第四部 山を歩く/山に登る  その3. 

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ブログ風 山歩きの現在 見出し

2022年
1月1日 <初日の出を見るため、元日に宝が峰に登る>

1月2日 <淡路が峠に初のぼり>
1月7日 <今年初めての山歩き/トレッキング>
1月10日<横谷に降り観音山に上ろうとしたが>
2月9日<本橋さん、森川さんと3人で観音山へ>
2月10日<白石池―横谷ルートの探索>
2月11日 <ノビさんと白石池―横谷ルートの探索---昨日の続き>
2月12日<横谷へ超楽に往復できるルートの”発見”!>
2月21日<12日に発見した「超楽なコース」よりももっと楽しく&楽な横谷往復コースの開拓>
2月24日 (木)<腰折山ー恵良山トレッキング>
3月5日<新ルートの歩き初め>
3月8日<尾根道の新ルートから白石池側に降りる道の探索>
3月20日<44番鉄塔で「お山ランチ会」>
3月25日<大月山トレッキング>
4月7日<宮之浦岳登山用フル装備で44番鉄塔へ>
4月9日<再び44番鉄塔で「お山ランチ」>
4月10日<宇和島の中島さんらと島並み海道サイクリング>
6月7日 <ノビさんの軽井沢でウォーキング>
6月12日< 阿部さんに連れて行ってもらい瓶が森でテント泊 >
6月13日<瓶が森・2日目>
6月28日< 陣が森ー皿が峰トレッキング >
<7月~8月の山歩き/トレーニングのまとめ>































2022年1月1日撮影、宝が峰頂上からの初日の出。標高284mの宝が峰は、4年ほど前から私がトレッキング/トレーニングでよく上っている近所の山。
昨年まで3回、初日の出を見ようと元日の朝、暗いうちに家を出て宝が峰に上ったが、曇天/雨天で、四国山脈の上に昇ってくる日の出を見ることができなかった。だが、今年は天気が良く素晴らしい初日の出を見ることができた。


次の写真は宝が峰の北側の登り口。GoogleEarthに書き加えた。






1月1日 初日の出を見るため、元日に宝が峰に登る。


今朝は6時ごろ起床、6時半過ぎに家を出、初日の出を見るために宝が峰に向かった。松山の日の出の時刻は7時17分だが宝が峰頂上では5~6分遅く、雲があればその上に出るのはさらに遅くなる。去年は確か7時半過ぎにやっと見られた。

一番池(以前は東の池と言っていた)の下の、宝が峰登り口に着いて時計を見ると7時5分過ぎ。空にはほとんど全く雲がなく、頂上までは普通20分かかるので、「これはやばい」とストックを使って休まずに登った。

上にはすでに、常連の渡辺篤さんと藤原さん、戒田さん、それにはじめて会った人がもう一人の4人がきていた。私が急いでカメラをかまえると同時に向こうの山並みの端がパーっと明るくなり、太陽が顔をのぞかせた。太陽が顔を出す場所は、皿が峰と石鎚の間で、2:3くらいで石鎚に近い場所だった。

去年は東の空に雲が出ていて、日はすでに登っているらしくぼんやりと明るいところがすこしずつ上に移っていくが太陽は顔をみせず、7時半過ぎにちらっと雲の間から顔がのぞかせたが、カメラを構えるまもなくまた雲の中に隠れてしまい、それっきりだった。そして、おととしは雨だったので、初めからあきらめた。今年は、本当に素晴らしい日の出を見ることができて、雪辱を晴らしたというような感じがした。

その後、渡辺さんが入れてくれたコーヒーと藤原さん手作りのフルーツケーキをごちそうになり(去年も同じだった。ありがとうございます。)解散した。

2018年の春、夏が来たら富士山にに登ろうと考え、トレーニングのために、宝が峰に登り始めた。淡路が峠には以前から登っており、初日の出を見るために元日にも登ったこともあったが、展望台の東側に生えている木がじゃまになって見えにくい上、人が大勢やってくる。

下の登り口のそばに自転車が10台以上も止められていて、登ってみると中学生らしい若者たちがわいわい騒いでいる。「よく、早起きができたたね」というと、前の晩から遊んでいて、寝ないで来たのだという。

また、展望台の床下から出てきた若者がいて、聞いてみると、自分の部屋だと朝起きられない。ここにきて泊れば、周りが騒がしくなって、必ず目が覚める。それで、寝袋を持ってきて泊ったのだという。

とにかく、淡路が峠は祝休日にやってくる人が多く、元日は特にそうなのだ。そこで2019年の元日には宝が峰に上ることにしたのである。

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1月2日 <淡路が峠に初のぼり>


今朝も6時半過ぎに家を出た。今日は淡路が峠に「初登り」。寒い。桑原中学上の農道周辺は霜で真っ白。脇の土を踏むとバリバリと音をたてて崩れる。霜柱が立っている。

一番かと思いつつ、下の鉄塔の上50mほどの赤シャツコース-青シャツコース分岐点でジャンバーを脱いでいると、ダイハツに勤めているというワタナベさん(字は聞いてない)に追い抜かれた。

そして、上の鉄塔の少し上で、下ってくる森さんに会い、新年のあいさつをしてから少し話をした。 彼女が言う「昨日はあっちに登ったんですか。」 私「ええ、登りました。この数年で最も良い初日の出を見ました。森さんは淡路が峠に来たんですか。」 「ええ。でも、ひどい混みようで、60人くらい詰めかけけていて、うるさくてたまりませんでした。」 「でも今年は休憩所の屋根の上には登ってなかったようですね。」「ええ。そうですね。あっちはどうでしたか。」
「常連4人ともう一人、5人だけでした。この周辺の山の整備をしたり看板を作ったりしてくれている渡辺篤さんという人を知ってますか。彼にコーヒーまで飲ませてもらいました。森さんは初詣か何かに行きましたか。休みはいつまでですか。」「正月休みは4日までなのですが---(聞き取れず)---で忙しく、昨日も会社に行って神棚の掃除をしました。明日も行きます。」 今日は彼女が一番に登ったらしかった。

頂上で、登ったばかりの太陽をちょっと見て、下る。ダイハツのワタナベさんさんは宝が峰まで行ったらしく、姿がなかった。下りで田中さんに合った。彼はほぼ毎日淡路が峠に上るが、昨日は休み。家から初日の出を見た、という。

彼は2年間、毎日淡路が峠に上ってると言い、去年は366回上ったという。去年は2021年で、うるう年ではなかったが、と思って尋ねると、去年は1日に2回上った日があったのだ、という答えだった。

1月3日(月)
今朝も6時半過ぎに家を出る。そして、農道から峠への登り口に近づくと、向こうから森さんがやってきて、同時に登り口に着いた。話をしながらゆっくりと登ったが、私は途中で暑くなって、立ち止まって着ていた上着を脱いで、彼女に先に行ってもらった。 

ダイハツのワタナベさんが私に追いついたので、少し話をした。彼も仕事をしているので、ふだんは峠(展望台)まで上り下りするだけだが、休日は、キレット(次の地図参照)を通って宝が峰まで往復するという。

































峠に私が着いたときはだれの姿も見えず、森さんも宝が峰に行ったのだろうと、すぐに下りにかかったが彼女は展望台にいたらしく、柔軟体操をしていたという。気が付かなかった。

いっしょに話をしながら下った。彼女は、ふだん動かないので太らないように山に来る、という。事務の仕事なんですか、と聞くと、小さい会社なので何でもやる、という。彼女は登るのは速く、下るときには駆け足で降りる。それでも運動不足になるという。

4日~6日は運動せず。6日は午前中雨だった。

1月7日<今年初めての山歩き/トレッキング>


 
快晴、山歩きに行かない手はない。10時半過ぎに家を出て、倉谷山に向かう。一番池の奥の鉄工所の脇から入り、途中でおばさんを1人追い越し、鉄塔へ。このすぐ上に標高380.6mの三角点がある。また倉谷山の頂上は標高410mで鉄塔から南東方向に約400mほど離れたところにある。

12時近かったので、休憩し、「ガッツ・エネルギー」を食べる/飲む。

まもなく、さっき追い越したおばさんが到着。おばさんは倉谷山の頂上まで行くという。家が近所なのでしょっちゅう、散歩のように来ると言う。ただし、家は石手寺の近くで、車で来て溝延団地のあたりに置いてくる、という。

どこまでいくのですか、と聞かれ、横谷に降りて登り返すんです、と答える。鉄塔で30分ほど休憩し、横谷へ下った。下りはほぼ30分。途中、古い方の道から降りた。倒木は切ってあって以前よりは歩きやすかった。

→YAMAP,2021.01.14「横谷巡視路、倒木撤去ミッション、倉谷山」/森の看板屋 を参照。渡邊篤さんが切ってくれたのだ。

しかし、バイパスにでる手前の沢にかかっている木橋が腐っていて、ちょっと危険。帰りは45分くらい。ガレ場の急坂を降りる道の方が無難か。

鉄塔で七草がゆ+シャケの弁当を食べ、帰りは朝来た鉄工所に出る道(鉄塔から南東方向に降りる)ではなく、三角点から北西方向へと降りる道から下って舗装された農道に出るコース(こっちの方が道がよい)で降りた。

帰宅はほぼ3時。家から鉄工所まで30分、鉄塔まで20分。全部で4時間半だが、1時間近くは、休憩と食事。かなり疲れた。4時ごろ入浴。      

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1月9日(日)
今朝も淡路が峠へ。たぶん一番に登り始めたが、途中で、いかにもトレッキングをやっているという格好の人に追いつかれた。やや小柄、やせ型、タイツ姿、背中の小さなザックは体にぴったりと着くタイプ。すごいスピードで登ってきて、私を追い越し、先に登って行った。

その人は展望台で写真を撮ったりして、ゆっくりしていたので、私が先に降りたが、追い越されることはなかった。たぶん、繁多寺側に降りたのだろう。

畑の近くで、田中さんに会った。森さんには会わなかった。

1月10日(月)<横谷に降り観音山に上ろうとしたが>



今日は成人の日、祝日。息子の大地は矢麿樹(うどん店)に出勤。→ 第三部第2章第三節「ダウン症の息子の朝の出勤と私」参照。

10時10分ごろ(7日よりも30分早く)家を出て、鉄工所脇から(以下ブルーの線)倉谷の鉄塔へ。鉄塔には11時半ごろ着。途中で大谷さん(♀)に会う。たぶん2年ぶり。今年の夏は上高地に行くという。この前は立山に行くと言っていた。

鉄塔で一休みしてガッツ・ギアを食べる。12時15分くらいに、横谷に向かって降りる。今日は(地図の緑の線)ガレ場、急坂を下りた(緑の線)。1時少し前、ごみ処分場入り口わきのから山道を歩く。

しかし、この前登ったときは、杉林の谷筋を直登して頂上に出たが、その杉林の谷筋が見つからない。の辺りから、山道をうねうねと南/南東方向に進んでみるがわからない。そのまま進めば平井から登る道に出るだろうと思われたが、そこまでは遠すぎるように感じて、?付近からもとに戻る。

そしてからオレンジの線の北西方向に進んでみた。そこは以前は人が通っていたことは確かなのだが、今は道が見えないほどびっしりとシダが伸びている。そこを30分近く進むと、の崖の上で行き止まりになり、下に横谷の埋め立て地が見えた。下までは50mくらいあり、また周囲は藪で、とても降りられない。しかたなく、はっきりした山道のところまで戻ってから、最初の、処分場入り口のところに出た。

だが、YAMAP2021.05.26(水)「関ヶ森~観音山~倉谷山~淡路ヶ峠」MRCH Yoshidaさんによれば、に出る前にから右に下って処分場に下りられるようだ。

また、2021.06.27(日)「湯築山・関ヶ森・観音山・倉谷山」ちょんちょんさんは、からの「結構な急坂」を下ってに戻っている。

そして、再び、ガレ場・急坂を登り返して倉谷山の鉄塔に戻ったのは3時ごろ。15分か20分くらいで、おかゆ+梅干し、鰹節とノリの弁当を食べ、鉄工所脇に降りて、4時過ぎに帰宅。ほぼ6時間の、かなりきついトレッキングだった。



1月13日(木)
気温は3℃―7℃、曇り、寒い。

午後1時45分ごろ家を出て宝が峰に向かう。一番池と宝谷池の南側を市道が走っている。そして宝が池の端に淡路が峠に行く道を示す看板がある。この看板から左に小道を上がったところ、宝が峰に上る登山口のすぐ手前に小さな社がある。→1月1日のGoogleEarthを使った図を参照。

この小社から頂上まで25分くらいかかる。鉄塔のある頂上からすぐに北東側のジグザグコースを下って、15~6分で丸木橋へ。

この丸木橋を渡って農道を左に100mほど行くと鉄工所前に出る。ここから32~3分で倉谷の鉄塔へ。すぐに下って鉄工所まで22,3分。4時ちょっとすぎになる。帰宅は4時45分頃。  
合計で3時間ほど。負荷は5キロ程度。

倉谷に登った後、宝が峰に登り返すことを次の目標にする。

1月15日(土)
朝6時45分ごろ家をでて淡路が峠へ。気温は1℃くらい。登りの間、下る人とは合わなかったので、たぶん、私が一番だった。下りで畑の上で森さんと会う。

土日に昼間は山歩きをしないんですかと聞くと、普段、勤めなので家でいろいろやることがあって、という返事だった。  

1月25日(火)
9時半に家を出て、10時に宝が峰登口→10時半宝が峰頂上→10時50分鉄工所。 2回目は倉谷山頂上まで行って11時50分鉄塔で昼食→12時45分鉄工所→宝が峰登り返し1時20分頂上→1時45分小社。帰宅は2時15分

1月27日(木)
午後2時過ぎくらいい家を出て宝が峰―マドンナ―淡路が峠展望台(3時40分)―宝が峰―帰宅5時。

マドンナの下半分300m強が全部舗装され、歩きやすくなっていた。展望台で川東さんと会って少し話しをした。 

1月28日(金)
今日はセブンスターまで、歩いて買い物に行く。 行きは、コーヒーを買うため、317号から行き、帰りは、8キロ強の荷物、ストックなしで宝が峰頂上まで往復してから帰宅。

1月30日(日)
朝6時45分くらいから8時15分くらい、淡路が峠往復。気温は3℃だったというが寒かった。 ダイハツのワタナベさんに途中で追い越されたが、彼は頂上からマドンナで降りて、赤シャツコースで登ったらしく、下りで赤―青分岐点でまた会った。もう一人丸顔の太った若者に下りで会った。森さん、田中さん、山内さんには会わなかった。

1月31日(月)
午後、1時半~宝が峰。宝が峰頂上で川東さん他1名(NTTの先輩とか)と会い、赤松さんが倉谷に行ったというので、私も行く気になった。

鉄工所のすぐ上で、降りてきた赤松さんに会った。倉谷鉄塔まで登った後は、エネルギー不足で、鉄工所から宝が峰に登り返すことができず、一番池沿いに戻った。天気がよく日が当たると暖かいが、風は冷たかった。

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2月2日(水)
午後、1時半くらいに家を出て、一番池・小社―宝が峰―木橋―鉄工所―倉谷山鉄塔―鉄工所―木橋―宝が峰―一番池・小社を歩いた。帰宅5時。歩数19,155歩、23.9EⅩ 

2月4日(金)
午後2時半ごろからトレーニング:宝が峰―木橋・鉄工所―倉谷山上り下りで、精いっぱい。鉄工所からは下の農道を歩いて帰った。夕食前に入浴。

2月9日(水)<本橋さん、森川さんと3人で観音山へ>



ノビ(本橋)さん、森川さんと一緒にトレッキング。私は荷物8キロで出かけた。一番池下の「駐車スぺース」で待ち合わせ、鉄工所にほぼ11時→緑の線で、倉谷の鉄塔に11時半過ぎ→赤線でガレ場急坂を下って横谷に12時過ぎくらい。(この図のオレンジとブルーの線は無視してください。)
1月10日とおなじく処分場入り口の門の脇から上がったが、何度も来たことのある観音山方向へ進む山道がわからず、探すのに15分か20分かかった。不思議である。

観音山直下の谷筋には無事着き、そこから10分ほど登って、3人で以前登ったようにそのまま直登・やぶ漕ぎをするのでなく、渡邊アツシさんのヤマップの記録【YAMAP、2020.05.21「観音山・関ヶ森の標識のメンテナンス」/森の看板屋】にしたがって右に折れて尾根に出た。これは楽だった。

尾根道を少し歩いて、ノビさんが分岐点を左の(やや下りの)道を進んだが、私の記憶により、分岐に戻ってもらい、草が伸びた右のコースを取って、無事観音山頂上についた。1時15分過ぎくらいか。

