資料A2「百年祭」糾弾闘争を貫徹し教育の帝国主義的再編に抗する闘う自治会の確立を /学生有志統一選対 目次
目次(須藤による補足)
序
【Ⅰ】 われわれが提起するもの
1.東大百年祭粉砕、立川移転―総合大学院新設阻止の視点
(1)研究至上主義体制と百年祭・総合大学院新設
(2)教育の帝国主義的再編と総合大学院新設
(3)闘いの方向性と今までの闘い
(4)今後の闘い
2.学費値上げ阻止
(1)高度成長期における学費値上げ
(略)
(2)現在の値上げ攻撃
(略)
(3)闘いの方向性
3.総長室体制との闘い
(1)「臨職闘争への連帯、総長室の責任追及」
(1ページ分欠落)
(2)総長室体制について
(3)五・二四問題
(4)立川移転へ向けた職員の合理化再編(略)
(5)文学部生としての闘いの方向性
4.教室ロックアウト体制粉砕
5.狭山闘争を闘おう
(1)狭山差別裁判とは
(2)狭山闘争の展開
(3)狭山闘争の意義
(4)狭山闘争の現状
【Ⅱ】学友会低迷の現状と我々の闘いの方針
【1】総長室体制による学生・労働者支配
1)その歴史的形成について
2)研究至上主義体制と総長室体制によるその強化
3)研究至上主義体制と学生の分断管理
【2】日共=民青の自治会ひきまわし(略)
【3】我々の闘いの方向
〔以下で---としてある箇所は、元のパンフがガリ版刷りのため不鮮明で判読できない語句を示している。〕
序
状況に真摯に切り込まんとする者のみが、状況の重みを知る。この点から言うならば、日本共産党に領導される部分ほどの楽観を有しない我々は、むしろ誇りとすべきなのかもしれない。
頼るべき”パルタイ”(党)を持たずに出発した我々は、その後の内部学習会や闘いの中で、現在、この地点に存在している。当初の不十分な論理も若干は超克されたのではないかと思う。が、一方、われわれの表現の拙劣さもあって、「言葉がわかりにくくなった、難しくなった」という声もよく聞く。一年前の我々自身を思い浮かべればそれも当然だろうと思う。人びとを巧みに欺いて引き回す日本共産党の運動を全面的に拒否するわれわれはその溝を即座に埋める術を持たない。一人一人にわれわれの考えを訴える以外に、今のところ途はないように思える。
われわれの運動は下からの運動である。「東大が百年を祝うこと」への疑問から出発して、集まったものが多い。そのような運動が始まるや否や我々も当初は思いもかけなかったのだが、われわれと真っ向から対立する運動展開を志向する部分からの誹謗中傷が行われ現在に至っている。党中央→東大細胞→文学部と上から指令が降りてくる日本共産党がそれである。官僚的組織と欺瞞的な学生運動論を持つ日共にとって、われわれの下からの運動は文学部を抑えている”文学部執行部”を脅かすものとして映ったのかもしれない。もっと矮小なことに日共”全学連”の文学部分担金がでなくなると考えたのかもしれない。とにかくわれわれは消耗なことに日共との対応を余儀なくされたのである。
われわれはこのような運動状況の中で、文学部学友会選挙を闘おうとしている。このパンフレットは、直接的にはそのためのものだがむしろ、われわれの闘いの中間総括的な面、われわれの闘いの現在的な立脚点を述べたものとしてある。
まず最初に、われわれの掲げる課題としての闘いの方向性を現在の”大学の在り方”を中心に述べたい。これは今までの我々の闘いの報告ともなるであろう。次に我々がなにゆえに学友会選挙をたたかおうとするのかを、現在の学友会の状況とわれわれの学友会への基本的姿勢を中心に述べたいと思う。
文字通り、このパンフレットは“全面展開”である。われわれへの疑問、意見、批判を期待する。
【Ⅰ】 われわれが提起するもの
1.東大百年祭粉砕、立川移転―総合大学院新設阻止の視点
(1)研究至上主義体制と百年祭・総合大学院新設
1962,63年の大管法闘争の昂揚(大管法とは、60年安保闘争に恐怖した日帝が、教授会自治を無視し、直接、大学を管理しようとするもの)の中で特権教授たちは自らの地位と「研究の自由」を守るため、一方では闘う学生を処分し、一方で池田内閣と裏取引し大管法国会上程放棄と引き換えに大学自らが学生を支配し「秩序」を守り抜くぬくことを積極的に承認した。これが国大協自主規制路線であり、その時の国大協会長が茅誠司である。
それ以来1968,69年の学園闘争の昂揚を、従来の教授会自治では抑えられなくなり、管理―研究・教育機関の分離を図り、総長室中央集権制を生み出す一方、終始一貫して教授・研究者たちは地位と「研究の自由」を守るため、政府文部省の意向を先取り的に提起あるいは実行し、はた目には大学の自治とやらが健在であるかのように装いつつ、自らはやりたい「研究」を誰からも邪魔されずに追求するといった状況を生み出していった。
われわれはこのような体制を明確に「研究至上主義体制」と名付けている。現在的な百年祭・立川移転(=総合大学院新設)もまた、これと密接な関係がある。日帝がもくろむ教育の帝国主義的再編(その詳細は後述する)の意図と研究至上主義体制との一地点としてあるのが、百年祭・立川移転―総合大学院新設なのである。すなわち百年祭とは、研究者にとっては百年祭にかこつけた研究設備の充実と研究資金の増加としてあり、独占ブルジョワジーにとっては来るべき総合大学院新設への世論づくり、全学一致体制づくり(この点において彼らは筑波大の失敗を総括している)として、出しても惜しくない金として存在する。立川移転もまた研究者にとっては、研究資金の増加、研究設備の充実、新しい研究部門の設置として、この上なく魅力のあるものとして映るし、独占ブルジョワジーにとっては総合大学院新設という教育再編の現在的要として、何が何でもやりきるものとしてある。また一言しておくならば何からも規定されない”中立的研究”などはあり得ず、研究とは常に社会構造、経済構造に規定されていることを銘記すべきである。したがって研究者が現在的状況抜きにやりたい研究を即自的に欲する“研究至上主義体制”は必然的に支配者に利用されるだけでなく、支配者の欲する研究領域を研究者自らも積極的に(社会的使命を感じつつ!!)やってみたくなるという構造を有しているのだ。
