募金を肯定するいかなる論理をも提出し得なかったのである。

《 9月19日 夏休み明け、第9回公開交渉 》                     pⅡ-7
6月確認の実質的遂行を期待した我々は、山本学部長の無策と確認骨抜き等の卑劣な居直りを目の当りにした。
この間の総長に対する働きかけの報告要求に対し、彼は「何一つ自分はやっていない」ことを認めざるを得なくなりつつも、「そういった(自分が積極的に働きかけるような)状況になかった」などと言い逃れようとした。彼は、総長に対し、また評議会などで、無差別募金の非を述べることもできたはずなのである。それら一切を行わず、無為に過ごしたばかりか、逆に募金委員会に文学部の事務員を派遣するなど、明らかな確認違反を行っていいたのである。
断乎たる追及の前に、彼は9月22日やり直し団交を承認せざるをえなかった。

《 9月22日 第10回公開交渉 》
9.19交渉であきらかになったこと、つまり、6.15、6.29確認に反して、早島氏が正式に辞任していなかった点と、事務員が派遣されていた点の追求の前に、学部長は以下の確認を行った。

 9月22日 第10回公開交渉での確認>
「 6月15日と6月29日の確認を踏まえて、早島募金委員の正式辞任を総長に、また病中にある早島氏の代わりに大石募金委員長に、届ける。また、募金委員会に事務の人を出席させないようにする。
   文学部長 山本信 」

6.29確認が3か月にもわたって空洞化され骨抜きにされてきた責任は、当然ながら学部長にあり、またその責任は重大であり、一片の確認さえもその遂行がなされるか否かは、我々の闘い抜きにはあり得ないことが明らかになった。
われわれはまた「いかにして無差別企業募金を止めさせるのか」と追及したが「総長に話してみる」と答えるのみであった。しかし、それまでの経過を見るならば、我々はこの言葉を当てにすることはできないのは明らかであろう。
それまで我々は「批判的募金委員の選出」と「無差別企業募金を止めさせるための学部長からの働きかけ」という積極的な問題提起の姿勢を評価し、これに期待をかけてきたのであったが、この二つがいずれも頓挫して、全く展望がないことがはっきりと示されたのである。今や文学部としてとるべき道は、消極的ではあるが、「募金活動には協力しない」ことしか残らないはずである。

われわれはこのままでは、山本学部長の「総長への働きかけ」の美名に惑わされ、一連の「確認」の一切が空洞化されてしまう危険をはっきりと感じ取ったのである。
かくしてわれわれは山本学部長に対し、明確に「文学部の募金非協力」を確認させるべく、募金反対署名への断乎とした取り組みを開始したのである。

《文学部生400の募金に反対する署名の達成とその力による10.26学部長確認の獲得》

文学部では一連の公開交渉の中で、反百年祭ー募金反対の世論が圧倒的に高まっていた。しかし日共=民青系学友会はそれを放置し、依然、何一つ反百年祭の闘いを闘おうとはしなかった。
10回に及ぶ学部長団交を推進してきた我々は、それを踏まえ、学生大衆の意見を明確に結集すべく、9月26日より、署名活動に入り、文学部アーケード、各教室、全研究室で、粘り強い活動を貫徹した。

「 百億円募金中止に向けて文学部当局の募金協力全面中止を要求する署名
  前文ー略ー
            文学部長殿
  1.文学部として百億円募金への協力を中止すること
 2.以上の旨、文学部長は全学に対して明確な声明を行うこと。
                    1977年9月26日         」

この間、日共=民青系学友会執行部、(院生の)人文会は一切黙殺したまま、何もしなかった。
署名は文学部生の圧倒的支持を獲得し、1か月足らずの間に、登校する学生の大半に及ぶ400に達した。
これはまさに山本学部長の確認骨抜きに対する抗議と、何よりも募金―企業募金を糾弾する文学生の意思の圧倒的な結集であり、学部長=当局に対する大衆的な闘いであった。
われわれはこの署名を学部長に突き付け「募金非協力」をかち取るべく50余名の結集でもって、10月26日、第11回公開交渉を貫徹したのである。

 《 10.26 第11回 公開交渉 》                      pⅡ-8
当日学部長は「(募金に反対する)理由がおかしければ、署名を認めなくてもよい」とか「学生の考えと私の考えとは異なる」とかの卑劣な遁辞を弄していたが、我々の追及にあうや、「署名は尊重する」と言い出し、「どのように尊重するのか」の問いに、「事実を事実として認めることです」などと観念論者たる本質をさらけ出していた。学部生の圧倒的反対署名を前にしても、彼はなんとか欺瞞的な遁辞で責任を回避せんとしたのである。

時間が必然的に長引くのは当たり前であった。日共=民青が騒ぎまくる“事実上の軟禁”も山本氏のかかる愚劣な対応の中で起きたのだ。しかし、忘れないでほしい。我々は交渉のさなか「署名を無視するのなら、今すぐこの場から出て行きなさい。」と繰り返していたのだ。山本氏はさすがに署名を無視しかねて、長時間居直り続けていたにすぎなかったのである。
日共=民青の総長交渉のように「ヒモ付き募金には反対です。」「否、ひも付きではありません。」「そうですか。」とスゴスゴ帰ってくるのは、討論をさぼったボス交にほかならず、我々は400署名の意思をかかるボス交で踏みにじることはできないのである。我々の怒りの追及の前に、学部長はついに次の確認を行った。

 10月26日 公開交渉における山本文学部長の確認 
「募金にはいろいろ問題があり、百億円募金に反対する文学部生400の署名を尊重して、募金には協力しない。
この旨、学内広報、文学部掲示板に表明し、向坊総長、大石募金推進連絡委員長に文書で伝える。
      山本 信    」

のちに今道・柴田(評議員)はこの10.26確認が、「私的個人的」なものであると一貫して強弁することになるが、しかし、これまでの交渉の経過、400署名の内容(学部長あての署名)、当日の確認内容(400署名を尊重して云々)等を見れば、10.26確認が、文学部としての募金協力拒否を学部長が声明し、これを全学に公表することを確認したものであったことは、絶対に事実なのである。

今や、募金委員長大石泰彦(原理研顧問)が誇らしく語る「全学一致体制」の形式すらも、文学部の協力拒否によって明確に崩壊した。
77年末の企業募金開始を狙っていた大石―向坊が10.26確認に混乱したことは想像に難くない。11月初旬、大場学生部長が、77年内企業募金開始を来春期(78年)まで延期することを発表したのはそのあらわれであった。
文学部400署名の力による10.26確認獲得は、かくして、募金を一とん挫せしめ、企業募金を阻止、延期する巨大な力であった。しかし、向坊―大石は虎視眈々と10.26確認圧殺を策動するのである。

