原発 国富    2014.6
国  富  と  は  何  か ?


  ... 当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、
豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である
と当裁判所は考えている。 また、被告は、原子力発電所の稼動が CO2 排出削減に資するもので環境面で優れている旨主張するが、原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって、福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。 .....

  2014年5月21日に福井地裁で行われた 「大飯原発差し止め裁判」 の 判決文要旨 の最後のくだりである。裁判の判決文ほど退屈なものはないと思い、今まで殆どまじめに読んだことはなかったが、思わず身震いし、身の引き締まる思いをしたのは、これが初めての経験であった。原発推進側にとっては取るに足らない一判例にすぎないかもしれないが、原発に不安をもつ多数の国民にとっては、きらりと光る一筋の光明であった。

  憲法で保障された 「生存権」 や、きわめて常識的と言える 「国富論」 が、かくも格調高く唱われており、為政者にせめてこういう見識の一欠片でもあれば、と願うのは私だけではなかろう。火力燃料輸入増加による 「貿易赤字」 は、国民のさらなる勤労によって富を生み出すことで埋め合わせれば、決して国が滅びることはないのだ。国のリーダーとしてこれを真摯に訴えかければ、たとえ現政権支持者でなくても国民の大半は納得するであろう。国民は東日本大震災後の、原発無しでの 「電力危機」 を乗り超えただけの良識はもちあわせているのだ。自公政権には (もちろん野党にも) これくらいの政治哲学と愛国の気骨をもった政治家はいないのであろうか?

  追記: 裁判長を務めた樋口英明裁判官は、翌年4月14日に福井地裁で担当していた高浜3,4号機再稼働差し止め仮処分の申請を認める決定にも携わった。経歴的には高裁への配置変えが順当であったにもかかわらず、既に4月人事で名古屋家裁へ配置換えされており、一部のマスコミでは最高裁による 「異端者の左遷」 と報道された。当の本人は「左翼ではなく保守的な愛国者」を自認する。


  大先輩を交えた小さな宴会の席 (奇しくも3.11 東日本大震災・福島第一原発事故のおよそ2ヶ月前)。 片やF県の大学の学長を務められたK氏: 「スリーマイル事故以来、アメリカの原子力工学は遅れていて、今や日本の原発技術は世界最高水準の安全性を誇るに至った。 F大学では原子力工学の部門を新設した ...今どき珍しく純増でです!」 とか、鼻息も荒く意気軒昂そのもの。しかしながら、F県に立地する大学が住民のために今とり組まなければならない喫緊の課題は、はたしてそこなんだろうかと、その時点でさえ首をかしげざるを得なかった。

原子力資料情報室の発表では、この4半世紀の間に制御棒に関する事故 (脱落・誤挿入) は国内で15件も起きていた。さらに、たとえ現在の原発本体が技術的には世界最高水準であるとしても、その放射性廃棄物処理システムは未だに一昔前の 「肥だめ式ドッポン便所」 にも劣るレベルであることは、今や大多数の国民に周知の事実であり、先の判決でも重要な論点となっている。 (蛇足であるが、江戸時代まで遡ればドッポン式便所は完ぺきなリサイクルシステムであった。) このこと一つを見ても、原子力は未だ人類が本格的に利用できる技術ではないのだ。化学者の氏がそれを知らないはずはなく、不都合な真実を隠蔽するは、まさに学者の魂の喪失、知の退廃である。 そして悲しいことにその直後、氏の誇る世界一安全な原子炉は、原子力工学以前の最も初歩的な、したがって十分に想定内の、「電源喪失」 という技術的欠陥により、なす術もなく融け落ちたのだ。

   -----  片やA県の 「環境」 を標榜する某私立大学の学長を務められたT氏: K氏の発言を受けて 「地球温暖化対策には原発しかない。それが遅々として進まないのは、みんなみんな アサヒ のせいだ」  一瞬自分の耳を疑ったが、アサヒ とは言うまでもなく 『朝日新聞』 のこと。A県あたりでは朝日新聞は 『赤旗しんぶん』 と同列視されるらしいことは聞いたことがある。 人類が知の総力をあげてジレンマの突破に苦しんでいるときに、この朗らかさ! なんたる論理の短絡、なんたる知の退廃! T氏は、私が常日頃より 知の守り人達 と崇めてやまない哲学者の中でも、権威の一人ではないか(後日 「瑞宝中綬章」 受章)。

この大学では、かようなポリシィをもつ学長のリーダーシップのもとで 「人間環境教育」 が行われているのかと思うと末恐ろしく、上とは真逆の感動で身震いしたのであった。 福島第一原発事故の起きる2ヶ月前、恒例の新年懇親会における、両賢人による知の競演であった。

  これは事故後に放映されていた、小出裕章氏と、ある原発推進者 (注: 「推進論者」 ではない。氏名は忘れたので以下、X 氏) の対談における一場面: 小出氏が、放射性プルトニウムの危険性について、 「プルトニウム化合物は、気体として飛散して肺から吸収されやすく ...」 旨を発言しかけた一瞬の隙に割り込み、X 氏が常軌を逸した凄まじい剣幕で 「気体じゃない!」   ....さながら低劣な政党討論会であった。

小出氏がエアロゾルと気体の違いを知らないはずはなく、一般向けの番組で 「エアロゾル」 という聞き慣れない専門用語を用いることに躊躇した、とっさの苦肉の策であったにちがいない。 学術的立場では不正確な用語かもしれないが、少なくとも決してこの瞬間の討論の本質ではない。とてもじゃないが学者の良心による訂正であるとは思えない剣幕であった。安全神話に固執する X 氏の、学者・研究者としての節度を逸した、この醜いまでの異様な固執ぶり、これも原子力村に棲みついたエリート学者の 傲慢と頑迷、知の退廃 を垣間見たようで、こういう学者が我が国の原発推進の中心に居続けているのかと思うと、またまた背筋が寒くなった次第である。

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