(2)教育の帝国主義的再編と総合大学院新設
国際通貨体制の崩壊、オイルショック等によって、60年代末の高度成長の終焉を迎えた日本独占資本は、その危機を乗り切るため、下層労働者への首切り合理化を居丈高に行う一方、省エネ、省資源、省労働力のための知識集約型・高付加価値産業への産業構造の全面的転換を計り始めた。このような背景の中で教育そのものが徹底的に再編されようとしている。明瞭に「教育」が投資として位置付けられ、初等・中等教育期での選別、分断という能力主義的方向性が大きく打ち出され、さらには大衆化した高等教育再編の要とも言うべき重要な場所に存在している。
すなわち、産業構造の帝国主義的再編ををもくろむ日本独占資本の要請(これを「社会の要請」と彼等は言うのだが)を全面的に受ける形で出されている情報システム科学系、生命科学系、物質科学系、地域環境科学系といった新たな学際領域の設置として、まさに学問の内実そのものが資本の要請に見合ったものとして再編されるばかりでなく、「教育」を投資として考える立場から、教育を研究に従属せしめんとしているのである。学内体制に関していうならば、①学内管理体制の一層の自立化。学内権力の中央集中と管理体制への学外者(管理のプロ)の参与の可能性。②「開かれた大学」(一方では強圧的なロックアウト体制を敷きながらだ!)というスローガンの下、企業の研究者を再教育したり、企業研究と交流したり、委託研究を引き受けたりするのである。こう見てくるならば総合大学院構想というものが、どの方向から出され、どの方向を向いているか(断じて人民の側ではない)が自ずと明らかになってくるであろう。
また一方、このような総合大学院新設を無言のうちに支えるものとして、我々は一切の社会的背景を抜きに自らの研究のみを追求する「研究至上主義体制」を見逃すわけにはいかない。教育再編の方向など一切念頭になく、総合大学院新設も、「研究設備の充実、キャンパスの拡大」くらいにしか受け取らない研究者たちは、十分な議論を全くやらずにまたしても、政府文部省の意向を先取り的に受けようとしているのである。
移転に関していうならば、筑波大移転にみられるような学内労働者への首切り合理化が行われる可能性が強いのだ。実はすでに移転に向けた合理化攻撃として臨時職員への学内試験また演習林季節労働者へのマル生攻撃(*)が行なわれているのである。さらに立川移転に秘められた政治的意図として都内の各国公私立大学、特にお茶の水周辺の諸大学を都周辺に分断〔「分散」か〕統合させようとする動向を見過ごすわけにはいかない。60年安保闘争、大管法闘争、日韓闘争、68・69年の全国学園闘争等、日本の歴史は、偉大な学生運動の昂揚の局面を持っている。また時代の流れにもっとも敏感なのが学生たちであることは韓国、タイの例を見るまでもなく、支配者たちも明確に、認識しているのである。つまり、立川移転はこのような首都治安整備計画の一環としての意味をももっているのである。
(*)マル生(マル生運動)とは、1960年代から1970年代前半にかけて日本国有鉄道(国鉄)や郵政省当局が推進した「生産性を向上させる」とする運動。労働強化と労組潰しが行われ、国労、動労、全逓などの労組は「マル生粉砕」の闘争を行った。
総合大学院新設が自らの帝国主義国家としての矛盾=危機をのりきらんとする日帝の教育部門の再編であることを考えるなら、その危機を乗り切らんがために一方でなされている韓国・東南アジアへの経済侵略(経済援助の美名のもとに!)や国内下層労働者へのしわ寄せと軌を一にするものであることは明らかである。
(3)闘いの方向性と今までの闘い
以上のように考えてくるなら、百年祭糾弾―立川移転阻止の闘いは、それのみで自己完結するものでないことは明らかであろう。現在の大学を覆う「研究至上主義体制」を根底的に撃つ視点は、この百年祭糾弾闘争にこそ据えられるべきであるし、さらに教育の帝国主義的再編に抗する闘いとしてあらゆる他の闘いと連帯する必要がある。
このような中から、われわれは学内のすべての闘う人々に百年祭糾弾闘争を提起し、研究至上主義体制の下で劣悪な条件に置かれている臨職のその闘いを展開している人びと等々を結集して、百年祭糾弾全学実を結成するに至った。(77年2月16日結成集会を持つ。結成当時の参加団体:東大の歴史を糾弾する連絡会議、東大百年を告発する会、全学職員連絡会議、百年祭糾弾全医実(精医連、青医連、病院反戦)、反弾圧連絡会議、演習林職組、医学部自治会、三鷹寮自治会、公開自主講座『大学論』)
われわれはひとつのピークを4.12記念式典におき、闘いを展開していったところ、当初安田講堂で、東大闘争圧殺宣言として千人規模で行われるはずだった式典は規模を3百人にまで縮小させ〔学外の〕神田学士会館へと逃亡するに至った。向坊新総長に公開質問状をだす一方、(これは時計台ゲバルト職員のガードの下に完全に無視された)、4.11入学式での向坊糾弾闘争、さらに4.12記念式典には3百数十名のデモを組織して、糾弾行動を行なった。このような闘いの中で、百年祭の政府・財界に向けた東大闘争圧殺宣言としての意味はほとんどなくなったと言ってよい。(式典には百八十人しか参加しなかったのだ。)