(4)向坊総長と文教授会による10.26確認圧殺策動と78年1月柴田学部長代理との団交

個人募金の低迷、企業ぐるみ個人募金の停滞の中で焦りを増した総長室は、いったん企業募金を延期しつつも、78年の早期開始を狙い、10.26確認の内容すり替え圧殺策動を画策した。10.26確認があくまでも「全学一致体制」を突き破るものであったからである。
当局の陰謀は次のように現れた。

10月28日
文学部掲示板に「 募金にはいろいろ問題があり、百億円募金に反対する文学部生400ノ署名を尊重して募金活動には協力しない。 文学部長 山本信 」が張り出された。
10月31日
人文会が学部長との交渉の場で「東大膨張主義に通ずる募金(企業、個人ともに)について反対声明を出せ」と要求。学部長は「10月26日、すでに出してあります。」と答えた。
自分ではなんら闘わずに、我々の闘争成果を横取りしようとする日共=民青系人文会執行部の卑劣・姑息さにはあきれ果てるが、おかげで10.26確認の“正統性”がこの交渉でいっそう明確になっている。
同日、山本氏は学内広報委員会に、自ら赴き次の記事を掲載するよう要求した。
「山本文学部長は10月26日(水)文学部第三会議室において、文学部学生、院生有志を中心とする人々と話し合い、次のことを確認した。
  前記、10月28日に文学部掲示板に張り出された、学部長名の文と同じ。」

11月初旬
  高橋徹教授(社会)の(12月20日の我々との話し合いの席上での)発言によれば、このころの教授会に山本氏が出席し「学部長個人として10.26確認を出した」と報告。なんの疑義も出されず、この報告は了承された。

11月18日                       pⅡ-9
広報委員会で山本記事を「載せない」「条件付きで載せる」派に対立。広報委では決定できかねるとし、総長室の判断に一任しようという方向になる。一方、平田広報委員長は、11月下旬から12月上旬まで海外出張を口実に、「この問題は俺にまかせろ。留守中は学生と一切対応するな」として、長期化、もみ消しを図る。12月10日、平田は帰国するや否や、翌日には総長に判断を一任してしまう。

11月21日~12月1日
我々は再三「広報委」に対して山本記事を掲載するよう要求する。

11月下旬
校内を元気に歩行中の山本学部長に対し、我々は近日中に交渉に応ずるよう要求。山本氏快諾(これが彼の最後の姿)以後登校しなくなる。

12月7日
富永総長補佐と公開交渉。我々は山本記事を「広報」に掲載することを強く要求。しかし彼は「総長からこの問題では個人的意見を述べるなと言われている」として語らず。
追及の過程で、富永が文学部400署名の名前と数、各学科の人数・院生の数を詳細に調査したことを自ら暴露。「総長の命令ではなく総長補佐の資格で独自にやった」と強弁。
学部長あての署名を他の者が調査するのは予防弾圧的検閲にほかならず、我々は自己批判を迫った。彼はいったん、自己批判しかかるも、総長命令に従い、居直り、団交から逃亡した。
後日富永は「信念をもって署名したのだから警察が見ても別に良いではないか」と驚くべき発言。しかし、その富永も「署名は有効であることを確認して総長に伝えた」と言わざるをえなかった。

12月11日
平田広報委員長、山本記事を総長に一任。
12月12日
向坊総長より、柴田・今道両評議員に電話「いかなる立場から10.26確認を出したのか調査してくれ」

   12月13日
柴田と今道は相談して山本に電話。「あれは学部長個人として出した」との回答。この段階では山本から「私的」なる言葉は出されていないことに注意。だが、両評議員はこれを「私的・個人的な確認」というふうに“解釈”し(1月19日団交での柴田発言)、翌日14日の教授会に報告し、これを何ら討論なしに、了承される。

同13日
我々は山本に電話し、交渉を要求。山本夫人が対応し「今、病気療養中であり、教授会にも出席しない。15日の交渉に応ずることはできない」と答える。
この後も山本は電話口に一切出ず。

12月14日
文教授会、柴田議長より「10.26確認は私的・個人的なものと山本氏自身が言っています」との報告があり、そのまま了承される。

12月15日
これ以降、富永も授業を放棄して、学内に現れず。

12月19日
平田広報委員長を追及。「確認が公的か私的かは文教授会で問題になっているはず」と述べる。

12月19日
山本氏の夫人が、ある筋からの電話に、「病気中ということにしています」と答え、仮病であることが判明。

12月20日
早島元募金委員「10.26声明は尊重する。教授会の内容については一切言えない」。
高橋徹(社会)「11月初旬の教授会で、学部長個人として出したという報告があり、了承された。私の理解では、それは学部長の専決事項であるとしか考えられない。また東大の歴史を考えた場合、組織からの募金には問題が残る。評議会の決定を報告され了解したやり方が今日の様々な事態を引き起こしている」と発言。14日教授会で「確認は私的個人的」と了承されたことを高橋は押し隠し、まだ論議がないかのごとく装っていた。この卑劣!

同20日
嘉治元郎次期教養学部長は、駒場学生との2回の団交ののち、次回の約束を反故にし、団交中止を電話で告げてきた。(総長を中心とする全学的な巻き返しが、系統的になされたことが明確になる。)

12月末                               pⅡ-10
公開質問状を文学部全教官に郵送。77年12月末の段階で我々は、12月14日の教授会で確認の圧殺がなされていた事実を確定できないでいた。しかしその策動ははっきり感じ取っていたのである。

それゆえ、我々は12月末、文学部の全教授・助教授84名に、タイプ印刷の「公開質問状」を郵送し、「東大百年」との真摯なる対決を要請し、また一連の公開交渉と400署名―10.26確認に至る経過を説明し、「記念」に関する質問に答えるよう求めた。しかし、回答は一つもなかった。ひとつもだ!11月以降の確認圧殺策動をすべて把握するのは1月19、23両日の柴田学部長代理との団交の場においてであった。

78年1月に入り、一通の回答もないことを確認し、我々は、再度10.26確認の“行方”を追求する。文学部の教官を追及する中で、10.26確認(文学部の募金非協力)が試験―春休みの中で完全にうやむやにされ、企業募金の強行開始がもくろまれていることをはっきりと感じ取った我々は、1月19日、柴田学部長代理(教授会議長、評議員)に対し、団交を要求した。

1月19日
団交における追及の中で一連の確認圧殺策動が明らかになった。席上柴田は「総長からの要請で、今道教授とともに山本氏に連絡した。---私的な声明であると自分は解釈した。---山本氏は私的個人的に有志諸君とあっていると言っている。---学部長としての声明ではない。---自分は専決事項だとは思わない。---公人として『協力しない』はあり得ない。---教授会の方針と異なるので私的なもの。」などと没論理な対応を繰り返した。

