この原稿は映画館主・Fさんの運営する「DAY FOR NIGTH」で組まれた特集「映画を読む」に送ったものです。
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「ネバーエンディング・ストーリー」は「はてしない物語」に何を見たのか


わたしが生まれた年1984年製作の「ネバーエンディング・ストーリー The NeverEnding Story」は79年に発表されたドイツの文学作家ミヒャエル・エンデの大ベストセラー「はてしない物語」をもとに2700万ドルの製作費をかけて作られたドイツ映画(資金面でアメリカが協力)です。

この頃ファンタジー小説は次々と映画化されています。J.R.R.トルキンの「指輪物語」(79年)がラルフ・パクシのアニメーションで、レイ・プラットベリーの「何かが道をやって来る」(83年)がデイズニーの劇映画で、「ダーク・クリスタル」(83年)がイギリスで人形を使って製作されています。

「はてしない物語」は、妻を亡くし心を閉ざし気味の父親と暮らす風体の冴えないいじめられっこのバスチアンが、一冊の本を手にしたことから、その本の中に書かれている物語にのめり込んでいきファンタージェンという本の中の世界と同化していきます。人間がファンタジーの世界を信じなくなったことで無の世界に侵食されていくファンタージェンの救い主となりファンタージェンの中で心の旅とも言える旅を続けます。ファンタージェンの中では数々のことが繰り広げられ、その中で信頼や欲望、希望や絶望、慈しみや過ちを経て困難の中から本当の自分を見つけて人間界にもどって来るというお話です。

この後「ネバーエンディング・ストーリー」は90年にアメリカで第二章が、そして94年に3がドイツ・アメリカの合作でつくられています。

この「ネバーエンディング・ストーリー」はエンデの信奉者、そして「はてしない物語」のファンの人たちに、ことの他評判が悪いものです。
それは何故なのか、そのほとんどは最終シーンについてですが全体を否定する声やスタッフに対する不満の声もあるようです。
その源になっているのは何か、映画化されることになった当初、エンデの考えていた脚本、監督他スタッフと制作者側が描いたそれが違ったことに対してエンデが抗議したこと。出来上がった作品の、特に最後のシーンが原作の趣旨をことごとく曲げているということで、そのシーンを変更するかもしくは自分の名前をクレジットからはずすようにという訴訟を起こしたこと(敗訴に終わっている)に発しているように思えます。

原作のあるものの映画化作品はその両方を知っていると原作の方に思い入れが多くなることが多々あります。わたしにもいくつかそういうものがあります。

でも、この作品に対するコケ降ろし方は尋常ではないような気もします。

それほどの愚作なのか。

かなり原作に忠実に作られていたこの作品が何故、最終シーンがあれほど違うものになったのか。
わたしはこの「はてしない物語」は大好きな物語のひとつですが、第1作の監督であるウォルフガング・ペーターゼンのファンでもあります。

そして原作を知っていても、この映画の最終シーンが一番好きなシーンでもあるのです。

わたしはこの「ネバーエンディング・ストーリー」を愚作だと思ったことは一度もありません。

この第1作はバスチアンが本の世界に没頭し、ファンタージェンの救いの主を求めて冒険を続ける草原の民の少年アトレーユを自分と重ね合わせて物語を通じて心の中で同じように冒険の旅を続け、傍観者として安全な道に逃げ込むことばかりていたバスティアンが自らの叫びで困難の中(ファンタージェン)に飛び込む勇気までを描き、そのあといろいろな冒険がありましたと結び、現代社会にファンルコン(原作ではフッフール)に乗って現れ、自分をいじめていた少年たちを追い回して終わります。

もちろん、この最後のシーンは原作にはありません。ファンタージェンに飛び込み、そのあとで現代社会に舞い戻って、こともあろうかファンタージェンに住むファルコンを人間界に連れてきて、自分の仕返しにつかうなんてとんでもない。この製作スタッフは原作の内容やファンタジーや理解していない。というわけですね。
原作を強く愛している人たちは激しくパッシングをします。
でも、何も知らずにこの映画を観た人はどうでしょうか?とても人にあたたかく作られた作品だと思うのです。
クラウス・ドルティンガーのファルコン飛翔のテーマ曲や最終シーンを観て胸躍らせた人も多いと思います。

