『天地明察』 深読み  ----- 自由レポート課題解説

  6章11に、京都の梅小路で行われた 『北極出地』 (北極星の高さの観測から緯度を決めること) のデモンストレーションにおいて、陰陽師の末裔・安倍泰福が 34度98分67秒 を前もって正確に言い当てた、という劇的な場面が出てくる。もちろん作者による創作であろう。

  ここで 「あれ?角度は時間と同じで1度=60分、1分=60秒の60進法ではなかった?」 という疑問を持った人は、まず合格である。(ちなみに、3章に出てきた数値ではいずれも分、秒の値は60未満であり、気がつかない。)

  この泰福の予想値の表記法、これは間違いではない。当時天文測定で使われていた緯度の単位は中国度 (周天度) といい、「1度=100分、1分=100秒」 の100進法だったのだ。国土地理院の地図サイトで調べることができる京都市下京区の「梅小路公園」の 現 在 の緯度は 北緯34度59分12.1秒、小数で表すと34.9867度、この小数点以下を 100進法 で読めば上の数値になるのである。(「現在の緯度」としたのには訳がある。その意味は以下の(3)で説明する。)

  しかしながら作者の几帳面さもここまで、科学史の視点から見れば看過できない 何重もの 「誤謬ニテ候」 があるのだ。 「何もそこまで目くじらたてなくても」 と言われるかもしれないが、たとえ創作にしてもこういう部分があると、 ついつい 「他の部分の歴史描写にも同じような誤謬があるのでは?」 と疑ってしまうから、映画にもなる予定の、せっかくの斬新で痛快な時代小説だのに と、ファンとしては残念に思えるのだ。


  (1) 最大の誤謬は、せっかく作者が描写の正確さを期して用いた中国度法は、現在、緯度・経度に用いられている 1周 360度 の通常の角度ではなく、星座を基準にして太陽が1日に天球を移動する距離を1度としていたことである。すなわち、後世の地動説的に言えば、地球が1日に太陽の周りを回る角度であり、1周すれば 365.25(中国)度であった。

  これは天文学にとってはわかりやすい単位である。約数をいくつも持つ整数360に比べて扱いにくい数に思えるかもしれないが、地球の周りを一周するという観点がなかった中世以前には、360と比べても何の不便さもなかったであろう。さらに、360でないなら、小数計算をする際にめんどうな 60進法 がわざわざ持ち込まれる必然性もなかった。

  中国度で表すためには、まず1周360度の単位で表された緯度を 365.25/360 倍してから小数で表し、小数点以下を100進数で表さないと意味がないのである。ともかくこの違いにより1.5%、中国度で 50分 程度の数値の差が出てくる。


  (2) 北極星は、天の北極 (地軸の延長点) から角度で1度弱ずれているため、その高さは刻々変化する。緯度の1度は地表面での距離で100km以上あるから、この補正 (あるいは必ず南中時に測量すると決めておくとかの考慮) は当然行われていたであろう。でなければ狭い日本の各地で北極出地することは無意味である。

  さらに天文緯度の測定では、小説にも出てくるように測定儀を鉛直方向 (観測地点での重力の方向) にきちんと調節し、水平面を基準にした高度が測られており、当時としては理にかなっていた。

  一方、現在用いられている地理的緯度は、原理的には地球の中心に向かう方向 (半径方向) と赤道面のなす角度である。

  しかしながら、当時まだ知られていなかったこととして、地球上の各地点において働く重力は、図のように地球の及ばす万有引力と地球の自転による遠心力の合力である。さらに詳しく言えば、地球が完全な球ではなく回転楕円形であるため、ニュートンの計算通りにはいかず、万有引力自体が必ずしも地球の中心には向かわない。

  このため、重力は地球の中心に向かう方向とは一致しない。そこで、実状にあうような地球の形状モデルを採用して各点での中心方向を求め、天文緯度から補正が行われている。


  実際には、遠心力は赤道上で重力の0.35%くらいあり、北緯35度 (梅小路より約2km北の四条通) では重力の方向は中心方向から0.09度、天文緯度と地理的緯度の間には中国度にしておよそ 10分 くらいのずれが生じる。


  (3) 国土地理院の地図サイトで得られる緯度経度は、江戸時代や明治維新はおろか、ごく最近の2000年に改訂され、『世界測地系』 (『日本測地系2000』) の値が用いられることになったばかりである。

  それ以前の 『(旧)日本測地系』による梅小路公園の北緯は 「34度59分00.5秒 (=34.9835度)」 であり、360度法で約12秒 (距離にしておよそ370m)、中国度でおよそ 30秒 変更されている。それ以前に購入した地図はこの修正をせよということで、換算を行うツールも同サイトで提供されている。

  したがって、もしも作者が2000年以前にこの小説を書く準備をしていたなら、晴海と泰福の予想値比べは、現存版とは違う数値で描写されていたのではないだろうか。泰福の予想値 34度98分35秒...。


  (4) 秒までぴたりと言い当てたというのは小説をおもしろくする演出であろうが、当時の技術で1秒=1万分の1度まで精度のある測定ができたかどうかは疑問である。観測に用いたとある象限儀 (四分儀) で、その1/4 円弧の長さが例えば5mの場合、1中国度の長さは約55mm、その100分の1である1分が0.55mmである。

  歯車でも組み合わせたからくり (*) を工夫すれば、そのまた100分の1までぐらいは測定可能であったかもしれないが、それでも正確に測れるのは観測する相手が静止してくれている場合である。

  北極星が時間の1分間で移動する角度を概算 (**) してみれば、2人が順番に算盤で計算している間に、あるいは念のため3人の技師で値が一致するまで繰り返し測定する間にどの程度の差が生じるか見当をつけることができよう。

(*) 当時の装置の写真では、副尺に近い原理が使われていたように見えるが、実物を見たことはない。

(**) 天の北極から直角な方向、すなわち天の赤道の方向の星なら、1分間に約0.25度移動することは直ぐに計算できる。北極星ならその90分の1、中国度で数十秒は移動するだろう。

  少し倍率の高い今日の天体望遠鏡の場合、望遠鏡を固定していたのでは観測している星はあっという間に視野を通り過ぎてしまうので、この天球の回転を自動的に追いかけるような仕掛けが装備されている。惑星や月、太陽の場合は、さらにその天球に対しても刻々移動していることは、先日の日食や月食、とりわけ金星の太陽面通過で実感したであろう。


  (5)  中には講義で紹介した 「光行差」 のことに気がついた人もいた。地球の公転の速さは毎秒30km、光速は30万kmである。 (地球から肉眼で見える近隣の恒星なら、銀河系における太陽系の公転速度 毎秒220km は考慮する必要はない。)

  さて、そうすると季節によってどの程度の差(角度または中国度)が出るか、これは受講生の計算にまかせよう。ここまでの議論と比較しても、けっこう大きな数値が出ると思う。ただし、幸いにしてこの差は地球の運動方向 (東西方向) であって、北極星の地平線からの高さには影響を与えないはずである。

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