羞恥心の欠落     

15年前に転職してからは基本的に毎日の通勤というものがなくなり、電車に乗ることが少なくなりました。 たまに電車に乗ると実にイライラすることばかりで、もう二度と乗るものかといつも思ってしまうのです。 仕事はほとんど車なんですが、車は車でこれまた苛立ちますが・・・
電車には一杯人がいるんで。

通勤電車の中でセッセと化粧するオネエチャン、結構大き目の声で携帯通話するオッサン、なんと食事しているニイチャン(飲み物付き)など、いろんな方が居られる。
こうした行為が人に迷惑なものかどうかは多分に基準が曖昧であり、感性でしか判断できない面があると思います。 私には到底耐えられない状況ですが、平気な人は平気なのでしょう。

しかし、 迷惑行為という以前に「恥ずかしくないのか?」という素朴な疑問が沸いてきます。 本当は恥かしいのだが、ガマンしてあんな事をしているとは思えず、やはり恥かしくないからやっているのでしょう。 今の日本人にかなり欠けているらしい感性の一つが羞恥心だと思います。

なぜ、恥かしいという感性があるのかの説明で、こういうのがありました。
例えば人前で肌をさらけ出すとか、普段隠している部分を見せてしまうとかいう行為は、見知らぬ他人に対して無防備な状態になることであり、実は大変危険なこと。 外的から身を守るための警戒警報のような役割が羞恥心にはあるというのです。

家の中だったり、それなりの場所だったりするから安心して無防備な状態になり、他人に見られる心配のない状況だから、警戒を解いて食事だの化粧だの排泄だの大声を出すだの泣くだの笑うだの・・・・色々なことが平気で出来るのでしょう。

羞恥心が無くなっている或いは薄れているというのは、野生から離れて高度に文明化した、また平和ボケ等とも云われるこの国の生活にどっぷり漬かった結果、動物的な本能的な警戒機能が低下しているからである、という説なのです。
これが社会心理学上の学説なのか、文化人類学的な意見なのか知りませんが、妙に納得した次第です。

なあるほど、あんなこと、そんなことを恥かしげもなくやっている人達、大勢の他人の前で平気でプライベートな行為に及ぶ人達というのは、自然界からあまりに遠ざかってしまった挙句に動物的な感覚を失ってしまった高度に文明化された高度に発達しすぎた人達なのだ。
それじゃあ、いつも、恥かしいとか、みっともないとか、〜〜と思われたくない、などということばかり考えて暮らしている私などよりもずっとずっと進化した人類ということです。
ああ、私はこれ以上は進化したくないと思うのです。

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