ホロコーストについて Vol.1



<はじめに>
ホロコースト、ショアー、ジェノサイド

このように表現される歴史上の出来事。
1933年1月30日にアドルフ・ヒトラーがドイツ共和国宰相に任命されてから第二次世界大戦下でくりひろげられた迫害、殺戮の数々。
学校で歴史の時間に触れられたことや、アンネ・フランクの伝記、映画『シンドラーのリスト』などで、ユダヤ人とホロコーストについてはなんとなくは知っているようなつもりでいました。

でも、『生きるために』に出てきたジプシーの収容者やカポ、ギリシャ人と呼ばれるギリシャ系ユダヤ人、囚人服をきた楽団や労働収容所(これは『ライフ・イズ・ビューティフル』にも描かれていました)、『ベント』で表現された同性愛者にたいする迫害、強制収容所と言えばアウシュヴィッツやベルゲン・ベルゼンと思っていたところにあらわれた『愛と哀しみのボレロ』でメイヤー夫妻たちが収容されたマウトハウゼン強制収容所、『マイ・リトルガーデン』や『聖なる嘘つき』で描かれたゲットー、『ゴールデン・ボーイ』でイアン・マッケランが演じた元アウシュヴィッツ副所長など、いろいろな映画の中に登場する元ナチの戦犯。地下組織の存在。

『シンドラーのリスト』の中の収容所内の軍事産業や労働収容所。スピルバーグが『シンドラーのリスト』と並行して作った『シンドラーのリストの真実』(ショア財団も設立)やドイツ作品の『オスカー・シンドラー』というドキュメンタリー作品。

ふとしたきっかけで観た映画の中に、なんだか知らないことがたくさんあることに気付いて(それどころか、何も知らないのに等しいのではないかということを感じて)知りたいという気持ちになりました。

ユダヤ人のほかにもたくさんの人たちが様々な理由で迫害されたこと、数々の強制収容所や絶滅収容所の存在。収容所内の労働収容所、労働キャンプ、軍需工場、抵抗運動など。そして何よりも、はじめはこんな狂気にみちた事に進んでいくとは誰も思ってはいなかったこと。一部の人たちを除いては加害者も被害者も普通の人たちだったことです。

関連のHPや書籍、実際に被害にあった人たちが伝えてくることは、おこった事を風化させてはいけない。何時、また起こるともかぎらないこのことを他人ごととは思わないで、語る事によって伝えていってほしいというものでした。

ホロコーストについて Vol.1

<ホロコーストの対象となった人たち>
ホロコーストって聞くと、イコール、ユダヤ人と思ってしまっていたのですが、犠牲者すべてを考えると、ほかに占める割合がとても多かったことにも気がつきました。

ユダヤ人の他にもジプシー、同性愛者、ポーランド人、スラブ人、反社会分子、政治犯、戦争捕虜、占領地での民間人、安楽死対象者などたくさんの人たちがいたのです。

どんな人たちが、どんな理由で、どのような形で迫害されていったのかということが知りたくなりました。

ユダヤ人

ジプシー(ロマ)
ジプシーはインド北部に源を発するアーリア民族です。しかし、ヒトラーは彼らをアーリア人とはほど遠い雑種であると定義し下等なものとして迫害します。
1939年当時ヨーロッパに75万暮らしていたジプシーのうち約26万人が終戦までに虐殺されています。 (ハンガリーとクロアチアのジプシーは一人残らず犠牲になったそうです)
アウシュヴィッツをはじめとして1944年まではジプシーは専用の収容所に拘留されました。

同性愛者
ヨーロッパ諸国では数百年もまえから同性愛を違法としてきましたが、ワイマール共和国時代には同性愛を擁護する本が書かれたり、大都市にはゲイバーがありました。
しかし、ヒトラーはドイツ人の同性愛者に対してアーリア人の人口増加を妨げる悪行として激しく迫害をくわえます。同じ同性愛者でもスラヴ人は下等な人種の行ないとしてドイツ人の同性愛者とは別に扱われたそうです。
ナチスのジェノサイドで命を失った同性愛者は100万人とも伝えられています。

