日本浮上―――二十年後の暮らし        大松 右京 Jr. 作

2019/8 改訂

2031年4月

東日本大震災から20年が経った。

津波の被災地はほとんど太陽光発電パネルが置かれた巨大なソーラ発電所と化した。福島原発の周囲30キロ圏内は未だにソーラパネルのみの無人地帯となっている。また、 農作物を含めた全ての生産活動は太陽光発電を除き止まっている。IAEAの避難勧告を受け入れざるを得なかった政府は新規の原発建設を依然としてとりやめたままだ。稼働中のものは大幅な 耐震津波対策の改造をして使っている。30キロ圏内以外は一時的な立ち入りは可能で,避難した人で土地を手放さなかった家族が 自分の家の周りの草取りを している。大半の人々は電力会社にソーラパネルまたは風力発電設置のための用地として土地を貸している。政府からの僅かな補償はあったが、短くても三十年後でないと住めないとわかり、大幅に減額された土地の固定資産税に見合う賃料で電力会社に貸している。

原発の影響が無くても、東北の沿岸部のほとんどでは太陽光発電のパネルが置かれている。農作や酪農は原発に隣接した県ではほとんど成り立たなくなった。消費者が購入しないのだ。残った沿岸の住民は全て高台に建設された高層住宅で暮らしている。工場も高台にあるか、巨大な橋げたのような基礎の上に建築されている。

福島はいまや太陽光発電力は日本一になった。岩手県・茨城がそれに続いている。

土地の価格が一時期下がった福島と茨城では移転してくる企業も多かった。豊富な電力が安価で得られるためだ。職を失った農業従事者は年寄を除いての話だが雇用の場が増えた。それでも大半は軽工業の会社が主だった、昼夜稼動する自動車工場では夜間も電気を使うのであまりメリットがない。蓄電設備に費用がかかるためだ。

震災直後は供給不足だった電力は、10年前からは太陽光発電のみで昼間は十分まかなえている。

夜間は急速に普及した家庭用の蓄電設備と燃料電池発電の助けを借りて何とかまかなっている。普及の要因となったのは2年にわたった計画停電の実施だった。

事業所や病院は停電時の電力を自前で準備した。以前にエネファームと呼ばれた燃料電池発電設備だ。当初はお湯を沸かすだけだったが、同時に出る廃熱の利用が冷房にも利用できるようになったからだ。それもつい最近市販されたばかりで、大半の燃料電池はお湯を沸かして周辺の家庭に供給するか温水プールに利用している。

自家発電設備のあるマンション人気が続いている。

一方、一般家庭で人気なのは昼の余剰電力を利用するエコキュートだ。大震災後の電力事情で販売が低迷していたが5年ほど前から昼の電力が蓄電能力をオーバするようになった。既に蓄電設備は電気自動車や家庭用バッテリとして、震災後に普及していた。

太陽光発電が増えた結果、昼の電気料金が大幅に安くなった。その結果は従来のガス給湯より費用が大幅に安くなったのだ。

また、各家庭に課せられていた30アンペアブレーカを超えると電気代が五倍になる制度が、最近廃止になったのが大きな理由かもしれない。

震災から一年が経った頃輪番停電を避ける方策の1つで、基準以上の電力を消費する家庭と事業所の電気料金を一年後に五倍にすると発表した。

海外に逃れる事業所が多少はあったが大半は自家発電を備えた。

各家庭では大容量の電気器具を短時間ではあるが使用できるように工夫した。蓄電設備により契約電源容量を増やさず電子レンジやIHヒーターが使えるようにした。それまでも停電時に冷蔵庫や照明を動かすために蓄電設備を購入する家庭は増えていた。それと自家発電設備とほぼ半数だった。全所帯の3分の一が何らかの停電対策を採っていた。

政府の電気代の大幅値上げ発表は衝撃が走った。

一般家庭では30Aまでの契約は従来どおりだったが、それ以上は五倍になる。そこで蓄電池付きの電子レンジやトースターが発売されたが五分ほどで電気を使い切ってしまう。それならば20KWHくらいの蓄電設備を購入する家庭が増えた。当時は深夜電力が安く設定されており、同時に停電時の電力が確保できるので100万円ほどした設備は飛ぶように売れた。

又、同じ用途に使える電気自動車やプラグインハイブリット車を購入する家庭もあった。こちらは電気自動車で400万円・ハイブリット車で350万円と少々値が張った。

ほとんどの家庭は契約電流を30Aに下げた。たまにブレーカが落ちるのは仕方ないと考えたからだ。照明器具のLED化も進んだが節電量には限界があった。

氷蓄熱タイプ以外のエアコン販売は激減した。氷蓄熱エアコンは従来、夜間に氷を作り昼間の冷房電力を減らす目的で開発されたが、今は逆に昼間に氷を作る。震災前は深夜電力が昼間の四割だった。様変わりだ。

