1524年4月17日 | フランスのフランシス1世の命により、アメリカ東海岸を探検中にニューヨークに立ち寄ったイタリア人のジョバンニ・ダ・ヴェラザノ(Giovanni da Verrazano)。 ブルックリンとスタテン島の間の海峡を航行したため、この海峡は、Verrazano Narrowと命名されブルックリンとスタテン島の間にかかる橋はヴェラザノ・ブリッジと呼ばれています。 |
1526年 | スペイン国王チャールズ5世の命によりハドソン川河口に立ち寄ったポルトガル人のエステバン・ゴメス(Esteban Gomez)。 |
1609年9月2日 | オランダ人に雇われてマンハッタン島を探検したイギリス人ヘンリー・ハドソン(Henry Hudson)。ハドソン川はこの人の名前からつけられています。 |
1634年 | オランダ人のブルックリンへの入植が始まり、1639年にはスタテン島に最初の入植者が入り、西インド会社はブロンクスの土地を購入します。 |
1642年 | クイーンズへの入植も開始されますが、1643年には1641年から始まったネイティブ・アメリカンとの間の緊張関係(オランダからの入植者に叔父を殺害されたネイティブ・アメリカンの若者が殺害された事件がきっかけ)が高まっていきます。 |
1647年 | 西インド会社がキュラソーから連れてきたピーター・スタイブサント(Peter Stuyvesant)、総督となり、商業による利益を保護するために改善策などを打ち出し、入植者とネイティブ・アメリカンとの関係も落ち着きを取り戻します。(しかし、このピーター・スタイブサントは1654年にユダヤ人を、そしてクェーカー教徒を排除しようとする政策もうちだします) |
1653年 | ニューネーデルランドをニューアムステルダムとし、英国の進攻をおそれ、イーストリバーからハドソンリバーまでの間に、全長2340フィート、高さ9フィートの壁が築かれます。 |
1654年 | 23人のユダヤ人が北部ブラジルのポルトガル植民地から難民として逃れて来て、ユダヤ人最初の入植者となります。 |
1655年 | オランダ人入植者が、彼の農園から桃を盗んだネイティブ・アメリカン女性を殺害したことが原因で3日間にわたる戦争が勃発しました(桃戦争…Peach War)。 |
1658年 | オランダ人はハーレムに入植。もともとハーレムというのは、オランダの街の名前(Haarlem)で、オランダ人はこの名前をマンハッタン島北部につけました。 |
1664年 | 英国は、ニューアムステルダムを占領し、名前をイギリス国王の兄弟のヨーク公からとり、ニューヨークとします。 ここでオランダからの支配は終わり、変わって英国の支配が始まります。 |
1665年 | 初代市長にThomas Willetが任命され、1670年には最初の商品取引所が開設されました。 |
1685年 | 入植者の代表を選出して、税や裁判のしくみを決めることを定めたり、あるいは信仰の自由を認めました。1698年のニューヨークの人口は4937人になります。 |
1725年 | イギリス政府の公式出版物として初めての新聞、New York Gazetteが発刊され、1733年には、週刊誌、New York Weekly Journal(代表John Peter Zenger)が発刊されました。New York Weekly Journalの記事の内容がNew York Gazetteのものに反対するものが多かったため、裁判になりましたが、John Peter Zengerの弁護士Andrew Hamiltonは真実を書いて発行しているものを罪に問うべきではないと主張し勝訴したことにより、言論の自由が確立されていきました。 |
1807年 | ロバート・フルトンによる蒸気船クレモント号が完成 |
1819年 | サヴァナ号が最初の大西洋横断航海を25日間で達成、ただし、648時間のうち548時間は帆走しました。 |
1838年 | 蒸気船が初めて北大西洋航路に登場します。当時は大西洋の横断におよそ2週間以上掛かりました。 シリアス号(英)700トン コーク―ニューヨーク 18日間と10時間 6・7ノット グレート・ウェスタン号(英)1340トン エイボンマウス―ニューヨーク(15日間と10時間半) 8・7ノット |
