ニューヨーク移民の歴史的背景

新大陸として発見されるまでアメリカはNative Americanの国で、現在アメリカに住むNative American以外の民族は全て他国からの移民です。

海の上のピアニストでも移民の受入れ口となっていたニューヨークは移民の歴史の街です。
新大陸発見後、ヨーロッパからアメリカを訪れた人で歴史的に記録に残っている代表的な人物は

1524年4月17日フランスのフランシス1世の命により、アメリカ東海岸を探検中にニューヨークに立ち寄ったイタリア人のジョバンニ・ダ・ヴェラザノ(Giovanni da Verrazano)。
ブルックリンとスタテン島の間の海峡を航行したため、この海峡は、Verrazano Narrowと命名されブルックリンとスタテン島の間にかかる橋はヴェラザノ・ブリッジと呼ばれています。
1526年スペイン国王チャールズ5世の命によりハドソン川河口に立ち寄ったポルトガル人のエステバン・ゴメス(Esteban Gomez)。
1609年9月2日オランダ人に雇われてマンハッタン島を探検したイギリス人ヘンリー・ハドソン(Henry Hudson)。ハドソン川はこの人の名前からつけられています。



この3人が訪れたあと、最初にアメリカに入植を果たしたのはオランダ人でオランダ西インド会社(The Dutch West India Company)を設立しました。

ニューヨークは当時ニューネーデルランド(新しいオランダ)と呼ばれていました。この会社はアフリカ(ジャカルタ、ケープタウン)から奴隷としてアフリカ人を連れてきました。

ニューネーデルランド二代目の総督、ピーター・ミニュイット(Peter Minuit)は、ネイティブ・アメリカンからマンハッタン島を、わずか24ドルで買い取りました。アルゴンキン族(ネイティブ・アメリカン)は、マンハッタン島を使用する権限を与えたつもりであったのですが、オランダ人は買い取ったと主張しています。

オランダ人の入植支配の歴史は、1628年オランダ改革派教会(The Dutch Reformed Church)設立から始まり1629年には入植を進めるために、パトローンシップ(patroonship…マンハッタン以外の地に50人以上の入植者を連れていくことを条件に、その場所の農場に耕作する権利を付与するというものでhomesteadの前身となるもの)を確立しました。

1634年オランダ人のブルックリンへの入植が始まり、1639年にはスタテン島に最初の入植者が入り、西インド会社はブロンクスの土地を購入します。
1642年クイーンズへの入植も開始されますが、1643年には1641年から始まったネイティブ・アメリカンとの間の緊張関係(オランダからの入植者に叔父を殺害されたネイティブ・アメリカンの若者が殺害された事件がきっかけ)が高まっていきます。
1647年西インド会社がキュラソーから連れてきたピーター・スタイブサント(Peter Stuyvesant)、総督となり、商業による利益を保護するために改善策などを打ち出し、入植者とネイティブ・アメリカンとの関係も落ち着きを取り戻します。(しかし、このピーター・スタイブサントは1654年にユダヤ人を、そしてクェーカー教徒を排除しようとする政策もうちだします)
1653年ニューネーデルランドをニューアムステルダムとし、英国の進攻をおそれ、イーストリバーからハドソンリバーまでの間に、全長2340フィート、高さ9フィートの壁が築かれます。
1654年23人のユダヤ人が北部ブラジルのポルトガル植民地から難民として逃れて来て、ユダヤ人最初の入植者となります。
1655年オランダ人入植者が、彼の農園から桃を盗んだネイティブ・アメリカン女性を殺害したことが原因で3日間にわたる戦争が勃発しました(桃戦争…Peach War)。
1658年オランダ人はハーレムに入植。もともとハーレムというのは、オランダの街の名前(Haarlem)で、オランダ人はこの名前をマンハッタン島北部につけました。

1664年英国は、ニューアムステルダムを占領し、名前をイギリス国王の兄弟のヨーク公からとり、ニューヨークとします。
ここでオランダからの支配は終わり、変わって英国の支配が始まります。
1665年初代市長にThomas Willetが任命され、1670年には最初の商品取引所が開設されました。
1685年入植者の代表を選出して、税や裁判のしくみを決めることを定めたり、あるいは信仰の自由を認めました。1698年のニューヨークの人口は4937人になります。
1725年イギリス政府の公式出版物として初めての新聞、New York Gazetteが発刊され、1733年には、週刊誌、New York Weekly Journal(代表John Peter Zenger)が発刊されました。New York Weekly Journalの記事の内容がNew York Gazetteのものに反対するものが多かったため、裁判になりましたが、John Peter Zengerの弁護士Andrew Hamiltonは真実を書いて発行しているものを罪に問うべきではないと主張し勝訴したことにより、言論の自由が確立されていきました。


