「春の鬼」
草むらに屈み、背中を晒している
今年は季節が少し早く来たようだ
*
さっきからずっと歩いている
頬と、背中と、土踏まずだけが火照っている
丸いものを抱えている
「ほら、これ。落とさないで」
そんな風に背中を押されて、歩き始めた
ような気がする
疲れたら、草むらに伏して、土の匂いを嗅ぐ
新芽を食む
わたしの首が、地面から離れがたいのは
身の丈ほどに長い襟巻きを流しているせいだ
身体に合わなくなった、
よ
西瓜のような
不思議と夏の匂いのする荷物で
夏の深の匂いがする
「きっと明日、待ってる」
わたしはそこへ行くのだと、唇が勝手に約束をしている
*
追ってくる白んだ影たちが
ぽつぽつと昔語りを始める
なぐさみに八十八まで数え、ふと振り返ると
「ほら、まだ。まだ、止めないで」
また背中を押される
産道を抜ける時のような温い風がわたしを追い立てるのだった
腕のなかのものは、種を包む繊毛のような、柔らかな感触に変化している
もう少し時が経てば形を成すのかもしれなかった
草という草の、すべての葉が
ぎりぎりと尖り始める
それもまた変化の半ばのような気もするが
どこかに辿り着くならば、
そんな話であった
そして「待っている」と、背中を押された、
ような気がする
枝という枝のすべての捻じれが、眩しさに焦点を失って涙を流し始める
歩くときには背中を晒せばいいのにと
それだけがまるで生きる術であるかのように歩き出してからは
陽光はいつでも背後に満ちて在った
*
物語りを幾つ積み重ねてみても
春の鬼が来て、掻き崩していく
崩しては去り、また追ってくる
*
わたしというわたしのすべての記憶が変容している
*
時には空腹になり、草むらに倒れこむのだった
八十八まで数えたのにと、手当たり次第に新芽を毟り、食む
「ほら、行って」
と荷物ひとつで
送り出されたときにも、少しは幸福だったろうか
腕のなかの丸いものは、意に反していまや寒天のように震え始めている
*
それはふいに甘く、八月の氷菓子の味がした