4.12記念式典以降、百年祭記念事業は、陰でひたすら金集めに奔走するといった形になったため、戦いもまたはた目には地味に映ったかもしれないが、着々とその成果を上げている。医学部・文学部の募金非協力を始め、企業募金の大幅な延期をもたらした大石募金委員長糾弾闘争、等々、あくまでも原則的な戦いを展開してきた。(一方では原理研、日共=民青の歩調を合わせた誹謗中傷を受けつつ。)要するに、現在的に、百年祭を骨抜きにしているのは百年祭糾弾全学実に結集するわれわれの闘いの成果であると明言してよいと思う。
(4)今後の闘い
われわれはあくまでも百年祭をやめさせ、総合大学院新設を阻止する戦いを追求する。その闘いの中から現在の「研究至上主義体制」を根底的に変えるものを作ってゆきたいと思う。具体的に百年祭に関していうなら、反対署名400を背景に文学部の募金協力拒否声明を山本学部長に出させた闘いの質を、ほかの学部の学生へ、また労働者へと提起し、全学的な戦いの結集をもって向坊総長、大石募金委員長との団交を実現し、この大衆団交の中で、募金中止を勝ち取っていこうと考える。また総長は先日の「中央委」との「交渉」席上で、事業募金は経団連の花村副会長を通じて行われようとしていることを明らかにした。
われわれ文学部の正式な(また医学部の実質的な)募金非協力の事実を学外にも情宣しつつ、この事実をはっきりと「金を出す」側、花村副会長及び茅記念事業後援会長につきつけ、中止をせまる闘いを展開していきたい。
2.学費値上げ阻止
《53年度学費値上げ阻止!公共料金の値上げ=人民収奪をすべての労働者・学生と連帯して粉砕しよう!!》
-----(判読不可能箇所数行含め一段落略)------
文学部生は学費値上げがもろもろの公共料金値上げの一環としてあり、またそれらは労働者に対する首切り=合理化等の現在的な攻撃と同じ根拠によるものであることを認識し、学生として、より厳しい収奪にさらされている私立大生とも連帯して、またすべての闘う労働者と連帯してまず東大内で国公合理化攻撃と闘っている職員、労働者と連帯して、反撃の闘いに立ち上がろう。昭和30年代からの四度にわたる値上げに続いて打ち出されている今回の大幅な学費値上げを日本帝国主義の現在的な危機との関係から捉えておく必要がある。
(1)高度成長期における学費値上げ
(略)
(2)現在の値上げ攻撃
(略)
(3)闘いの方向性
「受益者負担の原則」なるイデオロギーは産業資本主義段階の古典的ブルジョア・イデオロギーである。それはブルジョワ社会が個の集合にすぎぬことを端的に表現している。
(中略)
現在「受益者負担の原則」という骨董品が担ぎ出されているのは、この帝国主義国家において、支配階級が教育にまで手を回している余裕を失って「土台」たる経済活動に全精力を集中しなければならなくなっており、また彼らの社会的統合力が失われ、社会が個の集合にすぎぬという事実がむき出しになろうとしているという危機の端的な表れなのだ。
資本主義を前提とする限り、経済的危機にあえぐ体制が学費をはじめとする公共料金その他によって、金をかき集め(そして公共投資などの景気対策に集中し)ようとするのは必然なのだ。したがって日共-民青のように、公共投資を減らし教育関係予算を増やせば学費は値上げしないで済むというのは、あたかもそれが体制の問題を抜きに可能であるかのように言うことにより、日帝の危機と体制の問題性を隠ぺいすることに他ならない。(確かに帝国主義は「社会主義への入り口」なのだが「進歩的要求」を単に延長するだけでは決して実現できないのだ。)
われわれは体制の問題を前面に出して反撃していかねばならない。日共が持ちだす「機会均等」なる原則は、実際には学習条件(塾や家庭教師等)の差は放置したまま、義務化された小中学校で”平等に”競争させ、”できない”ものを途中で次々とふるい落としつつ、”できるもの”を大学に入れてやる(安い学費、奨学金)仕組みである。そして支配階級があらゆる階層から”優秀な”学生をピックアップし、官僚・技術者として利用しようという仕組みである。
学費値上げは大学生の出身階層に偏りをもたらす一因ではあるが、東大に金持ちの子弟が集中している―したがって「生活擁護」などを一般的には言えない―ことからわかるように、決定的要因は義務教育課程における機会均等という形式的自由(競争)の枠の下で貫徹されている差別・選別の体制なのである。
学費が差別の一因である以上われわれは値上げに断固反対するが、同時にまた、初等中等教育課程を貫く差別・選別体制と闘う姿勢をも確立していかねばならない。
初等中等教育課程が大学向けの選別機構であるとすれば、国立大学、とりわけ東大は支配階級を支える官僚・技術者の養成と体制を支える科学技術の生産を主要な機能としている。したがって我々は日共諸君のように「誰もが入れるように」学費値上げを闘うわけにはいかない。われわれはこうした東大の機能を粉砕する闘い(百年祭粉砕、研究教育の帝国主義的再編の一環としての立川移転・総合大学院新設粉砕の闘い)と結びつけつつ闘う必要がある。
したがってまたわれわれはこの闘いを大学院進学への学生の欲求を無前提に根拠として戦うこともできないのである。
以上全体を踏まえ、われわれは学費値上げがもろもろの公共料金値上げと並んで、危機にある政府―支配階級が人民収奪によって矛盾を転嫁しようという攻撃ととらえ、それに対する断固たる反撃の闘いとして、学大〔学生大会〕決議を背景にストライキで闘っていくことを提起したい。(以上)
3.総長室体制との闘い
(1)「臨職闘争への連帯、総長室の責任追及」か?〔1ページ分欠落〕
-----臨職定員化の責任は明確に大学当局にある。