1754年にはコロンビア大学の前身キングス・カレッジが設立されます。

18世紀後半になると、イギリス政府は植民地からの税収を増加するための政策をとっていきますが、そうした政策は入植者たちの反感を買い、イギリスと入植者の間に争いが起き、ついにはイギリスはニューヨークにおける支配権を失います。(イギリスがニューヨークから撤退した日を「Evacuation Day」と呼び、ここから入植者たちによる統治がはじまります)

<移民の歴史>

エリス島(Eris Island)
ニューヨークにある、自由の女神が建つLiberty Islandという人工島の南側にあるエリス島は1892年から1954年にかけての約50年間、北米大陸への移民の玄関口でした。
ここはかつて、世界の各地からアメリカにやってくる移民者のうち、下級船室の乗客達の受け入れのための移民局があった場所です。 マンハッタンの南に浮かぶエリス島には、1892年から1954年まで移民局入国審査所が設置されていました。
面積はわずか11ha ですが、その間にここを通過した人は1200万にも上ります。最盛期には、日に5000人を数えたヨーロッパからの移民も1924年の移民制限法で、一時は移民の流入少なくなりましたが、第二次大戦後再びヨーロッパ系移民に代わって、ラテン・アメリカやカリブ、アジア、中東などからの増加が始まります。(現在、ニューヨーク市民の4人に1人は外国生まれ)
この移民局は1990年からはエリス島移民博物館として公開されています。

アイルランド人
17世紀から始まったアイルランド移民は19世紀の末には、ニューヨーク市民の4人に1人がアイルランド人だったといわれます。彼らはカトリック教会の勢力拡大に大きく貢献し五番街のセント・パトリック大聖堂に祀られているのはアイルランド人の守護聖人です。

ドイツ人
1848年からドイツ三月革命の失敗やプロイセンに敷かれた徴兵法から逃れるため、多くのドイツ人がアメリカに移住しました。現在のイースト・ヴィレッジのトンプキンズ・スクエアは、「小ドイツ」と呼ばれたドイツ人居住区でした。現在ではドイツ語を話す移民は少ないそうです。

イタリア人
1870年以降、主に南イタリアやシチリア島から多くの移民がやって来ました。家族や地域社会に深い愛着を持ちレストラン、建設業、トラック運送業で着実に暮らしを築いていきました。マンハッタン南部のマルベリー通りを中心としたリトル・イタリーは、初期の移民たちが築いた町です。

ユダヤ人
1880年から1910年にかけての約30年間に、およそ150万人ものユダヤ人がニューヨークに渡ってきました。現在のロウワー・イースト・サイドに住み着き、一時はこの地区の最大勢力となりました。カナル通りの近くにあるエルドリッジ・ストリート・シナゴークは、ユダヤ人たちがニューヨークに建てた最初の大型ユダヤ教会です。

中国人
約50万人いるニューヨーク在住アジア人のうち、70%に当たる36万人が中国人です。南北戦争後に渡ってきたのは主に広東人で、鉄道建設現場や鉱山で肉体労働に従事しました。1980年代以降は香港や上海、台湾からの移民が急増しロウワー・イースト・サイドにあるチャイナタウンやクイーンズに暮らしています。

アフリカ系アメリカ人
現在、ニューヨークの人口の約4分の1に当たる175万人がアフリカ系アメリカ人です。彼らの多くは、今世紀に入って主にアメリカ南部から移住してきた人たちですが、ここ20年間はカリブ海諸国からの移住者も多くいます。黒人たちの中には、社会で成功して中流以上の生活レベルを維持している人たちがいる一方、マンハッタンのハーレムやブルックリンのベドフォード-スタイヴェサントなどには、失業やホームレスといった深刻な貧困状況を脱しきれずにいる人たちもいます。

東ヨーロッパからの移民
第一次大戦前の移民は、ウクライナ人、ポーランド人、リトアニア人など東欧の少数民族たちでした。1917年のロシア革命以後もそれほど多くはなかったロシア人は、第二次大戦の後から急増し、1987年のソビエト崩壊以後も増加しブルックリンに定着しています。