1840年 | キュナード・ラインの最初の船ブリタニア号が就航します(1,135トン 10・7ノット)ハリファックス―リバプール(10日間) 外輪船。英国グレート・ブリテン号(最初の鉄船)就航 |
1845年 | 初めてスクリュー船が出現します。ホワイト・スター・ラインの創業します。 |
1849年 | カナダ号(英)1831トン ボストン―リバプール(9日間と22時間)12・2ノット |
1850年 | このころから3,000トンクラスの船が就航するようになりました。 |
1852年 | アークティック号(米)2856トン ニューヨーク―リバプール(9時間と17時間15分)13・2ノット |
1856年 | ペルシア号(英)3300トン ニューヨーク―リバプール(9日間と5時間) 13・9ノット |
1864年 | スコウシア号(英)3871トン クイーンズタウン―ニューヨーク(8日間と4時間35分)14・5ノット |
1871年 | ホワイト・スター・ライン社が汽船運航を開始します。 |
1873年 | ホワイト・スター・ラインの客船アトランティック号(3,707トン)カナダ・ノバスコシア半島の ハリファックス南方の海岸に激突、死者562人を出しました。アトランティック号は3月20日リバプールを出港、ニューヨークを目指しましたが、途中嵐のため石炭の消費がかさみ途中のハリファックスへ寄港して石炭を補充することにしたときの事故です。 バルティック号(英)3707トン ニューヨーク―クイーンズタウン(7日間と20時間9分)15・1ノット |
1875年 | ホワイト・スター・ラインの初期の客船ジャーマニック号就航(5,008トン 15ノット) |
1876年 | ジャーマニック号(英) 5008トン ニューヨーク―クイーンズタウン(7日間と8時間11分) 16・0ノット |
1879年 | アリゾナ号(英) 5147トン ニューヨーク―クイーンズタウン(7日間と15時間17分)15・8ノット |
1880年 | 電灯と冷凍庫が客船に導入されます。(それまでの照明は油ランプやロウソク) |
1882年 | アラスカ号(英) 6932トン ニューヨーク―クイーンズタウン(6日間と18時間38分)17・2ノット |
1884年 | キュナード・ライン社の客船アンブリア号就航(7,718トン 19ノット) このころまではスクリューが1つだけだったため、エンジンやスクリューなどのどこかが故障すると船は動けなくなり、当時はまだ無線が無かったため故障すると他の船に出あうまで何日も洋上を漂っていなければなりませんでした。 オレゴン号(英)7375トン ニューヨーク―クイーンズタウン(6日間と11時間9分)18・4ノット |
1887年 | エトルリア号(英)7718トン ニューヨーク―クイーンズタウン(6日間と4時間36分)19・5ノット |
1889年 | ホワイト・スター・ラインの客船テュートニック号就航(9,984トン 19・5ノット) このころからスクリューが2つ装備されるようになります。 |
1891年 | テュートニック号(英)9984トン クイーンズタウン―ニューヨーク(5日間と16時間31分)20・4トン |
1894年 | ルカニア号(英)12952トン ニューヨーク―クイーンズタウン(5日間と8時間38分)22・0ノット |
1897年 | カイザー・ビルヘルム・デア・グローセ号(独)14349トン ニューヨーク―サウサンプトン(5日間と18時間40分)22・4ノット |
1899年 | ホワイト・スター・ラインの客オーシアニック号就航(17,272トン 19・5ノット)当時世界最大の客船です。この時期ドイツでは大西洋横断平均速力22・4ノットを記録しました。 |
1901年 | ドイッチュラント号(独)16502トン ニューヨーク―プリマス(5日間と11時間5分)23・5ノット |
1907年 | キュナード・ライン社ルシタニア号とモレタニア号は25ノットの高速で大西洋を5日以内で横断するようになります。ルシタニア号(英)31550トン クイーンズタウン―ニューヨーク(4日間と19時間52分)24・0ノット |
1909年 | ルシタニア号(英)31550トン クイーンズタウン―ニューヨーク(4日間と11時間42分)25・9ノット モレタニア号(英)31938トン クイーンズタウン―ニューヨーク(4日間と10時間52分)26・1ノット |
