船の所有と管理についての一般論と、私が行なった台風襲来時の避難、船底の掃除(フジツボ落とし)、塗装など維持・管理に関する経験、主に苦労話について以下で書く。
海で釣りをする場合には、船があると非常に便利で、釣りをしたいだけ十分に楽しむことができる。だが、船を維持・管理するための相当な苦労がある。
まず、ふだん船を止めておく場所の問題である。車を持つ人の場合に、自分の家の庭の一部を駐車スペースにするか、近くの賃貸駐車場を利用するか、いずれにせよ、駐車場を確保しなければならないと同様、船を持つ場合にも、船を置くあるいは係留しておく場所が必要である。
船を係留するに際して、心配なことは、荒天時に高い波が生じることである。大きな波で、船が海岸に打ち寄せられ、岩場などに衝突したら船は壊れてしまう。砂浜であっても打ち上げられたら大変だ。小型の船外機船でも、下に車がついてるわけではないので、かなりの数の人の手がなければ動かせない。たいてい、港は湾内にあって、少々の風なら、船を係留したままでも心配はない。しかし、台風が近くを通ることがわかったら、事前に、波が上がって来ない場所に船を陸揚げするか、大きな波が入ってこない、奥深い湾内の港、あるいは高い堤防を備えた港の中に、一時的に避難し、係留する必要がある。
そこで船を持った人が、日常的に、湾内の、防波堤で囲まれた港か、海の波が入ってこない川に係留することができれば安心である。だが、港の中に船を常時係留するとすれば、港の管理者の許可を受ける必要があることは分かるだろう。一見、港とは見えない湾の中、あるいは川に係留してある船を見かけることがある。アンカーを入れて船を止めるだけではなく、人が上陸するためには、くいを打って板を渡すなど、何か桟橋のようなもの、一種の構造物が必要となる。
海岸や河岸に構造物を設けることについて法律はどうなっているか。国土交通省の河川管理課などに聞いてみた。河川には橋など公共的なものを除き、私的な構造物を設けることは認められていない行事のために、河川敷に杭を打つなどのことは認められるが、船の持ち主が船を係留するために杭を打ったり、桟橋を設けたりすることは認められていないという。(国などが管理者であることを定めた現行法ができる以前から船を止めていた漁師などの場合は別で、撤去させることは管理者としても難しいと言う。)
港に関する法律は港湾法と漁港法で水産庁、国交省が管轄している。県の港湾海岸課に尋ねた。漁港の多くは市町村が管理者になっている。ただし、(愛媛県では)三崎漁港と八幡浜港のように県が管理者になっているところもある。防波堤で囲まれた区域だけが「漁港」なのではなく、その付近の護岸がなされている場所も含めて漁港に指定されているケースもあるという。港に船を係留する場合には一般に管理者の許可を受けなければならないということであった。
宇和島市から愛南町に行く途中の国道56号沿いに嵐漁港がある。嵐湾の一番奥の漁協の建物の前に浮き桟橋があり、その付近には渡船業者のやや大きな船がつながれている。その少し南の、荷揚げ用に埋め立てて護岸が施されている辺りまでは港らしく見える。しかしそこから先の海岸はごつごつした岩でできており、ところどころ木が生えている。その護岸の施されていない辺りにも、漁船やプレジャーボートが係留されており、ロープが国道の脇の太い木に縛り付けられていたりする。桟橋のようなものは見られない。これらの船の係留は許可を受けたものなのかどうか。どこまでが市の管理する漁港なのかが知りたくて、宇和島市の水産課に聞いてみた。
電話に出た担当者によれば、湾の全体が漁港に指定されている。そして、筏や桟橋などを設置したいという場合には、自治会と漁協両方の同意をとった上で、「専用許可」を受ける必要があるという。筏や桟橋などの構造物によって、設置者は他の人がその海面を利用できなくし、設置者の「専用」にするからであろう。そして、その設置場所が、船の通行の妨げにならないか、漁業に支障がないかどうかということに関して、地元の漁協や自治会が判断して、設置に「同意」する必要があると言うことらしい。また、桟橋や筏の設置許可は漁業者だけに認められるというものではないという。
一方、錨を打って、ロープで船を係留するだけならば、船は動かせるから、その止めてある場所を「専用」することにはならないのだろう。船の所有者が宇和島市民かどうかということに関係なく、許可を受ける必要はない、という。
漁港によっては、漁協が実質的管理を行っているところもあるという話をほかで聞いたことがあるので、尋ねてみた。「漁協に金をはらうということはあるのか」。「船を繋ぐというだけのことでお金を取るということはない」。「湾の清掃活動への協力金などの名目ではどうか」と聞いてみると、「そういうことはあるかもしれない」との返事だった。
この限りでは、一般的に、港内に船を係留するために、漁港の管理者からとくに許可を受ける必要はないことが分かった。だが、付近の漁港の実際の状態を見ると、アクセスの容易な場所はたいてい漁業者が使っていて、新たに船を係留するスペースほとんどない。係留できるのは、船の乗り降りが面倒で危険を伴うような場所しかないように見える。台風の際の避難場所として、一時的に利用するならともかく、日常的に乗降場所として使うには向いていない、そんな場所しか空いていない。他所から来た人が探して、乗り降りが可能な、船を係留することができそうな場所見つけたとしても、そこは、地元の漁業者から船の通行の妨げになるとみなされるかも知れず、地元の人、漁業者の了解を得ずに係留を行うのは実際には、非常に難しいのではないかと思われる。
地元の人々と関係を持たずに船に乗り、その船のための係留場所を求めるなら、マリーナmarinaなどを利用するのがよいとおもわれる。マリーナは百科事典などによればヨット、モータボート用の港、係留施設で、保管、給油も可能な施設を言う。類語のfisharenaフィッシャリーナとは漁港内に設けられたマリーナで、遊漁船と漁船が共存する港である。私営、公営のマリーナ、フィッシャリーナがある。
私は数ヶ月の間、北灘湾にある私営のマリーナを利用したことがある。保管料は、月1万円。船を上げ下げするホイストは自分で操作すれば、無料で利用できる。地元の魚の養殖業者が副業で経営しており、常駐の管理者はいない。保管されている船は、普段は、船台(架台)に乗せて陸上に置かれていて、週末などに船を使うときに、ホイストで海に下ろし、使用が終われば再び上架する。利用者の多くは2,3人で船に乗り、自分たちでホイストを使って船の下げ、上げを行なっていた。清水(せいすい、つまりふつうの水道水)を使いたい人は、カードを買っておき、それを差し込む方式。ホイスト操作を自分でできないか、したくない人の場合には、船に乗るときには事前に連絡して船を下ろしておいてもらい、下船後は桟橋に船を着けておき、後であげてもらう。この場合エンジンや船体の清水洗浄はできないことになる。
西予市の西予三瓶フィッシャリーナは半公営ということになろうか。指定管理者の佐々木マリン(0894-33-0412)が管理している。場所は二泳(にぎゅう)、08年7月にオープン。海上保管73隻、陸上8隻、料金1ヶ月25フィートまでで7000円、25フィート以上8000円かそれ以上。管理者が操作するクレーンは1回(下げ、上げ)3000円。水道を使う場合はそれにプラス。
都市部ではプレジャーボートの数が多いからであろう、保管料金はやや高い。松山のEマリンはボートの販売店で、ここで買った船だけが対象。すべて陸上保管。1フィート当たり、年1万円、25フィートなら年25万円。ほかに台車リース料、水などの共益費、プラス消費税などで、6万円ほど掛かる。クレーンの使用料は25フィートで1回(下げ、上げ)3500円などとなっている。
マリーナに預けて保管をしてもらうというのは、週末や休日だけ釣りを楽しみ、ほかの日は船を使わないという人にとっては、(料金の問題は別として)ごく一般的で最も楽な方法である。
三瓶フィッシャリーナは大部分が海上保管であるが、松山でも、北灘でも、陸上保管がほとんどである。その場合、船を使用する場合には、その都度、船を下ろし、また上げなければならない。船の上げ下ろしは有料で管理者が行うのであれ、無料で自分で上げ下ろしをするのであれ、毎日、あるいは1日に何回も船を利用したいという人には、向いてない。陸上保管だけのマリーナは、サンデー・アングラーズ向きの施設である。
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自分の住む家のすぐ近くで、自由に使える筏ないしは桟橋に船を係留しておき、一日に何度でも、好きな時に、船に乗ることができるならば、非常に便利である。
私は退職後すぐに漁村に家を買って住み、その地区の住民で少し前までアコヤ貝養殖に携わり、そのための海上の作業小屋=「屋形」を持っていた(故)水谷さんの好意で、屋形に船を係留させてもらうことができた。水谷さんが亡くなるまでの4年間は、屋形は自分のものではなかったが、橋で自由に行き来でき、いつでも好きな時に船を利用できた。漁村に移住すれば、必ず、自由に使える桟橋や筏に船を係留できるとは限らない。私は、親切な人に出会ったという運にも恵まれていた。
私は、夜明け前に出港して薄暗い時間帯に釣る方がいいメジカやヤズ、ハマチなどの曳釣り、あるいは夜暗くなってから釣るモイカ(アオリイカ)釣りなどはあまりやらなかったが、それでも、午前中釣りをし、いったん、家に戻って昼食をとり、昼寝をして、日が少し傾いてから、再度でかけるというように、一日のうちに何度も船に乗り降りした。こうしたことは海辺に住み、家のすぐ近くに船を止めることができてこそ、可能だ。
私は裁判所の競売を通じて、建坪100平方メートル、築10年程度の、普通の住宅を100万円台で入手した。この家はアコヤ貝養殖に携わっていた漁民が、1990年代半ばに起こった宇和海でのアコヤ貝の大量斃死とそれにそれに続く真珠不況の中で借金を返せないまま手放したもので、銀行の「不良債権」になっていた。私は松山では借家住まいであったが、東京などに比べて家賃がずっと安い松山で月8万円ほどで借りたことのある家と大差ない広さと造りである。
アコヤ貝の大量死事件後、宇和島から愛南町にかけては、一地区に1~2軒は必ずと言っていいほど、同じような理由で空き家になっている家がある。私ははじめ宇和島や隣の(旧)津島町の不動産屋に問い合わせて数軒の家を見て回ったが、交通の便がよくないか、家の価格が船の購入と合わせて1千万と考えていた私の予算を少し超えていた。少し考えている間に地元の友人から裁判所の競売で買うとよいというアドバイスをもらい、競売に掛かっている物件もいくつか見て回った。
中に、専用の船着場がついている物件が2つあった。ひとつは不動産屋の紹介で、価格1000万円のコンクリート建ての家。もと真珠養殖をやっていたという家の裏の海には、作業小屋のついた大きな筏=屋形が浮いていた。不動産屋は、日常的に船に乗るなら便利ですよ、と購入を勧めた。ただここは国道まで遠かった。(私が現在住んでいる愛南町家串は国道のバス停まで徒歩20分と近い。)
もうひとつは裁判所の競売物件で、もとの家主の仕事はやはり漁業ということだったが、海岸を通る県道に面した家で、家の前に桟橋があった。民宿をやっていたこともあるという広い家で最低入札価格が350万だった。売れ残った物件でありこの価格で入手できることは確実だった。ところが実際に行ってみると、母親と中学生くらいの子供が二人住んでいる。父親は逃げて行方不明で、残された3人は住むところがないのでここにいるのだという。一緒に住むわけにもいかず、また買ってから、出て行ってくれと要求するのも嫌だったので、これは申し込まなかった。
家串の隣の油袋(ゆたい)にはタイなどの養殖生簀が並んでいて、そこで釣りをしていて、二、三度同じ人といっしょになった。話をすると、その人は、家は岡山だが、油袋の近くに家を買って船を置き、釣れているという情報があるとやってきて暫くの間滞在して釣りをする。この人の買った家も桟橋がついているという。