(2)総長室体制について
現在の大学の職員管理の中枢を握るのは「総長室」である。
いわゆる「総長室体制」とは68年11月、東大闘争の深化の中で、加藤(前)総長代行が「代行」になることと引き換えに要求した「非常大権」が既成事実化していったもので、以後、「立ち入り禁止」「退去命令」「警察力の出動要請」、「職員の処分」等はすべて、総長の専決事項となり、学部長会議や評議会は事後承認機関となった。
そして、総長室は警察・検察権力と直結し、学生・職員並びに部局教授会に対しても門を閉ざした「密室」となっており、一方で、評議会、学部長会議、部局教授会の「総長がそう言ってるのだから」という、無責任な「言い逃れ体制」を生み出している。
総長室はこれまでも臨職の定員化に対しても一定の規制をくわえてきた。が現在、後で述べるように、臨職への学内試験を行うことにより、臨職管理の合理化と中央集権化を露骨に進めてきている。そして学内臨職闘争も、この「総長室体制」を撃つものとして存在ししている。現在向坊体制になり、一定の柔軟姿勢を示しているものの、安田講堂の中はビラ巻きすら自由にできない状態にあり、「総長室」がそのまま職員・学生への弾圧機関となりうることを忘れてはならない。われわれはこうした「総長室」の解体を目指して闘っていかねばならない。
(3)五・二四問題
以上のような状態を背景に、1970年地震研における、定員化を要求した石川氏に対する宮村教授の暴行事件を発端として臨職闘争が全学的に拡大し、応微研、農学部等でも、国公合理化攻撃への闘いと臨職の定員化要求を軸に、熾烈に闘争が闘われた。
74年5月24日の5名の職員の総長との話し合いを求めた総長室座り込みは、応微研闘争を闘った職員の解雇休職処分撤回のためのものであった。臨職を生み出した責任が当局にある以上、臨職問題の解決の責任は当然当局にあり、この解決を求めた闘った職員への解雇休職処分が全く不当なものであることは言うまでもない。また、この解雇休職処分撤回のために、先にも書いたように、「職員の処分」の専決権を持つ総長に話し合いを求めるのは理にかなったことであり「座り込み」という手段は、それまでに再三話し合いをあらゆる形で要求し、それらが一切拒否されたうえでの当然の手段だったのである。
これに対して林(前)総長は、その専決権により、機動隊を導入し、この5名の職員を逮捕させるに至った。そして、さらには職員のそれまでの行動の詳細な記録が応微研から総長室に提出され、その記録が検察側の手に渡り、5名の職員の起訴の要因となったことが確認されている。
今年2回にわたる向坊総長との交渉の中では、不十分ながら弾圧に関する一定の自己批判を引き出し、5.24問題の警察力導入の責任問題が引き継がれていること、臨職の定員化待遇の改善には、総長にも責任があることなどが確認され、8月12日には、高裁に向けて総長からの「無罪上申書提出」が、職員らの粘り強い闘いによって勝ち取られた。
われわれは4月以来のこの闘いに連帯し、文学部長団交の中で5.24弾圧に対する批判、無罪上申書提出に向けた総長への働きかけなどを勝ち取ってきた。そして総長交渉に向け1か月以上の闘い(昼デモ、総長補佐の追及等)を共に戦い抜き、総長交渉の統一交渉団のメンバーに加わって交渉を貫徹してきた。
現在応微研労研を中心に「5・24被告を守る会」が結成されている。(総長の上申書でもって無罪が勝ち取れるとは言い切れない以上)われわれはこの「守る会」とともに有罪解雇攻撃をはねのけ、総長の責任追及と裁判闘争へと結集して闘ってゆく。
(4)立川移転へ向けた職員の合理化再編
現在、演習林において労働者への首切り、賃下げ、マル生攻撃が強引に推し進められていることからも見られるように、学内の労働者の合理化再編が新たに画策されている。
その最も露骨なものが、7月末以来三次に渡り、抜き打ち的に当局によって行われた、臨職への学内試験である。これは、これまで部局ごとに行われてきた、協議採用の慣例を無視し、また、年齢制限、男女差別を設けて、これまで長い年月にわたり臨職として働いてきた労働者(すなわち「金のかかる」労働者)をきりすてるものとしてあり、「定員化」による給与ダウンへの補償もいっさいされていない。そして「定員化」された労働者にはすべて配転が伴う。
こういった学内試験を強行する当局の意図は、これまで部局の裁量に任されてきた臨職の定員化を、試験を通して本部が一括管理し職員の中央集権化を強め、大学全体の配転合理化を推し進めることにある。こういった臨職への攻撃は、第四次定員削減を背景に、立川移転の中で全面的再編を行っていく先取り攻撃であることもはっきり押さえておく必要がある。
また今回定員化の順番が回ってきたにも関わらず、不当な試験を拒否して協議採用を要求している農学部 D さんに関して、総長は協議採用に努力すると発言しておきながら、人事院への協議採用申請を取り下げ、D さんの定員化問題を放置している。これは学内試験を導入することで、今までの定員化をなし崩し的に反故にするものにほかならない。われわれはこういった管理姿勢を糾弾し、 D さんの即時定員化を要求すると同時にあくまでも全臨職の即時定員化を求める原則的な臨職の闘いに呼応していかなければならない。
現在「臨職の学内試験を阻止する連絡会議」を中心に、試験及び定員化の問題での総長交渉を要求する署名活動が進められているが、われわれはこの活動を共にやっていこう。
(5)文学部生としての闘いの方向性
以上みてきたように、臨職闘争を闘うことは、大学の職員管理への闘いにとどまらず、大学の研究・教育の「研究至上主義的―分業体制」を解体しようとするものに他ならない。我々学生が即自的な「学問」の楽しさのみに没頭するならば、現在の、多くの職員を「抑圧」することによって成立している研究・教育の構造を見失うことになるだろう。