昼食休憩後、20分ほど関が森方向に歩き、アツシさんがヤマップに載せている霊園近くに降りる、今日初めての道に進む。途中、道の悪いところ、どっちに進もうか迷うところもあったが、無事下のバイパス(道後食場―平井間)に出た。→YAMAP2021.02.18「観音山のルート探し」/森の看板屋 参照 

途中、森川さんが足にけいれんを起こしたが、体重をかけてマッサージするなどして、15分か20分休憩して済んだ。彼は昨夜3時間しか寝てないといい、体調がよくなかったようだ。

山道の出口からバイパスを300mほどあるいて斎場で休憩。倉谷山を登って一番池のところに戻るのは、森川さんは無理そうで、私も疲れを感じた。 

ノビさんがパートナーのヨーコさんに電話して、斎場まで車で迎えに来てくれるよう頼み、最後は楽ちんに帰宅した。

近いうちに、霊園/斎場近くから白石池付近に出る山道を確かめ、また倉谷三角点から霊園/斎場に降りる(アツシさんが開発したという)コースを確かめようという話になった。

ノビさんスマホの記録 : 鉄工所発10:37~鉄塔着11:18~鉄塔発11:26~横谷着12:05~横谷発12:08~(ルート探索)再スタート12:43~前回直登地点着13:13~誤ルート引き返し13:23~正規ルートスタート13:28~観音山着13:35~観音山発14:11~関が森・霊園分岐着14:32~森川さんダウン14:52~再スタート15:03~下山15:54~斎場着15:58~斎場発16:16~一番池着16:30 

地図:鉄工所脇から緑の線のコースで倉谷の鉄塔まで行き、その後は赤の線のコースで横谷処分場入り口付近に降り、観音山に登って、横谷霊園/斎場の南に降りた。

「森の看板屋さん」(渡辺篤さん)の地図を参考に、手描きした。

2月10日<白石池―横谷ルートの探索>


午後、白石池―横谷ルートの探索に行った。 最も北側のAは後回しにして、まず Bに行ったが、廃屋があり、その上はもとは畑らしかったが今はやぶになっていて上るのはむり。



布袋像のある分岐点に戻って、坂道を登っていくとCの工事中の場所(ごみ処分場にする?)になる。聞くと、私有地だといい、上に続く道はないとのこと。





もどって DかEかは不確かだが、たぶんEだったと思う。道がびしょびしょしていて行きどまりだった。 ほかには東の方に入っていく(登っていく)道は見つからなかった。 池の方に戻って、Fに行くらしい道の入り口は見えたが、行かなかった。
写真はBとCの分岐点にある布袋像。撮影したのは11日。



白石池に戻って、池の南側に広い道のGがあるが、ここは「私有地につき立ち入り禁止」の看板があって、入れなかった。



ノビさんにメールし、池からは大した距離はないので、再度二人で一緒に行き、A、F を新たに調べるとともに、私が今日見て、ダメと思ったところを確かめてみたらどうか、と提案した。



2月11日 <ノビさんと白石池―横谷ルートの探索---昨日の続き>



10時半にノビさんと待ち合わせ。自転車(サイクリング用)で行った。自転車は白石池脇の墓地に止め、そこから歩いて探索に行った。


Aには行かず、Bが藪でダメなことを確認。Cにもいかなかった。Eのびしょびしょ道も少し上まで行ってみたが、だめだと確認。


下に降り白い四角の建物の向かいからFに入り、斜面を登り、上の畑と鉄塔のところまで行ったが、その先は藪でそれ以上は行けなかった。
鉄塔は、下のGの畑を見下ろす眺めの良い場所で、ここでランチ(私はカロリーメイトとエネルギーゼリー)にした。写真はノビさん撮影。中央に白石池が見える。

Fから戻った後、Gの南の農道Hに入ったがここもだめだった。全部で3時間20分ほどの探索で、その後自転車で帰宅した。2時過ぎ帰宅。



2月12日<横谷へ超楽に往復できるルートの”発見”!>



12時半、ノビさんとともに、自転車を一番池脇の農家に止めさせてもらって、新道(畑の中を通る。5月くらいからは通行禁止の看板がでていて通れない)から倉谷山に登って、上の地図で濃い青の破線で示した倉谷山の稜線を北に進んだ。高低差はほとんどない。最高地点の標高は268m。cf.淡路が峠は275mである。

私は大きい枝切ばさみ(と鎌)を背負っていった。多少、藪があったが、以前人が通っていたことは確か。平坦で歩きやすい。稜が終わって、急な斜面になる。歩きにくいのはここだけ。すぐに竹林の中に入る。ここも足下に藪がないので歩きやすい。竹林が終ると、目の前が横谷霊園である。霊園到着3時少し前。

鉄工所脇から登って鉄塔から横谷に下る道を往復するのは楽ではないが、今日開拓した新しい道は大部分がなだらかで、往復が楽だ。帰宅は5時ごろになった。

竹林と稜線の間の急斜面にロープを張ればずっと楽になると考え、実際、3月5日に倉谷山越えをして横谷に降りて、霊園側からこの稜線の「歩き初め」を行なった際に、阿部さん、岩城さん、赤松さんにも手伝ってもらって、この急斜斜面にロープを張った。 ロープを張った後の様子は、ノビさんYAMAP2022.03.07「倉谷山から未公開ルートで帰る」/野火太の中の画像で見ることができる。

2月18日(金)<横谷への冒険的な探索>



2月10日の調査ではAには行ってない。Aの奥のPは12日に開拓した尾根道(地図の青線)のすぐ下まで伸びている。そこから尾根にのぼれないかどうか調べようと、ノビさんと二人で出掛けた。白石池脇の墓地にチャリを止め、そこから歩いた。 斜面はミカンが植えられた畑で、尾根に向かってモノラックのレールが伸びていた。そこで、途中までそのモノラックのレールに沿ってミカン畑を登った後、崖に近い急斜面を苦労して登って尾根に出たが、方向は90℃ずれていて、尾根の藪道を進むと、先週土曜日に「開拓」した新道から遠く離れた、標高248mの三角点のあるところだった。

その後は急斜面の竹林を下って、この前の出口よりもさらに350mほど北側、横谷調整池の南端付近に出た。昼食、休憩後、12日に開拓した新道を通って、出発点の墓地に戻った。帰宅は4時ごろ。

ここは冒険をしたい人には向いているかもしれないが、白石池側と横谷の間を往復するコースとしては、全く不適。 GPSタイムデータは以下の通り。
墓地出発10:23~P地点ミカン畑登り始め10:39~ピーク(248m)到着12:17~食場バイパス上農道到着12:53ここまでほぼ2時間15分~(ランチ休憩)~出発13:20~北松5鉄塔下農道着15:30~墓地着15:42    

2月20日(日) ノビさんを、横谷の斎場から南に伸びている舗装路がどうなっているか調べる探索に誘った。彼は火曜日がよいというので、そうすることにした。しかし、あさってまで待てなくなり、明日一人で「下見」に行くことにした。

2月21日(月)<12日に発見した「超楽なコース」よりももっと楽しく&楽な横谷往復コースの開拓>



朝、ノビさんから電話があり、彼も今日行くという。そこで10時半に一番池の農家のところに集合。鉄工所脇からジグザグコース→緑の線を登り三角点へ。そこから食場・松山市斎場へのアツシさんコースを下った。→オレンジの線

斎場まで降りてから舗装路に入ろうと考えていたが、途中で、左下の谷間に、舗装路がみえ、そこへ降りる道があったので舗装路に移って、それを南の方向にたどった。

700mくらいほぼまっすぐ進むと、急に右にカーブして舗装は終わり、カーブから200m近く登ったところで道はなくなっていた。林道を切り開く工事がそこで中断したままになっているらしかった。

カーブ地点からやや急な斜面をまっすぐに少し登ってみると、倉谷山の尾根に向かって登れそうに見えた。杉林の中で倒木があるが藪はなく、尾根の直下20mくらいまで楽に登れた。20mほどの急斜面は、低木の枝につかまったり、斜面を短く左右にトラバースしたりして、尾根に上った。---地図、青の折れ線「ロープ場」---上に出てみると、これまで何度も通ったところで、左に行けば倉谷三角点に行くが、右に行くと12日に開拓した尾根道=水色の線との分岐点(ここはちょっとわかりにくい)に出るので、ここから少しあるいて「藪のトンネル」をくぐって畑に出、モノラックに沿って降り、「長い農道」を下って一番池の脇の道路に出た。     

これは、横谷から一番池方面に戻るのに、最も楽な道であることは確か。しかも、ノビさんによれば、ヤマップなどでも、この道はこれまで通った報告はないという。 こんどロープを張ろうということになり、ノビさんがロープを買ってくるという。私も半分払うことにした。(2月28日にロープを張った。)帰宅は2時過ぎ 

尾根に出る直前ノビさんがしばらく遅れた。この時彼がおなかの具合が悪かったことに気が付かずにいたことを帰宅後になって気が付き、反省。


2月24日 <腰折山ー恵良山トレッキング>



ノビさん、川東さん、曽根さんらとともに、北條の少し先、腰折山―惠良山(えりょうざん)縦走のトレッキングに行く。10時畑寺のローソン出発、11時6分~、標高214m腰折山のエヒメアヤメ自生南限地のエヒメアヤメは見られなかったが、斜面から瀬戸内海を望む景色はすばらしかった。

惠良山は標高が302mだが、惠良神社鳥居から上の岩山はかなり険しかった。また頂上からの眺めもよかった。短い鎖場もあって楽しめた。 右の写真は、鎖場を楽しむノビさん。

リュックと胸のバッグで8㎏強の負荷だったが、トレッキング中はまったくきついとは感じなかった。3時半ごろ帰宅。 次の南側から見た腰折れ山と惠良山の遠景写真は「お山に登ろう」から借用した。  



2月28日(月)
ノビさんと松山市斎場から倉谷山に抜ける新開拓コースのロープ張りに行く。岩城さんも一緒。70~80m区間を移動し2、3か所、下まであるいは途中まで降りて、よさそうなつまりもっとも傾斜のゆるそうな所を探した。cityboyのせいか、かかとを傷めてるせいか、ノビさんは上り下りがうまくなく、上からスマホであれこれ言うだけの評論家で、疲れてきた私は少し腹が立った。 

2時過ぎくらいまでにロープ張りを終えた。2月21日の地図を参照。この地図で倉谷三角点から松山市斎場方向に下るコースが「篤さんコース」で、その先斎場の近くから南に伸びている舗装された林道が今回私とノビさんが「新開拓」したコースで、その先の青線がロープを張った急斜面。

ノビさんが「野火太」の名前でYAMAPに 2022.03.07「倉谷山から未公開ルートで帰る」、2022.03.09「倉谷山から超クイックに戻るルート」、2022.03.15「倉谷山から霊園ルートで帰る」を掲載しているので、スマホのやま旅ロガーなどを利用している方は、参照してください。

3月5日(土)<新ルートの歩き初め> 


 
10時半に鉄工所に集合、阿部さん、ノビさん、岩城さん、赤松さんと5人で、ジグザグコースで倉谷三角点→アツシコースで斎場へ→竹林を登ってミカン園へ。

ロープを張り、サルトリイバラ、野バラなど棘のある木をカットする。3時頃に昼食。帰途、平坦な山道を歩き、竹藪のトンネルを通って畑の上に出たら、農家の人が作業をやっていて、頭を下げて畑を通してもらった。農道途中で4時になった。

私の家では私と妻が一日交代で夕食当番をやっている。夕食の準備はいつも大体5時ごろから始める。買い物はそれまでに済ませておく必要がある。この日は当番だったので、家に、夕食準備が少し遅れると電話。帰宅後サニーマートで、食材を買った。

3月8日<尾根道の新ルートから白石池側に降りる道の探索>



10時半過ぎに家を出て、一番池脇の農家に自転車を止めさせてもらって、倉谷山に登る。途中、一番池から上の農道に出る、新しいショートカットを見つけた。

上の尾根道の新しいルートを北に進み、268mのピークを過ぎてだいぶ行ったところの段差地点Dの廃屋から、白石池側に降りていく道があるのではないかと少し前から考えていた。今日はその降り道の有無を確かめに来たのである。 何とか降りるには降りたが、横谷往復のための楽な道には全くならないと思われた。

同日、ノビさんに、2月21日の地図を添付して、メールを出した。

メール「私がおこなった探索の図を添付します。これはスマホの「地図ロイド」の矢印を見ながら手描きしたもので、赤い線が今日歩いたところです。

「私は、地図のAから登って、Bの農道に出ました。Bに出る前に、途中急斜面のところを通りました。地図の道から外れています。Bは、ノビさんのYAMAP2022.03.07「倉谷山から未公開ルートで帰る」/野火太 の農道とCで合流します。 

その後は、そのノビさんの図と同じく275mのピークを通って、Dまで行きました。〔ノビさんの図の24/38の写真に廃屋と段差、モノラックのトロッコが写っている。〕 そこからは、地図では、(白石池側から行ったときに)布袋の像の分岐点から、ノビさんが行かなかった「工事現場」の上に通じているように見えますが、その道は見つからず、それより少し北側の(放棄された)キュウイ果樹園 E に出てしまいました。

そこを、障害物競走のネットをくぐるように、斜面を這うように数十m下って、ノビさんも行った廃屋のところに出たのです。地図はそこから布袋像の分岐点まで破線になってますが、そこは舗装された道路です。

A-B-Cは、例の「長ったらしい」農道を行くよりもましだろうと思います。しかし、尾根道のDから白石池に降りるのはむりのようです。」

3月9日
ノビさんから、朝、電話で、倉谷新ルートをヤマップに載せるための行動に誘われた。10時半に例の農家のところに自転車を置き、昨日登った、上の農道へのショートカットの新しい道を登り、その後は275mの小ピークを経て、倉谷山頂上へ。

そこから(これもアツシさんが開いた)新直降ルートで、楽々降下し、ガレ場を通らず、木橋の方へ降りて(私は橋を渡らず下の枯沢を通った)、平井へ抜ける県道/バイパスに出た。1キロほど歩いて斎場へ。そこから舗装された林道----地図でオレンジ色の線----を通って、「ロープ場」----濃い青の線へ。登り口で昼食。

昼食休憩後、杉林の斜面を登って、ロープ場から尾根道へ。再び275mピークを通って、朝登ったショートカットを下って、池の脇に出た。昨日の探索の疲れが残っていたが、へばらずに歩き切った。
ロープ場は、ロープを足して張りなおす必要がある。ショートカットは、通れるがあまりよくない道。

3月12日
森川さん(久万の台から、私の家まで自転車で来る)と一緒に歩いて、一番池脇の農家・川本さんの家の前に、10時半に到着。

岩城さん、ノビさんと合流して、倉谷山三角点へ。そこからロープ場に降り、下の林道に出て、途中で昼食。1時ごろ。霊園の脇を通り、竹林を抜けてミカン山の急斜面へ。(地理院地図にある)白石池側に出る道が見つからないか30分ほど探したが見つからず、尾根道を倉谷山方面へ戻る。275mの小ピークを通って、川本さん宅前へ。15時36分。そこで解散、森川さんとともに帰宅。16時10分。全行程は6時間40分か。  歩数は22338歩+(家から川本宅まで)



3月20日(日)<44番鉄塔で「お山ランチ会」>



ノビさんから誘われて昼の「お山ランチ会」に参加。10時半に、幡多寺上の淡路が峠登口、駐車スペースに集合→旧ヤギ小屋を経て、44番鉄塔でランチ会、 参加者はノビさん、岩城さん、阿部さんと私。昼食前に、渡邊シニアーが最近転倒したという「日本庭園先」の急斜面にロープ張りをした。

ポケットストーブ、非常食、水持参。湯沸かしの予行演習(5月末から6月始めに、屋久島宮之浦岳に登り山小屋で一泊、縦走の計画があるため。) 30分以上ランチタイム。私はカップ麺一つで十分だった。
帰宅4時半過ぎ。  

3月23日(水)
11時~石手のセブンスターへ買い物。行きは県研修所わきを通って白石池から下るコース、バラストが6~7キロ。帰りは宝が峰に登ってマドンナ経由で淡路が峠に行き、桑中横から降りて帰宅。2時40分。買い物+バラストで重量は11.8キロだった。

途中から小雨。気温は8~9℃で涼しく、カッパを着て歩いたが、歩きやすかった。家でバナナとカップ麺を食べて昼食にした。

3月25日(金)<大月山トレッキング>



森川さん、本橋さん、曽根さん、山岡さん、井原さん、川東さんと私、7人で大月山953mへ。
柳谷町、エリエールGCの北、登山口標高約430m地点、工藤舎養鶏所近くまでは車。

