量子を手玉にとる時代 培風館 『図書目録2013』(2012/8) コラム
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量子を手玉にとる時代


  『(ある賞の発表の入った封筒の)封を切った瞬間にワタクシの世界が変わる』----- 大学の講義で量子力学的確率と古典的確率の違いの比喩として,コインを投げて手で受け止めるまでの間が「裏か表かどちらになるかわからない状態」,受け止めて手を握ったあとが「どちらであるかわからない状態」と説明してきた。「状態が変わるのは手で受け止めた瞬間であって,手を開いて結果を見た瞬間ではないんだよ」 と繰り返し否定してきたことが,最近は権威ある解説書に堂々と書かれるようになってきた。



  そう,コインを投げた相手の手元を見つめているワタクシまで含めて考えるとき,相手が手を開いてワタクシがコインを確かめるまでは,コインの裏表は決まらないことになるのではないかという,1930年代の量子力学の確立期に投げかけられた疑問が,量子情報科学の進展により再び脚光を浴びているのである。

  現在のデジタルコンピュータはエレクトロニクス抜きには語れず,まさに20世紀の量子科学の申し子と言える。しかし実際には,ビットの制御や通信には電流や光の強弱という電子や光子の集団のアナログ的な情報が利用されている。これに対して電子のスピンや個々の光子といった自然界の究極のデジタル性,いわばプランク定数の世界を原理にしたコンピュータという発想は以前からあった。


  それが現実味を帯びてきたのは20世紀後半の遅い時期,1個1個の電子や原子,光子を御する技術が発達してからである。1989年に日立グループが2重スリットに電子を1個ずつ飛ばし,後方のスクリーン上に現れる点が増えるにつれ次第に干渉縞が見えてくる様を如実に映し撮ってから久しい。今や暗号解読の壁である巨大な整数の素因数分解や高速検索の量子アルゴリズムが考案され,基本的な量子論理ゲートが現実の物理化学系で実現されるようになってきている。

  例えば,電子のスピンのup, down状態を0, 1に対応させればよいが,量子力学では0と1の任意の重ね合わせの状態が存在する。このため古典ビットと区別してQビットと呼ぶ。2粒子になると(01)と(10)の重ね合わせ(もつれ)が可能になる。これを利用すれば従来型に比べて桁違いの超並列処理が可能になるのではないか,あるいは観測により波動関数が収縮してしまう性質を使えば,届いた乱数表が途中で盗聴されていないかどうか判定できる....

など,量子情報工学の貪欲な探求が,すでに1世紀近く量子力学を使いこなしてきたはずの人々に対して量子力学の原理的な部分の再考を迫っているのである。冒頭の話は,量子力学の「多世界解釈」という,多くの物理学者がSF的発想として敬遠してきた理論に関係している。

  実用的な量子計算機の実現にはまだほど遠いが,重ね合わせやもつれた状態とその収縮,ひいては多世界理論などの基本概念を,マイコンレベルの量子回路を使って実感できる日が来ることは,そう遠くないかもしれない。

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