われわれは現在、百年祭、立川移転を主軸に闘っているが、この闘いが上でふれたような「研究至上主義体制」の粉砕を目指すものである以上、われわれは、まずその体制下で抑圧されている臨職、労働者との連帯、結合をいっそう強めていく必要がある。
さらに臨職問題は個別東大の枠を越えた、政府支配階級の合理化政策を背景とするものである以上、階級的視点を確立しつつ、この闘いに連帯してゆく必要がある。すべての人がともに闘いに参加することを訴える。
4.教室ロックアウト体制粉砕
現在の学友会活動の大きな低迷、とりわけサークル活動・学科活動の不毛は文学部当局の教室使用への強権的管理、そして5時以降の完全ロック・アウト体制と無関係ではない。われわれはサークル活動の充実、そして学科の自主ゼミ等の活発化を保障していくべく、この当局の強権的な管理を突破して、いく決意である。具体的に述べると学生の自主的な教室使用を保障し、とりわけ5時以降は職員の勤務時間との関係から、学生のによる教室の自主的管理による教室使用を保障するよう、文学部当局に要求し、これを断乎として克ちとる決意である。
〔7行ほど判読できず。〕-----
教養学部では、クラス・タイムを設けることができ、自主ゼミ・講演会等を企画することもできた。そしてクラスタイムでは「学費問題」等を議論したこともあるはずだ。
しかしこの文学部では、ただでさえわれわれは学科・ゼミという小集団の中にいるのに、学館のような、我々が顔を合わせて議論する場所でさえ保証されていない。そして、そればかりか、学科の自主的な研究会ですら、研究室の空いている時間をみて使わしてもらうという状態である。いわんや、学科の--から外れて講演会などをしようものなら、それを阻む大きな壁にぶつかるのである。サークル活動においても然り。
では次にこの強権的な教室管理の実態を述べると、まず、教室を自主的に使用する場合、「学部附属の諸室、会議所又は学生控所貸付規則」というものに制約を受ける。第一の条件として、常勤講師以上の教官の紹介が要る。このことは教官が「好ましからず」と考えた企画は認められないということを意味する。
そして、教官の紹介=了解を得たとしても、文学部独自の「慣習的な内規」というものにぶつかる。慣習的というのは、68年~69年の東大闘争を権力の血の弾圧で圧殺して以来「慣習化」されたということで、つまり「正常化」=学内管理を保障するものとして、当局によってつくられたものなのである。
これによると、使用前1週間以上で2週間以内にのみ受け付けるとか、使える時間は3時~5時に限るとか、使用できる団体は学部の公認の団体と学科に限るとか、使用紹介教官の立ち合いを原則とするとか、ゼミ室は使用させないとか---、その弾圧的な面は枚挙にいとまがない。さらに以上の条件が満たされたとしても、隣りの教室で講義が行われているので貸せない、などと言い出す始末である。
ここには「学生が集まると何をしでかすかわからない」という当局の予防拘束的な弾圧の姿勢と「何が何でも学生を管理するんだ」という管理者の態度があるだけで、学生の自由な活動(それこそ大学の歴史的理念として最も尊重されるべきものだ!)を認めようとする姿勢はカケラもない。ここでは学生はあくまでも”管理されるモノ”としてあるにすぎない。
この学生を“管理されるモノ”として扱う当局の強権的ロックアウト体制こそ、文学部を疎外された空間としている大きな要因の一つであるということを再度言っておく!
このような状態は文学部において最も甚だしいということも付け加えておかねばならない。教養〔学部〕では皆---最大9時まで居残りできた。我々は「他学部並み」の教室使用をかち取らねばならぬ。このことが低迷した学友会活動の現状を突破する一つの基盤となるからである。当局の強圧的な学生管理を粉砕して我々の自らの手による自主的な活動を確立していこう!
行動提起として、5時までの教室使用規定に関しては、従来の「内規」なるものを完全に撤廃し、学生の教室使用の自由を確立する。そして5時以降については(労働者とともに自主講座などを持つ場合にはこの時間に限られる)学生による教室の自主管理権を確立する。以上山本学部長に対して断固たる態度で要求していく。
<夜間パト〔ロール〕粉砕>
毎晩本富士署のパトカー2台で行われている本郷キャンパス全域にわたる巡回体制は、明確な、国家権力による学内常駐を意味するものであり、予防的な弾圧姿勢の表れである。
学生・労働者の闘いが高揚するに応じ、それを弾圧する側もこれを巧みに総括する。東大闘争圧殺の過程から生まれた総長室専決体制然り、文学部ロックアウト体制然りである。
国家権力からは相対的に自律性をもって、学問研究生産の営為をなす大学機構は、日常的な平穏さの中では「大学の独自性」の枠内で学生・労働者を管理し得るが、しかし、学内体制がその根底から問われだし、学内秩序が揺らぎ始めると、学内権力者は「正常な教育研究の維持」の口実で国家権力の介入を要請し、本質的問題を刑事事件にすり替えて、闘争の収束を図るのが、歴史的な常套手段であった。
夜間パト体制こそは、国家権力-東大当局相互の了解による日常的な弾圧であり、学内で闘う部分に対する予防的な弾圧体制である。この夜間パトは、文学部における夜間ロックアウトとともに現今学内秩序の本質を計らずもあらわしている。これを盗難予防の警備というのは、当局のデマであることは明らかであろう。