一方、住宅の断熱化は一気に進んだ。断熱化された住宅では従来の3分の1の能力で冷暖房が可能になる。電気の使用量も3分の1だ。

急速に普及した電気自動車のお蔭もあって日本の総エネルギー使用量は大幅に減った。旧東京電力関内だけでなく全国にその流れは広まった。いまや自家発電と太陽光によって電力の約半分がDC(直流)で発電されている。周波数変換で電力不足を助け合う設備はやがて存在意義を失うだろう。

非常時の生活用水を確保するため雨水の利用が進み、各地では貯水施設が建設された。都心では河川を再整備する動きも見られる。トイレの水は雨水や河川の水でまかなう体制が整い始めた。水は飲食用と生活用水と分けられて利用する動きが、既に都市部では出ている。飲食には深海水から作る水が使われる。ボトルで売られる水が多く使われ、上水は洗濯やお風呂とトイレなどにしか使われなくなった。若干の放射能が混じっているからだ。大人の健康上差し支えないレベルと政府が言っているが不安を持つ家庭が多いようだ。

深海水や地下1000メートルを超える低放射能汚染水を使う銭湯が俄かに人気になった。裕福な家庭以外は高価な無汚染水でお風呂に入れないからだ。大多数の人は放射能に僅かに汚染された湯船には入らずにシャワーで済ますようになった。それでも月に何回かは無汚染水の風呂に入りたいと思う人が多かった。

各家庭では貯湯タンクがある自家発電設備が人気だ。非常時の生活用水が確保されるのと、短期間であれば飲用に利用しても良いと考えているからと推察される。関東東海地方で起きると予測されている震災が未だに起きていない事も恐怖が増す原因となっている。

同じ理由で、住宅の耐震補強工事が進んだ。断熱化工事需要と並び住宅関連企業はこの二十年不況知らずだった。震災直後は家の建て直しで支えられ、その後は耐震工事とソーラパネルを設置するための屋根補強工事。パネルを載せた場合、屋根の補強が地震対策に不可欠との認識が広まった。

震災は暮らしを大きく変えた。

サマータイムは結局導入されなかった。しかし、日本を縦に四分割し、それぞれの地区で基準となる時間を決めた。

関東地区と東北の西部地区の小中大学校は夏季(4/10から9/10)に限って朝四時から始まった。終業は十一時半となった。そのため、冷房は基本的に八時頃までは使われなくなった。冬季(11/10から2/10)は照明の必要が少ない午後四時までの授業となった。それ以外の中間季がこれまでと近い八時半からの開始になった九州沖縄地区は40分遅れで開始時間と終了時間が設定された。逆に北海道と東北の東部地区は20分早く始まるようにした。

人間が本来やっていた明るい時に働くことが定着したのだった。

また、いくつかの法律が変わった。一日8時間労働の基準を通年で守ればよいことになった。そのため夏季は12時間働くところが出始めた。それでも冷房を制限されるので昼までに業務を終えるところや、 昼休みの期間を午後五時までにする企業もふえた。企業の休日は夏季が延長された。二日連休は一ヶ月に一度程度しか取れないようになった。週の休みの一日は土曜以外の平日になった。 五週で一回の月曜休みが唯一の二日連休となったのだ。これにより企業により休日分散化され電力重要は平準化した。 子供と休みを合わせるために有給休暇を取り易いように法律が厳格に運用されていた。夏季のみのフレックスタイムを採用する企業が増えた。

五月の連休は一部の業種を除いて廃止されていた。

冬休みは寒冷地を除いて12月31日から3日までに短縮された。夏休みはその分延長された。

産業はどうなったか?

農業と酪農業は茨城・福島で壊滅した。水産業は東北の太平洋沿岸と北関東の沿岸では漁ができなくなっていた。遠洋に出るか他の地方に漁に出なくてはならず、 廃船する漁師が多かった。

工業生産はかえって盛んになる地域があった。茨城・福島の立ち入り禁止以外の土地には、使えなくなった農地に、多数の企業が工場を建設していた。福島からの豊富な太陽光発電力に依存してのことだった。

日本全体としてはどうだったか?

日本は大震災のあと東北と関東は電力不足による計画停電に悩まされた。その後、各地の原発の改良工事が始まり、全国で計画停電が始まった。 そのために、節電と蓄電設備が普及した。太陽光の利用や燃料電池による発電も増えた。

太陽光や蓄えた電力を効率よく使えるDC家電も普及し始めていた。

全世界が原発の建設を先延ばししたので石油の需要が増大した。原油価格が一時期は2倍になった。

その中で日本は関東東北部を中心に電力消費三十パーセント減に成功していた。日本全体でも二十パーセント減だ。

震災後に普及が加速した電気自動車などのお蔭もあり、世界に先駆けて低炭素社会を実現した。

世界は?