家串では数年前に、何人か人を雇ってアコヤ貝養殖を行っていた50才前後の漁業者がガンでなくなった。その後、奥さんと息子が同じ仕事を続けていたが経営が立ち行かなくなり、家は銀行の手に渡った。私が買った家の2倍はありそうな大きくて立派な家である。どこかの不動産屋のものになって売りに出されていた。当初は600万円台だった。次第に値段が下がり2年後くらいになって300万円台になった時に売れた。買った人は家串出身者で、それまで他所で暮らしていたが、Uターンしてきたという。
アコヤガイの大量死と真珠不況の中で漁民によって手放された家が、宇和島から南の諸地区に何軒もあると考えられる。私は時々松山まで往復する必要があり、しかも車を運転しないため、直通バスを利用できる国道の近くに住もうと考えていたので、条件が限定されたが、車を持っている人なら自由に場所を選べるだろう。
自由に使用できる自家用の桟橋や筏があるかどうかは別して、船を係留する場所が確保できるのであれば、退職後、漁村に住み、釣り三昧の生活を楽しむことができる。金の使い方にはいろいろあるだろうが、釣りの好きな人にとっては、宇和海沿岸の地区にたくさんあると思われるこうした空き家を購入して、海辺で暮らしながら船で釣りをすることを考えてみてはどうか。
船を係留するための筏などを自分で持ち、管理する場合には、それなりの苦労がある。これについては3.で書く。
海辺の自分の家のそばの筏か桟橋に船を係留し、釣りができるのは非常に便利であるということを上で書いた。しかし、台風接近時など海が大荒れになることが予想される場合には、台風の通過コースなどにもよるが、何らかの対策を取る必要が生じる。対策として、二つの方法がある。船を陸揚げする方法と、他の安全な繋留場所に避難する方法とである。
アコヤガイの養殖を行なっている漁村には、それぞれ、地区との自治会や生産組合などが設置・管理しているホイストがあり、船外機の作業船などを陸に揚げることができるようになっている。台風の接近が確実になったときには、その地区の漁業者が集まってきて、ホイストを使って作業船や漁船を次々に陸に上げ、車のついた船台に乗せ、波が直接打ち付けない場所へ移動する光景が見られる。
また、いずれの船も毎日の作業で使うので、ふだんは海上につないである。船底には塗料が塗ってありフジツボや海藻が付着しにくくはなっているが、それでも次第に船のスピードが出なくなるので1年に1回は、船底の付着物を削り落とし、ペンキを塗りなおす必要がある。この付近の漁業者はこれを「ドック」という。ドックをするときにも、ホイストを使って船を陸に上げる。ドックについてはまた後で述べる。
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ホイストhoistは動力を用いて重量物を吊り上げ、水平に動かす機械装置であり、一種のクレーンである。小型のホイストは、真珠貝の養殖を行っている漁業者が各自、作業小屋に据え付け、真珠貝の入ったネットの束を船から岸壁上に移したりその逆の作業を行たりするのに使っている。作業用の船外機船などの重量物を上げ下ろしするためのもう少し大きいホイストも、地区ごとに一基か二基は必ず見ることができる。
縦4m、横2m半ほどの長方形の敷地の4隅に、高さが3m半か4mほどの4本のコンクリート柱が立っていて、その上部中央から海上までレールが突き出ている。これにそってフックの付いた滑車が移動する。滑車には長方形の鉄枠が吊り下げられていて、この枠の下には、船をのせるための二本のベルトが掛かっている。岸壁に横付けした船の上まで滑車を動かし、鉄枠を下げ、船の下にベルトを回して船を乗せたらまっすぐ上に引き上げ、次に(柱の間隔が狭いので)船を水平に90度回し縦方向に向けてから滑車を動かし、柱の間に船を引きこんで下に下ろす。しかしこれは決して簡単なことではない。
まず、船が海面から上に吊り上げられたときに前後に水平な姿勢を保つように、2本のベルトを確実に掛けなければならない。傾いたまま引き上げた場合、船がすべってベルトから外れて海に突っ込んでしまう危険があるからである。
ベルトの位置を決める作業は船に乗っていなければできない。ここと思うところで、陸の人に合図して、船が海面の上にくるまで引き上げ、バランスの具合を見る。よさそうなので、船をいったん下げて水に浮かべ、船に乗っていた人は陸(岸壁)に上がる。そして再び船を引き上げると、先ほど船に乗っていた位置が関係して船が傾く。乗ったり下りたりして、何度もやり直す。ベルトの位置決めには手間がかかる。
船と陸を何度も往復して一人でやってしまう人もあるが、二人いて一方が陸でコントローラを操作するほうがよい。しかし、あるとき、陸でホイストの操作をする人と船に乗ってベルトの位置決めをしている私の間の意思疎通がなされず、私が乗ったまま船が2mほど引き上げられたことがあった。このときはもし万一船が落下したらと思って生きた心地がしなかった。人が乗ったまま船を上げるのは危険である。実際、ある個人経営の小さい造船所でホイストを使って船を揚げたとき、ベルトが切れて船が落ち、乗っていた人が死んだ例がある。
漁村のホイストは1トン以下の平底の作業用船外機船の上げ下げのために設置されているものだから、ホイストの高さは3mか4mで、ヨットの上げ下ろしもするマリーナなどにあるクレーンのような高さはなく、鉄枠についているベルトも長くはない。(ほかでもたいてい同じだったが)家串のホイストの可載重量は2tで、プレジャーボートの私の船は1t半なので上げ下げは可能なのだが、コックピットがあり、その屋根にGPSの20センチほどのアンテナがついていて、滑車に吊り下げられている鉄枠がぶつかりそうになる。ベルトをつけ足せば船を載せやすくすることができるが、全体が長すぎると、船を陸に上げたときに、船底と地面との間の距離が不足し、船台に乗せることができなくなる。
船高のあるプレジャーボートの場合は、船台とホイストの高さと、そこに備え付けのベルトの長さの関係が問題になる。家串にはホイストが二基あって、始めに借りた生産組合のホイストはベルトが長すぎて、船台に乗せられず、もう一方の自治会のホイストの方はベルトが短すぎて、鉄枠がコックピットの屋根にぶつかってしまう。困った末、自治会のホイストのベルトの不足する長さを測っておき、船具屋でベルトを2本買ってきて、右図のように、二つ折りにしてつけ足すことにより、船を上げることができた。あれこれ試してわかったことである。
船に乗ってベルトの位置決め作業をするときには、自分の頭にも気をつけなければならない。私はこの作業で船を乗り降りしている時に、鉄枠に頭をぶつけて、数針縫う怪我をしたことがある。
船を岸壁に横づけにした状態でホイストのベルト掛け、それからまっすぐ上に、岸壁の地面よりも1mほど高くなるように引き上げてから、あらかじめ船の前あるいは後ろに結んでおいたロープを引っ張るなどして、船を水平に90度回転させてから、予め4本の柱の間においてある船台のところまで船を動かす。上から吊り下げられているとは言っても、1トン半の重量物を、ロープでひいて向きを変えるのは簡単ではない。そして、手前に船を動かすときのボタン操作が難しい。ゆっくり動かそうとして、ボタンを小刻みに押すとレール上の滑車がガクンガクンと動いたり止まったりし、吊り下げられている船が前後に振れて、危ない。ボタン操作に慣れた人に動かしてもらうほうがよい。
一度、ホイスト操作がまずく、船台に載せたが、船が後ろに傾いて滑り落ち、船底後部が岸壁に触れた。船台に載せなおすのに、10人以上の人の手を借りるが必要であった。また船底後部の角がつぶれ、ボート店に修理してもらわねばならなかった。
家串の2つのホイストの使用料は上げ下げ両方で1000円である。他のところでもそうだが、ホイストの下には船台がおいてあり、(自分の船台を用意しなくても)船底塗装などは行える。私は家串のホイストを借りて上架し、2、3回ドックを行った。、そのたびに何人かの助っ人を頼まなければならず、また事故がおきれば死者もでかねない重量物の上げ下げに、毎回ひどく緊張させられ、終わったあとではどっと疲れを感じた。
西隣の油袋地区の漁業者Nさんは、3トン以上ありそうな船を使っていて、作業場に自家用の大型のホイストを備えている。私は最近、何回か、ドックのために、使用料5000円を払って使わせてもらった。ホイストの操作を毎日のようにやっているNさんに船の上げ下げをやってもらえるので、危険を感じずに済み、船底掃除の際には高圧放水銃なども使わせてもらえるのでドックが楽に行なうことができ、ありがたい。
ただし、Nさんの都合でホイストの下が荷物でいっぱいになっていて、ドックをやらせてもらうことができないこともあり、その場合には他でやった。
東隣り、平碆の生産組合のホイストは家串のものより一回り大きくて高さがあり、ドックのために2、3回、また台風襲来の陸揚げに1回、利用させて貰った。以前、利用料は平碆の組合員は2千円で部外者は6千円であったが、最近では部外者にも同じ料金で使わせてくれるようである。ホイストの操作は自分で行う。(私の場合、ホイストの近くの作業場で真珠の珠入れを行っている加幡鹿太郎さんが好意からいつも手伝ってくれたりアドバイスしてくれたりして、実際には、楽にできた。また高圧放水銃まで貸してもらうことができた。鹿太郎さんには、他のことでもいろいろお世話になっており、大変感謝している。)
また、宇和島や愛南町には小規模な造船所が何箇所もあり、一定の料金でドックが可能である。自分の船を係留している場所から多少離れていても、車に乗る人なら、造船所を利用することもできるだろう。そして、おそらく、日本全国どこでも、漁業が盛んなところなら、同じような造船所があるはずだ。
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台風避難のための陸揚げ=上架は、06年7月に平碆で行なった一回だけである。そのときの状況を報告しよう。船に乗り始めたばかりでは、とても一人では、上架による台風避難はできないということがわかる事例の報告である。
7月7日(金)
中心付近の気圧が950パスカルで、強い台風3号が東シナ海を北上、朝鮮半島に向かっている。九州には上陸しないようだが、コースによっては船を上げる必要があるかもしれないと思われた。
台風避難のための上架は平碆にするつもりだったが、他の船も上げるだろうから、ホイストで陸にあげたら、近くに場所を見つけて動かさなければならない。駐車場に入れさせてもらえるだろうか。
船を上げるかどうかを決めるのはもう少し先にすることにして、船をおく場所を探しておこうと平バエに行ってみると、普段は空っぽな、ホイストに隣接する駐車場は、すでに上架された船でほとんどいっぱいになっていた。去年の夏知り合った、加幡鹿太郎さん(お父さんは2005年秋まで内海村最後の村長を務めた人。彼は両親と彼の奥さんと4人で真珠の核入れを行なっている。)は、台風のときは、空いている場所があれば、誰か他の地区のものが船を置いても、誰も文句は言わないはずだ。時間的な余裕のある人はすでに船を上げているが、真珠の仕事をやっている人はこれから上げるだろう。須藤さんが船を上げるなら、トラックで引っ張ってやるから、夕方来てはどうかと言ってくれた。私は、感謝し、お願いすることにした。駐車場はホイストの設置されている場所よりも1mほど高くなっており、そこへのスロープがきつい。船台と船を合わせた重量は2トン近くあるので、車がないと、それも軽乗用車では無理で、トラックで引っ張りあげる必要があるというのだ。
私は、家串にもどって友人の源さん(第2章曳釣り(トローリング)3.「源さんの「山立て」による曳釣り」参照)に助っ人を頼み、4時過ぎに一緒に平碆に行った。鹿太郎さんのお父さんも手伝ってくれて、ホイストを使って船台に載せるところまではうまくいった。しかし、スロープを引き上げる際、船を載せた船台が途中の段差で揺れ、このときに船が滑って後ろに動いて本来の位置から1mほどもずれ、船首が少し浮いた。下手をすると船尾から落ちてしまいそうである。そこで船台の前側からロープを回して、船がこれ以上後ろに動かないようにするとともに、船首側が上に浮かないように別のロープをかけて船台に強く縛り付けるようにした。プロの運送業者などがやるように、ロープの途中に輪を作りテンションをかけて結ぶことなどを含め、これらの作業はすべて鹿太郎さんがやってくれた。私はただ船が落ちたらどうしようとおろおろしながら見ているだけであった。