10時40分ごろ、幸次が峠を経て、四国の道を通ってトレッキング。  4.5㎞。2時間半かかって大月山山頂へ。杉枯葉が道に積もっていてふかふかで歩きやすい。しかしほぼずっと登りで疲れる。私の荷物は10キロ。

お昼に固形燃料で湯を沸かしカップ麺を食べ、アルファ米のひじきご飯を半分ほど食べた。(お湯が足りず、少ないお湯で10分ほどおき、追加で沸かしたお湯をそのあと足したが、うまく炊けなかった。)残りは家に持ち帰った。またカフェオレを一杯飲んだ。固形燃料は2つ使ったが火力が弱く、湯がわくまでに時間がかかった。 

3月28日(月)
11時~2時、淡路が峠まで往復、荷物10キロ。展望台から少し先の畑でワラビを10本ほど採った。
往きに正円寺郵便局により、「レスキュー保険」に加入料金4千円を振り込んだ。宮之浦岳登山用。
展望台から少し先の畑でワラビを10本ほど採った。

3月29日(火)
石手のセブンスターで買い物後、ストックなし、10キロの荷で淡路が峠に上った。 

アマゾンからシュラフ、スパッツなどが届いた。夜、玄関の板間にプチプチシートの上にシュラフを敷いて寝た。明け方寒くなって寝室の布団に移った。
スリーシーズン用で、家の中で寝ると寒いというのは、上に掛けるものを持っていく必要があるということだろう。ホッカイロにするか。

宮之浦岳は1936mある。過去10年の6月1日~2日の最低気温はほぼ20℃、最低気温5月末に14℃台もあり、標高1600mの新高塚小屋では、約-10℃で、4℃台の可能性がある。

3月30日
寝室でシュラフで寝た。明け方寒くなり毛布を掛けた。

4月2日
朝6時に起床、6時半に家を出て淡路が峠へ。荷物なし。途中で暑くなった時に上着を脱いで入れるための空のリュックのみ。霜は降りていなかったが、朝の気温は5℃と、寒く、汗はかいたが、頂上に着くまで、下着二枚上着2枚のまま。帰りには下着だけにした。

4月3日
2日前に宇和島の中島さんからしまなみ海道のサイクリングに行こう、本橋さんンも一緒に、と言う連絡があって、ノビさんともどもそのつもりでいたが、清家さんの都合が悪くなったため中止する、という。ノビさんは自転車をピカピカに磨いて準備したと言っていたのでがっかりしたかもしれない。
代わりに、44番鉄塔での「お山ランチ」をやることになった。
朝11時に幡多寺上の駐車スペースに集合。阿部さんとノビさんと私の3人で、旧ヤギ小屋を通って44番鉄塔に向かった。私の荷物は約10キロ。たいして重くはなかった。

鉄塔でランチの用意。阿部さんが「EPI-REVOコンパクトストーブ」一式を(宮之浦岳登山から帰るまで)貸してくれるという。それを使って湯を沸かした。固形燃料と違って、あっという間に湯が沸き、すぐにアルファ米の弁当を食べることができた。

川東さんが少し遅れて一人で来て、ランチ会に加わった。ノビさんが話してあったらしく、昼食後、川東さんが、私のために、わらび場につれて行ってくれた。後で湯掻くためのレシピを見た時に測ったのだのだが、ちょうど200グラムあった。お浸しで3回分くらいできた。

また淡が峠展望台に行き、そこからほぼまっすぐに降り、とちゅうでまた上り返して、キャンプ場からの道と合流して、鉄塔のところに出る、急坂の新しい道を通って、鉄塔に出、川東新道から、駐車場所に戻った。帰宅は3時過ぎ。  

4月7日(木)<宮之浦岳登山用フル装備で44番鉄塔へ>



森川さんがやりたがっていた「パーティ」を44番鉄塔でやることにし、ノビさんと3人で出かけた。私はアマゾンに注文したキャンプ用品が揃ったので、衣類の1週間分なども含め、鹿児島―屋久島旅行のためのフル装備で出掛けた。

昼の食事用の水もふくめ12キロを越えていたかもしれない。歩いた時間は「第二日本庭園」経由で44番鉄塔までで、家から1時間半ほど歩いたか。のぼりは楽ではなかったが、さほどきつくはなかった。鉄塔で、持ち寄った”ご馳走”を食べ、ノビさんと森川さんはワインを飲み、2時間ほど「パーティ」をやった。

ロシアのウクライナ攻撃と残虐行為にたいしてデモをやるべきかどうかについても話をした。

4月8日(金)

昨日のトレーニングのせいと思われる、筋肉痛が腰と腕に出た。宇和島の中島さんから、今度の日曜日にしまなみ海道サイクリングに行くという連絡があった。ノビさんは、ヨーコさんの体調がよくないので行けない、という。残念。

4月9日(土)<再び44番鉄塔で「お山ランチ」>



10時、繁多寺上、駐車スペース。11時、44番鉄塔。山岡さんが筍とわらびを持ってきてくれるという。 山岡さん、岩城さん、それに?さん(♀)=岩城さんの友達、ほかにたまたま通りかかった女性二人組も加わって、7人の昼食パーティ。

私はバーナーをセットした段階で、カップめんなどの食物がリュックに入ってないことに気が付いた。「遭難」の訓練ではなかったのに!
山岡さんが即席で作ったお好み焼きと家で用意してきた五目おにぎりやおかずまで配ってくれたので、飢え死に=遭難せず、助かった。そのご日本庭園を通り急斜面を下って、繁多寺上、駐車スペースに戻った。そこで山岡さんから、さらに筍とわらびをもらった。帰宅は2時半ごろ。昼食に時間をかけたので、歩いたのは2時間半か3時間程度。リュックは10キロ程度と金曜日に比べて軽くした。

4月10日(日)<宇和島の中島さんらと島並み海道サイクリング>


1年半前2020年の10月、やはり中島さんに誘われて二人で、島並海道を走った。今回宇和島から来るメンバーは、中島さん(嵐)、玉川さん(愛南町の網代)、清家さん(鬼北町)の3人。松山インターを出て市内に向かってすぐのところの明屋&セブンイレブンの駐車場で待ち合わせ。

3人は、宇和島の自転車店に、3台分の電動アシストの自転車を予約しておいたのに、1台しか用意されておらず、結局2人は普通車にすることにした。そのトラブルで宇和島を出発するのが遅くなり、待ち合わせ時間より遅れて松山につき、明屋で私と私の自転車を載せて出発したのは、8時半ごろだった。

私は清家さんの車に乗せてもらった。自転車は、比較的最近中島さんが新たに購入した1トン以上積めるトラックに積んだ。
電動アシスト車には、膝の悪い清家さんが乗り、玉川さんと中島さんは普通車に乗る。糸山の手前の、ダイキ近見店で自転車をおろし、トラックと乗用車はそこに(無断)駐車させてもらった。糸山に着いたのは10時半ごろだった。


写真左は、来島海峡第二大橋、馬島と糸山の中間付近から北西方向を見て撮ったもの。

来島大橋(馬島より手前)の上から眺めた景色が素晴らしかった。釣り船が10艘ほど白い帆(スパンカー)を立てて釣っているのが見え、家串の拠点を退去して海釣りを終わりにしてしまったのをちょっと残念に感じた。


















左は上の写真を撮ったのとほぼ同じ場所で撮ったもの。左から私、玉川さん、清家さん。中島さんが撮影。




糸山から向かいの大島に渡ってすぐのところにある道の駅「生き生き館」に着いたのは11時半で、まだ昼食には早すぎるからと、以前食べた宮窪町の旧町役場周辺までいくことになった。しかし、かなり長い坂を二つ越え、1時間近く走って着いた宮窪町は1年半前に比べて全くの様変わり。すたれようがひどく、町並みは全滅。食事のできる店は一つもなかった。コンビニもない。






その後、伯方島に渡り、大三島橋に向かう坂の途中で、2時半ごろ、中島さんが、足にけいれんを起こしたという。私も、他の他の二人もくたびれていたので、大三島行きは中止して、帰ることにした。
左の写真は伯方島で撮った。後ろに大三島橋が見える。左から中島さん、玉川さん、私。清家さんが撮影。


私は、去年、本橋さんと一緒にいった興居島・小富士登山や興居島一周サイクリング、あるいは52番札所太山寺、53番札所円明寺見物などで自転車に乗っていた成果ではないかと思うのだが、大島、伯方島では行きも帰りも、高速道路への取り付け箇所の坂も含め、全て、漕いで登ることができた。

しかし、帰り道、糸山から、車とトラックを駐車していたダイキ近見店までの4km弱が、行くときとは違ってだいぶ遠く感じられたのはやはり疲れていたせいだろう。ダイキに着いたのは6時ごろだった。伯方島で戻ることにしたときは2時半過ぎだったから、3時間半ほどたっていた。松山インターに着いたのは7時過ぎ、帰宅は7時半ごろ。

4月13日(水)
屋久島へは、「辺野古土砂搬出反対全国連絡協議会第9回定期総会in鹿児島」に参加する際に足を伸ばしていくつもりだった。全協は5月28日に記念集会と総会、29日に薩摩半島採石場視察、30日にオプションで鹿児島から種子島に移動し、31日に、種子島から瀬渡し船で馬毛島に上陸して、米軍機の離着陸訓練のための飛行場および軍事基地建設予定地を視察して、鹿児島に戻って解散、というスケジュール。

馬毛島視察後、空港のある種子島で抜けることも可、とあったので、私は馬毛島視察後、種子島から、高速船/フェリーで屋久島に渡り、5月31日には、安房港近くのホテルに泊まり、6月1日に宮之浦岳に登り、夜は新高塚小屋に泊まり、翌日、紀元杉などを経由して宮之浦に降りる、という計画だった。私は車の免許は持っておらず、松山―鹿児島間はすべて公共交通を利用。

しかし、コロナ第六波は一向に収まる気配を見せず、とくに、九州南部の新規感染者の数が多かった。「全協」でもコロナの感染状況によっては予定変更もあり得るとしていた。参加予約取り消しは1か月前までにとなっていた。少し早いが九州鹿児島と屋久島行きはあきらめることにし、ホテルの予約などもすべて取り消した。

4月20日(水)
リュック5,6キロで宝が峰に上り,帰路(繁多寺側へ降りて)ノビさんのうちに寄り、玉ねぎをもらって帰った。3時間ほどのトレッキング。

4月21日(木)
午前、セブンスターまで買い物。小雨、カッパを着て歩いた。行きは5,6キロ、帰りは10キロのリュック。     往復12200歩だった。

歩きながら、6月1日には、模擬宮之浦岳登山をやろうと考えた。朝5時くらいに家を出て鉄工所脇から倉谷山に上って、横谷に降り、観音山を経て杉立山に上る。

桑原の標高は50m程度で、杉立山が668mで標高差は600mになる------宮之浦岳ではバス停紀元杉の標高が1200m、30分歩いて淀川登山口標高が1350m、宮之浦岳が1,935mで標高差はほぼ600m。こちらは酸素が薄い点は杉立山に行くのと違うが。

家を出て杉立山までの時間は 家から鉄工所40分、同所から鉄塔経由横谷1時間、横谷~観音山経由で杉立山まで約4時間(めばる=篤さん)?帰りは楽な、松山市斎場~林道経由で帰って、8時間程度のトレッキングになる。   山小屋一泊用フル装備=約12キロでやってみる。

しかし、6月にはすっかり忘れてしまい、模擬宮之浦岳登山は実現しなかった。

4月28日(木)
セブンスターまで買い物、帰路は9キロ。日差しは強かったが、どうと言うことはなかった。

5月1日(日)
ノビさんからの連絡で、1時に44番鉄塔でお山ランチ。岩城さんが八丈島ツアー(愛媛新聞主催、松山から直行便、1時間、40人、一人17万円)のお土産に買ってきてくれたあしたばラーメンを(半袋)食べさせてもらった。食後、阿部さんがコーヒーを入れてくれた。1時~3時。

彼に屋久島行き中止を告げたが、彼が屋久島用に貸してくれているバーナー一式は、連休後、瓶ケ森か、堂が森(どちらも避難小屋あり)に行こう、その時まで使ってくれて構わない、と言う。 

この日は荷物はせいぜい6キロか7キロだったが、この10日間ほど一日おきか二日おきに低気圧が通過し、気温も上がったり下がったりで、体のあちこちが痛かったりだるかったりと体調悪く、今日は重く感じた。ストックを2本使って登った。家から44番鉄塔までの歩数は、往復9,000歩程度だった。

(4月末から、一気に夏が来たかと思うような暑い日が続いている。この間買い物はすぐ近くのサニーマートかコープ束本で済ませ、(片道50分の)セブンスタースターに行ってない。淡路が峠、宝が峰へのトレッキングにも行ってない。)

5月20日(金)
久しぶりにセブンスターにwalking+shopping)=walping.行きは4キロ程度、帰りは9.5キロ。帰りに暑くなって脱いだ七分袖のオープンシャツをリュックのカバーの下に入れて挟んだだけでリュックの中に入れずに歩いて帰った。気が付くとシャツがない。どこかで落ちてしまったのだろうが、暑くてだるくて、戻って探す気にならず、家にとどまった。

5月24日(火)
セブンスターに買い物。帰りはいつもと同じ道。研修所下の池の脇を通る道のフェンスに、なんと、4日前に落としたオープンシャツが掛けてあった!親切な人にお礼を言いたい。  

5月29日(日)
昼、ノビさんとともに、市駅・高島屋前の「安保法制に反対する愛媛の会」のウクライナ問題についての街宣を聞きに行った。

6月2日(木)
朝、やや元気。昼、淡が峠・展望台までまで往復。暑かったが、どうということはなかった。

6月3日(金)
午後、市民会館で行われた福島キャンプサポートえひめ主催「ウクライナ難民支援講演会」行った。  6月6日(月)
セブンスターに買い物に行った。帰り9キロ。  ここのところ、一晩中夢を見ては目が覚めてトイレに行く毎日で、昼間も眠くて仕方がない。桑原内科で睡眠薬エスゾピクロンを処方してもらった。 

6月7日(火)<ノビさんの軽井沢でウォーキング>


午後2時半ごろから4時くらいまで、軽井沢に行き、ノビさんの真似をして往復900mの坂を6往復した。ノビさんはいつも通り6.5往復(=6㎞)。暑かったせいもあるがたっぷり汗をかいた。久しぶり。
軽井沢というのは、桑原から鷹ノ子に行くときに、畑寺児童館の横の坂を上がって山田池の脇を通っていくことができるが、池を通り過ぎて300mほど行った左側、芝が峠に向かう道が数本あるうちの一番手前の林道。舗装されている。
やや虫が多い難点があるが、両側に木が生えていて、真夏の午後でも大部分木陰になるので、ウォーキング/トレーニングに向いている。標高差は約70m。ヤフー地図で見ると、距離と標高が出るので便利。
Google Earthに書き加えた

6月8日(水)
昨晩はエスゾピクロンを飲まずに寝たが、わりによく眠れ、起床後、倦怠感・疲労感が少なかったので、午後3時ごろから、軽井沢に行った。しかし、脚に疲れが残っていて、3回がやっとだった。ノビさんが今日は来なかった(彼は1日おきにしている。軽井沢の翌日は家でバイク漕ぎなど)せいもある。彼がきていたら、もう一回は、いけただろう。

6月12日(日)< 阿部さんに連れて行ってもらい瓶が森でテント泊 >


朝7時半に阿部さんに迎えに来てもらって、土小屋経由で伊吹山、シラサ峠を経て、子持ち権現山と白石小屋の中間付近の駐車場(道路を隔てて瀟洒なつくりのトイレがある)まで行く。途中霧が出ていて10m先も見えないときもあったが、対向車は10台以下。しかし時々事故が起こる場所だという。

駐車場から30分ほどで瓶が森避難小屋。その先10分ほどのところにキャンプ場がある。標高1720~30mくらい。11時くらいについてテントを張る。



それから昼食。しばらく休憩して2時半くらいに東之川へと下る道を降り、(台が森の?)お花畑に行くが、花はほとんだ咲いてなかった。往復1時間程度。 

快晴の天気だった。しかし、西方、低いところを北/北東から南/南西へと雲が次々に流れ、キャンプ場から見えるはずの石鎚山頂付近は、雲の下で見えなかった。4時近になって瓶が森・女山山頂1896mまで行く。山頂には小さな祠があった。

お花畑からの帰りに軽い頭痛を感じていたが、女山山頂往復に支障はなかった。戻って5時半前頃。 夕食にする。 写真左はノビさんから借りた私のテント、右は阿部さんのテント。

このころから頭痛がひどくなり、8時前に「就寝」したが、夜どおしずっと頭がガンガン痛んであまり眠れなかった。また夜中過ぎから寒さが増し、股引もずぼんも2枚ずつ重ね、上もシャツ2枚フリース、厚手のチョッキを着た上にカッパも重ね着し、最後はカッパのズボンもはいた。トイレに3回ほど起きた。