スラヴ人
ヒトラーはスラヴ人を最も低級なものたちとして定義し、迫害をします。ポーランド人の他にも1941年のソ連侵攻後6ヶ月の戦闘期間に330万人のソ連兵が捕虜となり、そのうち200万人が犠牲になっています。ドイツ軍は1941年6月から1945年2月までに570万人のソ連国民を捕虜とし、そのうち330万人が強制労働や虐殺によって犠牲になっています。

安楽死対象者 
「安楽死計画 T-4作戦」は身体障害者、てんかん患者、精神薄弱者、精神障害者、廃疾者、奇形者、アルコール中毒者などの成人男女、子供たちを安楽死という名のもとで絶滅させていくものでした。同じドイツ人であっても、優秀と定義するアーリア人だけを残すという政策の中では絶滅の対象者とされてしまったのです。

この他にアーリア人以外の民族、エホバの証人、聖職者、政治犯、反社会分子、戦争捕虜などです。

また1933年には強制断種が合法化され、20万人以上の人が断種手術を施されました。この初期の対象は第一次大戦後ドイツがフランス軍に占領されていた時期に、フランス植民地出身の黒人兵が残していった「ラインライトの私生児たち」でした。


<ユダヤ人迫害が絶滅収容所まで進んだのは何故だったのか? Vol.1>

ユダヤ人の迫害の歴史は中世のころからあって、反ユダヤ主義がヨーロッパを中心に根強くあったことはたしかな歴史なのだけど、何故、そこまで狂気に走っていったのでしょう?

1933年1月30日にアドルフ・ヒトラーがドイツ共和国宰相になったあと、まもなく1933年3月にはダッハウ収容所、オラニエンブルク収容所(のちのザクセンハウゼン収容所)、1936年6月3日にはブーヘンヴァルト収容所、1937年7月15日にはラーフェンスブリュック収容所、1938年5月3日にはフロッセンビュルク収容所、9月8日にはマウトハウゼン収容所が開設されますが、初期の収容者は共産党員、社会民主党員、労働組合員、左翼活動員、文化人などが占めていたようです。
またエホバの証人や「聖書研究会」の会員も(兵役を忌避することや、ヒトラーよりも神の意志に従っていることが原因と思われる)迫害の対象になります。そして同性愛者、半ユダヤ人(純粋なユダヤ人よりも混血のユダヤ人はさらに悪いと思われていました)が収容されるようになっていきます。

1939年までの時期、反社会分子的な活動をしたユダヤ人を除いては、ユダヤ人への迫害は、社会からの分離と追放が中心で、1935年9月15日に出された「ニュルンベルク法」によって、ユダヤ人である定義をされ、分離政策によって職業を制限され、公民権を奪われ、学校への入学も禁止されるという迫害をうけます。これはユダヤ人の歴史の中でも、初めて宗教的信条や慣習のためではなく、人種的特質によって迫害の対象者とされたことを意味するものでした。

1933年4月1日からドイツ各地でユダヤ人の会社や商店に対する排斥運動がはじまります。これは、アメリカなどでおきていたドイツ製品不買運動や諸外国からの批判に対するヒトラーの回答だったといわれます。

ドイツに居住するユダヤ人たちは、多少の差別はあっても自分たちにはドイツ人としての未来があると信じていて、ドイツ語を話し、多くのユダヤ人はキリスト教に改宗したり、非ユダヤ人と結婚している人も多数いました。
第一次世界大戦でもドイツのユダヤ人は人口の六分の一以上の10万人が出征しました。3万5000人が武勲によって勲章を受けましたが、この人たちも同じように迫害をうけました。