しかし、我々は、交渉がたとえ私的なものであったにせよ、そこでなされた確認が、“それゆえに”「私的個人的」になることはないこと、教授会の方針と相違する“から”「私的個人的」になることはないことを繰り返し反論した。

一連の公開交渉の経過と一連の確認、また学部長によるその実行の諸事実や、10.31人文会との交渉で山本が「募金全体に反対声明を出せ」と要求されたとき「すでに10月26日に反対声明は出しており、また文学部長名で文掲示板ににも出してある」と答えたこと、山本自身が広報委員会に行き、募金非協力の記事掲載を求めたこと、10月28日、文掲示板に「学部長山本信」明記で、「募金には協力しない」旨出されたこと、等々の事実の突き付けによって、柴田の居直りは一挙に粉砕されたのであった。

柴田自身の姿勢を問われるや、彼は「とにかく募金には反対しない---百年のけじめとして百億円を集める---募金はニュートラルなものである---百年だからなにかをやるというのは奇異ではない---企業から税金が出されそれで国立大学が成立する以上企業募金も同じ類のものである---企業募金はこれからの問題である---研究者のモラルがしっかりしていればよい---。」等々、歴史学者とは思えないようなオソマツさであった。

また彼は「すでに開始された募金に反対するには積極的理由が必要」というので、我々は丁寧に、臨時職員や演習林労働者への首切り、待遇破壊の現状や医学部人体実験等の問題指摘や東大の移転再編動向と「記念」との関係を展開したのであった。
だが、柴田はこれらの指摘に何ら反論できず、最後には「とにかく募金には反対しない」と居直るばかりであった。

1月23日柴田学部長代理との再団交
この日彼は、「企業ぐるみ選挙は認められないが、企業ぐるみ募金はよい」とか「百年問題では教授会での議論はなされなかったが、評議会での決定があり、それを追認した。この決定には逆らえない」とか言い、また、10.26以前の確認を引き継げという我々の要求に対し「学部長代理の権限がどんなものか不明なので引き継げないし、一切の確認をすることはできない」とあらゆる責任ある対応を回避したのであった。

今や教授会の狙いは明らかになった。団交には出席するが「代理」の名目を左右に使って何ら責任ある対応をせず、試験ー春休みー3.31山本の任期切れの中に流し込み、四百署名―10.26確認をなし崩し的に抹殺せんとしていたのである!!今や我々は断乎たる闘争を決意せねばならなかった。
pⅡ-11

 (5)文学部学生・院生有志による学部長室座り込み闘争の開始と弾圧者今道の登場

◆ 教授会の卑劣な策動に、われわれは、断乎たる実力闘争を決意した。
我々は、次の三項目要求を掲げ、文学部長室への座り込み闘争開始を全学に宣言した。
1.山本文学部長は総長による圧力に屈した団交逃亡と10.26声明の内容すり替えを自己批判し、ただちに団交に応じ、10.26声明―文学部募金非協力声明堅持を確認せよ。
2.文学部教授会及び柴田学部長代理は、10.26声明の空洞化策動、400に及ぶ文学部生の募金反対署名への敵対を自己批判し、声明を学部長決定として了承せよ。
3.文学部当局は、今春予定の企業募金開始中止に向けて総長室への働きかけをおこなえ。

我々は、文教授会の真摯なる論議と責任ある回答を要求したのである。
この座り込みに対し、東洋史、国史、西洋史、社会、中文、仏文等の学科、また多くのサークルから圧倒的な支持アピールが起こっていく。
しかし、文教授会は、今道・柴田の引き回しの下に「募金への協力体制は堅持する。10.26確認は私的個人的なものである」ことをいち早く確認し(1月30日)、自己検証をさぼる姿勢を示した。

超反動国家主義者・弾圧美学者今道が我々の前面に躍り出たのはこの時期である。我々と2月6日、7日、二度の予備折衝を行った。
今道は「座り込みを解かなければ、話し合いには応じない」ことを頑として譲らず、事実上、話し合いを拒否する。そこには座り込みを引き起こした教授会の責任への反省は一切見られないのである。
我々は、一般的な話合いではなく、団交での責任ある対応を要求しているのだ。それを回避した当局に抗議し、座り込みを開始したのであった。まず当局は、我々との団交に応じ責任ある対応の中で“事態の解決”に努力すべきであった。
だが、彼等は2月7日以降、我々との対応を回避し、入試ロックアウトによる、総長の強権的介入―機動隊導入をひたすら待ち焦がれたのであった。

この弾圧姿勢に対し、東洋史、社会学科を中心に、怒りの声が巻き起こり、連日のデモンストレーションが展開される(2月27、28日、3月1日、2日)。
すべての教官は自らに問われた問題に無自覚であった。(いや、あり続けようとしたのだ。)彼らのすべて、そうすべてが、何ら積極的募金肯定論を持ち合わせなかったにも関わらず、無責任な既成事実追随者なのだということは、東洋史、社会などの学科討論の中で明白となっていた。そして、2月8日、22日、3月2日の教授会で、彼らは自らと「百年記念」とのかかわりのあいまいさを何ら検証しようとしなかったのだ。
ひたすら総長のおしかりにおびえながら、事態の技術的乗り切りと、管理者としてのメンツの取り繕いに奔走することが彼らの為した一切であった。

◆ かかる中、2月21日総長命令を受けて弾圧準備を開始していた、あの時計台庶務のゲバルト(暴力)職員=ゲバ職は、30数名の部隊で、本郷、駒場で反百年の活動を行っていた学生6名におそいかかり、顔面を殴打し鼻骨を折り、ほかの学生2名に捻挫を負わせるという暴行を組織的に行ったのである。
彼等ゲバ職は(後の)3.3弾圧の直前にも、教授会とともに運動着姿で登場し、ニヤニヤ笑いを浮かべて柔軟体操やゲバの仕草をするなど、悪質な挑発を繰り返した。

2月27日、今道・柴田は従来の「説得」なる姿勢を止め「話し合い」のためにきたと第三会議室に現れた。彼らは弾圧の布石のためのアリバイ作りのためにこの場を設定しようとしたのだが、我々の原則的な質問、反論、追及の前に論理的破産を重ねた。我々は、それまで討論要求を拒否し続けてきた彼らの責任を厳しく糾し、7時間の討論の末、彼らは次の確認を書き残して、討論の場から逃げ帰った。


「10.26確認をめぐる問題について、1月の柴田学部長代理の「有志」との2回の話し合いは不十分なものであった。また座り込み後も話合いの前提条件(=座り込みを解くこと)が争点となり、実質的な話し合いがなされない状態が続いてきた。
現在、話し合いは緒についたが、教授会内部での討論を重ねる余地がある。今後、それらの点を教授会で詰めたうえ、話し合いで解決するよう努力する。」

