「空の名前 魚の名前」
裏庭のちいさな池に氷が浮くと、師走、冬が来る。
朝、まだ暗いうちは息が白くて。
ざくざくと凍り立つ土が薫り、まるで陸に暮らす、けれど鱗を持つ生きものだと思った。
頬の産毛が逆立って、こんな、痛みなら。
鈍行の列車に乗って、海に行った日のことを思い出す。
駅の名前をひとつひとつ読み上げて。
ああいうのは、どうかな、のんびりしたラインのあかるい案内板は
ぜんぶひらがなで、別世界のようだった。
爪の話をした。赤みを帯びた橙のマニキュア。その色より、名前の方が美味しそうで。
夜に食べるはずの魚の話もした。
それから海が見えて。
ひとの話でしか泣けなくなった。
リアルって言葉は、むかし夢中で読んだ無重力のSFのようで。
果てのない旅を続ける主人公は、まだ本を読んでいた。
最後に泣いたときの底。
押し黙り、見上げるだけのわたしのあとにも、陽が残る。それはまるで翳のように。
青空の夢を見ました。
たとえば林檎は、どれだけまるくなれば完成するのだろう。
まだ夢を見て。
枕元に置いた林檎から、冬が薫る。
むせるように朝を起きて、ベッドから崩れ落ちてもまだ、夢を見ている。
林檎と眠るようになってからは、どんなに暗くても朝だとわかるようになったけれども。
海。夢中で泳ぎながらも、怖い場所だと思っていた。
砂を掻いたあしさきの、冷たさ。底というだけで暗く知らない世界が広がっているようで。
おそろいのペディキュアは夕方には剥がれ落ち、青ざめた鱗のようにちいさく身体に張りついていた。
その日の写真は砂混じりの海水と同じ、ざらざらした空だった。
晩には魚を食べました。
名前ならたくさん知っているのに、姿かたちもたくさん見てきたのに、
わたしたちはずっと魚の話をしてきたのに、
その日の魚の名前を何といったか、いまも知らないままでいる。
列車の窓から流れこんだ潮のにおいが、どんなだったか、覚えていても、説明できないのに似て。
まるで、考えることを知らない、ものおぼえの悪い、生きもの。
けれど、海は潮の匂い。毎日は名前のない日ばかり。
朝。前をゆくひとの、髪を掛けたあいまから、赤くともる耳朶。
ガラス工場から、しゅんしゅんと、白い煙があがっていて、わたしは突然目覚める。
手のひらや、その感触や、温度。
くちびるに手の甲をあて、これ以上何も言葉がでてこなければいいと思う。
その指で、指し、指され、標が十二月なら、冬の朝。
青空に夕べの星を見ている。
2003.12 「ラウンドカッツ」朗読原稿を一部改稿