1933年の出来事としては、4月12日から行われたナチ・ドイツ学生同盟による非ドイツ人の本を排除していく行為が行われ、5月10日には、何千人というナチ支持の学生によって何十万冊という本が焼かれたことがあります。
焚書の対象となったユダヤ人の著作家にはアインシュタイン、フロイト、シュテファン・ツヴァイク。非ユダヤ人ではトーマス・マン、ジャック・ロンドン、ヘミングウェイ、共産主義者のマルクス、トロツキー、ローザ・ルクセンブルク、同性愛に関する研究のマグヌス・ヒルシュフェルト、アメリカのフェミニズム運動の活動家のマーガレット・サンガー、そして障害をもつものが書いたとしてヘレン・ケラーの著書も焼かれました。

この事件をアメリカのタイム誌は「ブビリオコースト」、ニューズウィーク誌は「ホロコースト(ユダヤ教において神前に供えられる焼かれた犠牲)」と報道しました。このホロコーストがこの後のナチのユダヤ人虐殺を指す言葉となります。

もうひとつの迫害は、ユダヤ人の国外追放です(ヒトラーはドイツ国内からユダヤ人をすべて追放することを目的に社会的、経済的な迫害をつづけたようです)。

1933年当時、ドイツには約50万人のユダヤ人が居住していました。1938年までに、迫害を逃れて約15万人の人が国外亡命をします。これによってドイツ国内のユダヤ人は35万人にまで減ります。

ところが、ドイツ軍の進軍によって1938年3月13日にオーストリアを併合するとによって、オーストリアのユダヤ人18万5000人を抱え込むことになってしまい。ことはふりだしにもどるどころか、さらに多くのユダヤ人を抱え込んでしまいます。
親衛隊将校アドルフ・アイヒマンの指揮でオーストリア系ユダヤ人の4分の1の国外追放に成功しますが、その後、1939年3月15日にボヘミア・モラヴィア合邦によって、さらに多くのユダヤ人を抱え込みます。1939年9月までに約14万人のユダヤ人がオーストリアから出国します。

ドイツは占領地を広げれば広げるほど、追放したいと思っている民族を何倍も抱え込むことになってしまったのです。そして、ユダヤ人たちも逃げるべき場所を失っていきました。

1938年7月にルーズベルト米大統領の提案によって32カ国の代表が国際的なユダヤ人を含めた難民問題を協議するためにエヴィアンで会議を開きました。ルーズベルト米大統領の提案ではあったものの、大統領は政府高官の出席を望まず、自分の友人である実業家のマイロン・C・テーラーを代表としました。各国代表も難民の苦況には同情を表明しながらも、その受け入れに対しては消極的なものでした。

イギリスは国土が狭いため難民を受け入れる余地がないということを述べ、ユダヤ人難民にパレスチナを開放することも拒否します。
オーストラリアは現在の自国に人種問題がないことを述べ、わざわざ問題を抱え込むわけにはいかないと受け入れを拒否。
カナダは不況のさなかで難民を受け入れるような状況にはないことを述べ、農民に限っては受け入れることを表明したが、ユダヤ人の中には行こうとするものがほとんどいなかった。
コロンビアはキリスト教文明の立場から、ベネズエラは人口統計学上の問題から難民の受け入れは拒否。
オランダとデンマークは少数の難民を一時的に受け入れると表明。
ドミニカ共和国は10万人の難民受け入れを表明したが、ユダヤ人でドミニカ共和国に移住した人はほとんどいなかった。
アメリカも移民の国でありながらユダヤ人難民の避難場所になることを積極的には好みませんでした。

1939年5月13日セントルイス号は936人のユダヤ人移民をのせてハンブルクを出発。キューバに向いました。5月27日ハバナ港につきますが、キューバ大統領は乗客のキューバ上陸許可を取り消し、乗客一名につき500ドルの分担金を要求、セントルイス号は上陸を断念します。その後、ベルギー、オランダ、イギリス、フランスが乗客の受け入れを申し出て936人のユダヤ人はドイツ脱出に成功しますが、このあと、ナチの西ヨーロッパ占領によって、結局はホロコーストを免れたユダヤ人はイギリスに上陸した288名だけでした。