道路まで引き上げてから、船台/船の向きを変える必要があったが、曲がり角のところにはすでに他の船が止められており道路に幅が無いため、人力で横から押して回すより他にしかたがなく、鹿太郎さんのお母さん、彼の奥さんまで手伝ってくれた。空いている場所に船台/船を止めた後、万一、強い風で揺れたときにボートが尻餅をついたりすることがないよう、キールの最後尾の下に、バール(真珠筏に使う発泡スチロールの大型の浮き)を入れ、太い丸太をかって動かないようにして、この日の作業を終えた。
翌朝になると、新たに台風4号が発生しており、下ろすのを急がないなら、1週間くらい上げたままにしておいたらどうか、と鹿太郎さんが言うので、私はその言葉に従うことにした。
日曜日には、台風3号が四国近辺にはほとんど影響がなく、また4号は中国大陸に向かっていることがわかったが、船を下ろすかどうかは月曜に決めることにした。月曜の午後になって、台風4号が完全にそれることがはっきりした。また、私の船を置いている場所が駐車場の入り口のところで、他の船を下ろす邪魔になってはいけないと、火曜日の夕方、早めに下ろすことに決めた。船を載せた船台を方向転換させるための作業を、今度は加幡さんの家族の人たちの手を煩わせずに行いたいと思い、家串のKさんとHさんの二人に、1000円ずつ渡して頼んだ。その後、船台を家串に持って帰るのも、結局、加幡さんのトラックで運んでもらうことになった。後でお礼の品を届けたが、本当にお世話になった。
私の25フィートで1.5トンのプレジャーボートの場合、真珠養殖の作業に使う船外機船のために設置されているホイストでは陸揚げが難しいということはすでに上で書いた。平碆のホイストは大きさの点では都合がよかったが、ホイストのある場所と船を置く駐車場との間に高低差があることが難点であった。
台風が来そうだと言うときに毎回このように平碆のホイストを使い、何人もの手を煩わし、トラックで引いてもらって陸揚げをするというのはいい方法だとは思えなかった。
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ホイストで陸揚げするのが難しかったり、不便だったりする場合に、高波の心配がない深い湾やあるいは大きな港の中に一時的に係留することによって、避難をする方法がある。
私は実際、松山から船を移したばかりの05年の9月、台風14号の襲来に際しては、どう避難したらいいのか全くわからず、友人の漁業者、中島さんに助けを求め、家串から船で20~30分のところの嵐湾の彼の作業筏に繋いでもらった。嵐の湾も深くいりこんでいて、波の心配はいらない。しかし、しばしば強い風が吹くという。
このときの台風は、長崎県に上陸し、夜、山陰沖に抜けた。松山気象台の記録によれば、6日18時ごろ宇和島で最大瞬間風速39m/秒を観測した。家串でも風はゴウゴウと音を立てて吹き、家が揺らぐほどだった。防災無線で、瓦が飛んでいるので外に出ないようにという放送があった。翌日、行ってみると、スパンカーの帆の縛り方が悪かったらしく、帆が開いて破れており、マストが根元から折れていた。いうより、基台を乗せたデッキが陥没していた。スパンカーの帆がしっかり縛ってあれば、被害はなかったのかもしれないが、初めての台風にまともにパンチを食らったように感じた。
その後は、自分で、台風避難を考えなければならなかった。すでに述べたが、06年の6月には平碆で陸揚げしたが、別の場所あるいは方法を考える必要があると思った。
真珠養殖業者の作業船でもやや大きい船(2~4トンか)や、瀬渡し船などのように5トンないしそれ以上の船はほとんど陸上げはせず、深い湾の奥や高い堤防を備えた大きな港の中に係留して台風をやり過ごす。シケのときに船を普段と違った場所に移して繋留することを、地元では「シケ繋ぎ」と言っている。
家串漁港の南東側に長さはせいぜい15m程度だが、海上の高さが8mという高い防波堤があり、この内側には高波が当たらず、台風の時にも安全である。だが、当時はここの大部分はハマチ養殖を行っている水産会社が占有権を持っており、他の人が船を繋ぐためのアンカーを勝手に打つことはできなかった。付近に数隻分のシケ繋ぎ用のアンカーが入れてあり、台風の時には、家串の漁業者の何隻かはここに繋いでいた。だが、避難が必要な船のすべてを繋ぐだけのスペースはなかった。もちろん、私の船も繋ぐことはできなかった。
隣の油袋には、台風時に船を繋ぐための場所が設けられている。これについては後でより詳しく述べる。
また、旧内海村の中心、柏地区には大きな漁港があり、2008年頃までには長さが数十mの高い堤防ができ、たいていの台風なら心配ないらしい。しかし、ここは柏の船でいっぱいになるという。
台風の接近前に来て繋ぐなら別だが、台風が確実に来ることがわかってからでは、こうした避難港には近くの船が先に係留してしまうので、よそから行っても船を繋ぐ場所がなくなってしまっていることが多い。
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御荘湾は入口の幅は500m程度で9kmもの奥行きがあり、湾内は複雑に入り組んだ地形で、特に湾奥の平山地区の入り江は台風のコースにかかわらず波が立ちにくく、避難する船が多い。湾の一番奥には僧都川が流れ込んでおり、その手前に大島という島があるが、その手前左側から北に向かって狭い入り江になっている。(「第一部私の釣り」トップページにあるグーグルの衛星地図を参照。)
台風がこの地点の東側を通ると風は北から吹き付けるから御荘湾の中にも高波が押し寄せるだろう。だが北に入りこんでいるこの狭い入り江には波は来ない。また台風が西側を通るときには風が南から吹くが、ここは御荘湾の南の奥なので、やはり波が立つことはなくこの入り江に影響がない。台風がどちら側を通過してもここは安全なのである。
家串からは、渡船の飛将丸(門屋)と、曳釣りの漁師の(故)黒田本蔵さんの船が平山に「シケ繋ぎ」に行くのが見られる。家串から平山までは20ノットで30分くらいかかる。漁業者はたいてい本船の後ろに小型船外機船をロープで引いていき、シケ繋ぎの作業が終わったら、その小型船で帰ってくる。入り江の上を国道56号が通っているので、船を繋いだあと、家族などに車で迎えに来てもらうこともできる。ただし、遅れて行けば、陸に通じる道のある便利な場所は残ってないこともある。その場合にも、近くに知り合いがいれば、船を係留した後、その人に頼んで上陸することはできる。
大型の台風が近づくと、平山地区には、内海周辺から多くの船が集まってきて、係船用の金具を備えた岸壁のないところも含めて、シケ繋ぎをするという。通常の係留の場合には、岸壁に直角に接近し、後部からアンカーを入れてロープを伸ばし、舳先を岸壁に縛りつけ、上陸する。シケ繋ぎの場合には、船の後ろから投入するアンカーには、暴風で押されても船が動かないだけの重いもの使い、船を岸壁からある程度離して止めておかねばならない。船外機船を引いていけばそれに乗って帰ってくる。上陸するなら、ロープとステンレスのリングなどを組み合わせた装置を設けることによって、船を岸に近づけ上陸してから、船を岸から離れたところに打った錨の近くに戻して止めるようにする。⇒「スルスル」装置の仕組み、設置方法は後の個所を参照
いずれにせよ、未経験者が一人で行っても、うまくつなぐことは難しいと思われる。シケ繋ぎにいつも行く近くの漁業者などに聞いて(必要な用具を整えておいて)、実際に避難するときには一緒に行って、やり方を教えてもらったり、手伝ってもらわねば無理だとおもわれる。
家串湾は、由良半島の南側、内海湾の北東側奥にあって、南に開いている。家串の東側にはエビス崎が1キロ近く突き出ており、西側には油袋地区の西側から1キロ半ほど南に突き出た岬と、浅い水道を挟んで500mほどの長さの塩子島が伸びている。
家串湾は地形的には、台風が太平洋側(家串の東)を通るときには、風が北から吹くので心配はいらないが、台風が宇和海ないし瀬戸内海(家串の西)を通るときには南風が吹きつけるので、被害が出る可能性が強まる。
その家串湾の西の奥に油袋湾がある。油袋という地名が「油を流したような静かな袋のような入江をもつ集落ということからつけられたという説がある」(『内海村史』)ように、この奥まった油袋湾には波が入りにくいが、油袋には、小規模ながらシケ繋ぎのために特別に作られた施設もある。この施設は、巻貝の中心部のような奥まったところに作られていて、南側と西側はマメソ(豆磯)と呼ばれる半島の一部で囲われており、東側には50mほどの長さの波止があって、船を繋ぐ場所は北に向かって、つまり油袋の集落のある陸方向に向かって開いている。南から家串湾に入ってきた波は半島にぶつかってから、西の油袋に向かい、それからさらに南に向わなければ、この中に入らないようになっている。
油袋の避難場所は旧内海村の補助金を得て油袋の漁業者たちが設計し、工事して作ったと聞き、村に問い合わせてみると、台風などの場合の時化繋ぎは油袋以外の人でも構わないということであった。私が家串に住み始めた時には、半島南岸の諸地区は「内海村」であった。
ここは、太いロープで縦15m、横5mに仕切られた長方形の中に船を1隻ずつ入れて止めるようになっている。長方形の4隅には、バール(大型のウキ)があり、海底のコンクリートブロックに結ばれている。船は、前部と後部からそれぞれ斜め前方と後方に2本ずつロープを出し、太いロープに結びつけて止める。
私がこの施設の存在を知ったのは、家串に住んだ翌年である。最初の年は上で書いたように、知り合いの中島さんを頼って半島北側の嵐港に行ったり、あるいは平碆に船を上げたりしたが、その後、油袋に避難港があることを知って、ここに繋げば、はるかに楽だと考えた。
問題は、油袋の避難港は陸に通じる道はなく、帰りに船が必要であることだった。しかし、源さん(前田源一氏)が、彼の船で同行し係留作業を手伝い、終われば私を乗せて帰ってくれると言うので、源さんに頼むことにした。
源さんは、ホルマリン使用規制問題で以前から知り合っていた北條さんを除き、私が2006年に家串で暮らすようになってから、最初に友達になってもらった人である。船を筏=屋形に常時係留させてもらうことになった水谷さんにも大変お世話になったが、源さんは私と2つしか年が違わず、また彼は定年後大阪から戻ってきたばかりで、同じ「リタイア」組としても話が通じるところが多いなどのことから(これは私の一方的な考えかもしれないが)、親しく付き合ってもらってきた。
私はホモセクシュアルではないが、家串での「パートナー」と呼びたいくらいの人である。もっとも一方的に私の方が恩恵を受けていて、「共生」というなら、大型魚とコバンザメの関係のような「片利共生」の関係である。松山に行くときに、時々、土産を買って帰ることがある程度で、こちらから源さんの仕事を手伝ったり、何か彼の役に立つことをしたという覚えがほとんどない。それでも彼はいつも嫌な顔をせずに私の頼みを聞いてくれる。他のところでも書いたが、最初の3~4年間、真珠筏に船を掛け損ねて、ぺラを筏のロープに絡めて動けなくなり、何度源さんにケイタイを掛け、助けをもとめたことか。上で名前を挙げた何人かの人々の特別の厚意や援助があってはじめて、わたしは退職後の人生を楽しむことができたと思うが、なかんずく源さんは「恩人」とも言うべき人である。
彼は、油袋への台風避難のたびに付き合ってくれ、いつも作業全体の7割以上を彼がやってくれた。私の船を仮に止めた後、彼はいつもどんどん自分の船を動かし、海中の太いロープを引き上げ、私の船を結びつける。一人でできない作業のときにだけ、私に、手伝うように言う。私は、かれが一人で作業をやっているときに、私の船の上でできる作業をやるが、何度やっても「吊り線」(真珠貝の入ったネットを筏に吊るす際に用いる太さ3ミリ程度のナイロン紐)を弛みなくしっかり縛ることができないでいたりするため、結局彼が私の船に上がって、ロープを結びなおしたりする、---という具合であった。