1911年 | オリンピック号 ホワイト・スター・ライン(英国)45,324トン 全長268.8 22ノット |
1911年9月20日 | サウサンプトン港でオリンピック号と巡洋艦ホークとが衝突事故をおこします。 |
1911年 | オリンピック号 ホワイト・スター・ライン(英国)45,324トン 全長268.8 22ノット |
1912年 | タイタニック号 ホワイ・トスター・ライン(英国)46,328トン 全長268.8 22ノット |
1912年 | ブリタニック号 ホワイ・トスター・ライン(英国) ルシタニア級のスピードに対して、豪華さ、運航サービスの質の高さで対抗しようとしました。(ルシタニアも第1級の 華客船でした)タイタニックの遭難後、オリンピックは船体側面の2重構造化、救命ボート増備の大改装工事を行なって再就航しています。ブリタニック号は、当初ジャイガンティック号(gigantic 「巨人のような」の意)と命名される予定でしたが、タイタニックの遭難後、「ブリタニック」に変更されました。 このブリタニック号は、完成しないうちに第1次大戦となり、戦争中病院船として働いている途中で,エーゲ 海で機雷に触れて沈没し、一度も客船として就航できませんでした。 |
1913年 | インペラトール号 ハパグ(ドイツ)52,117トン 全長280.1 23ノット |
1914年 | ファーターラン号 ハパグ(ドイツ)54,282トン 全長289.6 23ノット スピードは適度に抑え、大型化によるメリットを狙って建造された豪華客船です。 ドイツのハンブルク・アメリカン・ライン(ハパグ 社)が就航させたのですが、間もなく第1次大戦となったため、ドイツの船として活躍できた期間は短く、 戦後賠償品としてインペラトールは英国のキュナード 社へ、ファーターラントはアメリカのユナイテッド・ ステーツ・ラインズへ渡り,それぞれ第2の船主のもとで北大西洋横断航路に就きました。 |
1914年 | アキタニア号 キュナード・ライン(英国)45,64トン7 全長274.6 23ノット キュナード・ラインが、ルシタニア、モレタニアとトリオを組んで運航するために建造しました。 第一次、第二次大戦を無事に生き抜いて1950年まで活躍しました |
1916年 | エーゲ海でドイツ軍の機雷に触れブリタニック号は沈没します。 |
1918年 | オリンピック号はドイツ海軍Uボート(U−103)の魚雷攻撃をかわし体当たり攻撃しUボー トが沈没します。 |
1929年 | ブレーメン号(独)51656トン ニューヨーク―プリマス(4日間14時間30分)27・9ノット |
1933年 | レックス号(伊)51062トン ジブラルタル―ニューヨーク(4日間と13時間58分)28・9ノット 第一次世界大戦をはさみ1934年にホワイト・スター・ライン社はキュナード社と合併し事実上姿をけします。 その後客船はさらに大きくなり8万トンクラスの船が出現します。速度も20ノット台後半から30ノットを超えるようになり4日で大西洋を横断できるようになります。 |
1936年 | キュナード・ホワイト・スター社クイーン・メリー号就航(80,774トン 29ノット 大西洋横断スピード記録達成時の平均速力31・7ノット)。フランスのノルマンディー号(83,423トン)とのスピードを競います。ノルマンディー号(仏)79289トン ニューヨーク―ビショップ岩礁(4日間と3時間28分)30・3ノット クイーン・メリー号(英)80774トン ニューヨーク―ビショップ岩礁(3日間と23時間57分)30・3ノット |
1937年 | ノルマンディー号(仏)83423トン ニューヨーク―ビショップ岩礁(3日間と22時間7分)31・2ノット |
1938年 | クイーン・メリー号(英)80774トン ニューヨーク―ビショップ岩礁(3日間と20時間42分)31・7ノット |
1939年 | 第二次世界大戦勃発 多くの客船が軍用に使われました。クイーン・メリーと準姉妹船のクイーン・エリザベス(83,673トン)は、一度に最大1万5千人以上の兵士をアメリカやオーストラリアからヨーロッパの戦場へと繰返し運びました。30ノットの高速で疾走し、ドイツの潜水艦Uボートをしても捕捉できませんでした。 |
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