「脱・巨人ファン」宣言              

私は長年巨人ファンでした。特別な理由はなく、子供の頃に何度か親に連れて行かれたのがほとんど巨人戦だったこと(あらためて確認した事はありませんが両親は多分巨人ファンなのでしょう)、3歳からは東京暮らしだったためテレビで見ることの出来るプロ野球中継はほぼ巨人戦のみであったこと、こんなことしか思い当たりません。

一方、巨人というチームの性格については「どうもおかしいのではないか」と思うことが多く、世間に対し堂々胸を張って「巨人ファンです」と言える雰囲気であったことはあまりなく、いつも「すいませんが巨人ファンです」というような感じでここまで来てしまっていました。

その私が今年の開幕直前に人知れず「脱巨人ファン宣言」を致しました。(大橋巨泉氏に遅れること10数年)
従来から思っていたなんだかおかしいという感覚に加えてあのナベツネ氏のここ数年の言動が大きな要因です。あの人が君臨されている限り、またはあの人の影響が残っている限りは巨人ファンには戻らないと心に誓いました。
あの人が嫌いだからということだけではなく、あの人の存在を日本の社会の暗黒面の象徴として私は感じてしまいます。

ドラフト制度を都合よく捻じ曲げて来たこと、4番打者買占め戦略を続けていること、オリンピック参加問題、清原は要らない発言、原・元監督の社内人事異動発言、そして、今回の「たかが選手」発言と続きます。
この人(というかこの人達というべきか)の考え方、やり方は今まさに世界一の軍事大国が世界に対して地球に対して行っている戦略とどこかで通じるものがあると私は感じています。

自由主義経済での市場原理、競争原理によってこそ自由が守られる、競争に勝てないものは排除されても仕方が無い、あるいは自由を謳歌できない。それが嫌なら全体主義、社会主義の国に行くしかない。という短絡思考的感覚からは我々は脱出すべきと思っています。
私は社会主義世界には興味は無く、できればそんな国には今後も生まれたくありません。
しかし一方で、今、世界で「自由主義」の旗のもとに普及しつつある「差別主義」に強烈な恐怖を感じています。

冷戦時代が終わり、東西の壁が崩壊し、自由主義が社会主義に圧勝したと見える現代にあって、少なくとも自由主義国のなかでは、競争原理や市場原理という原則ルールには誰もが反論できない状況にあります。これに反する発言をするにはかなりの勇気が必要です。
しかし自由競争原理が成長のための絶対条件だと言い切る人達の本音は、単に自分が勝てていればそれで良いということではないのか。
強いものだけが勝ち残れば良いという考え方が、これまでどれだけの人間を犠牲にしてきたのかを思うと、身が凍る思いです。

私の脱巨人ファン宣言には、こんな思いが背景にあったような気がします。
なんだか妄想的世界に入り込んでしまいました。

ところで、脱巨人ファン宣言をした直後に友人から巨人戦の開幕第2戦に誘われました。ちょっと迷ったあげく、対戦相手の阪神を応援するつもりで誘いに乗りましたが、本当に阪神を応援して、阪神が勝ったことで嬉しいと感じました。今は中日の優勝にホットしています。
思えば、私が巨人ファンだったということ自体が単に勘違いだったのかもしれません。

どの分野でも、自分が思い込みに陥っているのかもしれないことに気付き、本当の自分の考えを確認する習慣を身につけたいと思う次第です。



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