その際、脚が痛かったので、下着を重ね着する際に、両側のふくらはぎ、太もも、腰、3か所にモーラス、ロキソニン、サロンパスなど、合計6枚を貼った。朝方にはガタガタ震えるほどだった。

阿部さんは朝の気温は10℃ほどで、シュラフの下にはエアー・マットを敷き、シュラフは内側のシートも持て来て二重で暖かく、下着のシャツだけで十分だった、という。 

私のテントはノビさんから借りたもので、広げて設置するのは容易で、阿部さんのテント設置の半分の時間もかからなかったし、広くて使いやすかった。しかし、これは山岳用ではなく、平地で昼間だけ使うか、夜も使うとすれば、温度差の小さい場所で、また雨風のないときに使うように設計されたものらしい。というのは、テントの頂上付近が2センチほどの隙間があり二重になっていて、空気がとおるようになっているから。

晴れていて気温が高いとき、あるいは日中は、風が通り、テントの中は涼しい。だが、山で夜気温が下がった時、出入り口をしめておいても、中の空気は温まるとすぐに上の隙間を通って逃げてしまう。つまりテントの中の空気は体温で温まらないのである。

阿部さんは10℃だったと言うが、それはテントの中の話で、彼の二重のテントの外側は露が降りてたと言う。私のテント(の外側)は露でびっしょりとなり、内側から触ってもぬれているのが分かった。おそらくテント内の気温は安部さんのテントに比べて相当に低かったはずで、もしかしたら零度に近かったかもしれない。私が明け方に震えを感じたのも宜(むべ、うべ)なるかな、である。

6月13日(月)<瓶が森・2日目>


頭痛は高山病で、要するに血液中の酸素の不足である。深呼吸に努めた効果があったかなかったか、朝には、頭痛はやや軽くなっていた。しかし睡眠不足で若干元気が不足している感じ。

阿部さんも起きてきたので、6時くらいに、湯を沸かし、細切れパン入りカボチャ・ポタージュを食べる。うまかった。それだけでは物足りなかったので、(水は炊事用に2リッター、飲み水0.5リッター、ポカリ400㏄持ってきたが、炊事の水が足りなくなり、阿部さんから100㏄ほどもらった)さらに湯を沸かしパックの「ごちゃまぜご飯」?とかいうのを作って食べた。これはうまくなかった。事前にカップ麺を試食してうまかったのに、持ってきたのはカップ麺一つとカボチャ・ポタージュ。阿部さんは、山では、ご飯より、スープがあるものがいいと言ったが、その通りだと思った。

阿部さんは、昨日の夕食には、お米を持ってきていて、火力の小さい固形燃料を使って時間をかけてご飯を炊き、もやしやトマトを載せた「卵かけご飯」を作って食べていた。朝は、スパゲッティらしかった。また彼は例のごとくコーヒーを入れてくれた。私はパックのカフェオレを持っていったが、使わずじまいになった。


今日は、全般的には曇天だが、西の空は晴れていて、石鎚がはっきりと見えた。 朝9時くらいにテントを片付けて下山。30分足らずで、避難小屋につき、阿部さんはトイレ。私は避難小屋に入ってみた。隣に昔の避難小屋が残っていたが「倒壊の恐れあり。注意」と書いてあった。蛇口の水は、冷蔵庫内の水と同じくらい、冷たかった。



新しい避難小屋の建物はきれいで一階に二人ほど、2階に、数人が泊まれるようだ。一階の寝場所に厚手の毛布、シュラフも置いてあり、快適な就寝ができそうだ。天候悪化の恐れがあれば、絶対にここに泊まるべきだ。

宿泊ノートを見たら、たくさんの人が書いていたが、一ページを絵で埋めている子供が描いたものもあった。最近では、今年の5月29日に越ケ谷から来た人が、腰を痛めここで連泊して31日に下山した。「ほんとうに助かった」などと書いていた。

駐車場にまっすぐ降りるには早すぎると、途中から「瓶壺」に寄ってみることになった。瓶壺の手前は急坂を下る(そして戻る)ので荷物を途中において、空身で行った。直径も深さも一ヒロ程度の穴だが、きれいな水が溜まっていた。水は流れていたが、上の非難小屋の水よりは少しぬるかった。
瓶壺から駐車場まで40分くらい。道を隔てたところには、瀟洒なつくりの立派なトイレがあった。

11時半くらいに出発。12時くらいに土小屋。ここでロッジにはいってメニューを見たが阿部さんは、外の自販機でコーラを買っただけ。砥部まで行く。「温泉に入ってから、昼食にそばを食べよう」ということになり、砥部の「ゆとり館温泉」にはいった。 

2時半過ぎ、松山南警察署付近に「そば吉」があったがチェーン店で、もう少しましな店にしようと、ナビガイドで検索し探し回ったが、午後の休憩時間になっていたり、すでに店が潰れていたりで、1時間ほど時間とガソリンを無駄遣いして、結局、道後の大黒屋のうどんになった。

そのまえに束本のガススタで給油。ほぼ80㎞(片道)分のガソリン代として1300円を受け取ってもらった。ほかに運転してもらったお礼に温泉、昼食代は私が払った。4時過ぎ家の前まで送ってもらって、礼を言って別れた。


6月28日(火)< 陣が森ー皿が峰トレッキング >


前夕、ノビさんから皿が峰山行の誘いあり。森川さんにラインとe-mailを入れておいた。朝9時半ごろノビさんが車で迎えに来てくれ、まもなくやってきた森川さんと私の二人を久米窪田のファミマまで乗せて行ってくれた。 

参加者は井原、川東、岩城、赤松、ノビ、森川、私の7人だった。(とくにコロナ?の時期に)パジェロミニにリュックも含め、二人載せてもらうのは窮屈なので、私は、赤松さんの車に乗せてもらうことにした。

最初、「森林公園駐車場」の手前から、左に入って神林トンネルをくぐったところに駐車し(11時ごろ)、まず陣が森に登った。県道のわきからアスファルト舗装された、上の電波塔保守点検用の道を30分ほど歩いて電波塔の下につき、そこからフェンスのわきを左に入って、30mか40m登って、1205mの三角点のある陣が森山頂に着いた。



途中、切通の道で、松山からササユリを見るために一人できたという老婦人に会った。たしかに彼女のいうとおり、皿が峰とは全く違い、たくさんのササユリが咲いていた。
またかわいい/きれいな声の鳥が鳴いていて、私はオオルリかと思ったが、その人はソウシチョウ相思鳥だという。ノビさんのスマホで調べてみたら、たしかにソウシチョウで、カラフルな羽毛、羽で覆われている。

またかわいい/きれいな声の鳥が鳴いていて、私はオオルリかと思ったが、その人はソウシチョウ相思鳥だという。ノビさんのスマホで調べてみたら、たしかにソウシチョウで、カラフルな羽毛、羽で覆われている。

写真は TAKAO 599 MUSEUM,https://www.takao599museum.jp/ >高尾山の宝物たち>チョウ類図鑑 から借用した。

Wikipedia「ソウシチョウ」によると、外来種の一種で「現在まで本種が定着したことによる影響はとくに確認されていないが、今後生息域を拡大することで、一般的に外来生物の侵入による変化があまりない天然自然林の生態系が、大きく変化することが懸念されるため特定外来生物に指定された。具体的には営巣場所が競合するウグイスやオオルリが駆逐される危険があり、日本の侵略的外来種ワースト100選定種にもなっている」という。

環境省のHPによれば
「特定外来生物」とは、「特定外来生物による生態系等の被害の防止に関する法律」によって指定された生物で、その法律第2条(定義等)によると「海外からわが国に導入されることによりその本来の生息地の外に存することとなる生物(その生物が交雑することにより生じた生物を含む。---)であって、わが国にその本来の生息地または生育地を有する生物(以下「在来生物」という)とその性質が異なることにより生態系等にかかる被害を及ぼしまたは及ぼす恐れがあるものとして政令で定めるもの---をいう。」

https://www.env.go.jp/nature/intro/index.html、環境省HP・ホーム→政策→政策分野一覧→自然環境・生物多様性→外来種対策→日本の外来種対策→外来生物法 ここからさらに→特定外来生物等一覧を見ると、鳥類は、カナダガンなどの7種類が指定されており、ソウシチョウもその中に含まれている。ここまで到達するのに一苦労する。

私は、この法律に含まれている、在来種の純潔を守り、外来主との交雑(混血)を拒否しようとする考えかたに反対であり、この法律の「在来種」と「外来種」の区別の根拠および殺処分など防除方法に問題があると考えている。より詳しくは加藤尚武編『新版 環境と倫理』(有斐閣、2005)第8章「自然保護ーどんな自然とどんな社会を求めるのか」の4「生物多様性の保全と保全生態学」(執筆須藤)を参照。

陣が森山頂には若者が一人来ていて、そこで昼食を取っていた。12時少し前、我々はそこから別の道を下り、風がよく通る上林峠で昼食。岩城さんはポットにお湯を入れてきてカップ麺、他の人はおにぎりなどですぐに食べられる用意をしてきていたが、私だけ、固形燃料で湯を沸かし、棒ラーメンを煮て食べた。ノビさんによれば山で炊事をするのは近所(43番、44番鉄塔)の時だけ、という。了解!

昼食後、森林公園駐車場に移動。風穴で暫く涼しい風を楽しんで、竜神平まで行った。途中風がなく「ベンチ」までの上り坂は暑く、熱中症にならないかと心配になった。竜神平で30分か40分休憩し、ずっと先頭で歩いていた森川さんだけは山頂までいってきたらどうか、などという冗談がでたが、そこから下山した。

赤松さんとは淡路が峠でよく会うが、彼は物静かな人で、またすい臓がんの手術をしてリハビリで山歩きをしていると聞いていたこともあり、あまり話をしたことがなかった。しかし助手席に座って、おのずと会話が弾んだ。

とくに帰りには、かれが退職まで(彼は私の11歳年下、現在65歳。)JR四国で車掌をやっていたこと、菰田弁護士や、警察の裏金作りを告発した仙波さんのことに話が及び、彼が「仙波さんを支える会」の会長代行をやっていたことなどのことを知った。

久米窪田のファミマで森川さんにも、赤松さんの車に移ってもらい、一緒に、私の家まで送ってもらった。赤松さんは断ったが、1,000円置いてきた。

夜は9時半ごろ就寝したら夜中1時頃目が覚め、眠ろうとしたが眠れない。そこで起きて、PCで、「愛媛県、警察の裏金、告発」で検索し、Wikipediaで仙波敏郎を調べ、その外部リンクの愛媛新聞記事を読んで、コピーするなどした。ノビさんにメールを送ったのは4時少し前。それから眠ったが7時前に起き、眠かった。

6月30日(木)
昨夜は10時前に就寝、12時過ぎに目が覚め、トイレに行った。次に2時過ぎに目が覚め、それから30~40分ねむれなかったが、我慢してそのまま布団から出ずにいた。つぎに目が覚めたのは5時少し前。 少々眠かったがトレッキングに行ける元気を感じ、起床して5時10分か15分に家をでた。

今日は、昨夜冷やしておいた水を300cc程持って出た。3日前は何も持たずに行き、苦しかったので。 正円寺辺りまでは風があって気持ちがいい。しかし、ふもとに近づくと風がパタッと止む。おとといと同じ。気温は今日の方が高いのかのどが渇き、水をちょくちょく飲みながら行く。 

桑中前、5時25分、誰もまだ登ってなかったらしく、顔に蜘蛛の巣が引っかかる。展望台に着くまでに水はなくなった。上でソウシチョウのややにぎやかなかわいい鳴き声が近くから聞こえた。またハチクマの鳴き声が遠くから聞こえた。展望台では、少し風が吹いていて、ちょっと休んでいると6時のサイレンが聞こえた。 

降りかけたところで森さんに会い、挨拶だけした。すぐそのあとはじめて会う大柄の男性、ストックを使い小さいリュックに水。下に折り畳みの自転車があった。少し下ると3日前にも会ったたが(畑寺の?)老婦人、続いてやや太った若い女性、さらに2番目の鉄塔の下で田中さんに会った。

桑中前6時20分------ここから展望台までの往復に55分------帰宅6時35分、シャワーを浴びたら6時45分だった。 すぐに朝食の準備にかかった。

昼前、県立図書館に行った。仙波敏郎『現職警官「裏金」告発』、東玲治『ドキュメント・仙波敏郎 』ともに創風社出版、江川紹子『それでも私は戦争に反対する』を借りるために。しかしあいにく、休館だった。月末はいつも休館なのだ。

本来は山形食パンを石手のセブンスターに買いに行くのだが、ここまで来たついでにと、高島屋の地下に行き、アンデルセンで 食パンを買った。ドンクはまだ焼けてなかった。

そのあと、南環状線のダイキに回り、レンズが跳ね上がる偏光のサングラスを2つ買った。一つは大地用。約6500円なり。かなりの出費だが、親子ともども、白内障の進行を抑えるための必要経費だ。 

<7月、8月のウォーキング/トレッキング>


上では必ずしも山歩き/山登りとは関係のない、家事のこと買い物のことなども書いていた。blog一般の定義からはそれで構わないと思うが、この「真夏のウォーキング/トレッキング」では記事を絞る。
blogの一般的な定義は次のようなものである。
blogとはweb+ log つまりインターネット/web 上に公開された日記・日誌(風に書かれた記事)のことである。 logは The Beatles のA Hard Day’s Night の歌詞、 It's been a hard day's night And I've been working like a dog, It's been a hard day's night I should be sleeping llike a log----に出てくるように丸太のことである。 なぜ丸太logが日誌・日記を意味するのか。それは船の歴史と関係がある。
帆船の時代に船の速度を測るために、航海中の船の船首から丸太を投げ込んでそれが船尾に到達するまでの時間を砂時計などで測った。船の長さ÷丸太が船尾に到達するまでの時間=船の速度だった。丸太は航海を意味するもので、そこから航海日誌もまたlogtと呼ばれるようになった。

ちなみに、この測り方では長さ(せいぜい50m程度)も時間も(おそらく数十秒)も短く、誤差が大きくなるので、もっと長い距離で測る方法が後に行われるようになった。ロープに目印の丸太を結び付けそれを船から流す。例えば300m流してその時間を測れば、誤差は6分の1程度になると見積もられる。結び目を意味する語 notは今でもヨットなどの速度を表すノット/kt として使われている。

そういう次第で日記・日誌であるブログは、もともと時系列に従って私事を含めて事細かに書かれる。しかし、私の日常生活に関することを記した日記をそのまま掲載するのは、ここではやめ、山歩きに関した事柄だけを書くことにする。

  <7月~8月の私の山歩き/トレーニングのまとめ>
「山歩き」については次のように区別する。山歩きとは、昼食や雨具、着かえなどを入れたリュックを背負い、昼間数時間、山に上り山を歩くことと定義する。他方、早朝(まれに夜間)淡路が峠など近所の山や大護幼稚園の脇の坂などに1時間半程度、水だけをもって出かけるのはウォーキングあるいはトレーニングと呼ぶ。

このほかに、水は持っていくが食べ物はエネルギーゼリー程度で、時間は2時間以上かかることもあるが近所の山に新しいルートを開拓するのための探索行動があるが、これはグループで行く皿が峰の「山歩き」などより、もっと長い時間歩くこともある。2月にはこうした探索を何回も行った。

そうした区別のうえで、暑さに弱い私は、7月、8月は昼の山歩きは1回か2回しかしなかった。トレーニング/ウォーキングも数回に限られた。
気象庁、過去の気象データ検索>松山・日ごとの値を見ると
6月は月半ばまでは真夏日(最高気温が30℃以上の日)はなく、朝の気温も20℃以下で比較的涼しかったが、月半ば以降は雨の降った6/21以外、気温はほぼ30℃かそれ以上になり、猛暑日が3日あった。

6月に雨が降ったのは5日、11日、、13~14日、21日、25日、1日の雨量が最も多かったのは21日で45㎜、17㎜と16㎜の日がこれに次ぐが、降雨量は少なく、7月初め頃のニュースでは、石手川ダムの貯水率は、30年前の「大渇水」の時と同じだという。

7月は、猛暑日は2日、30℃~35℃が24日、25℃~30℃が5日だった。最低気温が25℃を下回った日は16日(ただし何れも20℃以上)、25℃を上回った日が15日だった。
10㎜以上の雨が降ったのは4日、6日17㎜、8日24.5㎜、14日37.5㎜,16日33.5㎜,19日78.5㎜、27日18.5㎜,30日15㎜