最初は源さんも避難港に係留したことは無く、油袋でアコヤガイ養殖を営む浅野倉夫さん(嵐の中島さんと取引があり彼の友人であるが、家串で私が住居を探していたときによい情報を与えてくれた人でもある)に係留の仕方を教えてもらう必要があった。私たちだけで係留するようになった2回目以降も初めは長い時間がかかった。たぶん1時間以上かかっていただろう。少しずつコツを呑みこむに連れ、係留作業に掛る時間が短縮され、数年経った今では、30分ほどで終わることができる。近くを通過した台風で、借りている作業小屋のガラス戸が破損する被害はあったが、いつも油袋に係留することができた船のほうは一度も被害を受けなかった。
だが、油袋の避難港には、繋ぎっぱなしになった漁業者のものと思われる廃船が何隻もあり、またシケ継ぎの施設も次第に老朽化して、船を繋ぐことのできる場所が限られてしまった。一度、シケ繋ぎにいったけれども、もうスペースがなく、少し離れたところにあったバールに繋いで帰って来たところ、それはタイの養殖業者の個人のアンカーで、勝手に使うなと怒鳴られたこともあった。
2007年ごろから6,7年の間、台風の直撃もなく、シケ繋ぎは3回か4回で済んできたが、廃船の放置で油袋の避難港が使いにくいと感じていたのは私だけでなく、家串の漁業者も同様に感じていて、町に対して、廃船を処理し、避難港を使いやすくしてほしいと申し入れをしていたようである。しかし改善はされなかった。そこで2014年夏には、家串漁業者有志によって家串港東側高堤防内側にシケ繋ぎ用の共同係留施設を作ることになった。
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家串のシケ繋ぎ用の共同係留施設は、2014年7月、北條さんの呼びかけで集まった人々により設置を決定。7月19日の土曜日に工事が行われた。
共同係留施設を設置することにした理由は、台風襲来時などに、その都度、作業船を陸揚げすることは大変であり、しかも、近くに家串の船を安全に係留しておく場所がないということであった。
ところが、家串東の浜、保育園脇の高い堤防の陰になり高波を避けることのできる場所のうち、家串小学校の前から50mくらい北に至るまでの海域を占有していた、ハマチ養殖業の宮下水産が倒産して、その場所が空いた。そこでここに、シケ繋ぎのできる共同係留施設を作るということになったようである。
会合で、現役の生産者だけでなく、退職者や源さんや私など家串の住民(自治会員)で船を持っている人は誰でも、一緒に資材費を負担し、設置作業に加われば、この係留施設を利用できるということも決まった。従来も高堤防の陰になっていてシケ繋ぎの必要がない東の浜の人は加わらなかったが、高波の影響を受ける区域にある人はほぼ全員が加わった。
旧宮下水産前の岸壁の西沖にコンクリートブロック(方塊)のアンカーが6~7個入れられ、3m間隔で7本のロープが沖と岸壁の間に張られ、これに直角になるように9m間隔で4本のロープが渡され、両側に入れられたコンクリートアンカーに結び付けられて張られた。こうして一隻のスペースが3m×9mで、3×6=18隻分の船溜まりができた。右図は6列ある船溜まりの南半分を示したもの。
設置工事は朝8時から、西の浜の生産組合の建物とその並びの作業棟のまえで行われた。まだ9月下旬は南予では夏である。しかしこの日は曇り空で、時々、小雨がぱらつくという、屋外作業をするには最適の空模様であった。
ここのアスファルト道路には3mおきに白のスプレーで付けられた目印があって、真珠の筏に使うロープを測り取ることができるようになっている。
予め縛りしろを考慮した長さ32~33m東西方向の太いロープが7本切り取られ、これに、一定間隔で、とがった金具でロープの撚りをこじ開けて穴をあけ、船を繋ぐのに用いる中細ロープ、および南北方向の仕切りロープを交差させて縛るための「吊り線」が差し込まれた。
また太いロープを折り曲げて、端で三つ撚りをいったんばらして元のロープに編み込んで他のロープと繋ぐための輪(ナワサという)を作るなどの作業が行われた。またバールに、他のロープと結べるように一方の端を輪にしたロープを2か所巻き付け、それぞれクワ結びにしておき、ホイストの力も使って(人が下でバールを押さえつけ、ホイストのフックを輪にかけて引っ張る)締め付けるという作業が行われ、必要なバールが用意された。
このころになると曇っていた空が明るくなり、暑い夏の日差しが照りつけはじめた。縦横に結び付けられた7本と4本のロープは束ねられて小学校前の海まで船で運ばれて、海上に広げられた。そしてその外側、西沖に、アンカーの「能を高める」ためになるべく遠方に(100m近いロープを付けた)コンクリート方塊が4個沈められた。南北方向は、両側に、他の作業用の筏、個人が設けた係船用のバールやロープなどが幾重にも張り巡らされており、それらとの交差を避けるため、必ずしも十分な「能がある」ようにアンカーを打つことはできなかったようである。しかしシケの時、沖からくる波は南側にある高堤防を回折して西側から入ってくるので南北方向のアンカーの能はさほど心配しなくてもいいのだろう。
最後に、バールを介してアンカーと結び付けられて、係留用のロープの枠組みが張られた。これらの作業は強い日差しの下で、3、4隻の船に分乗した漁業者たちによって進められた。
私と源さんは岸壁にいて、陸取りするロープを結ぶ海面下の鉄枠のありかを探して知らせるとか、ロープを岸壁上のリングに結ぶとかという程度の手伝いだけで、大部分の時間は、(旧)宮下水産の工場の日陰に入って、腰掛けての見物だった。
シケ繋ぎ用係留施設設置作業は昼までに終わり、作業を行った人は、生産組合の事務所で、ビールを呑むことになっているという話であった。源さんは家に帰ってしまった。私は少し迷った。作業も少しはやったし、この施設の共同利用者の一人である。だが「生産組合」の事務所に行って一緒に飲んでいいのかどうか。迷いつつ家に戻ろうとしているとケイタイが鳴って、「来てください」と北條さんが言う。また源さんにも連絡してくれ、という。そのとおりにした。
組合の建物は、8畳か10畳一間くらいの広さの2階建てで、建物は古い。下は、すでに朝の作業のときに見たが、コンクリートの打ちっぱなしでがらんとしている。だが、階段を上がるとたたみの部屋で、きれいに内装されており、大きくはないが新しいエアコンが涼しい風を送っていた。私は暑さと、多少の労働で疲れていたし、酔わないように、頭が痛くならないようにと、ビールは1缶だけにした。
北條さんが経費は一人2万円くらいの見込みだと報告した。私は台風時にあちこち避難場所を探し回らなくてもよくなり、いつでも繋いでおける場所を確保できて、2~3万円で済むなら、あるいは5万円したとしても、安いものだと思った。
それに、これまでの家串地区の諸行事、観月祭や盆踊り、秋祭りなどに加わらせてもらうのとは違ったうれしさがあった。それらの催しでは、退職者=老人、あるいは転出者(ある元住民)も、私のような転入者も、誰でも同じように「住民」として、仲間に入れてもらえる。祭や自治会での人々の集まりを見れば、現役の漁民が威張っていて、そうでない者が小さくなっているということは全くない。
他方、消防の活動や、地区の諸行事を実行するに際して中心になっているのは、現役の漁業者であり、彼らがやはりこの地区の中心的存在だと感じられることも確かである。外からやってきて、仕事をせずに釣りをして遊んで暮らしている私には自分は二級住民だという意識がある。今回のシケ繋ぎ用船溜まり施設の共同利用者になる、船を持っている(西の浜の)人とはつまり、真珠養殖漁業を営んでいる人とほぼ同義である。だから、その人たちと同等に台風時のシケ繋ぎのための船溜まりの共同利用者の一人に加えてもらったことが、一級市民に格上げになったかのような感じがしたのだ。
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2006年の春以来わたしが船を係留させてもらっていた、筏=屋形の持ち主であった水谷さんが2010年11月に亡くなり、私はその筏を買い取り自分で管理することになった。また、筏を、他の漁業者の筏から切り離し、独立化しなければならなくなった。そして、それと関連して、普段は、船を波止に係留することになり、そのために必要な装置「スルスル」を設けた。
水谷さんがなくなった時、奥さんは、今までどおり、私の船をずっと止めてもらって構わない、屋形が壊れてなくなるまでかまわない、どこか他のところにいきたいというならしかたがないが、どうぞ、使ってくださいと言われた。奥さんのおっしゃることはたいへんありがたいと思った。しかし、もちろん、それに甘えるわけにもいかず、結局、11月下旬には、北條さんに間にたってもらい、屋形を買い取った。
その後間もなく、私が買い取った筏を含め6つの筏が連結されているこの班の班長であるYさんから、私の筏を切り離してもらいたいという話があった。Yさんの説明では、台風時には、先端にある私の筏によって、他の筏が引っ張られて左右に振られ、バラバラになってしまう危険性がある。台風でなくてもちょっとしたシケでも常時引っ張られているため、これまでに修理を何度もやっている、という。
水谷さんがアコヤ貝養殖の仕事を始めたときには、この長屋の先端に彼の筏=屋形を新たに設置することは班の中で相談して決めたことである。水谷さんが数年前に仕事をやめたあと、ほかの目的で使用していることについては、水谷さんが生きている間は仕方がないと思っていた。水谷さんが亡くなった時点で屋形をどけてもらおうと以前から考えていた。
私が仕事で筏を必要としていると言うなら話しは別だが、遊びで利用している人のために、不都合を我慢するわけにはいかない。切り離して独立化してもらいたい。その際、陸側にアンカーを打って、流されないようにして、私が使うということなら構わないし、当分、橋を掛けて渡ることは構わない。しかし、切り離して独立化させれば間もなく、海側に引っ張られて間隔が開いていって、橋を掛けてもすぐにとどかなくなるだろう、ということだった。
片側だけでも3軒繋がった筏が、沖に向かって長く伸びていて、時化の時には振られ、傷みやすいということは理解できた。また真珠の不景気が続いていて、筏の補修にかかる費用を少しでも抑えたいということもよくわかった。私は筏を切り離すということに同意した。しかし、どのような手順でやったらいいかは皆目見当がつかなかったので、切り離しの工事に着手する時期については少しまってほしいと返事をした。Yさんも、台風の時期までにやってもらえればいいと言った。
船の繋留をどうするかはあとできめることにして、北條さんなどに相談し、筏は次のようにして独立化することにした。重量1トン~1トン半のコンクリートブロックを2つ陸側に入れてアンカーにし、これに筏を結んでから、陸側の他の筏と切り離す。北條さんが、ブロックを注文して、アンカーを打ってくれる。ブロックは、彼の作業用の小型船外機船に回したロープで海中に吊り下げて運ぶのだという。海中での作業があるためダイバーを頼む必要があったが、これは津島町の中島さんを通じて頼んだ。アコヤガイは毎年12月から1月が出荷の時期で漁業者は忙しい。北條さんは出荷が一段落する1月下旬に、天候を見てブロックをいれることにしようという。
私は、1トン以上の重さのブロックを小型の船外機船で運ぶということに不安を感じた。またブロックを沈めるときに、ブロックにつけたロープが撥ねたり、体に巻きついたりすることがあれば大怪我をするかもしれない。場合によっては海に引きずり込まれて命を失うことさえあるかもしれない。そのような事故が心配だった。北條さんはアコヤ貝養殖用の自分の筏のアンカーを打つ作業を何度もやっていて、慣れているから大丈夫だという。
私が専門にやっている人はいないかと尋ねると、油袋のNさんがアンカー打ちの仕事を請け負ってやっているという。彼は5トンクラスのスクリュー船、「本船」を持っている。船が大きいだけでも安心できる。私としては万が一にも北條さんの身に何かが起こるようなことは絶対に避けたいとおもい、専門にやっている他の人に頼むということを強く主張したので、北條さんも折れて、アンカー打ちはNさんに頼むことになった。当日は源さんも手伝いに来てくれるという。