この2.27確認は、きわめて不十分であるが、「話し合いで解決するよう努力する」と明言してあった。しかし、彼らは、その本音にしたがい、自らの言葉を裏切って、3.3機動隊導入という暴挙を行ったのだった!      pⅡ-12

◆2月下旬より、文教授会の対応引き延ばし=入試ロックアウトを口実とした強権弾圧の狙いを見抜いた多くの学友は、各学科での討論を深め、弾圧粉砕-募金阻止の大衆運動を盛り上げ、学科アピールを発しつつ、2月27日より、学科連合のデモを連日行っていた。
2月27日、一方的に「確認書」を書き残していった教授会は、さらにアリバイ的な「説得」活動を行うべく、3月1日、2日と現れ、「とにかく、座り込みを解いて帯出しなさい」と我々の討論要求を無視し、時間稼ぎを行って、入試タイムリミットに持ち込んだ。
一方では、片手を振り上げて機動隊導入をちらつかせ、「とにかく出てくれ」と「説得」するのは、国家権力を盾とした学生に対する恫喝以上の何ものでもない。「入試期間中はロックアウトになるので、構内に立ち入れないから、出て行ってもらう」というのが彼らの命令理由の一切であった。
しかし、考えてもみたまえ。入試中、正門前にいた者ならはっきりと見たように、入試ロックアウト中であろうとも、数百人の学生・研究生が実験、卒論等々の仕事で正門を自由に出入りしていたではないか。
「入試だから出ろ」は文教授会のメンツの取り繕いからくる言いがかりと、入試を口実にした弾圧に他ならないことは明らかであった。かつて75年春、医学部においては入試期間中に跨って、白木人体実験糾弾の医学部長室座り込みが闘われたが、弾圧もなく、その後の交渉の中で、一定の解決をみた経過を見るならば、3.3弾圧にかけた向坊の目論見は、自民‐民社-日共の全国的弾圧キャンペーンを背後の力としつつ、百年祭糾弾闘争圧殺=企業募金強行開始にあったことは明らかであろう。

2日夜、彼らは「話し合いで解決するよう努力する」という自ら行った2.27「確認」を踏みにじり、「総長の「緊急要求」なるものをマイクで一方的に3度読み上げた。文アーケードに響き渡るその声の空虚さは、彼ら「学者」たちの思想的貧困さを語っていたのだ。その場においても我々は、まず弾圧の準備(すでに本富士警察署には200名の機動隊が待機していたのだ)を早急に中止し、その上ですぐさま討論に応ずるよう要求し続けた。
彼等はこの我々の主張を無視し“最後の説得の努力”を行ったのち、夜11時過ぎ、総長に機動隊導入を要請した!!この間2時間にわたって時計台ゲバ職約70名は運動着姿を躍らせ、我々に威嚇、挑発を行っている。

3日午前0時15分、総長の要請(2日夜11時45分)のもと、(ガス銃を持ち、放水車を伴った)200名の完全武装の機動隊が学内に乱入し安田講堂―文学部一帯は醜悪なナッパ服とジュラルミンの縦で埋め尽くされた。しかし、我々は約50名のヘルメット部隊は、この弾圧にも屈せず、断乎たる部隊展開をもって学内デモを貫徹し、正門前で全学の学生・労働者100余名との連帯・合流を克ちとり、深夜2時にわたるまで抗議集会を貫徹したのである。
この時我々は正門からはっきりと見た。鈍く光る100余のジュラルミンの林立とこれに守られて夜空高く聳立する安田講堂の様を。東大百年の反人民性を我々は闘いの中で痛苦に実感せねばならなかったのだ。

◆3日より夜を徹して我々は正門前にテントを設営し、ここに実力拠点を構え、弾圧糾弾の入試情宣をやり抜き、10日、再度学部長室座り込みに突入した。これにより入試口実による闘争圧殺なる向坊総長室の目論見は完全に粉砕され、のみならず、企業募金―百年祭の本質と向坊「話し合い路線」の本質とがさらけ出されたのである。
しかし、10日の文教授会で彼らは、3.3弾圧は弾圧ではない(?!)なる内部一致を打ち固め、さらなる居直りの姿勢を早々と確定し、13日には、日共系文学部職組、人文会、学友会の各執行部と密議し、闘争圧殺に向けた相互了解を作り上げて行く。  pⅡ-13

この13日の密議は、演習林バリ封鎖闘争に対し日共系東職(東大教職員組合)が3月18日武力解除攻撃をかけている現実や、同月23日演習林現場労働者が農学部長との交渉中、農教授会約60名が登場し、50歳から60歳の人が大半の、20数名の労働者に襲いかかり、農学部長を交渉から逃亡させていくという現実を見るならば、当局―日共一体となっての闘争圧殺の先ぶれであることは明らかなのである。pⅡ-13
また3.3弾圧直後、人民への弾圧意欲溢れる本富士警察署は、文教授会に対して被害届を出すように要求している。これが再弾圧の布石となることを断固粉砕しよう。

15日、文教授会には“病休中”のはずの山本が出席し、「責任を取って辞任したい」と申し出、いわゆる、「3.17告示」を提出し了解を求めた。これはボス教官今道らの根回しによる演出に他ならなかった。“最後っ屁”的に「告示」を出して山本は23日引責辞任する。この猿芝居を見よ。
   「3.17告示」
昭和52年10月28日に出た私の掲示は、すでに11月24日の文学部学友会との確認の際に明らかにされているように「文学部学生・院生有志」と称する人々との全く非公式な話し合いから生じた、個人的な態度表明であった。
しかるにそこに学部長名を付したことは文学部の公式な意思表明を思わしめる紛らわしさを伴い、また、内容においてすでに評議会で決定され、教授会において了承された東京大学創立百年記念事業のうちの募金について、あたかも教授会の議を経ずしてそれを否定するがごとき性質のものとなり、はなはだしく適切を欠く措置であった。その結果、文学部内外に種々の混乱を生ぜしめたことに対して私は深甚なる遺憾の意を表する。
ここにあらためてそれが公的性格を持たないものであったことを明らかにし、先の掲示を撤回する。
   53.3.17   文学部長 山本 信

座り込み再突入ののち、我々はあらゆる機会をとらえて討論を要求している。しかし当局は2.27確認など知りませんとばかり、「座り込みを解かなければ話し合わない」とその強権的姿勢を譲ろうとしない。3月31日2時と我々が指定した討論すら、今道新学部長は「問答無用」と無視したのである。

ここで弾圧新執行部の登場に注目せねばならない。処分・告訴・告発志向者今道が新学部長に内定したのが3.3弾圧前後であったことは何を意味するか。通例は一月内定であり、順当ならば、学部長代理柴田がその職に就くはずであった。 今やまさしく総長室―文教授会は各々の利害貫徹のため、弾圧執行部を我々の闘いに対して置くべく、今道を起用してきたのである。文の教官たちはこの今道の“毅然たる”対策の庇護の下で、無責任を決め込み、ぬくぬくと「研究」にいそしもうという腹なのだ。ナント!