8月は、猛暑日はやはり2日だけだったが、30℃を下回った日は1日もなかった。また最低気温が25℃を下回った日が8日あったが、残りの23日はすべて25℃より高かった。
8月に10㎜以上の雨が降ったのは16日だけ。

松山市「水源状況・雨量と給水量」のグラフによると7月の降水量は300㎜程あり、7月20日ごろからは貯水率が平年並みになった。しかし、8月の降水量は100㎜弱で、再び貯水率が去年一昨年と比べて大きく減少している。 ただし9月に入って1日に27.5㎜、18日に40.5㎜の雨が降っている。

私は気温が30℃を越えると途端に元気がなくなり、昼間外に出たくなくなる。また朝夕も、気温が20℃以上であれば、ウォーキング/トレッキングに出掛ける元気がなくなる。

実際、昼の山歩きは8月2日の皿が峰・竜神平山行のみ。中腹の「上林森林公園」駐車場の標高はおよそ940mでそこの気温は平地よりも6℃ほど低い。「登山」で上るのは標高差250m程度であり、登山道の大部分は木陰である。上りでは汗をかくが涼むことが皿が峰山行の目的である。

トレーニング/ウォーキングは朝目覚めたときの気分と天候によって、行くかどうか、そしてどこに行くかが決まる。本格的に雨が降ったのは数日しかなかったが、(低気圧接近は体調を低下させるようで)行く元気がなく、休み。雨が多少降った時はウィンドブレーカーくらいで行くと涼しくていいのだが、1,2回しかなかった。 前日または前々日に強い雨が降った時は、淡路が峠の山道が滑り、ところによりぬかるむので行かない。雨後、あるいは雨の日には、滑る恐れのない大護幼稚園の脇の坂に行く。まとめると、

7月2日、3日、6日淡路が峠、9日、10日大護幼稚園の坂6回、13日淡路が峠、タヌキをみた、14日大護幼稚園坂を1回だけ。 15日夜8時から大護幼稚園坂1回がやっと。  17日、18日淡路が峠  20日大護幼稚園坂6回  7.23コロナワクチン4回目接種 25日大護幼稚園「熱中症、一歩手前」5回やっと

8月2日竜神平・皿が峰トレッキング  4日 朝、桑原中央通りを1回だけ往復、5日朝桑原中央通りを2往復したのみ。トホホ、以後、ずっと休み。家にほとんど閉じこもり。 24日久しぶりに、たった数百mだが、歩いてサニーマートまで買い物。 8月28日淡路が峠、29日、31日、9月1日、4日淡路が峠 8日から17日 腰痛でウォーキング休み。
18日大護幼稚園坂7回  21日淡路が峠、23日大護幼稚園坂3回のみ、24日大護幼稚園坂8回 というところ。

7月2日(土)
昨夜の就寝は11時頃。エスゾピクロンを飲んで寝る。淡路が峠に行くため、よく寝ておきたかったから。2度夜中に目が覚めた後、次に目が覚めたのはもう5時半を過ぎていた。すぐ起きて出かけた。

太陽が顔を出していたが、「朝のうち曇り」の予報だったのでバックシェイドをつけずに出た。しかし、東の方は「快晴」で、途中から暑くてかなわない。5分おきくらいに水を飲みながら登った。

前にかいた「やや太った女性」(30歳前後か)に追いつかれた。またとちゅうで、下ってきた田中さんに会った。上の展望台で例の女性と少し話をした。今日は上でも、風がほとんど無かった。

その間に、石手白石からくる自転車の男性(この人はいつも両手にストックを持っていて上るのも速いが、下りは走るようにして降りていく。)が、登ってきてすぐに降りて行った。

彼女の家は畑寺ですぐ近く、福祉関係の仕事だという。展望台からさらに南の方へ行こうとするので繁多寺側におりるのかと聞くと、ちょっとさきに神様が祭ってあるのでお参りしてから帰る、という。どこのことだろうか。はじめて聞いた。「それじゃあ、私はお先に」と下った。途中で2、3人、男女とすれ違った。

畑のところでカキの木の消毒をしていて薬液の霧がでていたので、息を止めて通り過ぎた。桑中を過ぎて丘の上の住宅地で田中さんに追いつき、話をしながら山内さんの家の前まで来た。門の上に運動靴が置いてあり、これが置いてあるときは、すでに山に行き戻ったのだという。山内さんは、かなり早くに登ってきたらしい。 かれは桑中上の農道までバイクででかける。

7月3日(日)
昨夜は9時に就寝、目覚ましは4時半に掛けておいた。11時ころと1時半過ぎにトイレに起きた。2時ごろまで眠くない頭をじっと押さえつけ、我慢して眠り4時半にアラームが鳴る少し前に目が覚めた。すぐに家を出る。
曇り。風がなく蒸し暑い。桑中に5時2分か3分。小さな雨滴がポツリ、ポツリと落ちてきて、雨がふって涼しくなるかと期待したが、結局降らなかった。

今年の春は雨が降らず、石手川ダムの貯水率は、今のところ、30年前の「大渇水」の時と同じだという。

蜘蛛の巣がときどき顔にかかるので、たぶん、一番だろう。数分おきに水を飲みながら登る。展望台の吹き流しも、だらんと垂れ下がったまま。少し休憩して下ると田中さんに会った。次に昨日も会った「福祉関係の仕事」の女性、そしてやややせ型の知らない男性。桑中の門の時計は6時5分だった。   

シャワーを浴び、朝食後、タイマーを掛けて25分の昼寝。25分というのは、この前、桑原内科の医者から睡眠薬を出してもらったときに、昼寝は30分以下にしておくようにと言われたため。それ以上寝ると夜眠れなくなる、と言う。10時頃、コープ束本へ。今日の夕食の食材。

2時頃赤松さんが来訪。そして鬼北町高田商店のポン酢を2本届けてくれた。上がってもらおうとしたが、びしょびしょなのでと玄関にとどまる。暑さ対策に、頭から水を掛けつつ歩くのだという。

高田さんという人がポン酢の商品開発で、一代で店を大きくしたという話はこの前、車に乗せてもらったときに聞いた。しかし高田商店と赤松さんの関係は、聞いたようにも思うが思い出せないので、次回確認するつもり。

とにかく猛暑日の続く中、昼の山歩きは超人的頑張りなしには難しいと思う。赤松さんの糖尿病対策としての山歩きに同情と感心。

7月4日(月)
昨夜から雨が降り、少し涼しい予報。朝は4時に目が覚めたが、眠かったので、淡路が峠に行くのはやめ、もう一度寝た。
午前中は曇り。11時から、リュックを背負って、冷水(飲用)と普通の水(熱くなったら頭に掛ける)を1本ずつバッグに入れて、セブンスターに行く。ぽつりぽつりふるがごくわずかで、体に雨滴がついてもさっぱり効かない。しかし山周りで、一応、運動はできた。

大早さんからのメールで柳さんが亡くなったことを知った。脳出血とのこと。彼は私の3つ下でまだ若い。「自分で仕事人間」と書いている。仕事のし過ぎかもしれない。家族葬という。 3時半過ぎ~桑原内科受診。月1回程度、血圧を測定して、アムロジピンをもらう。待合室に来てる人が少ないときに行く。待合室においてある「マッサージ機」で15分マッサージをしてから帰ることもある。

7月5日(火)
ほぼ一日雨。しかし、降雨量は14ミリでダムの貯水率の回復にはなってないという。

7月6日(水)
4時に目が覚め、起床。曇り。リポビタンDXαを飲み、5時少し前に、飲み水と、雨になったら着るつもりのカッパ代わりのウィンドブレイカーを小さいリュックに入れ、出掛ける。桑中前5時10分。

靄=霧がかかっていて、展望台からはイオンが見えない。その付近から海側は靄の中。倉谷との間の谷間も雲。蒸し暑く、息苦しい。誰も登った気配はなかった。くだって桑中前6時5分。いつも、大体55分で上り下り。

桑中から旧東環状線に出る手前で田中さんに会う。彼の足取りは確かに非常にしっかりしている。

メールで佐復君が退院を知らせてきた。彼は前立腺の手術を受けた。「まったく元気で入院して、完全に病人の状態での退院とは全く不条理だと思います。」という名言が書かれていた。尿漏れがひどく、夜も落ち着いて眠れず昼間も外出できないという。私は、頻尿で夜眠れず、山へ行っても立ちションの回数が多く、私と余り変わらない、と慰めておいた。

7月9日(土)
7日、8日は雨が降り、9日は朝雨のち晴れだった。 朝は雨が降って涼しいだろう、そして土曜日で朝食の準備はゆっくりでいいのだから、出掛けるのは急がなくていいと考えながら寝た。6時に目が覚めた。

2日間、多くはないが雨が降ったので淡路が峠はすべって危険。舗装されていても苔の生えているところは雨後は滑る。大護幼稚園のギザギザがしっかりついている坂に行くことにした。

薄墨糸の雲がかかり、弱いが雨が降っていて、幼稚園の近くまではウィンドブレーカーを着て歩く。暑くも寒くもなくちょうどいい。しかし幼稚園の下まで来た時に雨はやみ、暑くなったので脱ぎ、ナップザックも坂の途中のフェンスに掛けた。

あとでGoogleEarthとヤフー地図で測ったら、幼稚園前の三新建設の入り口の倉庫から坂をのぼりきったところにある古い農業用倉庫までの距離は約180から190m、往復で360m以上ある。ここを6回上り下りしたので距離は2km以上になる。また、標高差は40mで、6回分の累積では40×6=240mになる。→桑中上の畑から展望台にいったのとほぼ同じと考えてよさそう。

時間的にも6時半ごろ家を出て帰宅がほぼ8時だったので、淡路が峠まで往復するのと同じくらい。幼稚園の後、八幡神社の階段を一回登ったが、これはおまけ。

頭が熱くなり、PBに残っていた水を頭、首の後ろに掛けた。桑原中央通りに戻ったころ日が差してきた。 

今日の朝日新聞の「be」に載っていた記事:無意識の歩行速度が速い人ほど長生きするという研究がある、という。前に、「ためしてガッテン」で心拍の遅い人は長生きするという番組があった。両方当てはまるが、果たして私は長生きできるのだろうか。

2時過ぎ、チャリで、コーヒーとトンカツを買いに市駅付近にでかけた。途中銀天街を横切るが、すごい人波に驚いた。去年まで2年間中止になっていた土曜夜市が再開されたというニュースを聞いていたが、その人波を「息を止めて」横切った。

本嶋さんから、浅草の佃煮が届いたので、ノビさんにもおすそ分けしようと、メールをした。彼は暑い中、軽井沢でトレーニングしていた。

7月10日(日)
夕方、5時から1時間半ウォーキング/トレッキング、大護幼稚園坂6回上り下り。暑く、苦しい。つめたい飲み水300㏄と水道水500㏄のPBを持っていった。水道水がぬるく、頭と首にかけたがまったく効かない。飲み水をへらし、すこしずつ頭、首周りにかけた。なんとか前回と同じ6回を達成。帰りに繁多寺により、手水鉢で顔を洗ったが、ここもぬるかった。

帰宅後ふろの残り湯(水道水よりは冷たかった)で汗を流してから、シャワーの湯を浴びた。夜は10時前に就寝。睡眠薬はのまず、3度ほどめがさめた。

7月11日(月)
ウォーキングは休み。明朝、淡が峠に行こうと考え、ぐっすり眠れるようにと夜、エスゾを飲んで寝た。

7月12日(火)
昨夜の就寝時刻が10時過ぎで、二度目に2時半ごろ目が覚めた後、3度目に目が覚めたときはもう、6時を回っており、しかも元気がなかった。ウォーキングは休み。

7月13日(水)
4時半~淡路が峠。明るかったが日の出前で風も少し吹いていた。正円寺辺りに来た時、淡が峠方向、明るく澄んだ空に、高さ20度くらいのところにひとつ星が輝いていた。月ではないのにまるでこれから昇ってくる太陽の光を浴びて光っているように見えた。

天頂付近にもひとつ明るい星が見えた。冷たい水を1本半持っていき、ハンカチにかけて、それを首に巻いたので、涼しく、「苦しい」感じはなかった。

「頂上まで500m」の看板の手前で、子犬くらいのタヌキがいた。すぐに逃げず、しばらく私の方を見ていた。

7月14日(木)
昨夜は(エスゾは飲まず)10時過ぎに就寝、2時過ぎに一度目が覚め、4時に起床。

昨日の福島原発事故の責任を問う東京地裁民事裁判で、巨大津波を予見できたが対策を講じなかったと、経営トップの会長、社長、副社長2名、計4名の経営責任(「会社に巨額の損害を与えた」)を認め、13兆円の賠償を命じた、との新聞記事を丁寧に読んでいて、ウォーキングのために家を出たのは5時半近くなった。

空は曇っていた。少し雨の降った跡があった。大護幼稚園に向かう。冷たい水の入った500ccボトル2本とウィンドブレーカーをリュックに入れた。比較的涼しかったが、幼稚園下の坂に来た時に、急に、足の疲れ(が残っているの)を感じ、「6回」は無理だと思った。

実際舗装された坂を上ると体が重く、一回上まで行くと「無理だ」と感じて終わりにした。頭も熱くなり、水をかけ、細いタオルを濡らしてハチマキをして、帰宅した。

もしかしたら、熱中症になりかかったのかもしれなかった。シャワーを浴びて、6時半ごろから「25分の午睡」をして、それから朝食。また朝食後も、25分昼寝した。

7月15日(金)
昨夜はエスゾは飲まず、10時に就寝。夜中2時間ごとに3回目が覚め、起床は6時過ぎ。眠い。

朝食時、NHKのラジオから ビューティフル・サンデイが流れてきた。都はるみが歌っているというから、びっくり。いつの録音か?少女のような声だった。

夜8時ごろ~ウォーキング。大護幼稚園坂上まで1回がやっと。約1時間。

7月17日(日)
夜中に2度ほど起きた後、朝5時半に目が覚め、6時10分前くらいに家を出て淡路が峠へ。畑のわきの道はぬれていたが、上はどうということはなかった。

尾根に出て、頭・首が熱いと感じたが、タオルを忘れた。帽子の中に水を注いでそこに顔を付けた。
上りではだれにも会わなかったが、展望台には田中さんがすでに来ていた。

そのうち、次々と繁多寺側からも人が来た。田中さんと少し話をした。山内さんは最近、下の道を歩いていて峠には上らず、石手寺方面にウォーキングするという。下りでストックの男性、畑で森さん、福祉施設の女性、にあった。ほかに10人程の人に会った。土、日はやはり人が多い。

7月18日(月)
昨夜は9時半か10時くらいに就寝。1回か2回目が覚めたが、起床は4時。エスゾは飲まなかったし、夢をずっと見ていて、眠りは浅かったように思うが、それでも起床は辛くはなかった。

4時半過ぎ~6時、淡路が峠。冷水ボトル2本。途中から眠けを感じ、まずいと思ったが、今更戻るわけにはいかない。一番だと思われたので、蜘蛛の巣を払うために、登り口で竹の棒を一本持ち、前を払いながら登った。上り下りを通じて、だれにも会わなかった。

苦しくはなかったが、暑く、ぬれたタオルを頭に巻いたり首に巻いたりしながら上り下りした。桑中脇の坂で田中さんに会った。帰宅してシャワーを浴びた後、25分、午睡。7時ごろから朝食の用意。9時半から2回目の午睡。

7月20日(水)
朝5時~6時半大護幼稚園の坂へ。昨夜冷蔵庫に水を入れるのを忘れたため、今朝は生ぬるい水道水を2本もっていったが、頭、首を冷やす効果が小さく、体に熱がたまる感じがきつかった。それでも、何とか6回の上り下りは達成した。

7月23日(土)
朝、三世ペインクリニックで、コロナワクチン4回目接種。夕方から腕が腫れていたかったのでお風呂はやめた。

東京で、コロナが爆発的に広がってるので心配になり晶にメール。ついでに都はるみのビューティフルサンデイのこと、晶が小学校か中学の時にリコーダーでビューティフルサンデイを演奏していたことにも触れた。

7月24日(日)
昨日は注射をした右腕の付け根が腫れて痛く、右を下にして横になることはできなかった。しかし,腕の腫れと痛みは今日の夕食までにほぼ引いたので、入浴。エスゾは飲まず、代わりに、YouTubeでしばらく音楽を聴いてから就寝した。

7月25日(月)
昨夜は10時半ごろ就寝、エスゾは飲まず。夜中に2度起き、3度目に5時。寝る前には、たぶんいかない、元気がないだろうと思っていたが、朝目が覚めたとき、大護幼稚園なら行けそうだと感じ、リポビタンDⅩαを飲んで出掛けた。 しかし、やはり暑かった。3回登った時にはすでに2本のPBの冷水は残りがわずかになっていた。それでも、あと2回頑張って、5回上ったところで、やめにした。気分としては「熱中症、一歩手前」。