2011年1月19日の日記より
朝9時と言われていたが、8時半くらいに宮前の、ホイストのある荷積み場のところに行った。縦と横が1m20cm、高さが90cmくらいのコンクリートブロックが2つおかれていた(*)。ブロックには、コンクリートに半分埋まったトラックの古タイヤが付いていてこれが吊り手になる。漁業者は方塊ないしはトーフと呼び、真珠貝養殖用筏を設置するときに使うものである。間もなく北條さんが軽トラで運んできた18ミリ径、長さ10mほどのロープをタイヤに結んで輪を作り、ホイストのフックに掛けた。
(*)
北條さんは1トンか1トン半と言っていたが、この方塊は体積(約1.3立方メートル)と比重(2.3~2.4⇒web「教えてgoo」)とから計算すると3トン近くある。ただし、海水の密度は1.02~1.03g/ccだから、方塊の海中での重さはほぼ1.6トンということになる。北條さんがいう重さは海中での重さのことだったようだ。
間もなく到着したNさんの船にこのブロックを移す。北条さんがホイストのスイッチをいれると、吊り手の半円形のタイヤが三角形に変わり、ロープがビシビシと音を立てながらピンと張る。何秒かかけてロープが伸びきるまではブロックは地面に着いたままで動かない。それからゆっくりと地面を離れる。
Nさんや北條さんは何度も経験しており、この太さのロープなら大丈夫だということを知っているのだろうとは思うものの、それでもロープがバーンと切れ、はじけ飛んだりしないだろうかなどと考えると気持のいいものではない。臆病な私の勝手な想像だというわけではない。以前、どこかで大型フェリーが岸壁についたときに、係留用の太いロープが切れて弾けとび、岸壁で作業をしていた人がなぎ倒されて死ぬか大怪我をしたという事故があった。私は、目の前でロープが音を立てて伸びるのを見て、ひどく緊張した。北條さんがもう少しブロックから離れてスイッチの操作をしたほうがいいのではと思ったが、口出しもはばかられ、恐る恐る見守るしかなかった。
ホイストのスイッチを操作して、地面を離れたブロックを沖側に動かし、それから下に下げて海に沈め、海面下1mか1m半下のところで止める。浮力で重さは半分近くになったはずで、この状態ならロープが切れる危険はずっと低いはずだなどと考える。Nさんが船を前にだし、ホイストのフックに掛かっている、ブロックを吊り下げているロープの輪のなかに、別なロープを通し、それを舳先に渡してある太い横棒=カンヌキの両端に掛けて、巻きつけて縛る。次いでホイストのフックをゆっくり下げて、荷重を船の方のロープに移し、フックを外す。およそ1トン半のコンクリート方塊が船の下に吊り下げられた。船はゆっくりバックして荷積み場から離れた。
私と源さんは北條さんの船に乗る。コンクリートのブロックを海中に吊るしてゆっくりと進むNさんの船を追い越して、3人が乗った船が前になり、アンカーを打つ予定の場所、東西方向に連結されて並んでいる筏=屋形の北に回り、その陸側に行く。箱めがねで海中を覗いていた北條さんが、下に他の筏のロープなどがないことを確め、「ここがいい」とNさんを呼んだ。Nさんは船を寄せると、「ここかな」と言うと同時に、縛ってあったロープの端を強く引いて、解いた。カンヌキに巻いてあったロープがはじけ、船縁で擦れて、ガガガガーッ、ギューンというような音が2、3秒して、方塊は落ちていった。水深によるのかもしれないし、また底が砂泥であるためかもしれないが、方塊が底に着いたときの音や振動は何も感じられなかった。Nさんの船は荷積み場に戻りもう一個の方塊を運んできた。そして北條さんの指示で、同じように、こんどは連結された筏の南側で、陸に近づき、他の筏=屋形や船が並んでいる間にアンカーを打った。Nさんの仕事はここまでで、彼の船は油袋に向って帰っていった。
アンカーロープには、表面が樹脂製の硬い膜でコーティングされているものを用意しておいた。これは漁協の説明でフジツボなどが着きにくく、掃除もしやすく丈夫だというので、購入したやや高価なものだったが、漁業者が普通使っているロープに較べて硬く、扱いにくそうであった。しっかり結べるのかどうか少し不安を感じたが、ダイバーのTさんは、普段どおりの結び方で、結べたと言っていた。
2つのコンクリート方塊と私の筏をロープで結んでみると、北側のロープは、既存の筏のロープと交差するのを避けることができず、場所を変えてもう1つ方塊を入れることになった。ロープが交差していると、シケの時に筏が揺すられロープ同士がこすれて切れやすくなるという。
2ヵ月後に南側の方塊に結んだロープが解けてしまうトラブルが起こった。ロープが新しいうちは普通のロープでも結んだところが解けることが時々ある。今回使ったロープはコーティングされた硬いものだったために余計ほどけやすかったのだろうという。そこで3月末に北側に別の方塊をうち、またアンカーロープが解けないように、端を直径5ミリほどの細いロープで縛ってもらうなどの補修工事を行った。
6つの屋形が連結されていたときには、全体を沖側に引っ張るために、先端にある私の筏から、沖に打ってあるアンカーに向かって7本のロープが張られていたが、私の筏を切り離す場合に備え、4月半ばには、Yさんの班の人々の手で、そのうちの3本か4本を直接、陸側の筏に結び変える作業が行なわれて、いつでも、私の筏を切り離すことができる状態になった。
若宮神社の春祭りが4月27日に行われることになっており、私が属する9組が宮当番になっていた。北條さんは9組の班長である。宮当番は27日までに、仕事の合間を縫って、神社境内の除草と掃除、注連縄や幕の用意など、祭りの準備をしなければならず忙しい(⇒第二部第3章)。それで、筏切り離し作業は祭りが済んでからということになった。月末が近づいたころ、息子の大地が、家庭教師の大原さんと一緒にゴールデンウィークに遊びにくるということになった。一度や二度は船に乗るだろうし、釣りもするだろう。そのときにはやはり筏が繋がっていて、板の通路を通って船に乗れるほうがいいだろう。長屋に連結されている私の筏の切り離しは、ゴールデンウィーク後ということになった。
また私の筏は従来、東西に並んでいる陸側の筏の列の延長上にあったが、その後しばらくたってから、列から外れ北側に5mほど動いてしまい、陸側に張った私の筏のアンカーロープが他の筏のロープと交差してしまったため、私の筏の位置を直す必要が生じた。そこで再びNさんに頼んで、新たに沖に方塊を打ってもらい、ロープを張って筏の位置を元に戻す工事を行なった。その後、2016年現在で4年ほどたつが筏は安定している。
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私の筏の独立化によって、筏に歩いて渡ることができなくなる。家串に滞在し釣りをしている間、船に自由に乗り降りするためには、私の船をどこか他の、陸から直接乗船することのできる場所に繋ぐことにするか、筏=屋形に繋いだままにし、そこへ何らかの仕方で渡る方法を考えるかしなければならない。後者の場合、距離は僅かなので、手漕ぎのボートなどを使うことも考えられた。しかし、簡単には決められない。私の船をどこに繋留するかが決まるまで、源さんが渡してくれるという。彼は、彼の船を繋留してあるところからは目と鼻の先(20~30m)だから、彼がいるときにはいつでも渡してやると言ってくれた。ありがたかった。
彼は、私を運んでくれる時に、私に彼の船外機船を運転させてくれた。うまくなったら、彼の留守の時に、勝手に乗って筏=屋形に渡っても構わないといってくれた。しかし、私の方が何回やらせてもらっても、うまくいかない。私の船は自動車と同じようにハンドルが運転席の前についていて、曲がりたい方向へハンドルを回すのだが、船外機のエンジンは船尾にあって、体の横にあるハンドルを掴んで運転する。左に曲がるにはハンドルを右に押しやり右に曲がるには反対にする。それがうまくいかない。狭い場所で、曲がりきれず、筏にぶつける。風があって船が横滑りしたりすると慌てて、行きたいのとは反対方向へ進んでしまう。オートバイと同様、ハンドルについている握りを回して速度を調節するのだが、速度を落としたい時に逆にエンジンを吹かせてしまったりする。
また、前進、後退のたびに、ギア入れ替える必要がある。それは、私の船も同じである。だが、船外機はギアがエンジンの脇についていて、後を向いてギアの入れ換えを行なう。スローの前進で筏に近づき、船を止めるときにはスピードを完全にゼロにするために、ギアをバックに入れてちょっと吹かして船を止める。すぐにニュートラルに戻さなければならないのに忘れて、ギアをバックの状態にしたまま、たとえば、ロープを結ぶなど次の動作に移ってしまう。あるいは目標の場所にうまくつけられないときは前進と後退を2、3回繰り返すことになるが、このとき、ギアの切り替えに後を向いたり、前方の目標を見たりしなければならず、うまくいかない。源さんはこれでは当分一人では無理だと言う。結局、毎回、彼に同行してもらうことになった。非常に悲しい。
10年ほど前だったか、知的障害児の集まりで、親が子どもと一緒に「ソーラン節」を踊るという企画があり、週1回の練習を何回かやったのだが、妻と息子はすぐに踊れるようになったのに、私は覚えられずにひどく悔しい思いをしたことがあったが、今回の船外機船の運転でも老化で運動記憶の能力がひどく衰えてしまっていることを、またまた、突きつけられた。 運転を教わっているときには、真剣なのだが、つい、源さんがなんとかしてくれるという甘えのようなものもある。一人で乗っていれば、スピードをうんと落として、そろそろと、筏につけるだろう。そしてなんとか一人で渡れるだろう、と思う。しかし、源さんは私がもう少しうまくなるまで、常に、同行しなければならないと考えていることは確かだ。
私は、源さんの船で渡して貰わないで、自力で陸と船の間を往復する手はないか考えた。私の筏=屋形から北東方向30~40mのところに、短い波止があり、すぐ近くに、Kさん、Fさんの筏があり、船が数隻繋留されているが、私の船をとめることのできる程度のスペースがあるように見えた。Fさんは別のところに作業用の筏=屋形をもっていて、ここの筏は、アコヤ貝の塩水消毒という作業で、年に数日間使うだけだということが分った。しかし、その空いている場所に私が船を繋留すると、その塩水消毒の作業のために船を出入りさせるときに、少し邪魔になるらしかった。
Fさんには、塩水消毒の時に邪魔になるようであれば、その間は私の筏=屋形の方に船を繋ぎ替えるということで、Fさんの筏の沖側に船を繋留させてもらえないかと頼み、諒解をえることができた。
Kさんに私の希望を話してみると、自分は構わないが、波止を利用するなら、自治会長に話を通しておいたほうがよいという。そこで、自治会長の兵頭さんのところに行った。兵頭さんは、自治会は今は船を繋ぐことに関与していない。利害関係者の間で話し合ってもらえばいい。しかし波止は漁協が関係しているかもしれない。漁協にひとこと、断っておいたほうがいい、という。
上の1.で書いたように、筏や桟橋などの構造物を設置したいという場合には、自治会と漁協両方の同意をとった上で、自治体の「専用許可」を受ける必要がある。しかし、錨を打ってロープで船を係留するだけならば、(船は動かせるから、その止めてある場所を「専用」することにはならず)「許可」を受ける必要はない。また、ロープで船を繋ぐだけなのだから、漁協に届ける必要はないと思ったが、しかし、この自治会長のアドバイスも無視するわけにはいかない。「わかりました」と返事をして、漁協の役員で内海支部長をしている、細川さんのところに行った。細川さんによれば、「漁協は、沖の漁業権を管理しているのであり、波止、漁港内のことは、町の管轄だ」という。そこで「漁協には届ける必要はないですね」と聞き、「ない」という返事を得て帰った。
波止に船を繋留するためのアンカーを入れた後、愛南町役場に行く用があったときに、念のためにと、水産課に立ち寄り、波止に船を繋ぐのはかまわないですねと聞いて見た。しかし、答えは宇和島市とは少し違っていた。漁港は漁業者のためにあるもので、プレジャーボートの基地として係留するというのであれば、正式に申し込まれれば、いいとは言えないと言う。「正式に申し込まれれば」と課長らしき人が繰り返したので、一般論として尋ねたということで終わりにして、退散した。