4月1日、名実ともに権力の座に就いた今道は学部長名を居丈高に振りかざして「4.3パンフ」をばらまき、その弾圧志向の本質を早々と見せ始めた。今や今道の登場によって、百年祭糾弾闘争への再弾圧は予断を許さない状態になっているのだ。

  終りに 概括  

 

4.12式典粉砕闘争以降、十数度の団交の中で、山本学部長、早島募金委員をはっきりと論破し、委員辞任、募金委員会への事務員派遣中止、学部としての募金活動の凍結にとどまらず、文学部募金反対署名400の達成と、その力による10.26学部長確認の獲得は、日共=民青の闘争放棄、我々の闘いへの敵対をはねのけた文闘争の重大な勝利の画期をなした。 しかし、政財界の要請の下、移転・再編―百年祭を遂行せんとする向坊総長室は、個人募金の停滞を総括し、企業募金への衝動を強めていった。それゆえ、78年春よりの企業募金開始を発表しつつ、再度「全学一致体制」なる体裁を取り繕うべく10.26確認の圧殺策動を系統的に開始したのである。

一方、東大百年の反人民的歴史との真摯な対決を一切サボり、評議会決定に追随して百年祭を無責任に承認してきた文教授会は、この総長の圧力に屈し、文学部生400の意思を踏みにじった。「確認は私的・個人的」であるとする、彼らの“論拠”は二つしかない。一つは「山本がそう言っている」であり、もう一つは「従来の教授会の方針と異なるから公的確認ではありえない」である。

しかし、彼らは「何故、いかなる討論と決議によって、文学部募金協力体制が決定されたのか」という我々の質問に、今日にいたるも一切答え得ていないのみならず、1月19日の柴田学部長代理に対してわれわれがつきつけた事実(当局が公認している人文会との交渉席上、山本が、募金反対声明を出し、文学部長名で掲示を出したと述べていること、また彼自身で広報委員会に行き募金非協力の記事掲載を求めたこと、等)に対し、文当局は依然として反論できないでいるのである。

われわれは、昨年暮れ、文教授会メンバー全員に公開質問状を郵送し、東大百年との対決を要請したが、全員、これを無視し、1月には、山本を「病気」逃亡させつつ、学部長代理柴田が収拾、丸め込みの役で現れ、試験―春休み―山本任期切れに逃げ込まんとした。pⅡ-14

これに抗議した座り込み闘争による問いかけを一切自覚できない彼らは、学生との討論から終始、逃げまくり、2.27確認(「話し合いによる解決の努力」)を公然と破り、ついに、入試を口実とした弾圧を行ったのである。
その後も、山本学部長の「3.17告示」→3.23辞任なる猿芝居を演出し、のみならず、日共=民青との合意を形成し、警察の逮捕要求を受けつつ、3.3機動隊導入弾圧責任者・今道を新学部長として登場させた。弾圧美学者今道は、早くも「4.3パンフ」をでっち上げ、再弾圧への道を掃き清め、強権弾圧―告訴―処分の機会をうかがっているのだ。

全ての諸君!我々はかように闘い続けている。教官の無定見、日共の敵対、国家権力の直接的弾圧という抜き差しならない状況の中で、我々は、高らかに百年祭糾弾の旗を振り続けるであろう。
自らの解放をかけ、思想をかけて、文学部長室座り込み闘争に結集せよ!

《 今道語録 》 「たとえば、すでに知的な青年が集まっているはずの大学の中でさへ、明らかに自分が投石したり扉を鋸や鉄パイプで破壊したり、非礼な暴言を浴びせつつネクタイを引っ張ったり、学部長はじめ多くの教官を長時間監禁したり授業を妨害したり、研究室はじめ建築物に不法侵入したり、それを占拠したり、工事用乃至交通安全用のヘルメットをそのまま又は彩色を施して着用し、角材や鉄パイプで脅迫したり暴行を働いたり、拡声器で内容もないことを騒音にして静けさを紊しても、さういふことは大したことではないにしても〔その割には、やたら憎々しげに並べましたナア 〕、聞くもあきれる変な口調に乗せて、処分撤回とか告訴反対とかを叫びながら走り回るやうな程度の低い人々もゐるのであって、況やそのほかの団体や国家全体とか社会全体とかと言ふことになれば、犬も東京大学よりは規律を守るところが多いであろうが、しかし下も見れば色々の事もあるので〔作者は何を言いたいのか?〕さうとなれば、また、大衆に正義の必要や暴力の悪しきことを理解させることが必要ではないか、と言ふゴルギアスの考へが巻き返してくるではないか」<悪しき管理者乃至教師より>
〔結論:晦渋な文体を流れる主調低音は、何のことはない、学生への単純な憎悪と権力の論理でしかない。熟読あれ!〕

元のパンフレットでは、「確認」、「宣言」、「告示」等の資料ⅠからⅩⅡまでは第2章の章末(p-Ⅱ16、17)に置かれていたが、このHPでは全て本文の中に入れた。



-------------------------------------------------------------
《 今道語録(『解釈の位置と方位』より 》 「すべて忌まはしく、無意味で且つ愚劣であった東大紛争」
「学者たちが、それもその国の一流の学者たちが大学の中でこれほど虐待されたことはどこの国の歴史にもなかったことである---」
「日露開戦を知ることのなかった東京帝国大学の教授がいたという伝説は、常に悪い例にとられているが、この末端の波動への無関心こそ、象牙の塔としての真理探究の府に、誠に相応しい見上げた態度ではないか。」
「批とは批殺に於いてあきらかなやうに、なぐることであるから、批判は多くの場合、高さを見ることのできない倭人が、高さを持つ作品を自らの低さで切断し、その低さを嗤う自嘲に過ぎないのに、対象の作品を批殺せむばかりに非難する。それは多く、他の中に自己と等しい愚劣と醜悪を発見して喜び安堵する木人の宴である。」

【注:この最後の「批判」についての批判は東大闘争とそれを闘った学生・職員に対する今道先生の御「批判」と結びつくとき、先生御自身の自己「批判」となるであろうことは、もはや多言を要しないでありまう。】