桑原中央通り、コーヒーの蔵の前あたりで、山内さんに呼び止められた。彼が淡路が峠はやめて下を歩いているということを田中さんから聴いていたが、こっちに来ていたのは知らなかった。

帰宅は6時45分。水道の水で頭を洗って冷やした。体もはじめは水のシャワー、それからお湯のシャワーをかけた。

8月1日(月)
夜、10時か10時半に(エスゾを飲まずに)就寝。思った通り、12時か12時半に一度目が覚めた。トイレに行った後、エスゾを飲んだ。この作戦?が功を奏して、朝6時まで、ほとんど夢を見ることもなく、通して、ぐっすり眠れた。6時間も熟睡できたのは、たぶん5、6年間、なかったのではないか。 

作戦というのは、エスゾは(2晩続けて飲まないようにしてきたが)10時か11時に飲んで寝ても、3,4時間後に一度は目が覚め、それからなかなか眠れず、眠っても眠りが浅く、不満があった。どうせ何時間かで一度目が覚めるなら、最初は飲まずに寝て、目が覚めたときに呑んだらどうかと考えて試してみたから。   

この日まで数日間、左足ふくらはぎ及び膝上大腿筋に痛みがあったし、腰も少し痛かったが、それらが一挙になくなっていた。これは「付録」だ。とにかく夜6時間、眠れたことが素晴らしかった。目が覚めた時に感じた心地よさは何とも言えない。

8月2日(火)<涼しい竜神平、皿が峰トレッキング>
10時、桑原3丁目ローソンに集合、ノビさん、森川さん、新人のTさんと4人で皿が峰へという予定だったが、四国カルストにいく予定だった他の4人組が、行先を変更して、我々4人と一緒に皿が峰に行くことになった。

川東、井原、赤松、曽根さん。車の台数は減らして、4台に二人ずつ乗った。森川さんはTさんの車で行った。風穴から急坂を登って(新人がいたので)まず頂上までいったが、ひどく蒸し暑かった。ノビさんも苦しかったと言っていた。

私は昨夜、熟睡できて、元気だった。頂上で記念写真を撮って竜神平に下り(1時15分くらい)昼食。高齢者の、女性グループが2、3組いた。その中の一人が私の名前を呼んだ。私は忘れていたが前に43番か44番鉄塔で一緒になった3人組の一人でコウダさんだという。    

Tさんは、川東さんたち4人組のだれとでも話をし、はずんだ笑い声をあげるなど、溶け込んでいた。桑原3丁目ローソンに戻って別れた後、森川さんが少し話してくれたのだが、彼女はもともと理系の学部出身だが、英語の非常勤講師をいくつかの大学、専門学校を掛け持ちし続けているようだ。実は専攻を生かせる地元の大学での就職を考えていたがうまくいかず、外国に留学した経験を活かし今の仕事となった、とか。

皿が峰山行は森林公園の駐車場までは車で行く。そこはすで標高が1000m近くあり、平地よりも6℃ほど気温が低い。「登山」で上るのは標高差250m程度である。上りでは汗をかくが涼むことが皿が峰山行の目的。 7月後半からは猛暑日も何日か含みほとんど連日30℃以上の真夏日が続いていて、ノビさんは「軽井沢」でのトレーニングを続けているが、私は、ほとんど歩いて外出はしていない。買い物の必要があるが、チャリで行く。サニーマートなど歩いて5分もかからないが、日中の暑さは耐えられず、チャリを使っている。

8月4日(木)
前夜の就寝は10時頃。12時過ぎと2時過ぎに目が覚めたが、そのあとは5時半くらいまで割とよく眠れて、元気を感じたので、起きてすぐ、ウォーキングに出掛けた。生暖かい弱い風。水を持たず、喉が渇いたらすぐ家に戻ろうと、桑原中央通りを1回だけ往復。
ほぼ一日PCに向かって、大学に入ってからの自分史を書いている。

8月5日(金)
前夜は10時くらいに寝て12時と2時半に目が覚めた。頭のタオルが温まると取り替え1時間くらい寝ようと努めたが、結局眠れず3時過ぎに起き、PCに向かって「自分史」の作業をやった。

5時過ぎ、眠かったが、ウォーキング。桑原中央通りを2往復した。シャワーを浴びて6時半ごろから朝食の用意。朝食後、うとうとしたが大地のご飯は出してやった。洗濯をやって干した後、大地の目薬をもらいに山西眼科に行った。

10日間ほど、PCの「自分史」作業以外記録無し。

8月18日(木)、20日に高縄山行きの計画があったが、ノビさんが首の後ろが腫れ、病院受診の必要があるということで、計画は中止。

8月24日(水)
久しぶりに、たった数百mだが、歩いてサニーマートまで買い物。

8月28日(日)
昨夜はエスゾを飲んで10時頃就寝、一度目が覚めたが、次に4時に目が覚め、涼しく、これなら行けるとわかった。まだ暗かったので新聞をよみ、リポビタンDXαを牛乳で飲むなどしてちょっと待つ。日の出の時刻は5時49分。

5時少し前に家をでる。ライトをつけて歩く。長袖速乾シャツがちょうどいい涼しさで気持ちがよい。空を見ると所々に薄い雲がかかっているようだが、結構、星が出ている、南西の空に大きく輝く星。金星にしては南に偏りすぎてるとおもった(木星で-2.8等星)。また天頂に近いところに見覚えのない赤い星が見えた(火星、0等星)。 (  )内は国立天文台「今日の星空」による。

桑中の門の時計が5時4分。ここまでは涼しく、まったく汗をかかなかったが、畑の登り口で少し汗ばんでいた。最初だろうと思ったので、蜘蛛の巣対策に竹の棒を一本持つ。登り始めて大腿筋がきつい。竹の棒を杖に使って登る。頂上まで杖を使いながら登った。 

吹き流しはだらんと下がって、風はなくなっていた。西の方を見ると靄ッていて陸と海の境がわからなかった。下にみえる松山市内は赤や青色交じりの電灯がついていて、まだ夜だった。くだる途中で石手白石から来る「ストッカー」に会った。下の農道で田中さんにあった。彼は毎日のように来ているようだ。そして桑中裏門の付近で、眼鏡をかけた丸顔でニコニコした女性にあった。年は50歳くらいか?暗いと怖いので明るくなってからくる、という。桑中の時計は6時5分で、いつもより5分か10分時間がかかった。帰宅して浴びたシャワーが気持よかった。

8月29日(月)
エスゾを飲まずに、8時過ぎに寝て、12時過ぎ、1時半?、4時に目が覚め、次に5時。すぐにおきてウォーキングにでかける。桑中の時計は5時15分。昨日よりも少し暑い。風がない。やはり最初だった。

降りるときに、石手白石のストッカー、次に森さん(おはようございますと声をかけたが返事はなかった。なぜ?)登り口で田中さんにあった。あと2人に農道であったが、きのうの女性にはあわなかった。

昨日は使わなかったが、汗拭き用の細いタオルにPBの冷水を含ませて、顔や首の汗を拭き、首にかけて胸を冷やしながら、上り、歩いた。家に戻ったのは6時半。朝食後少し昼寝。昨日のラインで、ノビさんは、今日、四国がんセンターに行き受診→入院の予定とのこと。

8月31日(水)
5時ごろ目が覚め、すぐに家をでた。桑中の時計で5時20分だった。うすぐもりだったが途中木星が良く見えた。そして正円寺の田圃のあたりから、この前見た、淡路が峠すれすれ北東方向に小さいがはっきり明るい星が見えた。後で調べたら、金星、宵の明星だった。

展望台で、少し休んで、下ってすぐ、ストッカーとすれ違い、もう少し下で森さん、そして林の上のジグザグで田中さんとすれ違った。桑中の時計は6時20分ぐらい。

ノビさんは入院は4、5日後と前便で言ってたが、その後便りがない。気にかかるが、こちらからはメールしにくい。

9月1日(木)
目が覚め少し暑いとおもったが、ウォーキングに出掛ける元気があるのがわかり、PBを2本もって出掛けた。曇り空だったが、木星は見えた。暑い。ちょくちょく水を飲む。首、後頭部が熱く、タオルに水をかけ、冷やしながら、登った。桑中の時計は5時半。それでも、まだ誰も登ってなかった。

上で汗を拭き、一休みしていると、ストッカー上がってきた。「今日はちょっと暑いですね」と声をかけると、「今日は27℃あります」という。「私は7時に飯を作らなければならないのでお先に」と下った。登るとき畑の入り口でいっしょだった「お爺さん」(もしかしたら私と同じか私より若いかもしれないのだが)が上がってきて「速いですね」と言う。

上の鉄塔まで来たところで田中さんが(初めて見る?)太ったお兄さんと話をしていた。お兄さんは登るのをやめて、下ろうとしていたところだった。追いついて後ろにくっついたが道を譲ろうとしない。しばらくして、ちょっと広いところで、「先に行かせてもらえませんか」と声をかけると、じろりと私を見た。譲りたくはないが、言われたのでしょうがないという感じ。「すみません朝飯の支度があるので」といって前に出た。森さんは今日は見えなかった。

桑中に戻るまでにPBの水は全部使って、そのあとは、ぬるいタオルを首に掛けたり外したりしながらやっと家にたどりついた。やはり25℃を越えたら、水2本でも足りないくらい暑いのだ。

10時頃、やや強い雨が降り、カッパの上下を着て、自転車で山西眼科に行き、点眼薬をもらった。大地に「薬を脇に垂らして無駄にしないように」と繰り返し言って、なんとか1か月持たせた。暑い日が何日か続いたので、雨は気持ちがよかった。午後は少し雷が鳴っていた。

9月4日(土)
朝、4時に目が覚め、コーヒーに牛乳を入れて1杯のみ、PB2本の冷水、冷やした濡れタオルをリュックに入れて、淡路が峠へ。山内さんが出かける用意をしていて、久しぶりにちょっと話をした。桑中の時計で5時20分。峠はたぶん私が最初、そのあとはじめての人に上で1人、下る途中で1人あった。桑中脇の農道で田中さんに会った。水は全部使った。朝の気温は25℃だったようだ。 

9月7日(水)
PB2本と濡れタオルを持って、淡路が峠へ。桑中前、5時半。風もなく、半そでシャツで行ったが暑かった。多分25℃以上。誰も来てなかったようだ。下り、ジグザグで田中さんに会う。他にはだれとも会わず。桑中6時半。水は結局、PB1本しか使わなかった。かなり暑くて、苦しかったのに。感覚が鈍ってるせい?      

農道周辺は、すっかり秋めいて虫の鳴き声がかまびすしい。畑から上は笹で草がないせいか虫の声は少ない。下りで気がついたのだが、ジグザグを出てすぐ畑の上、白いユリが2つ咲いていた。茎と葉を調べたが、勿論、笹ユリではなかった。2週間前か、もっと前からか、キバナコスモスが目だつ。

9月8日~9月17日 腰が痛みウォーキング休み。ほぼ毎日PCに向かって座ってばかりいるのが悪いのか。
9月11日ヨーコさんに電話。ノビさんの様子を尋ねた。 (ブログしばらく休み)