ラテン・アメリカからの移民
1990年の時点で、ニューヨークのラテン・アメリカ出身者の数は178万人。その数はアフリカ系アメリカ人と同じくらい。とくに多いのはプエルト・リコ人で、半数以上を占めています。1917年からプエルト・リコはアメリカの自由連合州になったため、ビザなしで自由に行き来できるようになったのが理由です。プエルト・リコ人が集中しているのはブロンクスと、マンハッタンのイースト・ハーレム(通称スパニッシュ・ハーレム)などです。プエルト・リコ人以外にも、キューバ人、ドミニカ人、コロンビア人など南米出身者が多くいます。


北大西洋を旅した船

<海の上のピアニストの時代の大西洋横断航路をぬけた客船>
1807年 ロバート・フルトンによる蒸気船クレモント号が完成
1819年 サヴァナ号が最初の大西洋横断航海を25日間で達成、ただし、648時間のうち548時間は帆走しました。
1838年 蒸気船が初めて北大西洋航路に登場します。当時は大西洋の横断におよそ2週間以上掛かりました。
シリアス号(英)700トン コーク―ニューヨーク 18日間と10時間 6・7ノット グレート・ウェスタン号(英)1340トン エイボンマウス―ニューヨーク(15日間と10時間半) 8・7ノット
1840年 キュナード・ラインの最初の船ブリタニア号が就航します(1,135トン 10・7ノット)ハリファックス―リバプール(10日間) 外輪船。英国グレート・ブリテン号(最初の鉄船)就航
1845年 初めてスクリュー船が出現します。ホワイト・スター・ラインの創業します。
1849年 カナダ号(英)1831トン ボストン―リバプール(9日間と22時間)12・2ノット
1850年 このころから3,000トンクラスの船が就航するようになりました。
1852年 アークティック号(米)2856トン ニューヨーク―リバプール(9時間と17時間15分)13・2ノット
1856年 ペルシア号(英)3300トン ニューヨーク―リバプール(9日間と5時間) 13・9ノット
1864年 スコウシア号(英)3871トン クイーンズタウン―ニューヨーク(8日間と4時間35分)14・5ノット
1871年 ホワイト・スター・ライン社が汽船運航を開始します。
1873年 ホワイト・スター・ラインの客船アトランティック号(3,707トン)カナダ・ノバスコシア半島の ハリファックス南方の海岸に激突、死者562人を出しました。アトランティック号は3月20日リバプールを出港、ニューヨークを目指しましたが、途中嵐のため石炭の消費がかさみ途中のハリファックスへ寄港して石炭を補充することにしたときの事故です。
バルティック号(英)3707トン ニューヨーク―クイーンズタウン(7日間と20時間9分)15・1ノット
1875年 ホワイト・スター・ラインの初期の客船ジャーマニック号就航(5,008トン 15ノット)
1876年 ジャーマニック号(英) 5008トン ニューヨーク―クイーンズタウン(7日間と8時間11分) 16・0ノット
1879年 アリゾナ号(英) 5147トン ニューヨーク―クイーンズタウン(7日間と15時間17分)15・8ノット
1880年 電灯と冷凍庫が客船に導入されます。(それまでの照明は油ランプやロウソク)
1882年 アラスカ号(英) 6932トン ニューヨーク―クイーンズタウン(6日間と18時間38分)17・2ノット
1884年 キュナード・ライン社の客船アンブリア号就航(7,718トン 19ノット)
このころまではスクリューが1つだけだったため、エンジンやスクリューなどのどこかが故障すると船は動けなくなり、当時はまだ無線が無かったため故障すると他の船に出あうまで何日も洋上を漂っていなければなりませんでした。
オレゴン号(英)7375トン ニューヨーク―クイーンズタウン(6日間と11時間9分)18・4ノット
1887年 エトルリア号(英)7718トン  ニューヨーク―クイーンズタウン(6日間と4時間36分)19・5ノット
1889年 ホワイト・スター・ラインの客船テュートニック号就航(9,984トン 19・5ノット)
このころからスクリューが2つ装備されるようになります。
1891年 テュートニック号(英)9984トン クイーンズタウン―ニューヨーク(5日間と16時間31分)20・4トン
1894年 ルカニア号(英)12952トン ニューヨーク―クイーンズタウン(5日間と8時間38分)22・0ノット
1897年 カイザー・ビルヘルム・デア・グローセ号(独)14349トン ニューヨーク―サウサンプトン(5日間と18時間40分)22・4ノット
1899年 ホワイト・スター・ラインの客オーシアニック号就航(17,272トン 19・5ノット)当時世界最大の客船です。この時期ドイツでは大西洋横断平均速力22・4ノットを記録しました。