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筏を切り離して独立化させてから2~3週間経ったころ、船を波止に繋留するための仕組み/装置を作ることにした。どこの港でも、漁業者の船が、沖側にアンカーを打ち、岸壁に船首を向け並んで係留されている。船は岸壁から少し離したところに止められているが、これらの船は、わたしが仮に「スルスル」と呼んでいる仕組み/装置を使って、岸壁からも船上からも、船を岸壁からを離したり逆に近づけたりすることができるようになっている。
この装置には名前があるのかもしれないが、家串で聞いてみてもわからなかっので、勝手に「スルスル」と名付けておく。仕組みは次のようなものだ。
漁港の波止には直径10センチ~15センチスのステンレス製の丈夫なリングが付いていて、係船用のロープを結びつけることができるようになっている。その一つをAとする。
他方、船の大きさと波止の足元の水深によって異なるが、波止から15mか20m沖に錨(市販のもの、もしくは石を利用したもの―後述)を打ち、ロープの端にブイを付け、ここに波止にあるのと同じような丈夫なリング、もしくはボルト長7~8センチのシャックル(shackle,左下の写真)を取り付け、これをBとする。ブイと錨をむすぶロープは、満潮(高潮)のときにもブイが潜らない程度の長さにする。 「スルスル」の図―1.側面図参照。
2つのリングAとBの間を通して、ロープで係船用のループを作る。潮の干満で船の位置が変わるので、2~3mの余裕が必要である。
上陸するときには、ループの一方を船の綱取り/クリート(cleat)QとQ'、2か所にクワ結びなどでむすぶ。「スルスル」の図―2.平面図参照。
ループの反対側は、止め金具P、P'に「吊り線」など径数ミリの丈夫なナイロン紐をつけておき、そのつど輪を作って中を通す。図-3.参照。 輪はロープの動きを妨げない限り小さいほうが良い。P側の係船ロープがフリーであると、横風がある場合に船が左右に振れ、船を引き寄せにくいので、P,P'でロープが船べりから離れないようにする。
船上からループのP~Aを手繰ると船は前に進み接岸する。陸上から同じA~Pを手繰ると船は沖に移動する。
>
波止から離してある船に乗るときには、波止からQの側のロープを引っ張って船を近づける。
>
乗船し、出港するときには、P,P'、Q,Q'から係船ロープをフリーにしてから、ロープがペラに絡まないように注意して、船を出す。
下船、上陸後、船を沖側に出して係留しておく時には、ロープの余分をリングに巻き付けるなどしてループを縛って固定する。(ループを固定しておかないと、風や波で押され、船が岸壁に近づいてしまう。)
「スルスル」の構造と使い方は以上のようなものである。実際の工事は次のように行う。もちろん、ほとんどの作業は船を使って行うので、波や風がない静穏な日を選ぶ。
まず、ブイをつけるための水深よりも十分に長いロープをつけたアンカー・錨を打つ。波止の足元が深い場合には船は波止から3~4mも離して係留しておけばいいだろう。その場合には錨は波止から10m~15m沖に打てばよい。
>
しかし、わたしが係留することにした波止は、海底に直接、ケーソン(潜函センカン)を打って作られたものではなく、一抱えほどの大きさの石を周囲に沈め(これを捨石と言う)、その上に作られている。波止の足元は3mほど先まで捨石が入っていて浅く、大潮の干潮時には露出する。
捨て石部分から最低4~5m離れた深いところに船を係留する必要があると思い、船体の長さが8m弱なので、余裕をもたせ、15m~20m沖にアンカーを打つことにした。
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またアンカーはできるだけ重くするために石錨(注)にすることにした。鉄製の錨は30kg以上になると運ぶのが大変である。
石錨の場合には、適当な大きさの石を一つ一つ、丈夫な紐で網状に縛るか、あるいは使われなくなった魚網で包んで縛り、これに丈夫な紐=「吊り線」で作った輪を付けておく。最初の一つはロープに結び付けて海に沈め、その後、他の石は「吊り線」で輪を作り、その中にロープを通してひとつずつ落としてやる。数を増やせば幾らでも重いアンカーを作ることができる。
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私は、軽いもので5キロ、重いもので20キロほどの石をほぼ20個、近くの海岸から運び、吊り線で縛ったり、古い魚網で包んで縛ったりして作った、たぶん、全体として200キロ前後の「石イカリ」を入れた。底は砂泥で沖に向かって深くなっているので、掛かりはいいはずだ。ただし、石を集めて準備するのに一定の手間と時間を要する。
次にブイとして真珠養殖筏に使う玉ウキ(複数個---海岸に漂着したものを拾ってくる)や小型のバールをアンカーロープの上に付け、予め係船用ロープを通しておいたシャックル/リングをブイに縛り付ける。船を波止に寄せ、係船用ロープの一方の端を持って陸に上がり、波止のリングを通してから、再び船に戻って、船の上で、長さを見計らって、ループにする。船上の作業としてはそれだけで、1時間もかからない。(この項、2017年12月に更新)
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(注)
『平凡社百科事典』によると、錨の歴史は古く、碇という字が用いられたことからもわかるように、古代には石そのものまたはL字形の木片に石を縛りつけたものが用いられた。英語のanchorの語源はギリシア語のagkyra(アンキューラ、〈曲がったもの〉〈鉤(かぎ)〉の意)に由来するという。
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また、石井謙治『和船Ⅰ』<ものと人間の文化史>76-1、によると、古墳の壁画に石に縄をつけたものが見られ、『万葉集』には「海に重石おろし」などの言葉があり、奈良時代には、自然石がいかりとして用いられていたことが知られる。鎌倉時代の絵巻物には、2本のカギ状の木の枝で扁平な石をはさみ、縄でしっかり結んだものが、いかりとして使われている様子が描かれており、平安時代には木碇が広く使われていたことが分かる。15世紀、遣明船に「鉄錨」(カナイカリと読まれた)が使われていたとの文献があり、室町時代の絵巻物には四本爪の鉄の錨が書かれている。
こうして少なくとも15世紀前半には鉄製の四本爪碇が木碇とともに使用されていたことは確実である。しかし、鉄碇の出現によってただちに木碇が駆逐されたわけではなく、始めは、金に糸目をつけない大名の軍船などで使う程度で、日本に大型の鉄碇を製造する技術もまだなく、中国から輸入したものが使われた。江戸時代(17世紀)になると、日本でも鍛造技術が進んで、軍船から、次第に商船にも普及していった。しかし、中国式や洋式の艦船と違い、和船では、人力で碇を上げ下ろししたため、小型軽量の碇を多数、積むようにしていた、という。
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その後、船を着けて、乗り降りするときに、岸壁(石垣)に梯子のようなものが必要だと感じた。また、船を引き寄せた時に、舳先=バウスプリットが岸壁に直接当るのも気持ちがよくない。そこで、他の漁業者がやっているのを真似て、古タイヤを3~4個連ねたものを3列ほど吊るして、梯子にするとともにクッションにした。
こうして家串に滞在して釣りをするときにはこのスルスルを使って船を波止に係留し、松山に帰って留守にする間は、30~40m先の屋形(屋根の付いた筏)に移し、2、3m離して打ってある2つの重い錨に船首と船尾を繋ぎ、船と筏の間にバールを入れて、船を係留した。(陸に戻る時には源さんに頼んで彼の船に乗せてもらった。)
一~二度、台風や春一番などで3mから4mの波が立つ風が吹いたことがあったが、全く問題はなかった。しかし、一度、春の突然の暴風に見舞われ苦労したことがある。
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2012年4月3日、時ならぬ、暴風に襲われた。前日、2日のラジオの予報では、日本海を低気圧が発達しながら通過し、全国的に南寄りの強風が吹く。特に東北から北日本では荒れるだろうと言っていた。2日の新聞では、3日の南予の波の高さは「2mのち2.5m」となっていた。(私は、前年7月のテレビ放送のディジタル化以来、当地ではテレビを見ていない。)1週間か10日前に春一番が吹き、20年ぶりとも言われた寒い冬がようやく終ったところであった。こんどの低気圧の通過は春二番ということになる。
「低気圧の通過」で荒れそうならば、船を波止には係留せず、沖の筏=屋形に繋ぐほうが安全だ。しかし、「2.5mの波」は冬の間はしょっちゅうあり、釣りは無理だが、船を係留しておくについては何ら問題はない。夕方、釣りから戻った時にも、海が荒れる気配は全く感じられなかった。そこで、いつものとおり、船を波止に繋いで上陸した。
その日は、ゆっくり夕食を取ろうとおかずも2、3品用意した。グラスに入れた酒を温めて一口か二口飲んだ時、NHKの6時55分の天気予報が耳に飛び込んできた。「明け方から、南、のち北西の風が非常に強く、風速は陸上でも20m---波の高さは南予で4m----高知で6m--、低気圧がこれまでに例がなかったほど、急速に発達しながら進んでいる---」。
南風で「4mの波」というのはかなりまずい。家串湾内に相当の波が押し寄せ、船が大きく揺さぶられて、錨が「引けて」(動いて)しまう可能性があると思われた。波止の周囲の「捨石」で浅くなっているところまでは4、5mあるが、それ以上船が波止に向かって動くと船底がぶつかる可能性がある。釣りを終えて上がるときに、沖の屋形に繋げばよかったと思った。
しかし、すでに暗くなり始めていた。船を屋形に移し、重い錨綱を引き上げて係留作業をするには時間が足りないのではないかと思われた。スルスルの石錨では頼りないが、私の屋形から船の船尾にロープをむすんでやれば、波で押されても船が波止のほうに動く心配はないだろう。筏=屋形から船までの距離は30か40mであり、筏と船の2箇所に結びつけてロープを張るだけだから簡単で、暗くてもできるだろう。陸側には漁業者の屋形が2つあり、普段は船が出入りするので、海上にロープを張っておくことはできないが、明日は大時化だし、旧のひな祭りで仕事は休みだから、邪魔にはならないはずだ。
そう考えて、源さんに電話をして、係留作業が終わった時点で、彼の船を出して私を運んでもらえないか頼んでみた。しかし、彼はすでに呑んでしまっていて無理だという。そこで次に北條さんに電話してみたが出ない。家に行くと、奥さんが、生産組合の寄り合いに行って呑んでいると言う。翌日がひな祭りだからである。「6時からですから、もう大分呑みよると思いますが---」と奥さん。これは無理だ。
カズさんはアルコールを飲まない。また、彼の家は私の船が繋留してある波止のすぐ前で、彼の船もすぐそばに止めてある。渡してもらうよう頼むのも頼みやすい。そう思って彼の家に行ってみたが、留守であった。他には思いつかなかった。すでに真っ暗になっていた。万事休す。諦めて家に戻ろうと歩いてくると、バス通りに面した安さん(ヤッサン)の倉庫に明かりが点いている。「あっ、そうだ、安さんがいた」。入り口のドアをあけると、安さんが何か作業をやっていた。
安さんについては第4章 「モイカ(アオリイカ)釣り、アマダイ・イトヨリ釣り」の中でもふれたが、私より10歳年長の、「退職組」の一人である。
訳を話すと、船を出してくれるという。私はその日昼間ドックをやっていた彼の手伝いを少ししたが、彼は船を陸にあげているはずである。「船がないでしょう」と言うと、安さんは、昼間上げた船はもうフジツボ落としは済んで下ろしてある、と言い、筏からロープを張るよりも、船を筏に繋いだほうがいい、と言う。暗くて繋留作業がむずかしいと答えると、大きいライトで照らせばいいという。私はすぐ家に戻りライトを取ってくることにした。彼の方でもライトの用意をしておくから、と言う。