第3章 百年祭闘争への敵対者、日共=民青批判 

pⅢ-1

この間の百年祭闘争の着実な前進の中で、自らの学内一元支配の危機を感じとった代々木=日共は、彼等の反動的本性をむき出しにして、我々の闘争に対する卑小なケチ付けと、闘争破壊に血道をあげている。すでに彼等日共は、10年前の全国学園闘争において、諸全共闘が鋭く突き出した実力的大衆闘争に恐怖し、全くの反動としてその闘いの全面的爆発を押しとどめ、大学当局、権力と癒着する形でそれを「学園民主化闘争」などという何ら実体のないものへと歪曲してきたのである。そうして現在、権力―当局―日共という形でまさに学内支配・管理の左足として、抑圧者として立ち現れている。我々は彼らのこうした現状へ至るその運動論の誤謬を徹底的にあばいておかねばならない。殻らに対する批判の骨子は以下の四点である。
(1)学生および学問‐教育に対するブルジョア的位置づけ
(2)その結果としての当局と一体となった再編加担
(3)百年祭闘争への日共=民青の敵対
(4)東院協『百年祭記念事業パンフ』批判

(1)学生・学生運動へのブルジョア的枠はめ
彼等は学生、学問、学生運動について次のように位置づける。「---学生にとっては勉学が当面の生活の中心目標である。したがって学生運動は学校での授業を含め、社会科学、自然科学、技術・文化・芸術・体育のすべての分野での学ぶ活動を一貫して重視すべきである。」(民青第12回全国大会への中央委の報告、72.9)「国民が大学を含めて学校教育に最も重要なものとして期待するものは科学的な正統性をもって基礎学力、知識や技術を正しく学んで、学問と技術、文化の民主的発展と普及に寄与するという学生の任務、----従って授業内容の民主的改善のための闘争」(『前衛』73.6、「新日和見主義の運動論批判」)が学生の主要な任務だとするが、こうした見解の中から全く何の内容もない「民主的」という言葉を取り去ってみれば、それがブルジョアジーの建前としての大学のありようとみごとに一致していることは明白ではないか。
そこにおいては、教育体系なり、学問なりの階級性は一切捨象されており、学生の小ブル的優越感と、上昇志向とに裏打ちされた即自的利害に迎合し、それを固定化するもの以外のなにものでもない。

しかもとりわけ東大など、上昇志向、特権的優越的地位が依然として保障されている大学においては、それを全面的に肯定し、そこでおこなわれている学問、研究内容、あるいはそれを支える機構に対する疑問を提出するような契機は一切見られない。
こうしうてたとえば臨職の問題を一切切り捨て「大学の自治」を美化し、特権的優越意識にあぐらをかいた形で「一生懸命勉強し有能な技術者になろう」(工学部民青立て看)ということが路線化されるのである。

また現在の機能別労働者養成所としてその体系が明確に確立した大学のハイアラーキーの中にあっては、それぞれの大学に学ぶ者が、まさしくその大学に付与された機能に沿った形で学ぶことによって、それぞれ、あるいは上級管理者、技術者、あるいは中間管理者、技術者として社会に送り出されてゆくことに対して疑問を発し、批判を行い、反逆を開始するのではなく、むしろ現実には破壊されつつある「成り上がり」願望にしがみつかせる形で差別と分断とに加担し、実際にはますます密接したものとなっている労働者の利害・運命と学生のそれとの関係を隠ぺいするものにほかならないのだ。

(2)権力・当局と一体化した再編加担         pⅢー2
彼等日共の今日的な学生運動の基本的方向性を示す『当面の学生運動の特徴と党の任務について』(72.10.9『赤旗』)で、次の様に論じられている。「反動的な『大学改革論』と中間的〔!?〕な『自主改革論』を同列視したり、大学の施設の新増設と大学機構の再編に伴う各種記念事業、大学キャンパスの移転統廃合に当たって、これらをすべて一面的に否定する見地に陥ることなく、学生の要求とエネルギーを正しく引き出す方向をとることが大切である」。
ここに端的に示されているものは、文字通り、大学闘争、筑波=中教審路線以降の大学管理、さらに合理化・再編、そしてとりわけそれらの貫徹の具体的表現である移転問題に対する予防反革命的な歯止めとしての機能を日共=民青の学生運動が果すことの宣言に他ならない。

彼等は大学・学問自体の持つ階級性を捨象した中で、「新しい学部・学科などの設定については、科学技術の進歩に応じ」る(『赤旗』73.6.12「筑波大学法案に反対し、大学の民主的改革を進めるために」)というように、まさしく現在のブルジョアジーの要請する産業構造の転換に迎合した方針を打ち出しているのである。
そのことは先にものべたような一定の学生の特権・小ブルジョア的意識をいっそう助長する形で、社会の要請、実はブルジョアジーの要請に応える商品として少しでも高く自分を売り込むために必要とあらば各学問領域の積極的なスクラップ&ビルド、合理化にも率先して応える、そのためには移転・再編をも推進する者として自己を位置づけようとするものである。
こうした中にあっては学生はより個々に分断されたものとして互いに競争者として位置づけられ、そうした個別分断化された学生をその特権的利害を守るものとして、「諸要求闘争」の名でもって引き回すものである。しかもそれを日共の一元的ヘゲモニーでもって貫徹するために、ブルジョアジー、大学当局、研究者、学生「利害」の一致を保証すべく大学当局との癒着をますます深めて行く。東大においては、総長室独裁体制と、交渉権の独占ということを媒介に結びついた全学自治会中央委がまさに当局の学内支配貫徹のための補完物として、階級的利害に目覚めた学生部分を抑圧、疎外するものとして機能しているのである。

それゆえに、現在の焦点となっている百年記念事業、立川移転の問題についても、彼等日共=民青は「東大は百年の歴史の中でいろいろと民主的な運動を生み出してきた」という、東大自体の 本質的な国家的位置づけ、社会的機能とかけ離れた次元の議論を持ち出すことによって、この百年記念事業のペテン性に全面的にのめり込んでゆくのである。すなわち、百億円募金趣意書中の「学問の自由と大学の自治を確保し」てきた「先人の偉業をしのぶ」という欺瞞性に屈服しきり、人民を抑圧し戦争に駆り立てて行ったという東大の歴史、あるいは、公害企業の擁護・人体実験といった歴史を隠蔽し美化してゆくのである。そういう中で、彼等に言わせれば、必要なのは「民主的チェック」だという。どこかで学生の小ブルとしての特権を侵されるところはないかという基準に基づいての「民主制」(?!)。