1901年  ドイッチュラント号(独)16502トン ニューヨーク―プリマス(5日間と11時間5分)23・5ノット
1907年 キュナード・ライン社ルシタニア号とモレタニア号は25ノットの高速で大西洋を5日以内で横断するようになります。ルシタニア号(英)31550トン クイーンズタウン―ニューヨーク(4日間と19時間52分)24・0ノット
1909年 ルシタニア号(英)31550トン クイーンズタウン―ニューヨーク(4日間と11時間42分)25・9ノット モレタニア号(英)31938トン クイーンズタウン―ニューヨーク(4日間と10時間52分)26・1ノット
1911年 オリンピック号 ホワイト・スター・ライン(英国)45,324トン 全長268.8 22ノット
1911年9月20日サウサンプトン港でオリンピック号と巡洋艦ホークとが衝突事故をおこします。
1911年 オリンピック号 ホワイト・スター・ライン(英国)45,324トン 全長268.8 22ノット
1912年 タイタニック号 ホワイ・トスター・ライン(英国)46,328トン 全長268.8 22ノット
1912年 ブリタニック号 ホワイ・トスター・ライン(英国)
ルシタニア級のスピードに対して、豪華さ、運航サービスの質の高さで対抗しようとしました。(ルシタニアも第1級の 華客船でした)タイタニックの遭難後、オリンピックは船体側面の2重構造化、救命ボート増備の大改装工事を行なって再就航しています。ブリタニック号は、当初ジャイガンティック号(gigantic 「巨人のような」の意)と命名される予定でしたが、タイタニックの遭難後、「ブリタニック」に変更されました。 このブリタニック号は、完成しないうちに第1次大戦となり、戦争中病院船として働いている途中で,エーゲ 海で機雷に触れて沈没し、一度も客船として就航できませんでした。
1913年 インペラトール号 ハパグ(ドイツ)52,117トン 全長280.1 23ノット
1914年 ファーターラン号 ハパグ(ドイツ)54,282トン 全長289.6 23ノット
スピードは適度に抑え、大型化によるメリットを狙って建造された豪華客船です。 ドイツのハンブルク・アメリカン・ライン(ハパグ 社)が就航させたのですが、間もなく第1次大戦となったため、ドイツの船として活躍できた期間は短く、 戦後賠償品としてインペラトールは英国のキュナード 社へ、ファーターラントはアメリカのユナイテッド・ ステーツ・ラインズへ渡り,それぞれ第2の船主のもとで北大西洋横断航路に就きました。
1914年 アキタニア号 キュナード・ライン(英国)45,64トン7 全長274.6 23ノット
キュナード・ラインが、ルシタニア、モレタニアとトリオを組んで運航するために建造しました。 第一次、第二次大戦を無事に生き抜いて1950年まで活躍しました
1916年 エーゲ海でドイツ軍の機雷に触れブリタニック号は沈没します。
1918年 オリンピック号はドイツ海軍Uボート(U−103)の魚雷攻撃をかわし体当たり攻撃しUボー トが沈没します。
1929年 ブレーメン号(独)51656トン ニューヨーク―プリマス(4日間14時間30分)27・9ノット
1933年 レックス号(伊)51062トン ジブラルタル―ニューヨーク(4日間と13時間58分)28・9ノット
第一次世界大戦をはさみ1934年にホワイト・スター・ライン社はキュナード社と合併し事実上姿をけします。
その後客船はさらに大きくなり8万トンクラスの船が出現します。速度も20ノット台後半から30ノットを超えるようになり4日で大西洋を横断できるようになります。
1936年 キュナード・ホワイト・スター社クイーン・メリー号就航(80,774トン 29ノット 大西洋横断スピード記録達成時の平均速力31・7ノット)。フランスのノルマンディー号(83,423トン)とのスピードを競います。ノルマンディー号(仏)79289トン ニューヨーク―ビショップ岩礁(4日間と3時間28分)30・3ノット クイーン・メリー号(英)80774トン ニューヨーク―ビショップ岩礁(3日間と23時間57分)30・3ノット
1937年 ノルマンディー号(仏)83423トン ニューヨーク―ビショップ岩礁(3日間と22時間7分)31・2ノット
1938年 クイーン・メリー号(英)80774トン ニューヨーク―ビショップ岩礁(3日間と20時間42分)31・7ノット
1939年 第二次世界大戦勃発
多くの客船が軍用に使われました。クイーン・メリーと準姉妹船のクイーン・エリザベス(83,673トン)は、一度に最大1万5千人以上の兵士をアメリカやオーストラリアからヨーロッパの戦場へと繰返し運びました。30ノットの高速で疾走し、ドイツの潜水艦Uボートをしても捕捉できませんでした。

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