そしてまた、日共=民青の「大学自治への介入であり、総長はこれを止めよ」なる視点のデタラメも明らかである。むしろ総長室専決体制による学内秩序維持のために夜間パトが要請されているのであって、一般的に「自治への介入」などではない。
われわれは「百年祭」糾弾ー募金阻止の大衆的闘争を背景として向坊総長に対して断固とした団交を挑み、夜間パトを中止させ、総長室と国家権力一体となった学内弾圧体制の一角を突き崩していかなければならない。
5.狭山闘争を闘おう
(1)狭山差別裁判とは
1963年(S38年)5月、埼玉県狭山市で起こった女子高校生「誘拐」殺害事件(善枝ちゃん事件)の犯人として、付近の被差別部落の石川一雄さんという青年がでっち上げ逮捕された。当時、東京で吉展ちゃん誘拐事件が起こっており、身代金を取りに来た犯人を取り逃がし、捜査は行き詰まり、警察の無能ぶりへの非難が集中した。そうした中で善枝ちゃん「誘拐」事件で警察は、再び、身代金を取りに来た犯人を、話しを交わしながら取り逃がし、警察の威信は丸つぶれとなり、国会で取り上げられるほどの社会問題となったのである。
事件発生の数日後、善枝さんの死体発見直後、その身近なところにいたひとりの男が結婚式を前日に控えて「自殺」を遂げた。この男は善枝さんの対内に残された犯人の血液型と同じB型であり、詳しい捜査をするべきであるにも関わらず、警察はすぐに「シロ」と発表したのである。
その背景には、「どうしても生きた犯人を捕まえねば」という威信回復のためなら、でっち上げも辞さないまでに追い込まれた警察の醜態があった。こうして「生きた犯人」をでっち上げるべく、付近住民の差別意識を最大限利用し、被差別部落に集中的な見込み捜査を開始し、「筆跡に一致」「血液型の一致」というアイマイな根拠をもとに石川一雄さんを犯人に仕立て上げたのである。
一か月に及ぶ拷問、脅迫の果てに、「十年で出してやる」という言を弄し、部落差別ゆえに小学校も半ばまでしか行けなかった石川さんの社会的無知に付け込み、ウソの「自白」を引き出したのである。
このため石川さんは一審浦和地裁において半年というスピード審理の結果、死刑を宣告されたのである。
石川さんは、しかし、「十年で出してやる」という刑事の言葉をなおも信じ、全く動じることなく平然としていたと同房の者が証言している。死刑囚の房に入って、石川さん同様、死刑に陥れられた人に悟らされ、はじめて石川さんはだまされていたことに気づくのである。控訴審の冒頭、石川さんは敢然と無実の叫びをあげるのである。
この二審の過程で、石川さんの無実は次々と証明されていく。石川=クロの証拠とされた物証がことごとく崩れていくのである。たとえば、被害者の万年筆は、石川宅から出てきたとされるのであるが、二度にわたる入念な家宅捜索では発見されなかったのが、三度目にひょっこり180㎝ほどの高さの鴨居から出てきた。またこの万年筆のインクは、被害者が事件前まで書いていた日記の色と違うのである。警察の捏造と考えるほかない。また、被害者の腕時計も、当初発表の品ぶれ〔警察が紛失品や盗品などの特徴を書き、質屋・古物商などに触れ示すこと 〕と異なる側番号のものが証拠として採用されている。これもまた捏造されたものに他ならない。また、注意せねばならないのは、こうした「証拠」はすべて、被害者の長兄中田健治の証言によって、証拠能力を有するという点である。
そのほか様々な無実の証拠が出てくるが、74年10月、東京高裁寺尾裁判長は、まったく論理性を無視し、無期有罪判決を下したのである。そして、本年8月、最高裁は高裁判決を追認し、上告棄却の挙に出、石川さんを極秘裏に千葉刑務所へ移管した。
(2)狭山闘争の展開
1970年以来、部落解放同盟は無実の兄弟石川一雄を権力の差別によって殺させることは、解放運動の自殺に等しいとし、全組織をあげてこの闘いに起ちあがった。解放同盟は、この闘いの中で労働者階級への共闘を提起し、「部落の解放なくして、労働者の解放なし。労働者の解放なくして部落の解放なし」という命題の下、解放運動史上画期的な、労働者との大きな連帯をかち取ってきた。
狭山闘争の高揚の中、74年秋期決戦においては、安保以来という10数万の部落大衆、労働者、学生、市民が日比谷を埋め尽くし、狭山闘争は、単なる一裁判闘争としてではなく、一大政治闘争としてはっきりとした反権力共同闘争としての性格を示したのである。しかし、この闘いはまだ大衆的な実力闘争を貫徹するまでには至らず、二審の「敗北」を許してしまった。そして情勢がますます煮つまり、日帝国家権力の弾圧激化という情況の下、分裂しあるいは右傾化していく労働運動、解放運動の動向、そして低迷する学生運動の現状ゆえに、さらなる前進をかち取りえず、最高裁の上告棄却を許してしまったのである。
われわれには今、より困難な闘いが残されている。再審を認めさせる闘いは、高裁や最高裁で無罪を勝ち取る以上に困難な闘いである。しかし、石川さんを生きて奪還しない限り、狭山闘争の勝利はあり得ず、現状では、狭山闘争の勝利なくしては全国的な規模での情勢の転換、権力の攻撃を突破することはできないであろう。われわれはこれに勝たねばならぬ。
(3)狭山闘争の意義
解放同盟は狭山闘争の意義を「狭山思想」として3点にまとめている。第一に反権力闘争として、第二に共同闘争として、第三に大衆的実力闘争としてである。
第一の反権力闘争としての狭山闘争は、戦前からの反天皇制、反権力の闘いの伝統を持つ、水平社の運動の地平に起ち、さらに大和報国運動へと包摂されていった水平社の運動をこえる闘いへと展開され得る闘いである。また労働者階級をはじめとして広範な人々との共同闘争として狭山闘争があるということは、階級支配の一つの環として部落差別があり、また差別構造がいたるところ貫徹していることを見るならば、階級支配を根底から揺るがす質を持ちうる点できわめて重要である。