ユダヤ人難民を受け入れたのは、アメリカが13万2000人、ラテンアメリカ諸国(メキシコ、アルゼンチン、コスタリカ、ブラジル、キューバ、コロンビア)が約8万人、イギリスはユダヤ人難民の子供1万人をうけいれました。

1939年9月ドイツ軍はポーランドに侵攻し、イギリス、フランス、にオーストラリア、 ニュージーランドがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が勃発します。

占領されたポーランドでは、ユダヤ人はもちろん、ポーランド人も迫害の対象となります。ポーランドの知識人階級、政府指導者、聖職者、反対分子の多くはワルシャワのパヴィアク刑務所と郊外のパウミリの森などで処刑されたり、ポズナンの第七要塞監獄で拷問を受けました。これによって、ポーランドは無力化していきます。ポーランドには200万人以上のユダヤ人が生活していました。

時を同じくして、1939年10月ドイツでは「安楽死計画 T-4作戦」が開始されます。この計画は身体障害者、てんかん患者、精神薄弱者、精神障害者、廃疾者、奇形者、アルコール中毒者などの成人男女、子供たちを安楽死という名のもとで絶滅させていくものでした。

この対象者はハルトハイム、ゾネンシュタイン、グラーフェネック、ベンブルク、ハーダマル、ブランデンブルクの6つの施設に移送されました。当初は餓死という消極的な方法がとられ、次ぎに致死量の鎮静剤による方法(子供などは絞殺など)、その後ガスによる方法がとられるようになりました。

この計画は1941年8月20日にプロテスタント、カトリック両教会からの警告をうけて公には中止をいいますが、実際には1945年までひそかに続けられ、強制収容所で労働不適格と判断された拘留者も犠牲になり、10万人以上が犠牲になったといわれます。

ダンケルクの戦いに勝利しパリを陥落させ、1940年6月フランスが占領下になったことで、ドイツが抱えたユダヤ人はさらにふくらみます。この頃、フランスには35万人のユダヤ人が生活していました。
その半分はドイツから逃れてきたユダヤ人でした。フランスではヴィシー政権のもと本国ドイツよりも厳しい反ユダヤ主義がとられ、ゲットーへの隔離後に強制収容所へと送られていきました。
またフランスではレジスタンスのとりしまりのため1941年12月7日に「夜と霧」政令がしかれ、レジスタンス闘士たちは抵抗分子として次々と逮捕され移送されました。

1940年5月10日ベルギーが侵攻されます。ベルギーには6万6000人のユダヤ人が生活していました。(1942年から1944年までに2万6500人のユダヤ人がメレヘンの移送収容所からアウシュヴィッツに送られています)

1940年5月ルクセンブルクが侵攻されます。ルクセンブルクには4500人のユダヤ人が生活していました。ルクセンブルクのユダヤ人たちはゲットー化した場所に追いやられ(800人はポーランドのウーチに移送され、その後ヘイノムの絶滅収容所に送られています)

1940年オランダも侵攻されます。オランダには14万人のユダヤ人が住んでいました。(1942年10月から強制移送がはじまり、11万人のユダヤ人が絶滅収容所に送られました)

ノルウェーには1900人のユダヤ人が生活をしていました。800人がアウュヴィッツに移送されましたが残りのユダヤ人は逮捕されるまえにスウェーデンに逃れることができました。

この後、ユダヤ人への迫害は1940年から1944年のゲットー化を通じて行われ、時を同じくしてユダヤ人以外のジプシー、スラヴ人などへの迫害も激しさをまします。

今回は、ここまでで.......

2001.2.25
ADU
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