2023年1月1日 初日の出を見るため、元日に宝が峰に登る。

1月1日 6時過ぎに起床。7時前に一番池下の小社に着く。家を出てすぐの頃は東の空全体に黒々とした雲がかかっていて、こりゃあダメだと思ったが、初歩きのつもりで行こうと考えながら歩いた。桑中付近まで来ると雲は南に動いて空は晴れ上がっていた。喜んで一番池の下まで行き、休まず登り、7時20分過ぎくらいに宝が峰頂上へ。30歳くらいの男性の先客、一人あり。はじめて会った。去年は淡路が峠に行ったという。 
    上について東の方向を見ると、低い雲がでていて石鎚はすっかり隠れていたし、その右、太陽が出てくるはずの場所の附近は、細い眉毛のような形で明るいところが見えるだけ。細い雲があって、少し離れてまた上に雲がある。そして光芒Crepuscular rays「薄明光線」がその隙間から広がっていた。この薄明光線は、下に向かって広がっているときには天使の階段angel's stairwayということは知ってたが、上に向かっているのも(英語圏では)同じ。日本語では他にあるはずだが、webでみつからず。ここから見えるはずの時刻25分を過ぎても全然太陽は見えず。20分ほど待ってみたが上方の雲はとれず、太陽は見えなかった。
    常連でここに来ると初日の出がよく見えると教えてくれた渡邊さんも、またここで2、3回会った戒田さんも現れなかった。6時半前の雲を見てやめたのだろう。
初日の出は見られなかったものの、初歩きはちゃんとできてよかったと、自分を納得させながら山を下った。朝食はご飯にして、おかずにおせちのごぼう巻きなどを食べ、緑茶を飲んだ。「めでたさも中くらいなり、おらが春」というところ。夕方スマホをみたら歩数は10,500歩だった。これが毎日やれたらいいが。 午後は、ずっとパソコン。年賀状が数枚来ていたが、手で返事を書くのが面倒だ。
9月7日
Holidayで強い疲労感/倦怠感を感じた。
8日
チャリで図書館へ行く。その後、セブンスターまで食パンなどを買いに行った(歩き)が、疲労感で辛かった。その後、背や尻などが痛み、寝ころんでいることができず、残っていたセルコックス(痛みと炎症止め)を飲んで寝た。
9日
松本橋耳鼻科に受診。医者は喉ちんこの画像を見せたが、特に何も言わず、いつもと同じ、蒸気を吸う治療をしただけで後は錠剤を処方しただけ。喉が痛く、固形物は飲めない。3回、おかゆを作り卵を入れっ食べた。塩、しょうゆの味付けはダメ。
10日
寝たり起きたりの連続で、まとまった時間は眠れない。畳の部屋で寝たり、リビングのソファーで寝たりした。
11日
喉がますます痛くなり、栄養、エネルギーを保持する必要があると思い、コープに行き、ばなな、ヨーグルト2種、コーンポタージュ、カボチャpottage、甘酒を買ってきた。このうちカボチャポタージュは香辛料がはいっていてダメ。バナナもそのままかじったが喉とのあいだに摩擦があって、粘膜を傷めるようなので途中で食べるのを止めた。またコーンpottageもそのままでは濃すぎて刺激が強く、牛乳で割る必要があった。甘酒は甘すぎた、等々、のどの痛みをこらえながら、少しずつ摂取した。   食後、化膿している喉の粘膜からの膿ではないかと思うが、黄色いねばねばしたものを痰として吐き出す。これも痛い。
12日(火)
少しのどの痛みが取れて、バナナを食べた。 昼食では(白飯がなく)玄米ご飯の粥(すりこ木棒で潰して)に卵を落として混ぜたものを食べた。味付けは「本だし」。それにpottageとヨーグルト、それにリポビタンDⅩαを摂取した。夕食(8時過ぎ)もおかゆ。   直子がコロナだったら3人の距離をもっとあけた方がいい、という。彼女がレディ薬局に行き、コロナ陰性/陽性判定キットを買ってきたので、やってみたら、陽性の判定だった。明日、安部さんがかかったというシャイニークリニック(火曜日は休み)に行き、確認し、のどの痛みをとりコロナ対策になる薬の処方を頼むことにする。  また5類に移行して、「濃厚接触者」という規定はなくなったが、大地が矢麿樹に出勤するについては、朝矢麿樹に相談してからにする。出勤停止なら、いっしょにシャイニークリニックにいくことにする。
13日
9時過ぎシャイニークリニックに行く、車での受診者は屋外で診察し、自転車での受診者は、中の区画された個室でおこなう。医者の診察も良かった。それにしても松本耳鼻科はひどい。  五類のインフルエンザでも同様なのかもしれないが、最初の5日間はもっとも感染力が強く外出は控えるべき、次の5日間はよくなるはずだが経過ををみた方がよく、ウィルスはまだ体内にあり感染力はあるので、来週月曜までは外出を控えた方がよい、とのことだった。大地の出勤については、「濃厚接触者」という規定―規制がない。勤務先の判断になる。「接客業」といっても、調理場だけならかまわないというところもあるーーーー。       私の症状は軽くなってきて、おかゆ、pottageなど流動物は、ほぼ抵抗なく(痛みを感じずに)飲み込めるようになった。また痰が楽に吐けるようになった。体温は36.3度と高くないが、だるい。五日ぶりにお風呂の湯を取り替え(大地は毎日残り湯に湯を足して入っていたようだ)、入浴して、頭を洗い、髭も剃って、さっぱりした。
9月21日
夜、9時~、中央通りのウォーキング、30分ほど。歩くのは9月7日以来、2週間ぶりか。 9月23日
朝は気温が22℃に下がるという予報だったので、そのつもりで5時に起床。ウォーキングした。大護幼稚園脇の坂を1回のぼった。涼しく歩きやすかったはずだが、帰りには息が上がってやや苦しかった。後遺症はまだまだ、続いている。
10月3日
朝6時半~桑原中央通りウォーキング。東西3回=3.75+南北0.7㎞、合計約4.5㎞。気温は15~6度で長袖のシャツでもはじめは少し寒かった。それが良かったのか、速足で歩いたが息は上がらず、疲れを感じないで歩けた。
昼に、研修所わきを通ってセブンスターへ(リュックのみ)帰りは約7キロの荷物で、下の県道(2.1㎞)を通って、買い物。行きはトップの速度で歩いたが上の豪邸付近で疲れを感じ「セカンド」に、帰りは農学部前交差点くらいまでトップでその後セコンドで帰った。昼食に、マイタケ、エビ、イカの天ぷらでそばを茹でて食べたが、うまかった。
10月4日
デンタルフロスがなくなり、レディが8時過ぎにも開いていたので、ウォーキングをかねて、夜、レディに行った。中央通り4往復=5㎞+南北0.7㎞、約5.7㎞。涼しく楽に歩けた。しかし、脚の筋肉疲労が残っていて少し足の疲れは感じた。
東の空に一つだけ明るい星がみえた。金星かとも思ったが、時間的には遅すぎるかと思い家に帰って調べたら木星だった。
10月8日
朝夢を見て5時くらいに目が覚めてしまった。眠かったが、コロナ後遺症の倦怠感、だるさはなく、ウォーキングに出掛ける元気を感じた。5時半くらいに布団から出て、リュックに水と、濡れタオルを入れて玄関から数歩出ると雨がぽつりぽつり。空はもう明るいが曇っているので、戻って、直子のヤッケをリュックに入れて、出直した。中央通りの女性専用スポーツクラブの軒を借りてヤッケを着た。大護幼稚園まで行き、脇の坂を2回上り下りした。3回は無理と感じた。八幡神社まで来て、もう少しと階段を2回上った。下りは脇の坂。
だいぶ疲れたが、コロナ前の7割位には回復しただろうか。帰宅は7時。牛乳を飲んで一休み、ひと眠り。8時に起きて朝食。コーヒーが切れていてあとでサニーマートに行くつもり。食パンはもう一日分はあるので、セブンスターに行くのは明日にする。眠けが残り、後ろ頭が少し痛い(重い)。
10月11日 昨夜、残りご飯でおにぎり(小)を二つ作り、大地の朝ごはん分を茶碗に入れて、久しぶりに、釜がきれいに空になり、気持よかった。11時半くらいに繁多寺Pに行く。ノビさんと岩城さんといっしょに、44番鉄塔へ。半分「リハビリ」の気持で、リュックはほとんど空だが、ストックを使って歩いた。いくとすでに阿部さんが叔母のヒデコさんと来ていた。
「ランチ」の間の会話で知ったのだが彼女はヘルニアを患っていて歩行が困難とのこと。車で、一番池の先まで行き、坂の緩いところをあるいて、来るのだという。年は私の一つ上、安部克平さんの一回り年上で、彼の父の妹とか。枚方市にいたが、連れがなくなって現在、彼の家に同居してるという。途中で川東さんも加わった。昼食中~後まで岩城さんがずっと話し続けていたが、よく聞こえないし、また興味のない話だったので、私は、寝転んでうとうとしていた。1時半くらいに44番から下り、ヤギ小屋入り口手前の十字路で阿部さんたちと別れ、我々4人は、淡路が峠まで登った。久しぶりにたっぷり汗をかいた。帰宅は、3時過ぎだった。
リュックをふろの残り湯(+風呂洗い石鹸)に浸け、帽子も石鹸を塗って水に浸けておき、久しぶりに洗った。5時過ぎにお風呂を沸かし、頭を洗い、髭もそってさっぱりし、ミックスナッツを食べながらオールフリーを飲んだ。コロナ罹患前以来か?
10月24日
高縄山の林道の、植物観察ウォーキング。9時15分にノビさんが車で迎えに来てくれて、ローソンに集合。岩城さん、川東さん井原さん、島田さん、曽根さん。+名前の知らない女性。全部で8人。10時過ぎから、ゆっくりペースで歩く。12時、「作業場」のテラスで昼食、全部で4時間程度、歩いた歩数は5500歩。途中、階段をのぼったり、木立の中の山道を登ったり、ガレの多い急な坂道を下ったりするところも少しあったが、疲れるほどではなかった。最後に頂上の展望台にものぼったが、曇っていて景色は大したことがなかった。
竹と笹の違い、リョウブ=令法(と書く。これは新芽が食料にもなり、昔、法律で栽培するように命じられたという、)カラカサダケを知った。 
11月14日
ノビさんの呼びかけで総勢14人で、西条の八堂山にハイキング、頂上はかつて弥生時代の集落があった場所で、屋根のあるベンチなどがあって昼食は、そこで食べた。気温は12℃だったが、風はなく快晴で暖かく20℃以上ある感じだった。その少し下の考古歴史館を見学した。私は、赤松さんの車に、大西さん(自転車ライダー)、前川さん(63歳、再雇用で働いてるという)と一緒に載せてもらった。歩数は約 5600歩
11月21日
ノビさんに誘われ伊予市にある愛媛森林公園に行く。10時半過ぎ出発、大谷池より少し上の駐車場に車を止め、11時くらいから、2時くらいまでアップダウンのある森林公園内を山歩き、途中、「頂上」の広場の休憩所で昼食30分程度。その後下に下りて車に乗り谷上(タガミ)山の展望台に行き、瀬戸内海を眺めて帰った。素晴らしい快晴で風もなく暖か。約9000歩
12月2日
赤松さんの車でノビさん、森川さんと4人で、塩ヶ森に行った。朝9時半にわたしの家に集まってもらい、車で迎えに来てもらう。とてもらくちんな山行。334号線(旧11号線)で重信川を越えその先の重信川支流の表川を越えたところで201号線に入り南に少し下る。その先の道は覚えていない。塩ヶ森の公園の中は、舗装道路を通らず、よく整備された土の歩道を歩くことができてよかった。しかし,塩ヶ森山頂(525m)からその南の番駄が森(605m)を経て、さらに尾根伝いにその南のケタ山(658m)まで行く計画だったが、急傾斜の尾根、しかも藪の多いところを上り下りする。私は、12時少し前、番駄が森先の鉄塔の下で、脱落。一人で休憩し昼食することにした。3人はその先のケタ山まで行き、15分程度の昼食と言ってたが1時半過ぎに鉄塔に戻ってきた。私は、まだコロナ後遺症のためか、コロナ後のトレーニング不足のためか、ついていけなかった。また次回を期することにした。
12月8日
快晴で暖かかったので、カロリーメイトなどで「軽食」をとって昼から宝が峰に向った。12時40分ごろ家をでて、小さい社から登った。頂上に出る前に、色々道が作り変えられて登りやすくなっていた。また西側の下り坂も階段が作られていて、非常に楽。マドンナから淡路が峠展望台へ。疲れたので四角い台に寝転んで少し休憩して、近くにいた人に時間をたずねたのに宝が峰で、いい汗をかいた。桑原までもどったあたりで、すねの筋肉が文句を言い、膝が笑いかかっているのを感じた。夜、ラインで、ノビさんから明日の昼、44番鉄塔でのお山ランチに誘われたが、疲れが残っていると感じ、遠慮した。