ライトと救命胴衣を持ち、自転車で彼の筏に行った。彼は磯釣りなどで使うヘッドライトをつけて、真っ暗になったブリッジを伝って筏に渡り、船尾の物入れの蓋を開けると、スパナでバッテリーのネジを回して、大型のライトを接続した。ライトが点くこと確めると、彼は片手でライトを持ち、前方を照らしながら、もう一方の手で船外機の舵を掴んで船を出し、50mほど先の私の筏にむかう。幸い、風はまだほとんど吹いておらず海は穏やかだった。
私は波止に繋いであった船を私の筏に移し、仮に止めて、後部の錨綱を引き上げる。綱がひどく重い。ライトで照らされた海中の錨綱にキノコのような形の大きな生物がかたまって付着しているのが見えた。その上、10分もかかってないのに、充電せずに放置しておいた私のライトは暗くなってしまった。
船首の方は、屋形を暫く使わないでいた間に海面にホンダワラがびっしり生い茂っていて、筏の下から伸びている錨綱を引き出そうとするが絡み付いて重くて上がらない。ホンダワラを取り除いているうちに、もう息が切れてしまった。ロープにはフジツボなどが着いている。手袋をしてから作業を始めればよかったが、素手でやっているので、手が痛い。別のロープを船首のバウスプリットに巻きつけ、これに錨綱を結ぶのだが、これが簡単ではない。(現在はこんな面倒なことをせず、より簡便な方法にしている。)
安さんの照らしてくれるライトが当ってはいるが、昼間とは勝手が違い作業はやりにくい。早く終わらせなければと気持ちだけあせるが、疲れてきて思考力が落ち、作業がはかどらない。
全部で30分くらいかかっただろうか。南の風で気温が上がっていたせいもあるが、下着のシャツを2枚重ね着しただけであったが、上半身は汗でびっしょりになっていた。再び安さんの船に乗せてもらって、陸に戻った。家に帰って手を洗うと、手のひらに何ヶ所も切り傷ができていた。また、思い錨綱を引き上げるために無理をしたのか、右肩が少し痛かった。
お風呂に入って汗を流したかったが、それよりも空腹感の方が勝り、シャツを着換えただけで、おかずと呑み掛けのお酒を温めなおし、夕食にした。食後しばらく休憩してからお風呂に入り肩や足をマッサージし、サロンパスをベタベタ貼って布団に入った。
外では風がゴーゴーと音をたて始めた。船を波止に繋いだままだったら、気がかりで、なかなか眠れなかっただろう。しかし、船を繋留する作業で疲れていたし、気がかりなこともなかった。体のあちこちの痛みを感じているひまもなく、あっという間に、眠りに落ちたようであった。
翌朝、遅めの食事を済ませてから海岸に出て見るとやはり大きな波が立っている。農協前の作業小屋の周辺の岸壁は南からの波が最も強く当るところである。風がビュンビュン吹き、干潮の時間であったが、岸壁の上に上がりそうな勢いで波が打ち寄せていた。岸壁の少し沖に、一台、今は使われていない古い筏=屋形が浮いていたが、その位置が少し変わっているとカズさんが言う。アンカー・ロープは切れることはないらしいが、結んであった筏の木が古くなっていて、折れて、ロープが解けたのだろうという話だった。
昼間1、2時間、風が止み、波も収まった。しかし、その後、今度は西からの風が強まり、夜に入ってもまだゴーゴーと音を立てて風が吹いていた。翌日の新聞は、一面で「春の嵐、列島大荒れ」の見出しで、「台風並みの暴風」が吹き、納屋や倉庫の倒壊で3人が死亡と伝えた。この風は春二番だったが、風の強さはこの春一番であった。
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ドックとは、造船所などの、船舶の建造や修理のための構築物のことである。しかし、愛南町、家串周辺では、船底につくフジツボなどを除去し、塗料を塗りなおすために、船を上架することをドックという。
船底には、フジツボが着きにくい塗料、あるいは少しずつ分解して、付着物とともに剥がれ落ちる塗料が塗られている。週末や休日だけ船に乗り、毎回陸揚げして清水で洗い流し、次に乗るときまで、陸上で保管するのであれば、フジツボが着くということはなく、ドックの必要は全くないのかもしれない。しかし、私の船は、乗らないときには、漁船同様、海上に係留している。
また、初めの頃はしばしば何時間も曳き釣りをやり、また片道30分、40分かかるところまでよく出かけた。したがって、走航時間が長かった。しかし、ここ数年は、近くの数箇所の釣り場まで、5分か10分走るだけで、あとは船を止めて釣りをしている。船は一日中海に浮かべているのであれば、走航している時間が長いほどフジツボがつきにくい。それでも、1年も経つうちには付着するフジツボが増え、塗装したばかりのときにはつるつるだった船底が、噴火口だらけの月の表面のようにでこぼこになり、水に対する抵抗が大きくなって、船のスピードが落ちる。船底塗装直後にはエンジンの回転数が3000r.p.mで20ノットのスピードが出ていたが、1年たつと同じ回転数で、16ノットしか出なくなり、速度計の数字を見るまでもなく、船足がぐっと遅くなったのがわかる。
陸揚げすると、ごく大まかに見て、船底の2割ほどにフジツボがびっしりついている。船台の梁に乗っていた部分やホイストのベルトがじゃまで塗りが不完全なところがあって、そこを中心にフジツボが広がっている。
家串に来る前の年、8月に塗装して、翌年家串に来て、その梅雨ごろに、下が砂地で、私の背がたち、船が海底すれすれに浮く程度の浅いところに船を寄せ、海に入ってスクレイパーでけずったりもしたが、ドックを10月まで延ばすのが精一杯であった。この時期には、マリンゴールドDXという、プレジャーボート向けの(たぶん、少ない走行時間と陸上保管を前提とした)塗料を使っていた。
4年目に、油袋のNさんの作業場とホイストを使わせてもらって、ドックをしたときに、漁船用の塗料を漁協から届けてもらって塗った。これはマリンゴールドに比べて、4割近く値段が安い。私の好みのブルーがなく、赤を使ったが、海に浮かべてしまうと、船底などほとんど見えず、全く気にならない。私はプレジャーボートを使って、「遊び」で釣りをしている。漁業で生活を立てているわけではない。だが、スピードを出し、舳先を上げて(そうすると船底も見える)走り回るような「遊び」かたははじめからしてなかった。船底を人に見せることはないのである。そして、また、「漁船用」は、海上保管の船を対象としていて、14ヵ月後にもスピードダウンが1割程度で、陸に上げてみてもフジツボの着きがわずかであった。当然といえば当然だが、沢山の種類がある塗料も、色だけではなく、その用途も確かめて使用しなければならなかったわけである。
さて、私が家串に住み始めたのは60才のときであった。私が船を筏に係留させてもらった水谷さんはこのとき70代の後半であった。彼はもう仕事はしておらず、網を入れ、釣りをして楽しむ程度であるが、1トン半くらいの漁船に乗っていた。そして彼は、年に1~2回、船底の塗装を中浦の造船所でやってもらっていて、1回1万円だという。長く続いている真珠の不況のせいで、造船所の仕事が減ってしまっているということもあるだろうが、ひどく安い。マリンゴールドを使えばそれだけで1万円近くするのである。造船所に全部やってもらえるならこれは楽だとは思ったが、「でも、私はまだ60だ。もう少し頑張れる」と考えた。こうして、3年間、苦労しながら、自分でドックをやった。私より2つ年上の源さんは70に近づいている。彼の船は私より少し小さいが、彼も自分でやっている。他にも、70過ぎまで、自分でドックをやる人はかなりいる。
ドックには、腰を曲げた姿勢で、あるいは仰向けになって、おこなう作業がある。塗装のときは塗料が垂れて顔などにつかないよう注意が必要だが、力は要らないので、さほどきつくない。だが、フジツボなどの付着物を落とすために、船底を金ダワシで、あるいは(柄の短い)スクレイパーでこするときには、力を入れる必要があって、これが非常につらい。くたびれる。私は3年目には、手伝いを頼んだ。その後、水谷さんが塗装をやってもらっている造船所を見に行き、次の年のドックはそこに頼もうかと思っていた。
中浦の造船所までは船で30分かかり、上架したら、便数の少ないバスを乗り継いで、家串に戻るので、半日かかる。ドックが終わって船を取りにいくときも同じである。交通の便がよくないのが難点である。ところが、4年目の春に、大型のホイストを備えた、家串の隣の油袋のNさんの作業場でドックをやらせてもらえることを知った。油袋までは、海上なら5分で行ける。3日間かけて船底の洗浄と塗装をやるとすると、陸を2回往復する必要がある。県道を歩けば片道30分、途中アップダウンがあって自転車は漕いで上がれない所もあるが、自転車を使えば10分程度である。私は自転車に乗ること、歩くことは、全く苦にならない。それに、できるかぎり、自分でやりたかった。こうして4年目も自分で、今度は隣の油袋で、楽に、やることになった。
上で、フジツボ落としの作業は疲れると書いた。しかし、疲労の度合いは、船台の高さによって全く異なる。船台が低く、したがって船底の位置が低いと、下にもぐり、仰向けになって行なう作業の割合が多いが、Nさんの作業場に置かれている船台は高く、船の下に入らなくても長い柄のついたスクレイパーを使ってフジツボ落しがやれるので、くたびれる度合いがずっと少ない。さらに、高圧放水銃をつかえるので、付着物が多少残っていても、吹き飛ばせる。こうして、2回、このNさんの作業場で、ドックをやったが、大変楽で、これなら、当分続けられそうである。
2014年11月のドックは、ドライブベローズの交換など(土、日は休みの)マリンショップから来てもらう必要があったが、Nさんの作業場は空いている日が土日だけで平日は借りられないため、嵐の造船所でドックを行った。このころには塗料は、船が走っているときに分解するため走航時間の長い漁船向きという塗料をやめ、船が止まっていても少しずつ分解してフジツボが着きにくいという「新スリーL」に変えた。25フィートで4kg入り1缶、1万400円である。これに変えたら、フジツボが着きにくくなり、1年半以上、ドックをしなくても済むようになった。
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以下の文は、ドックの苦労話を日記から書き写したものである。
07年のドック
10月1日
明日、お宮の前の自治会のホイストを使って船を上げて、ドック・インする予定。ホイストは埋め立てて作られた荷揚げ場の端にあり、道路を挟んで、その山側にお宮が立っている。お宮の水道を使わせてもらうように自治会長の北條さんにたのんである。北條さんの作業所に行き自治会のホイストの鍵、またお宮の水道の鍵を翌朝貸してもらうことを確認する。他方、私の船は屋根があって自治会のホイストのベルトでは長さが足りず、生産組合のホイストのベルトを使う必要があることが分かっている。そこで生産組合の組合長の桑山さんの作業所に行き、頼む。これもオーケー。料金はいらないという。持っていってくれというので、リヤカーで運び、私が物置用に借りている作業小屋に入れ、明日必要な、道具、塗料などをすぐに運び出せるよう用意した。私が借りている小屋からお宮の前のホイストまでは400か500m。物はリヤカーで運び、用があって行き来する場合には自転車を使う。
お宮の水道を使うためにはホースが必要で、ホースは源さん貸してくれるという。しかし、お宮の水道からホイストまでの距離が30mほどあり、彼から借りたホースを持ってきて伸ばしてみると、長さがかなり足りない。どうしようかと思っていると、宮下さんが通り掛かり、長いホースがあるから使いなさいと言う。宮下さんは、家串湾の西側出口の近くの生簀でハマチの養殖を行なっている会社の経営者で、家と倉庫がお宮のすぐ近くにある。内側にワイヤーが入った、業務用の太めのホースで、ありがたく借用することにして、長さも試したが十分だった。
