バーテュアルパラダイス 『総合人間学部報』(2002/2) 寄稿
バーチュアル・パラダイス


  リレー講義 「情報科学」 の担当3回を、 けっこうバラ色のイメージで講義しているつもりで、 レポート 「 『こんなことができたらいいな』 −−教育現場における近未来への提案」 を2年ほど続けて課してみた。 感心するようなアイデアが一つも出ないので今年は趣向を変え、 「科学研究における計算機シミュレーションとバーチュアルリアリティの功罪」 を書いてもらった。

  出るわ出るわ。 この頃 「核実験」 の見出しにお目にかからなくなったと思いきや、 すでに必要な実験データが全て揃い今や計算機実験のみで密かに開発を進めている核先進国のエゴや、 シミュレーションで開発されたという最新鋭の兵器がアメリカ人に一人たりとも手を下したことのないアフガンの子供たちを 「誤爆」 で報復している現実を語ったもの。

  「まもなくオンラインで名医の執刀を受けられるようになります」 に対して、 医療や教育の場において人と人が直接ふれあう緊張感が不可欠の要素であることを、 恋愛ゲームの達人が恋愛できない悲劇を例にとって論じたもの。

  私はただ 「振り子の図をドラッグして長さを決めクリックしたら、 長さに応じた周期の振動が始まるような楽しいハイパー教科書、 こんなものはいらない。 想像力も育たないし、 観察や実験をしてみようという気も起きない」 と安物のエセ・リアリティのサイトを槍玉にあげただけである。

  そして、 豊かな人的資源が存在する限りそれをフルに活用すべきであること、 また、 いかにCGが発達しようと、 山里の漆黒の闇で体験できるあの身震いするような星空の3D的圧巻、 星座のロマンあるいは宇宙への好奇心を誘うのにこれに優るものはないと。

  また、 つい口がすべって 「コンピュータは人々を知的重労働から解放することができ、 少数の労働者によって大量のデータを短時間で処理できるようになった。 これは逆に見れば、 誰かがどこかで大もうけしているってことにはならない?」 と問いかけてみた。 さすがこんなカビくさい古典論には誰も乗って来ない。

  それでも、 知的重労働から解放された分だけ、 はたして人間の特性−−創造性、 柔軟性、 直観性、 芸術性、 批判性等々を発揮できているだろうか、 あるいは個々人にとっては大幅に余ってくるはずの生活時間を音楽や美術といった心を豊かにすることにどれだけ振り向けることができているだろうか、 そういうことができていたら現在の技術や様々の社会機構はもっと質が高く人間にとってフレンドリなものになっているはずだ、 云々の痛烈な批判がうかがえる。

  ヤレ 「情報化社会」 、 ソレ 「IT革命」 とITがもてはやされる中で育ったにもかかわらず、 意外に冷徹な目をもっているんだと感心した次第である。 それともトラブル続きで半ばキレかけていた私の心境を、 受講生諸君が敏感に感じ取った結果であろうか?



  自分がどの部屋の火元責任者になっているかなんて、 普段は忘れてしまっていることが多い。 左京消防署からお叱りを受けるだろうが、 その部屋を管理している委員会の委員長になったとき自動的に役割が巡ってきて、 めったなことで火災なんて起きそうにないから慣例で名前を連ねているのが普通である。

  学部の通信ノード管理責任者の名前が私になっているのもその類である。 ところがこちらの方は最近とみに火の粉が飛んでくることが増え、 火元責任者のようにはいかなくなってきた。

  一つはネットワーク機器のトラブルである。 この種の装置は進化すればするほどトラブルが増え、しかもそれが不透明になる。 まず、 ユーザから度々 「学外との通信の調子がおかしい」 と苦情が持ち込まれる。 トラブルは特定のノードに集中して起きるので、 その装置または設定に欠陥があるにちがいないのだが、 症状を確定できず要領を得ないため管理機構(KUINS)に何度訴えても相手にされない。

  あげくの果ては 「学外のどこどこと通信できないのか詳しく調べてからにしてくれ」 と、 技術者としてはあたりまえの難題を突き付けられ、 これはもう原因のわからない病気と同じで仲良くつきあっていくしかないとあきらめた。

  こちらは当方のペースで対応できるからまだましである。 医者(KUINS)の方が先に発病を見つけた場合はたまらない。 「おまえ管理者なんだからハブをリセットして来い」 と不意に電話がかかってくる。

  「え? ま、いいか。 あちらから見ればこれもバーチュアルな遠隔治療だワ」 とブツブツ言いながら、 D号館から1号館まで出かけることになる。 こちらの手落ちや故意で火を出したわけでもないのだが、 なにせその間ネットワークが利用できないのだから立場は弱い。 かといってもちろん管理機構の責任でもない。 明らかにこんなやわな製品が堂々と流通していることに原因があるのだ。

  もう一つは最近のウイルス・ワーム攻撃である。 少し前なら、 サーバの管理者でない一般ユーザは 「知らない人から送られてきた変なメールは開封しない」 「いかがわしいホームページを見に行かない」 を心得ておればよかった。 最近はそうはいかない。

  チェーンメールが自動的に再生産されるようになっているから、 たとえ知人あるいは同業者らしき人からのメールであっても油断ならない。 しかも 「添付した論文について助言をしてほしい」 なんて意味のことが書かれているから良心的な研究者ならつい開けてしまう。 そのとたんにそのPCは世界中に向けて開けっぴろげになるとともに、 今度はその人を加害者に転じさせる仕掛けが巧妙に仕組まれているのである。

  由緒正しいホームページも危険だ。 先日、 学部内のあるWEBサーバ(利用者はたいへん多い)がワームの絨毯襲撃を受けて汚染され攻撃を開始した。 気づいた人から通報を受けて確認に入ろうとした私のPCも、 後で調べたらしっかりと幾つかのウイルスファイルをもらっていた。

  こういう時も、 直ちに 「おい管理者、 何とかせよ」 と管理機構から電話がかかってくる。 あるいはチェーン攻撃を受けた相手から機構に寄せられる警告メールが転送されてきて、 当のユーザに伝えて対策をとらなければならないハメになる。

  これもすべて原因は商品として流通しているソフトウェアの欠陥である。 この欠陥を突いて密かに無差別攻撃を愉しむ人が存在することが車の欠陥の場合と質的に違うのは事実だが、 WEB上でメーカーが果てしなく発表し続ける欠陥に 「つぎ(パッチ)」 をあてていないユーザが悪いんだと言わんばかりの、 恐ろしい雲行きになってきた。

  最後はボヤキみたいになってしまったが、 我々が選択しようとしている人的資源を極度に節減したIT化社会というものには、 このように最初から深刻な病的構造が潜んでおり、 我々はこれと共存していかなければならない宿命にあることを覚悟してかかることだ。 その意味では人体と同じで、 ウイルスとはよくぞ言ったものだと変なところで感心してしまう。


とみたひろゆき(基礎科学科情報科学論講座)

(追記)
  この原稿の校正直後に、学外からFortranプログラミングに関する質問のメールが飛び込んできた。 アドレスは分かるものの全くの匿名である。 思わず 「どこの、どなたでしょうか?」 と返信したところ、 「O大の学生ですが、Yahooで探しあてたのに名乗る必要があるのですか?」 という。 一瞬、陰陽師・晴明が博雅に語る 「呪(しゅ)」 を連想するとともに、バーチュアル・ユニバーシティなるものの行き着く姿を垣間見たような気がした次第である。

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