『あふれる』(朗読のためのテキスト)


見失った起点を
とりもどすための儀式。
なぜそれが必要なのかは
わからないけれど。
ホームから傘を放って、
虹を呼ぶ。

虹は来る。

雨は去る。
対になろうとする、
ことば。
匂い立つ夕べ
ひっそりとひらいた葉のみどり。
あたしは知っている。
丸まった塊りをなでて
魔法をかけたから。

なんども繰り返す朝。
強い風に
雲が飛ばされていき、
黄色い嬌声を放っている。
そんな朝。
夕方には狂ったように雨が降る、
そんな予感に満たされた朝。



兄と。
父と。
プールに行った日のことを
克明に記録する。

先生。
先生はその場にいないが、
それらはすべて
先生のためのいちにちだ。
あなたが言ったから。
いちにちのできごとを
記録するように。
眠る前に。
ひっそりとペンを取って。

傘。
傘がひらひら回るように、
くるくる回っていたあたし。
足先ではじく水はきらめいて、
あれが太陽、
と思った。
だから傘。

先生。
きれいって、こういうこと?




兄はアイスを食べた。
棒つきの、
ソーダ味。
あたしはかき氷を食べなかった。
先生、
あたしはたくさんの夏を生み出した。
どのいちにちも、
すべて先生のためのいちにちだ。
あたしは行間にたくさん書き込んで、
消しゴムは持たなかった。
すべてを記憶するように、
あなたが言ったから。

どこかで、
置き去りにされた父が、
水の底で潜水をする。
プールの端から端まで、
息継ぎなしで泳ぎきる。
砂のひとつぶに書き込まれた
そのような物語が、
いたるところに散らばっている。

あたしの足。
きれいな水しぶき。
兄のアイス。
父の鼻から漏れるぶくぶくの泡。
その卵ひとつひとつが
別々の色をしていても、
あたしは区別がつかない。

そして雨。

しぶきが増殖する。
先生ののためのいちにちが、
つかみきれなくなる。



先生。
わたしはもう、
いちにちを区切らない。
わたしは区別する。
あの水しぶきひとつひとつが
別々の光を宿している。
父の潜水、
兄のクロール、
わたしのバタフライ。
わたしたちは魚ではない。
理解する。

わたしたちはくるくる回る。
それならわたしたちは傘だ。

しぶきがくっつきあう。
プールから溢れ、
兄のひと粒をうしなう。
父は海へ流される。
ホームから放つ。
傘を。
虹を呼ぶ。
かわりに朝の雲が戻ってくる。
蒸発しはじめたそれを、
砂つぶを押し流す風ごと、
わたしは全部持っていきたい。

先生。
あなたがわたしの傘を
きれいといったから、
わたしは理解した。
そうしてわたしは
先生とわたしを区別した。
先生の傘と、
わたしの太陽とを。
わたしは先生の言葉を
上書きしつづける。
これがわたしの儀式。
最初と最後をつなぐ物語。
わたしはわたしの
先生の
誰かの
いちにちを
産み続ける。
そして全部持っていく。