満潮が10時半なので安さんには10時くらいにお願いしますと言っておいた。70歳を少しすぎた伊井さんはもと農協の役職をしていたが、今は時間があるからいつでも声をかけてくれ、と言ってくれる。源さんは民生委員をやっている。余分に釣った魚は「独居老人」に配っているという。釣りにいかないときは、ボランティアで、寺山の植木や花壇の手入れ、お宮の境内の草取りと崩れた石垣の修理などをやっていて、ほとんど家にいない。明日はお宮で作業をしているから、呼んでくれと言う。
10月2日
9時ごろ家を出て、北條さんの作業場に寄り、ホイストの電源の鍵、水道のキーを借りて、リヤカーにホイストのベルト、塗料、道具類、自転車を載せて、お宮に行き、まず、ホースを伸ばした。そのうち井伊さんが来てくれたので、直ぐに船を水谷さんの屋形からホイストの前に回した。凪でよかった。ホイストを使って船を釣り上げるのは去年に続き2度目で、少しは慣れたがやはり簡単ではない。とくに、横向きの船を海からまっすぐに吊り上げた後、90度回して手前に引き込むときに船がホイストの柱につかえてうまく入らず、時間がかかった。
1日目の予定は、フジツボや汚れを落として、水道水で洗浄すること。午前中から始め、昼食後もずっと続けて作業をしたが、中腰になって船底を磨くのは、非常に疲れる。ペースもだんだんおそくなり、洗い終えたのは6時過ぎで、もう暗くなりはじめていた。最後にホースを片付け(道路を横切っているので放置しておけない)、荷積み場の方にざっとまとめ、ホイストの電源を切り、電源ボックスの鍵を掛けて、片付け終わったのは6時半を回っていた。家に戻る前から、もう、身体中が痛くて堪らない。特に、腕と肩は、熱を持っている感じだった。夕食はカレーの残り、冷や奴、納豆、温めたご飯など有り合わせのもので済ませ、アルコールは一滴も飲まなかった。お風呂に入って、湿布薬をベタベタ貼り付けて、赤塚不二夫の「つぎはぎくん」のようになって、布団に入ったが、からだの痛みと熱で、なかなか眠れなかった。12時ごろにやっと落ちついて、眠ることができた。
10月3日
「つぎはぎくん」をやったせいで、なんとか、体はもち直し、朝、起き上がることができた。また、今日はペンキ塗りで、きのうよりは楽な仕事だ。金属部に、まず、「ぺラ・クリーン」の下塗りをして、乾かしておく。それから、船底塗料を塗る。これは昼までに終わった。宮下さんがふらりと寄り、昔の家串の話などをきかせてくれた。宮下さんは昭和7年の生まれだと言うから、今年79歳である。だが、毎日1キロほど離れたところにある生簀に大型の(数十トン?)給餌船を自ら運転して通って、監督をしている。
午後、金属部の2回目の下塗りをやった。これで今日の予定は終わり。船底塗装では、寝転んで仰向けになって塗るところもあった。塗料が垂れて、着ていたシャツやズボンを通して、体のところどころに白い色がついたが、昨日の金ダワシでこする作業と比べればずっと楽だった。明日は船底塗装の2回目、それに、金属部の上塗りを2回やる。それで終わりだ。昨日は作業を終えたばかりのときには、もう来年は他に頼もうかと思ったが、今日になって、1年に1回の作業であり、また、船底磨きを1日でやってしまうのでなく、2日掛けてやればもう少し楽かもしれないなどと思い直した。夕方は早めに終わり、お風呂に入り、ビールを飲んで、肉野菜炒めをつくり、味噌汁、ご飯で、夕食。
10月4日
ドック3日目。朝のテレビドラマを見てから宮前に行く。ホイストのベルトが掛かっている部分、及び、船台との接触部分などに塗料を十分塗る必要がある。そのためには、ベルトを緩めて前後に動かしたり、あるいは船をベルトで少し吊り上げ、船台を動かして、船の位置を変えて、その部分に塗料を塗り重ねなければならない。そこで最初に、ベルトが掛かっていた部分と、船台との接触部分付近を塗り、そこを乾かしながら、他の作業をやって、最後にその部分をもう一度塗ることにしようと考えた。「他の作業」とは、昨日塗った船底部分全体に2度目を塗ること、ドライブなど金属部分の塗料(マリアートX)を時間をおいて2回塗ること、電食防止用アノードを点検(必要なら新品と交換)し、そしてプロペラを外して軸を点検することである。午前中に金属部分の塗料の1回目、船底塗装の2回目(ただしベルトとバーの接触部分は1回目)を終えた。
午後、3時すぎから残りの作業をやった。電食防止板は2箇所についているが、半円形をしたアノード板は全然減っていないので、そのまま使用を続けることにした。四角い形のものは、少しだけ減っているように見えたが、メーカーの取り扱い説明書で、交換が必要という半分にまでは到底消耗していない。しかし、念のために外して、買い置きしてある新品と使用中のものを両手に持って比べてみたが、重さはほとんど変らないので、これもそのまま使うことにした。仰向けの作業で、外す時はともかく、再度取り付けるときは、取り付けボルトがなかなか穴に入らず非常に苦労した。また、プロペラを外すときは、ネジが固くて、やや苦労した。ナイロン糸などは絡んでおらず、奥も綺麗だった。4時半までには、金属部分の2回目の塗装も、また船底の、ベルトが掛かっていた部分と、船台との接触部分付近の2回目の塗装も終わった。これでドック作業はすべて終わった。
空き缶、ボロなどを集め、小屋にしまう道具類と一緒に、3日間往復に使った自転車をリヤカーに乗せて運んだ。明日は10時に船を海に下ろす予定。
10月5日
朝10時、安さん、源さんに手伝ってもらい、無事ボートを下ろすことができた。また明日から心置きなく釣りを楽しむことができるのだ。
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08年のドック
10月12日
今年の船底清掃ではお宮の水道が使えない。春の自治会総会で、お宮の水は船の清掃に使わせるべきでないという意見が出された。「けじめ」が必要だというのがその理由であった。他方、お宮の水道は自治会で水道料金を払っているが、使用量はわずかで、基本料金だけを取られている。それなら使用料金を徴収して、使ってもらった方がよい、という意見もあった。しかし「けじめ」論の方が勢いが強く、結局、今年から、お宮に関係したこと以外には水道は使えないことになった。これは新参者を疎ましく思う人がいて、とくに私が去年使わしてもらったことと関係があるのではないかとちょっと気になったが、そうではない、以前から「けじめ論」があったのだと、昨年の自治会長の北條さんが言うので少し安心した。だが、お宮の水道が使えなくなるのでは極めて不便である。
夏にドックをした源さんは、フジツボ落としをしたあと、バケツで汲んだ海水をかけて洗ったと言っていたが、岸壁の階段を使って海水を汲んで運ぶのは、距離は10数mとはいえ、大変である。私は荷揚げ場に隣接する幼稚園に水が借りられないか、子どもたちへのおやつの差し入れと言う形で代金を払うというのでどうかと、聞いてみたが、融通のきかない返事しか帰ってこなかった。そこで少し離れているがお宮の隣にある、真珠の核入れを行なっている会社の磯和さんに頼んでみた。いいですよと言う返事をもらい、ホースは去年と同じく、宮下さんから貸してもらうことにした。宮下さんには、宮下さんが使っている荷積み場の端に私の船台を置かせてもらうことになったお礼も兼ねて、夏にお中元を贈ってあるので、頼みやすい。磯和さんにもお礼はする積りだ。
源さん、安さん、佑太君には8時少し前に集合と頼んである。佑太君は嵐の中島さんの次男で高校3年生。自給700円でアルバイトを頼んである。私は7時始動。金タワシ、スクレイパー大小2つ,その他を持って、連休を利用して息子の大地と一緒に遊びに来ていた丹生谷(ニュウノヤ)さん、大地とともに、リヤカーで、まず、宮下さんの家に行き、ホースを借りる。ホースは、つなぎのパイプとともに、去年借りたもののほかにもう一本、巻取り機に巻いたものも用意されていた。大地と丹生谷さんの二人に、磯和さんの会社の流し台の窓からホースを延ばし、届かなければもう一本繋ぎ足すようたのむ。10mほど長さが足りず、繋いで使うことになったが、つなぎのパイプが固く石鹸を使ってもなかなか入らず、丹生谷さんはかなりてこずった。
私は8時前に船をホイストのある岸壁に廻した。源さん、安さんに手伝ってもらって、ベルトを船の底にまわして掛け、吊り上げるのに前後のバランスを取ろうとしたが、ベルトを下に回すのにてこずった。そしてバランスがうまく取れない。何度もやり直しをしていると、タバコ屋の吉良さんが通りかかり、こつを教えてくれ、また手伝ってくれた。彼は以前に何回も船の上下架をやっていて、慣れているらしかった。船を揚げる予定は8時だったが、結局、船を揚げて、船台の上に載せたのは9時過ぎだった。(大地は仕事を頼んでもやろうとせず、ほうって置くと勝手にどこかに行ってしまうので、丹生谷さんに一緒に遊んでくれるように頼んだ。)
1時間遅れで、船の洗浄を始めた。佑太君は私と同じように船の下に潜り、スクレイパーを使い、フジツボ落しを一生懸命やってくれた。一般的に、最近の若者に積極的な労働を期待するのはむずかしいかもしれないと思っていたが、裕太君は積極的に、真剣にやってくれ、助けになった。
フジツボを落としているときは水をつかわず、次いで金ダワシで擦るときには、タンクにためた水をバケツに汲み、バケツにタワシを浸けて擦った。いったん擦り終えてから、ホースを使って流水をかけて洗い、残っているよごれをもう一度バケツの水を使いながら、擦り洗いし、その後、また、流水を掛けた。最小限の水使用にとどめたと思う。(磯和さんには、水道代として後で、1000円払ったが。)12時少しまえには洗浄は終わった。佑太君には3千円渡して帰ってもらった。
午後は2時半くらいから作業を始めた。最初に金属部分の塗装。去年はペラプライマーの2度塗りをやった。乾燥の時間を入れるとそれだけで1日掛かる。説明書をよく読んでみたら、金属表面をぴかぴかに磨いて、その上にプライマーを塗るのである。ドライブ表面は焼き付け塗装になっているのでプライマーは不必要だとわかった。そこでマリアートXを直接ドライブに塗った。ペラには塗る必要はない。20分もかからなかった。その後、船底にマリンゴールド・ブルーの塗装。5時過ぎには終わった。
10月13日
プライマー塗りの作業がなくなったので、昨日の午後に、船底もドライブも1回目の塗装が済んでいる。今日、午前に2回目をやった。マリアートは残った。マリンゴールドは残しても固まるだけだと思い、何度も塗って全部使い切った。また、きのう取外した電食防止用アノードを取り付け(これはかなり苦労する)、ペラの点検をした。去年に比べ作業日程が1日短縮された。
20℃でマリンゴールドは進水まで12時間以上(マリアートXは8時間)となってるので、明日、3日目に進水することにする。
2011年か12年以降は、ドライブの表面の塗装もやめた。海藻やフジツボが着いたが、ふだん船の上から、あるいは夏は海に入って、時々、スクレイパーで取ってやり、またドックの際に擦って落とすので十分と考えた。ペラにはほとんど着かない。高速で回転するので多少ついても振り飛ばされるのではないか。
2016年のドック
2016年のドックは平碆のホイストを借りて、5月に、嵐の中島さんの作業場でアルバイトしているというD君に手伝ってもらい、2人でやった。2008年に手伝ってもらった中島さんの息子、次男の佑太君は現在松山で仕事に就いているし、長男の周作君は両親とともにヒオウギ貝養殖の仕事を本業として行っていて(第二部第4章の(7)「中島さんのヒオウギ貝養殖」、「本業としてのヒオウギ貝養殖」参照)頼むことはできない。代わりに、D君が、いわば、派遣されたのだ。彼は佑太君の同級生だという。
午前中にフジツボ落としと船底擦りをやって水洗い。昼食休みを2時間取って、その後塗装。数年前から使っている「新スリーエル」のせいだと思うが、ドック前の船のスピード・ダウンは1割でしかなかったことからわかるように、フジツボの着きが少なく、1日で作業は終った。一晩おいて、翌日、船を下した。
私は70歳を過ぎていて、頭のほうの老化も否定できないが、とくに肉体労働は非常に体に応える。それでも、今回も、何とかやり終えることができた。次回は来年の秋か冬にやることになると思うが、できるだろうか。
(2016年7月16日完)
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