また我々にとって狭山闘争を闘うことはいかなる意義を持つであろうか。
解放運動は教育に始まり、教育に終るという言葉がある。石川一雄さんの生い立ちを見るときこの言葉は重みを増す。部落差別ゆえに教育を奪われ、その結果としての社会的無知につけこまれ、殺人犯として石川さんはでっち上げられたのである。現在強権的に推し進められているところの差別選別教育、能力主義教育の頂点に立ち、そして一貫して日本帝国主義国家機構を支える官僚、技術者を生み出してきた東大の中にあって、教育を問うことは「学問」に疎外され抑圧されてきた人々の声を聴き、それと連帯していく道を模索することであるべきだ。狭山闘争は反差別の闘いである。反東大、反百年の闘いは、これと結合することによって更に高い質を獲得し得るであろう。また、地域において差別の現状から起ちあがった、部落大衆の切実な要求に根ざし、地道な活動を進めている解放運動に学ぶ点は多い。
狭山闘争は反権力、反差別の共同闘争、実力闘争としてある。すべての反権力闘争がここに合流し得る質を持つ。そして部落差別そのものである石川氏獄死攻撃を見過ごすことはわれわれの運動の自殺に等しい。部落差別を、あらゆる差別・抑圧を我々はゆるすことはできない。
(4)狭山闘争の現状
[77年]8月9日の上告棄却によって石川さんは千葉刑務所に移監され、接見の制限等様々な攻撃がかけられている。解放同盟は再審をかちとるべく、50万人署名をはじめ、同盟休校、ストライキという実力闘争をも闘っている。再審請求の闘いは大衆的な実力闘争でもって権力を追い詰めない限り不可能である。最近明らかになった、石川無実の証言、あるいは7人の変死者の謎を解くこと、こうしたことと結合して、実力闘争で権力を追い詰めなければならない。
我々文学部学生は、あらゆる差別を許さないという立場から、この狭山闘争を闘う決意である。共に闘わん。
【Ⅱ】学友会低迷の現状と我々の闘いの方針
今日の文学部学友会の低迷ぶりはだれの目にも明らかであろう。我々はその原因を一方では研究至上主義体制とそれを支える枠としての総長室体制に見るし、他方では、その体制を補完することで自らの組織維持≒自治会支配を狙っている日共=民青による党派的引き回しに見る。
以下【1】においては、総長室体制の歴史的形成、出現を概括し、そのもとで保障される研究至上主義体制を解明し、そのもとに屈服させられている学生大衆の戸別専門分野へののめり込み状況を明らかにしてゆきたい。
また【2】においては日共=民青による自治会活動の二つの柱である「全構成員自治」イデオロギー と「諸要求実現、ものとり主義」を批判し、彼らの自治会運動は、ひとえに自己の組織維持、自治会支配にあり、それ故、現今の総長室体制と歩調を合わすものであることを明らかにして行きたい。
【1】総長室体制による学生・労働者支配
1)その歴史的形成について
11月18日文学部学生大会で我々が幾度も強調したように、これを解明するとき、62,63年大管法闘争とその敗北による「国大協自主規制路線」の定着までさかのぼって検討しなければならない。60年安保闘争で、大学が政治化するのを極度に恐れた独占ブルジョアジー、政府文部省は「国立大学運営法案(仮称)」の国会上程をもくろみ、文部大臣―学長―学部長の統制ルートを確立して、一挙に国立大学を国家権力の完全管理下に置こうとした。
この法案上程に対し「大学の自治」=「教授会の自治」の立場から教官層の一定程度の動きがあり、池田首相と国大協中枢との裏取引がなされ、結果として、上程は見送られた。しかしこの闘争は守るべき「大学の自治」「学問の自由」の内実を何ら捉え返し再検討することなく、あたかも、それらが既存するかのごとき幻想にとらわれていたがゆえに、重大な問題が残された。
すなわち「上程阻止」に見えたこの闘争は、その実、背後では、中山伊知郎、東畑精一、有沢広巳ら「池田首相と親しい学長、長老」らによる池田とのボス交渉が行われていた。
そこで取り交わされた確認は、大学側は国立大学協会(当時、茅誠司会長、現「百年記念事業後援会会長」)― 個別大学当局の線で政府の意向を先取りし、肩代わりし、自主的規制によって学生大衆を管理してゆくことであった。
実際、その自主的規制の姿勢は、ほかならぬ大管法闘争を尖鋭的に担った学生に対する一方的処分によって政府、ブルジョアジーに示されたのである。
かくして、学内研究者たちは、自己の研究が社会全体で占める位置を問うことなく、政府の直接介入さえ排除すれば、「学問の自由」は守られたのであり、何事にも邪魔されずに研究に没頭できれば「研究の自由」は守られているのだ、という意識を強くを持ち始める。
しかし、実は、この意識こそ研究者(教官)の特権的特殊利害の貫徹を意味するものであり、後に述べるように、総長室体制=研究至上主義体制を生み出す背景となってゆくのである。
62,63年大管法闘争の中で生じてきた「国大協自主規制路線」とは、まさしく、研究者の特権的利害を貫徹するために、尖鋭的に闘う学生、労働者を自主的に処分・弾圧してゆくことであったわけである。
その後、68,69年東大闘争の巨大な昂揚を従来の教授会自治では自主的に押さえつけられなくなった東大当局は、68年11月加藤一郎が総長事務取扱い代行に選出された段階で、いわゆる総長室を発足させ、東大闘争への集中的効率的な血の大弾圧を加えていくことになる。(総長室がいかなる権限=非常大権を持ち、いかなることを行ってきたかは、「臨職闘争に連帯しよう」を参照していただきたい。)