2024年の山歩き 

1月1日
晴れ。10時頃中央通りを2回往復。5~6年続けてきた、元日に宝が峰に登って初日の出を見る「良き習慣」は残念ながら今年は実行できなかった。

  1月7日
代わりに(?)今年は、干支にちなんで、竜門山と(と隣りの大黒山)にいく。朝8時40分過ぎくらいに、赤松さんがノビさんを載せて、私の家に迎えに来てくれた。いったん、ローソンに集まって「幹事」の川東さんの、車の交渉を勝手にするなという「御叱り」を受けて、「あけましておめでとう。ことしもどうぞよろしく」の挨拶を交わせぬまま、出発。 計14人。317号で玉川ダムまでいく手前で右に入って朝倉ダムの脇を通り、西条側の登り口から、はじめに竜門山に登った。昔、竜門城という城があった所。約439m、11時くらいに下に戻り、それから大黒山322に向かう。手前に393mの4級三角点に行き、そこで中食をとり、そこから、きつい坂を下ったり登ったりして、大黒山に向かうのだが、ロープを使うところもあり、きつかった。帰宅4時。
1月16日
ノビさんの車で、森川さんとともに3人で、愛媛森林公園に行く。10時出発、1時くらいに上で中食。風が冷たかったが、風が当たらない休憩所の建物の陰で、日の光を浴びながらゆっくり中食。その後下りでアスレチックをやった。一つだけ狭いロープのトンネルでカタツムリの殻のように一回転しなければならないものはパスしたが、それ以外は、森川さんとともに、やった。3時頃、サニーマートまで、送ってもらい、そこで夕食の材料を買って帰宅。スパゲッティミートソースと、たらこバターソースの二種類作った。
2月16日
チャリで東温市の重信川緑地公園に行き、山岡さんが作って家から持参したお好み焼きを振舞ってもらう、という「山岡んさんの退院を祝い励ます」というおかしなランチ会。自転車で行く。久米窪田のファミマに11時集合となっていて、私は10時25分くらいに家をでたら、ファミマには10時40分くらいに着いてしまった。ノビさん、山岡さんと3人でに森林公園までチャリで行き、そこで岩城さんと落ち合う。すぐ脇に龍沢泉というのと金水泉?とかいう泉があるが、どちらも枯れていて、水は全くなかった。
岩城さんはなんと、いつものモーターバイクでなく、チャリで来た。川東さんは車。ナビが遠回りの道を教えた、とブーブー言いながら、遅れて到着。山岡さんの手製のお好み焼きをいただき、川東さん、ノビさんが入れてくれたコーヒーを1杯ずつのませてもらい、さらにインスタントの砂糖入りのコーヒーまでもらって、飲んだ。食後、近くの植物園「愛媛県森の交流センター」に移動。梅を見るが、天気が良すぎて、梅の花がつまらなく感じた
。 それからさらに先へ行き209号線で重信川を渡って右がわの「愛媛県農林水産研究所農業研究部・花卉研究指導室」という長い名前の、様々な花を育てている温室がずらーッと並んでいるフラワーセンターあるいはフラワーパレスのような所にいった。帰りは堤防の上の舗装された道をを走ったのだが、行き止まりの表示がされてなく、広くてずいぶん長く伸びているのに行き止まりというところがあり、2回目は、戻るのがいやで、下におり水の枯れた細い川を渡り、藪の土手を自転車を3人で1台ずつ引き上げる苦労をして、並行して走っている、細く良くない路に出たて走った。岩城さんはよく道を知っていて、ずっと後にいたが、本道を走っていて、われわれが細い道から出たところで彼女と一緒になった。7153歩、5.5EX。帰宅は3時半過ぎだった。自転車を一生懸命漕いだので、夕方お風呂を沸かして入り頭を洗い、髭もそった。
3月10日
梅津寺まで、ノビさんと自転車(片道45ふんくらいだった)、他の人(岩城、島田、高橋さん)は赤松さんの車。森川さんは電車だった。天理教の建物の脇から上り、岩子山181m、護摩が森、経が森203mを経て太山寺、帰りは別の路で梅津寺に降りた。中食は経が森の仏塔の下で食べた。島田さんは西城秀樹のブルースカイブルーが好きだと言ってたので、帰宅後聞いてみたが、歌いにくい。
3月16日
朝、夕食用に、キャベツを蒸して葉を4~5枚はがし(ロールキャベツの予定)、10時半ごろコープに買い物にいく。途中で嶋田さんから声を掛けられた。孫の小4の男の子といっしょにチャリ。電動自転車に乗る練習だという。昼から淡が峠に行こうという。もちろんOK。桑中の門で待ち合わせる、展望台→切れット→宝が峰→丸木橋→第二庭園でカロリーメート。珈琲をいれてもらった→43番鉄塔→ヤギ小屋→繁多寺脇坂→ノビさんちにより、女子大前で別れた。1万3700歩。彼女に後ろから煽られる感じの速足歩き。疲れた。帰宅3時半ごろ。
4月7日
鷹ノ子運動公園までは自転車で行き、その先歩いて、カメの多い池の所から山に入り、帰らずの谷を通り、○○池上池、下池を経て三熊野神社へ。ノビさんによれば、昔より花が少なくなったという神社の前の桜並木の下で昼食、弱い風に花弁がはらはらと散ってきておにぎりの上にかかり、美しく、おいしかった。川東さん、曽根さん、高橋さん、赤松さん、大堀公子さん、ノビさん、私の7人。帰りは、旅ログを止めなかったので、鷹ノ子公園から家までの自転車も入れて、14,000歩。
4月19日
朝、ノビさんがラインで、「新ルート整備」に行かないかと誘ってきた。彼の家まで自転車で行く。枝切ばさみ、作業用オーバーズボン、農業用スパッツ、持参で。軽井沢を登り切ったところで、左の山道に入り、その途中の木の階段の付いた枝路→急坂斜面→何本も人の歩いた跡のある藪道をきりひらく作業。枯れたシダの葉が飛散するのでマスクをかけて作業をした。かなり大変だった。頂上に着いたところはユーカリ畑だった。なぜ、苦労して新ルートを開くのかと聞いたら、近道だという。急斜面を登る、面白さもあるらしい。夕方、お風呂を沸かして入った。
4月28日 ノビさんの誘いで、岩城さん、高橋さん、曽根さん、計5人で、山田池の南側の標高134mの山の鉄塔まで行き、それからその西側で、日尾八幡神社の北側の標高109mの山の頂上にある神社の奥の院(ここには仏像と札所の名前の刻まれた88の小さな石碑が馬蹄形に並んでいて、簡単に札所めぐりができる)に行った後、少し下って(前に一度一人で行ったことのある八幡神社上の木造やぐらの展望台で12時ちょっと過ぎになり、ここで昼食。それから下って池の縁をちょっと歩いて、池の反対側から桜がたくさん咲いているのが見える急斜面の丘に登った。下りは竹林の中を、筍を採りながら下り、また池の縁をしばらく歩いて、鉾田池との間の堤防にで、久米霊園の脇からフォーチュンの山に登った。3人は、車やバイクを軽井沢登り口に止めてあるため、そこから(多分堤防をとおって)帰り、私はフォーチュンの山から西に降りて遍路道にで、朝、自転車を置いた福祉センターにもどった。その後、生協によって夕食の材料を買った。朝10時半軽井沢入り口~中食を入れて4時間半程度、1万1千歩、8.4EX
5月11日
皿が峰にいく。朝10時畑寺のローソンに集まり、私は曽根さんの車に乗せてもらい、久米窪田で岩城さんをひろって、ノビさんと桑田さんは高橋さんの車で、行った。森林公園駐車場で車を降り、風穴から直登する急坂コースで行き、クマガイソウの小群落を見、竜神平に着いたのは1時前くらいか。途中で下って来る20人以上の人に会った。気温は高かったが風は冷たく、中食のときには上にウィンドブレーカーとカッパを羽織った。頂上にはいかなかった。行きもくだりも、小さな花を探しながら歩いた。私は帰りにまだ花が小さい状態のハナイカダを見つけることができた。ウバ百合はまだ?全然見えなかった。大きな葉のバイケイソウがいくつかあった。笹ユリは小さなつぼみのものが1.2本あったが、まだ全く咲いていなかった。
行きも帰りも曽根さんの車だったが、彼が録音しておいた彼の好きな曲がずっと車中に流れ、7割くらいは知ってる曲で、一緒に歌いながらのドライブだった。岩城さんが500円ずつ集めて渡そうと言っていたが、私はその一律というのに反対して、それぞれが渡せばいいと言い、私は1,000円?曽根さんはそんなにいらないと言ったがー渡した。
5月22日
嶋田さん、岩城さんと山歩き、繁多寺駐車場11時、ヤギ小屋を通らず、淡が峠に向かい途中の分岐から、キレット経由で宝が峰へ。西側斜面を降りて、マドンナ登り口から右に入り、淡が峠2番目鉄塔付近に出、そのすぐ下から、右に入り、ミカン畑に向かう急な道の途中で、昼食。栗林館に下りる手前から、また上りキャンプ場跡を経由して、永く続く急坂を登って、展望台の下に出る。2時ごろ。この最後の道が厳しかった。  気温は24~25℃だったがムシムシし大汗をかいた。上の休憩所で井原さん、川東さんと会ったが、話をする気力もなし。山女二人はそこから繁多寺に下りたが、私は、桑中側におりて帰宅。1万5千ぽだったが、平地なら絶対、2万ぽ以上のエクササイズだった。疲れたので、すぐにお風呂を沸かし、昼寝した。
5月25日
大三島、鷲が頭山436mにいく。8時にノビさんが迎えに来てくれて、317号線で水が峠トンネルを通り、玉川湖の脇を通って今治へ。そこから島並海道―自動車道に乗り、大三島ICで下り、(隣の生口島にわたる)多々羅橋がすぐ近くに見える「幸せの鐘」というのがある多々羅公園に着いたのは、「合流約束時間」10時の30分以上前だった。宇和島からの玉川さん、中島さん、清家さんの3人と合流し、大山祇神社隣りの道の駅に車を置き、登山開始。ノビさんのスマホに入っている井原さんの登ったコースに従って行ったが、入日の滝を過ぎてすぐの、土砂崩れを防ぐための古いネットの張ってある急斜面の直登がきつかった。上から日で照らされ、斜面の白い花崗岩からの反射で暑い暑い、それが標高150mくらいから標高300mにあるひろい舗装路に出るまで、(距離不明)急斜面を登る。これが相当に疲れた。その後再び、コンクリート舗装と階段が交互に続く、標高差100mほどのほとんど直登の道(合計の350m位)を登るとNHKの電波塔に下に着く。この最後の階段とコンクリート舗装の坂もひどく疲れた。電波塔から20mか30m先の山頂で、中食。2時半ごろか。私はシートを敷いて完全に寝ころんでおにぎりをほおばった。
帰りの下りはもちろん入日の滝コースではなく、安神山267mに向かう尾根コース(これもなかなかきつかった)を通り、安神山山頂につく。途中から玉川さんが疲れ、足が痛くなり、また中島さんが膝が痛くなったりし、ペースが遅くなった。玉川さんが水がなくなったというので、私の余っていた1本(と言っても6割か7割)を上げた。私はポカリスウェットが3割ほど残っていたのを飲みながら下った。リュックも背負ってあげると言ったが彼は大丈夫とがんばった。休み、休み下り、大山祇神社の境内に入って、天然記念物?の大きなクスノキを見て、道の駅に戻り、そこで水を買って飲んだ。清家さんとノビさんは、最後まで元気だった。私は、へとへと。車に乗って眠らないようにするのが精一杯だった。帰宅は5時近く。すぐにお風呂を沸かして入った。
6月1日
山岡さんの快気祝いでお山ランチ、11時半に、軽井沢の入り口に集合という。私は遅れて一人で軽井沢の奥の、初めての道を登っていったら、赤松さんたちの普段集まるカフェテラスに出た。そこから先、曽根街道を下って44番鉄塔へ。全くいつものお山ランチと変わらず。珈琲もなし、参加者、山岡さん、ノビさん、阿部さん、岩城さん、赤松さん、私、島田さん、井原さん。嶋田さんが、先週大谷さんがリーダーで、土小屋から二の森へ登ったが、三日後に筋肉苦痛が出たと言う。彼女は〇〇歳だそうだ。大谷さんは--------という。嶋田さんは以前、北吉田で卓球をやっていた時、中山町の山岡さんという人と知り合いになった、もしかして、と思っていたら、実際その人は今日来た山岡さんの兄さんだったことが、分かったという。嶋田さんに鷲が頭山の話をしたら、ぜひ行きたいという。また埴生山―弁天山に関しては、私と同様、岩子山から街中を歩くのは嫌で、津田団地までバスで行こう、という話しで、岩城さんとも一致した。
6月8日
岩城さん、嶋田さんと埴生山―弁天山への山行。9時ごろ一里木バスで(岩城さんは久米からのって)乗り合わせることにしていた。私の調べ方が悪く、間違った時刻を知らせていた(帰宅後、時刻表を見直したら平成28年の版だった)が、うまく3人が一緒になることができた。津田団地で下り、バス停近くの家で道を教えてもらい、権現山経由で、最初に埴生山にいき、それから津田山を通って弁天山へ。弁天山で中食。それからミカン畑の間の舗装されたジグザグ坂を下って、団地に降りたが、方向がわからず(くもっていて太陽が出ていない。)まごついたが、通りがかった若者(中学生くらい)に教えてもらって、バス停へ。20分くらい待つはずだったが、バスは30分以上も!遅れた。 歩数は8200歩ほど。曇りで暑くはなく、半そででちょうどよかったが、3回も蚊に刺された。薬を持って行ってよかった。
6月15日
ビさんと護国寺までチャリで行き、息子さんの車で送ってもらった岩城さんと待ち合わせ。それから一草庵に移動。チャリを置いて、11時少し前から山歩き、まず御幸寺山頂まで行き、少し戻って竹林の中を通り天神山へ。次に軽之山に向かうが途中土砂崩れで、路がなくなっており、土砂崩れの斜面をトラバースし、ほとんど道のないところを通って、ミカン畑の上に出、そこからモノラックのレールにつかまって急斜面を下りて農道に出て、ベテル病院の裏に出た。
12時半ごろ、木陰で昼食。そこから少し歩いて、農道を通って、前にとおった軽之山に向かう尾根道に出る。ヤマップ、Ypaaさんの歩いた道の一番北まで行き、三島神社(「三島吉原神社」が併記された石碑もあった)の下に出、軽之神社の脇を通り、そこからまた道なき道を通って、以前、尾根道から姫山小学校に降りた路に出て、そこから逆に尾根道に出る。
湿度と温度が高く、半解凍の濡れタオル、半解凍の水で顔や首を冷やしながら歩くが、熱中症一歩手前くらいに疲れる。天神山を過ぎたあたりで、岩城さんが喉が渇いたが水が無くなってしまったというので、私の半分くらい残っていた「氷水」に、岩城さんのポットに残っていたお湯をすこし入れて増やし、分けてあげた。「間接キッスだね」と笑った。
岩城さんは一草庵から日赤まで歩き、電車で帰ると別れ、私は途中買い物をするのでとノビさんとフジの近くで別れ、(温めるだけで食べられる)夕食のおかずを買った。
帰宅し、(昨夜大地が入らなかったので、蓋をしたままの)「冷たくない風呂」に浸かって、体を冷まして休み、またシャンプーを使わないで髪をごしごし洗い、ついでに髭もそった。万歩計は1万8千歩弱だった。
帰路途中で通った姫池の近くに石碑があり、木梨ノ軽ノ皇子の歌が刻まれている。 木梨ノ軽ノ皇子ミコ(太子)は、允恭天皇第一皇子で、允恭インギョウ23年に太子となったが、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ 四国に流され、42年穴穂皇子に撃たれた。四国中央市にある東宮山古墳が木梨軽皇子の墓といわれる。
石碑の歌は、HP「俳句の里松山」>軽之神社・軽太子の塚によると
天飛ぶ 鳥も使ひぞ 鶴が音の 聞こえむ時は 我が名問はさね(古事記 允恭記歌謡)
あまとぶ とりもつかひぞ たづがねの きこえむときは わがなとはさね
大空を翔る鳥たちは天からの使いです。鶴の声が聞こえたら私の名前を叫んで聞いて見て下さい。
鳥たちは何でも知っています。
紀元435年のこと、允恭天皇の皇太子木梨軽太子(きなしかるのみこ)は、実妹・軽大郎女(かるのおおいらつめ)と許されない恋におち、太子は伊予の湯に流された。姫は恋しくてたまらず追いかけて来たが、二人はついに、この地で亡くなられた。『古事記』に残る有名な悲恋の物語である。 その名も「姫原」というこの地には、いつの頃からか、二人を祀った「軽之神社」があり、神社より奥の山裾に二人の塚と言われる比翼塚がある。
比翼塚の隣には、木梨軽太子の「天飛ぶ鳥も使ぞ鶴が音の聞えむ時は我が名問はさね」(空を飛ぶ鳥は使いだ。鶴が鳴くときは私のことを尋ねてくれ。)と、軽大郎女の「君が行きけ長くなりぬ 山釿の迎へを行かむ 待つには待たじ」(お迎えにまいります。待ちきれません。)を並べて刻んだ歌碑が建立されている。
なお、「山釿」とは、植物のニワトコのことで、「山釿の」は「迎へ」の詞となっている。
大昔の若い貴族の男女が命をかけて行った恋愛がこの石碑に刻まれていた。
7月4日
笹ユリを見に行こうと、陣が森と皿が峰に行った。森川さんも元気になって9時15分までに拙宅へ。ノビさんの車で畑寺ローソンに9時半集合。全部で9名の集団。上林小学校を過ぎて森林地帯に入ると、涼しくなって、冷房を止めた。上林トンネルを出ると、もう車が10台以上止まっていて、笹ユリの人気の高さがわかる。工事用道路のだらだら坂を半分くらい過ぎたあたりから、沢山咲いていて、私は今回で3回目と思うが、多いと思った。井原さんも今までになく、多いと言っていた、電波中継塔までと言う話しだったが、それよりも低いところで折り返して下った。
それから森林公園駐車場に移動し、(まだケシの花が2,3個しか咲いてない)風穴で冷気を楽しんでから、急登でない道を通って竜神平に向ったが、湿度と気温が高く、途中のベンチで休憩12時半。森川さんが、また一人で先に行ってしまったが、嶋田さんの具合が悪くなり、ここで休憩・昼食にし、下ることにした。電話は通じず、井原さんが森川さんを迎えに行った。
のぼりで曽根さんから「葉隠れ吊り船草」というのがあるという話しを聞いた。山道の往復では見つからなかったが、下まで降りて駐車場の脇の草むらで曽根さんが見つけてくれた。まだあるかもしれんよ、と言われて私も探して、一つ見つけることができた。駐車場を一周したが、その二つだけだった。花が黄色い「黄つりふね」というのもあると教わった。11,000歩ほどだった。森川さんが、朝、自転車の鍵をかけたが、カギをなくしてしまい、家に電話して、奥さんに届けてもらう、ハプニングがあった。
7月中は昼間は暑くとても動く元気がなく、早朝にのみ、中央通りなどの30分程度のウォーキングに 合計14~5回、平均して1日おきくらいに、出かけた。
8月中は11回、9月中は8回、10月もまだ暑く7回だった。淡路が峠か、大護幼稚園脇の坂くらいまでがせいぜいで、遠出は一切しなかった。
10月13日
ノビさんの新車で岩城さんも乗って、薄墨桜から入ったところの西方寺駐車場に9時40分ごろ着。高橋さんと合流、彼の案内で勝岡山(カッカサンと読む)に向かう。ほとんど日陰、枯葉の積もった山道で、水は2,3度のんだが、汗をかくこともなく、非常に快適な上り。山頂のお堂(屋根も木の床もある)に12時10分ごろ着き、ここで中食。1時過ぎ高山に向かうが高山山頂近くは藪がひどく、撤退。少し戻り分岐点から、東側のたぶん上菅谷集落方向に向おうと、少し歩きだしたが、高橋さんが股関節の不調らしく、今日はやめにし、のぼりとは別ルートで、駐車場に戻った。こちらは、舗装路で、日が当たって暑かったが、距離も短く1時間20分ほどで駐車場についた。合計5時間10分、あるいた距離は19,000歩強だった。
11月6日
0時半ごろから淡が峠へ。桑中上の農道の作業小屋の前で、帰るところだという杉原さん他2名と出会い、杉原さんと7月の陳ケ森依頼4か月ぶりくらいに話しをした。上りは、桑中脇の坂の途中と、下の鉄塔で水を飲み一息入れ、上の休憩所で小用をたし数分休んで下山したが、桑中正門の時計で見て、ピッタリ1時間だった。ということは、(苦しい感じはしたが)以前と同じペースで上り下りすることができた、ということで、満足感があった。
11月8日
10時過ぎ、淡路が峠へ。桑中脇の坂で一休みして水を飲む。登り口の柿畑の脇の坂を上がったところで振り向くと女性が登ってくるのが見えた。追い越されるのはいやだと頑張ったが、続かず、すぐ上の鉄塔で再び水を飲んで休憩しているときに追いつかれた。どうぞお先にと言うと、また追い越してくださいと言って、登っていった。赤シャツ青シャツ分岐点の少し先の、休憩所で彼女が休んでいたので追い越し、第二の鉄塔でまた水を飲んで、上の展望台に着いた。暫くして彼女が登ってきて、話をした。KDさんという名で、年は聞かなかったが〇才代後半くらいか。井原さんの隣の家だという。またここから宝が峰にまわって、北東側の道を丸木橋まで行くのが定番のcourseだという。大谷さん、赤松さん、本橋さんの名をいうとよく知っているという。 私の名前は須藤だというと、聞いたことがあるが多分別人だと言っていた。リュックが重そうですねと言うと、今日は特別で、お昼ご飯を上で食べるつもり、といって、中から干柿をだして、私に一つくれた。話していた時間は10分くらいか。別れて、下山し、桑中の時計を見たら1時間より8分くらい長くかかっていた。今日も疲れを感じたが、上り下りのペースはそう変わってなかったようだ。
12月1日
ヌタノサコ行き。今日のメンバーは、高橋さん、ノビさん、岩城さん森川さんと私の5人。薄墨桜・西法寺から、まず勝岡山頂上を迂回して高山をめざす。高山の手前、前回藪で撤退した場所では、今回は枝切ばさみを持っていき、路を切り開いて高山まで行った。しかしその先の道は見つからず、例の分岐点まで戻り上萱谷に出る。上萱谷の部落(人が住んでいるのは4軒のみ)でヌタノサコへの道を尋ねるが、分からず。わたしがヤマップ、チャウダーさんの活動記録に書き入れた地図を頼りにいくことにし、上萱谷部落の北の三俣に別れたところで、昼食、1時20分ごろ頃出発。
20分ほどでヌタノサコに行く尾根の裾にたどり着く。上の小ピークで、東に進んで、路を間違え20分か30分損をする。ここでサングラスを落としたようだ。小ピークにもどって北に進みヌタノサコについた。1時間と6分かかった。苦労してたどり着いたので皆大感激。万歳を三唱。しかし下りで道も2度道を間違え、戻って道を探すなど、合わせて40~50分損をした。このあたりでもうへとへと。
しかし何とか上萱谷にもどり、そこから例の分岐点に戻り、西法寺に戻った。上萱谷の北の分岐点で昼食し出発してから3時間40分だった。最初にその分岐点に着くまでに2時間くらい歩いたので合計5時間近く歩いた。歩数で2万1千歩位い。疲れた。森川さんの奥さんの車でおくってもらい5時半ごろ帰宅。夕食前に入浴した。
12月22日
11時半くらいに淡路が峠往復のつもりで出掛けた。頂上付近で嶋田さんに、頂上で赤松さんに会い、赤松さんについていくことになり、第二鉄塔からマドンナ登り口(公衆トイレ)に下り、宝が峰に上って、木橋に下る。そこで渡邊シニアー、井原さんと合流、ヤギ小屋手前の分岐点まで、一緒に行き、私と嶋田さんはそこから繁多寺Pに降りた。帰宅は3時半。4時間近く歩いたが、荷物無しの、ゆっくりペース。
彼女が本橋さんと3人で軽井沢から倉谷に上りたいというのでノビさんちにより、こんどの火曜日24日10時に彼の家に集まることにした。
12月24日
嶋田さんの友人のKBさんが加わることになり、4人で、倉谷山まで行くことになった。バラバラに、10時ごろ、繁多寺Pに集まり、ユーカリ畑から、桜並木を通って倉谷山へ。頂上はよくなかったので、鉄塔まで降りてそこの草原で昼食。ジグザグ坂を下って、木橋前をとおりヤギ小屋、そして繁多寺Pへ。約4時間のウォーキング。帰りは疲れていて、降り積もった枯葉の上で滑って2度も転んだ。
12月28日
元日に宝が峰に上って初日の出を見るつもり。北側の尾根道はしばらくのぼってないので、下見に行った。途中畑寺で買い物袋を両肩にかけて前を歩いている女性に追いついたが、それは嶋田さんだった。宝が峰に下見に行くことを話した。
上り口は、しっかりした階段が作られていて登りやすくなっていた。途中は以前通りだった。しかし、体力低下のせいか、ひどく急峻に感じられ、登るのがつらかった。元日はここから登るか、それとも、繁多寺がわから上るか、淡路が峠から行くか、また途中まで自転車で行くか全部歩くか、など迷った。
元日には、結局、下見をした北側尾根道から登ることにした。また自転車は使わず、歩いてふもとまで行った。
雲が全くない完全な晴天で、サングラスをもっていかなかったために、丸い太陽の輪郭はわからなかったが、ギンギラギンに輝く明るくまぶしい場所が次第に上昇するのが見えた。22年の初日の出も良かったようだが、2025年の元旦はたぶん空前絶後の晴天ではなかったか。

2025年の山歩き

1月1日