日帝の教育再編合理化攻撃攻勢に彼らがいかに加担しているかは、その突破口としてまた頂点としてある東大の移転再編・合理化攻撃に向けた今回の百年記念事業・百億円募金に対していかなる態度をとっているかということからも明らかである。彼等は口先だけの「民主的チェック」は言うものの、それを保証する方向性を何ら示さないばかりか、現実に進行しつつある大企業からの募金に対してもそれを阻止するための大衆的運動を一切提起していない。それどころかむしろ、百年祭糾弾・募金阻止の闘いを全学的に大衆的に繰り広げてきた我々の闘いに対する敵対のみを事としてきたのである。そうしてこのことは日帝の延命のための大学の再編への道を掃き清めることであるのもまた明白なことであろう。

(3)百年祭闘争への日共=民青の敵対。 〔略〕   p Ⅲ-3 

(4)東院協『百年祭パンフ』批判       p Ⅲ-5 
そして東院協もまたこの路線にのめり込んでいるのである。 東院協は、今年二月のパンフで、彼らの百年記念事業に対する見解を明らかにしているが、我々はその中に見られるいくつかの重大な誤謬を明らかにしておかねばならない。

まず第一に、彼らの論議の観念論的偏向を批判しておく必要がある。彼らは歴史を「矛盾の発展として」捉えたつもりになっているのだが、その基底となるべき事実関係において現実と観念を転倒させ、現実を観念に従属させるという倒錯を行っている。
我々に対する批判を、我々とは基本的に異なった立場に立つ、宇井・生越の著作に即して行うという不まじめな態度もさることながら、事実問題として、東大が「国家の須要に応える」人材を生み出し続けてきた、という事実に彼らは目をつぶってしまうのである。
それだから彼らは「科学技術やそれを担う研究・教育労働者・学生・院生と資本主義的生産関係との矛盾」を外在化させてしまう。すなわち研究者・学生などは、ひいては学問研究は資本主義的生産関係の外にある、ないし、それと無前提的に対立するものとして規定してしまうのである。
それゆえに、「中教審路線」と「大学の全構成員自治に基づく民主的自主的改革の路線」との具体的対決点というのをみることができない。その結果現在、総長室―時計台によって進められている権限の中央集権化に対して「『全構成員自治』の原則を全くふみにじるもの」だと泣き言をいってみるものの、それを中教審路線の具体的な東大内における貫徹として捉えることができない。
こうしたところから、彼らの総長室体制に対する闘争の全き放棄と、まさに新たなる大学再編の一つの要としてある移転・合理化に対しての位置付けの決定的な欠如が生まれてくるのである。
そうして、まさに「この実質をまさに闘い取らねばならない課題」としてあったはずの憲法・教育基本法さらには十項目確認でさえ、実質を闘いとる運動を放棄してきたがゆえに、その形骸ですら風化させられてきていることに自覚的ですらないのだ。

また、こうした彼らの観念論的歴史観に基づくがゆえに様々な「民主的」運動は羅列するものの、そうした運動が権力の全面的な攻勢の前に屈服してきたという事実をみることができないのである。たとえば60年代前期、「大管法」攻撃に対して「国大協自主規制路線」として屈服し、60年代後期から70年代においては権力の積極的学内導入による強権的支配として「自治権」を放棄してきた過程を捨象してしまうのである。

第二に彼らは、大学内の矛盾の矛先をすべて「貧困な文教予算」の問題だと一面的にとらえる。そこには研究者なり学者なりの主体性の孕む問題に対する視点が一切欠如している。例えば70年代初頭の臨職闘争の一つの発端となった「宮村事件」などで明らかに暴露されたような、研究者がその下で働く労働者を物としてあるいは機械の一部として使い捨てていくという姿勢(ちなみに言えば、宮村というのは「民主的」研究者の代表みたいな人間だった)、あるいは生体解剖、人体実験の問題等は、決して貧困な研究費の問題として解消できるものではない。

更に、東院協諸君が一面で積極的に評価する総合大学院について見ても、まさしくこれが現在の産業構造の転換にともなう教育再編に見合った形で進んでいることを見て取るならば、まさにそこにおいて研究なり研究者の主体性が鋭く問われなければならない問題であることを見逃せない。

このように、一貫して、観念論の立場から、また学問研究の無前提的肯定からなされている論議からは、東大百年を批判的に総括し、今後の運動の展望を到底示しえないことは火を見るよりも明らかなのである。今回の問題についても彼らは何ら現実に有効な闘いを組織できていない。われわれはこうした実際的に教育体系の反動的再編を追認し、それに加担してゆく日「共」を断乎として粉砕し、百年記念事業、百億円御金を粉砕し抜いていくであろう。

第4章 今後の我々の闘いの方向性

   
1。文学部坐り込み闘争を貫徹し百年祭―企業募金を粉砕せよ!   p Ⅳー1 

◆文学部における百年祭闘争は、四百署名を踏まえた10.26文学部募金非協力・学部長声明獲得に至る大衆的団交を主軸とした闘い、そして、その後の東大当局・文当局一体となった、非協力声明の空洞化=圧殺の策動に対する断固たる、実力を持っての反撃=文学部長室坐り込み闘争として展開されてきた。

この闘いは、個別文学部における百年記念事業―百億円募金(とりわけ企業募金)粉砕に向けた闘いである。しかし、それと同時にこの闘いは、東大総体の研究至上主義体制の強化を主軸とする再編、その決定版たる立川移転再編阻止に向けた、全学的な闘いの先端をなすものである。
百年記念事業は研究者利害の拡大貫徹を実現せんとする40億円の研究奨励金創設を軸とした現在的な再編である。またそれは、立川移転再編に向けた最大の布石である。百億円募金は記念事業の物質的基盤をなし、募金の大半をなす企業募金は産学協同の普遍化強化をもたらす。企業募金粉砕の闘いは、現段階における百年祭糾弾闘争の決定環である。

我々は、危機にあえぐ日帝の侵略と反革命、ファシズム体制に向けた全社会的再編の一環としての教育再編、大学再編の粉砕を展望しつつ、企業募金の粉砕に向け、文学部長室坐り込み闘争を貫徹し、文学部における闘いを拡大・強化していかねばならない。

◆日帝の治安体制強化優先に会って、立川移転計画をとん挫させられつつあるかに見える東大当局は研究者利害を死守すべく、総長室のヘゲモニーをいっそう強化しつつ、部局間の利害調整を図る(「大学院総合計画委員会」の新設)とともに、個別部局に対する上からの統制、締め付けを強化している。
こうした動向の中でこそ、四〇〇という圧倒的な数の署名に基づきなされた「募金非協力」の文学部長声明が「私的・個人的」なものに押し込められ、学部長名を付した文学部掲示板への正式な「非協力」学部長掲示が撤回され、山本学部長が「引責辞任」するという強力な圧力が働いたのである。(山本学部長の3.17告示にある「文学部内外に多大な迷惑をかけた」というのはそのことである。)