総長室に学内管理運営に関する権限が集中したことは、一方では学生、労働者の闘い(特に70年代臨職闘争)への弾圧を効率的たらしめ、他方では学内研究者への負担責任を軽減し、彼等をいっそう自由に個別専門領域への埋没専念を許したのである。ここから研究至上主義体制はいっそう強化され成長してくることになる。
2) 研究至上主義体制と総長室体制によるその強化
東大闘争の過程で、総長室体制が、出現、形成されたことは1)の通りだが、それを背後から支えたのが、「国大協自主規制路線」以来の教官の一般的意識だった。それは「自己の研究と大学全体の社会的機能」などという問題で追及されるのはたまらん、自分の専門研究だけをしたいという意識である。
彼等は管理運営に対する煩雑な事務と責任を喜んで総長に奉納し、自己の専門領域に戻ったのである。しかし、かれらはそのことで同時に、全社会的な関係の中で自分の学問の意味を捉える姿勢を完全に放棄してしまったのである。かれらにとって、研究に没頭して業績を獲得すること、そのための環境・設備が保障されることことが何にもまして最重要関心事となり、その研究の全社会で占める位置関係とか、学内に存在する臨職体制(それ自体、研究が生み出した)等々は一切無視されてしまうのである。「純粋な学問への貢献」等々の虚偽イデオロギー がこれらの事態を正当化するのに利用されている。
現在の東大の研究者にとって「学問研究の自由」とは、まず、管理運営の責任からの自由であり、他者への口出しや批判を回避する自由であり、その下で、公費を使っての専門への埋没と業績獲得の自由を意味している。我々は、この体系全体を研究至上主義体制と言っている。これは研究者層の持つ特権的利害の貫徹を意味し、結果として労働者、学生への抑圧・差別を生み出している。
この体制は、研究者が自らの特権的地位確保と業績獲得を目指す階層である故に、これまで一貫して存在し「国大協自主規制路線」の過程でさらに強固になってきたものであるが、70年以降も総長室への権限の集中と相対応して一層飛躍的に強化されてきた点に特に注意すべきであり、それは独占ブルジョアジーも期待する点なのである。(Ⅰの(1)参照。)
3)研究至上主義体制と学生の分断管理
研究者は、自らの特権的利害を貫徹するために、学内支配秩序を総長室体制によって維持し、その中で学生大衆を専門領域への埋没へと追い立てて行く。つまり研究至上主義体制は学生を研究者利害と同じ位相へと引きずり込むのである。就職、進学のために学生は、単位、成績の獲得を余儀なくされ、授業ゼミへと縛り付けられる。
授業ゼミでは、その個別分野での知識の優越性が人間のトータルな優越性を示すものとされ、これが学生に教官への屈服を強いる。教官の直接的権力は学生への「単位認定権」である。授業ゼミに縛り付けられた学生は教官の提起する「課題」の研究に駆り立てられ、その「課題」の研究の、現社会に対する位置関係を一切捨象して、それにのめり込んでいく。学生諸個人は主観的には“孤高なる学問への道”“純粋な認識欲求による学問への熱意”と自己を観念することでこの位置関係の捨象を正当化し、授業ゼミ等の秩序へと自己適応してゆこうとする。
かくて単位、成績取得―卒業―進学・就職のルートに誘導される学生大衆は、“学問する個人”へと分断され、教官たちの管理下に組み込まれる。このため学内諸矛盾(後述)の認識、自覚を日常的に妨げられるか、もしくはそれへの発言の姿勢を日常的にくじかれるようになる。
ここに分断・管理された学生諸個人の「政治的無関心」またはそれを装う姿勢が生まれてくる。現学友会の死滅的低迷の主たる背景はまさしくこの点にこそ求められる。
【2】日共=民青の自治会ひきまわし
〔(1)「全構成員自治」イデオロギー批判、(2)「諸要求実現、ものとり主義」批判、ともに省略〕
【3】我々の闘いの方向
我々はまず学友会活動の軸を「百年祭」糾弾闘争にすえようと思う。これこそ日本資本主義の構造的転換に沿った、独占ブルジョアジーの意向と、学内研究者特権的利害とが一致したところに成立したものと我々は断ずる。これとの闘いは不断に我々学生存在のありようを問い返さずにおかないだろうし、また差別・抑圧された学内労働者への闘いへと我々を導いてゆくだろう。すでに移転再編を射程に入れた職員労働者への再編合理化攻撃がかけられて来ている。まさしく現在の情勢は向坊総長室が移転・新設に向けた現在的な合理化再編、学生大衆の完全な買収をなしきるのか、あるいはまた労学の団結をもって、「記念‐募金」粉砕、合理化再編阻止を克ちとっていくのかが、鋭く問われており、今回の学友会選挙の本質的争点はまさにここにこそあることを確認してほしい。
我々のこれまでの闘いは、一定、その後者をなし切ってきたと考える。山本文学部長「式典」不参加、早島募金委員辞任、臨職への5.24弾圧に関し無罪上申を行うよう、学部長から総長に働きかけさせたこと、大石募金委員長追及、そしてあの四百の募金協力反対署名による10.26文学部非協力声明の獲得などがその一端であった。
まず我々は、募金阻止、「記念」白紙撤回に向けて向坊、大石に大衆団交を要求してゆくだろう。また、茅誠司後援会会長、花村経団連副会長に、公開質問状をつきつけ、2人に公開討論会を挑んでいくだろう。更に5.24弾圧や「臨職への学内試験阻止」を闘う労働者との連帯を模索し、総長室体制解体の闘いを具体的に展開するだろう。
また一方では、総合大学院に象徴される教育総体再編の実情を認識するために「教育を考えるシンポジウム」を精力的に展開してゆくであろう。
すでにわれわれはこれら一連の闘いのある程度を、自らの課題として担ってきた。そのような質を深化させつつ、我々は闘う学友会の再生のために、団結して闘おうと思う。共に、いざ!