「春の鬼」


草むらに屈み、背中を晒している
今年は季節が少し早く来たようだ



さっきからずっと歩いている
頬と、背中と、土踏まずだけが火照っている
丸いものを抱えている
「ほら、これ。落とさないで」
そんな風に背中を押されて、歩き始めた
ような気がする

疲れたら、草むらに伏して、土の匂いを嗅ぐ
新芽を食む
わたしの首が、地面から離れがたいのは
身の丈ほどに長い襟巻きを流しているせいだ
身体に合わなくなった、


西瓜のような
不思議と夏の匂いのする荷物で
夏の深の匂いがする
「きっと明日、待ってる」
わたしはそこへ行くのだと、唇が勝手に約束をしている



追ってくる白んだ影たちが
ぽつぽつと昔語りを始める
なぐさみに八十八まで数え、ふと振り返ると
「ほら、まだ。まだ、止めないで」
また背中を押される
産道を抜ける時のような温い風がわたしを追い立てるのだった
腕のなかのものは、種を包む繊毛のような、柔らかな感触に変化している
もう少し時が経てば形を成すのかもしれなかった

草という草の、すべての葉が
ぎりぎりと尖り始める
それもまた変化の半ばのような気もするが
どこかに辿り着くならば、
そんな話であった
そして「待っている」と、背中を押された、
ような気がする

枝という枝のすべての捻じれが、眩しさに焦点を失って涙を流し始める
歩くときには背中を晒せばいいのにと
それだけがまるで生きる術であるかのように歩き出してからは
陽光はいつでも背後に満ちて在った



物語りを幾つ積み重ねてみても
春の鬼が来て、掻き崩していく
崩しては去り、また追ってくる



わたしというわたしのすべての記憶が変容している



時には空腹になり、草むらに倒れこむのだった
八十八まで数えたのにと、手当たり次第に新芽を毟り、食む
「ほら、行って」
と荷物ひとつで
送り出されたときにも、少しは幸福だったろうか
腕のなかの丸いものは、意に反していまや寒天のように震え始めている



それはふいに甘く、八月の氷菓子の味がした