個別文学部教授会においては(総長室の圧力により「病気」逃亡させられた山本学部長に代わる)柴田学部長代理が、裏では「声明」圧殺策動を進めるとともに、表では、我々に対して「話し合い」のポーズをもって登場した。だが話し合いによる収拾、丸め込みが一月の2回の団交で完全に破産し、そして我々の文学部長室坐り込み闘争によって追撃されるや、柴田に代わり、あの東大闘争時文学部での弾圧推進の立役者、今道評議員が前面に登場する。(四月からは学部長。)
そして座り込み解除が話し合いの前提であると完全に居直り、一か月にわたって団交を拒否し、そして三月三日、入試を口実にして、総長室と一体となって機動隊を導入、弾圧を加える。この弾圧に反対する社会、東洋史など学科有志諸君の運動の高揚の前に居直り、逃亡しつつその後も、春休みを利用して、3.17告示4.3文書を出す等して、10.26声明の公然たる破棄、募金協力を、すなわち、坐り込み闘争に対する弾圧を宣言している。

こうした文当局の反動攻撃に対してわれわれは、あくまでも(ポーズではない)実質的な話し合い、団交をかち取り、勝利すべく学部長室坐り込み闘争をいっそう強化し、防衛体制を固めることによって、実力闘争を貫徹しなければならない。また学科有志諸君との結合を強化、拡大し、当局の追及を行うとともに、募金協力反対、弾圧反対の大衆的な声を巻き起こし、当局を追い詰めなければならない。

また東大当局の企業募金開始策動を粉砕すべく、他学部での百年祭糾弾闘争との連帯を強めつつ、総長室に対する闘争を強化するとともに、経団連等への直接の闘いを組んでいかねばならない。

                                     p Ⅳ-2

◆一貫してブルジョワ民主主義=議会主義的傾向を強めてきた日共は、’70年代以降の長期、ドロ沼的な体制の危機の深化の中で、今や完全に体制補完物化しつつあり、帝国主義的社会秩序とそれを支える国家暴力を前提した「反暴力」を前面にかかげている。こうした路線の下で、日共=民青は「暴力集団の排除、学園秩序の確立」なるスローガンをもって、告訴、告発など国家権力の手を借りつつ、戦闘的、原則的な学生運動に対する敵対を強めている。
東大においても、日共=民青は完全に当局と一体となって、東大病院精神科赤レンガ病棟自主管理闘争、演習林事務室封鎖闘争への敵対と並び、文学部長室坐り込み闘争に対する挑発と敵対行動を行っている。こうした敵対に対し、彼らの百年祭・募金に対する闘争のサボタージュ、当局の後押し(当局に迫って10.26確認を「私的」なものと言わせるなど)を暴露しつつ、募金反対、弾圧反対の大衆的な運動を巻き起こし、彼らの策動を粉砕していかねばならない。
また、かれら学生自治会執行部が日共の牛耳る東職と一体となって文坐り込み闘争に敵対する行動をとっていることも踏まえ、学内の原則的労働運動を行っているすべての労働者と連帯し、刑法改正・保安処分反対闘争、赤レンガ自主管理闘争、全学臨職闘争、5.24弾圧粉砕闘争、演習林季節労働者闘争を共に闘う中から、赤レンガ、演習林等、拠点防衛闘争を防衛し抜き、日共の敵対策動を粉砕していかなければならない。 

◆以上を踏まえ、自民、民社、日共一体となった告訴・弾圧策動を粉砕し、学部長室坐り込み闘争を貫徹しよう。ゼミ・授業を百年祭・募金に関する学科討論に転化しつつ、学科での戦いを拡大深化し、また、学科間の連帯、坐り込み闘争と学科の闘いとの結合をかち取ろう。文学部における大衆的な闘いによって今道=文教授会を追い詰め10.26確認空洞化、3.3弾圧を自己批判させ、大衆団交を勝ち取ろう。文学部における大衆的な責任追及団交によって3.17告示の無責任性をバクロし、4.3今道文書を粉砕して、文学部の募金非協力体制を確立していこう。

                 2.更なる闘いの深化に向けて

我々は百年祭糾弾闘争を軸に教育の帝国主義的再編に抗する闘いを担ってきた。と同時に我々は、臨職闘争、狭山・三里塚等日帝の人民分断攻撃に抗する闘いにも一定の連帯をかち取ってきた。
ここで百年祭糾弾闘争への深化発展を目指し、それらの諸課題に対するわれわれの今後の闘いの方向性を明らかにしたい。

臨職闘争は一面において東大の研究至上主義体制との闘いである。我々は東大の研究のあり方、内容を告発する闘いを、労働者の抑圧支配体制に対する闘いと結合すべく、5.24弾圧粉砕、病院・演習林臨職闘争と連帯して闘っていく。
労働者に対するこの日常的抑圧体制は、移転再編攻撃により一層強化されつつある。我々はこの移転再編合理化粉砕を目指す、全学の労働者の闘いに連帯して闘う。そして移転の中で学生に仕掛けられてくるであろう管理強化を断固粉砕すべく闘いを構築していく。
現在の臨職問題は国公合理化として直接的な日帝からの攻撃でもある。我々は学生に対する日帝の攻撃としての学費値上げ、新大管法攻撃等を学生固有の課題として取り組みつつ、労働者の闘いに連帯する。

日帝は教育の帝国主義的再編のみならず国内社会再編攻撃もかけている。
昨年八月の狭山最高裁上告棄却は、部落解放闘争に真っ向から掛けられた弾圧ではあるが、この弾圧に屈することなく、部落解放同盟を先頭とした再審請求を中心とする反撃が開始されている。我々も解放同盟の提起を受け、また学園における映画会、情宣活動を主体的にやり切り、連帯していく決意である。

さらに三里塚闘争に対して、日帝-福田は、国内治安管理体制貫徹の要として弾圧を強行してきた。しかし、13年にわたる反対同盟の不撓不屈の闘いの蓄積をもって、3.30開港は全人民の力で阻止された。我々も今春期闘争を現地で闘い抜いた地平をもって、5月開港阻止決戦へ文学部から決起してゆく決意である。さらに日常的にも援農、カンパ活動を通じて連帯を追求してゆく決意である。

我々は学生存在として教育再編に抗する課題を担いきることと同時に、全人民に加えられている日帝の反動の嵐の中、これに抗する全人民的連帯が問われている。我々は自らの飛躍をかけて、断乎として全人民の闘争に連帯して決起していくことを表明する。

以上の様に我々は臨職闘争を闘う学内労働者、被差別部落大衆、三里塚農民と連帯することにより、百年祭糾弾の闘いの質を深化発展させつつ、文学部長室坐り込み闘争を貫徹し、企業募金粉砕に向けて闘っていく。共に闘わん。

企業募金粉砕に向け共に闘わん!

東大反百年祭闘争を闘う  目次 へ