中国では原発は民衆の反対で運転が出来なくなっていた。共産党の一党独裁は終わっていた。一人っ子政策とはじめとする政策や個人の自由の制限に人民が反旗を翻したのは4年前。 共産党が進めた資本の自由化は様々な矛盾を生んだ挙句破綻した。それを決定的にしたのが自国での原発の事故だった。

中国は増大する電力需要に対応するために原発を建造し続けていた。しかし、五年前信じられないような事故。その放射能汚染の為に、もはや世界の工場と は言えなくなっていた。各国が中国沿岸部からの人・物全ての入国を制限したからだ。中国経済は急速に悪化して、その事が共産党の独裁を終らせる要因のひとつになった。

インドは豊富な人的資源を力に発展を続けたが同様に電力不足に悩まされていた。

頼りだった原発は福島の事故で大幅に安全基準が強化された。

設置費とランニング費用が以前の火力発電設以上かかるようになっていた。新たに作る原発は海や河川から1/2マイル以上離す事を求められた。 又、緊急時に原発を覆う巨大なドームを設置しなくてはならない。既存のものは塀と防水処理で海に放射能に汚染した水が流れだすことを防止する措置を求めた。福島での事故で汚染が世界中に広がった苦い経験をしたからだ。 一番の難題が冷却水だ。IAEAは間接冷却を含め海水や河川の水の利用を禁止した。仕方なく巨大なため池やサイロを作ることになった。もちろん地震で漏水しないように防水対策も必要だった。

それでも石油が二倍の価格になった為、原子力発電に頼らざるを得なかった。しかし原発の建造を輸出する国はフランスのみになっていた。 前述の安全基準強化もあり建造費が三倍になっていた。更に中国で起きた事故の後は原発を新設する国は無くなった

日本ではやっと五年前に新基準に見合う改装工事が終った。廃炉にせざるを得なかった原子炉は全体の三分の一、福島の四基を含み十七基に及んだ。

それでも電力の供給が間に合ったのは主に畜電設備と太陽光発電の普及だった。

又、住宅やビルの断熱化は冷暖房に使用する電力を三分の一にした。

自家発電設備も僅かであるが貢献した。

非常時は蓄電タンカーや電気自動車が活躍することで電力の足りない地区の手当てが出来たのだった。

非常時には電力が流通するようになったわけだ。

ここで五年前に中国で起きた原発の破損事故について詳しく述べたい。

まずはYahoo!知恵袋の記事からの引用を読んでいただきたい。

落下が目撃されたものでは次のような隕石もあり、いずれにせよ1トン(1000キロ)は遙に上回っています。

『1947年2月12日、午前10時30分頃、ロシアのウラジオストック北部、シホテアリンに、多数の鉄隕石
(総回収量は約70トン)が落下しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
シホテアリン隕石は、眼が痛くなるほどの強烈な光を放ちながら落下し、落雷のような爆音が響いたそう
です。そして、上空には巨大な煙が発生し、5時間以上も消えませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
煙の正体は大気との摩擦熱で蒸発した隕石物質の細かい粒子であったと考えられています。
また、シホテアリン隕石は大気の上方で、多数の個体に分裂し、広範囲に落下しました。落下地域は
約2平方キロメートルに広がっています。
最大の破片の重量は1750Kgでした。
約120個ものクレーター(最大のものは直径26m、深さ6m)が形成されました。・・・・・・・・・・
幸い、この時は犠牲者は出ませんでした。このように分裂した多数の隕石が落下する現象を隕石シャワーといいます。
----- 引用ここまで

これと同じようなことが5年前に起きた。

現代の科学は80年前に比べて格段に進歩している。しかし直径15メートルの隕石を確認できたのは地球に衝突する僅か2分40秒前、 防空監視システムにより発見された。

隕石が落下する地点は直ぐに予測できた。中国常州(じょうしゅう)の郊外だった。上海の約160Km西に位置する地方都市だ。 大勢の人々が犠牲になるのを恐れた中国政府は弾道ミサイルで破壊を試みた。避難指示を出したとしても、あまりにも短い時間では避難は不可能だった。 混乱を恐れて警報は出されなかった。すでに大気圏外で破壊できない状態でミサイルが発射された。

隕石は大気圏突入の際に砕けていたので中心部に残った核にミサイルが命中した。

核は更に細かく粉砕され常州の郊外への直撃は避ける事が出来た。範囲3平方キロメートルに隕石のシャワーが散らばり落ちた。運悪く、その1つの隕石の破片が、 緊急停止完了しきれていなかった原発の炉心を直撃した。重さは一トン位だった。その破片は格納容器の一部を壊すと同時に原子炉の制御棒の移動を不能にした。 空の異変に気が付いた原子炉の従事者が緊急停止ボタンを押した。しかし制御棒が完全には入りきる前に隕石が着地した。

核分裂が完全に停止せずに格納容器が破損したために放射能は大気へ拡散されたままの状態になった。

テロリストや他国の攻撃は想定していた。しかし、字の如くの天災には人間は無力だった。結果として福島の事故時の数十倍の放射能が 放出された。その影響は隣国に及び日本も例外ではなかった。

しかし、この事態で代替エネルギー利用が一歩進む形になっていた日本は優位になった。

日本で発展した、地熱発電や潮流発電はもとより消費を減らすDC家電は世界中に広まった。

震災は日本を再び経済大国にする道を造ったのだ。

2011年4月3日    「日本浮上」

大松 右京Jr. 作

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