わたしには、小学校の低学年の時いじめられっこだった頃があります。この頃この作品を観てファルコンにのったバスチィアンにワクワクして、自分にもこんなことがあったらと思いました。
でも、いじめを克服して、自分で立向かい自分の考えを話すことが出来るようになった時わかるのです。だれもがラッキードラゴンを心の中に持っているって。ファルコンに乗っていなくても、ファルコンと共に冒険が出来るということが。

だから、わたしはこの作品の最終のシーンは映像としては、あのような描写になっているけど、作品が描いているのは、勇気をもって行動をおこし冒険を終えたバスチアンがさもファルコンに乗っているように、いじめっこたちに立向かった姿をあのような形であらわしたのではないかなと思っています。また、この作品は「はてしない物語」の半分より少し前くらいの部分までなのですが、ペーターゼン監督はこの続きを次に残したのではなく撮るつもりはなかったのではないかと思います。ペーターゼン監督に聞いたわけではありませんが・・・(逢ってみたいです)。

長い原作がある場合どこを映画として表現するかという選択があると思います。
何を見せて何を伝えるか。
何を表現しないのか観せないのか、観せないことで何を伝えたいのか。

映像で表現するということは、本で書くということとは少し違うことだと思います。
本というのは特にフィクションやファンタジー、SF作品などは読み手の心のありかた、想像力にまかせた部分があります。文字や文章で表現された世界を頭の中で描き100人が同じものを読んでも同じ物語にはならない。だからこそ読む側も楽しいのです。文字を拾いながら頭の中で形をつくり想像の世界がひろがり文章と連動して夢中になっていく。それが本を読む楽しみだと思います。

でも、映画は違います。映像として見えたものが、音として伝わってきたものがストレートに視覚と脳裏に絵として伝わってくるのです。とらえかたは様々でも、視覚と聴覚に訴えた映像のもつインパクトは強いものです。
書く側の抗議はわかります。わたしだって文章を書く機会があり、自分の書いたものを愛しています。それが変えられようとしたりしたときには抗議をしたくなるでしょう。人々に愛された「はてしない物語」の作者としては当然のことだと思います。でも、それは書いた人と製作者側の問題です。

わたしたちに提示されたものは「ネバーエンディング・ストーリー」という映画であり、「はてしない物語」のコピーではないのです。

「ネバーエンディング・ストーリー」の映画化にたずさわった人たちが「はてしない物語」に何を観て何を感じて何を伝えようとしたのか。

この作品の冒頭、雲の流れからファンタージェンを描いた映像、ジョルジオ・モルダーの音楽にのせてリマールのネバーエンディング・ストーリーのテーマが流れてくる。これはとても幻想的な夢のある描写だったと思います。この1作目の撮影を担当したヨスト・バカーノはペーターゼンと組むのはこれが2回目、『Uボート』での臨場感あふれる映像は20年たって映像技術が進歩した今でも少しも褪せることのないものです。ヨスト・バカーノはこの後アメリカに渡りポール・バーホーベン監督のロボコップ、スターシップ・トゥルーパーズ、インビジブルなどほとんどの作品撮影を担当しています。
「はてしない物語」を映像で見せる時、これほど夢のある映像はこれまでほとんど無かったのではないかと思います。アニメや劇画ではない「はてしない物語」を表現するとき、本の中では夢あふれる登場人物でもファンタジーになるかカルトになるか紙一重のような気がします。
それをSFXを駆使し、それでいてあたたかみのあるファンタジーを表現したのは素晴らしいことだと思います。
原作を知らないでも、ファンタージェンという世界を感じることが出来るし、「はてしない物語」のもうひとりの主人公アトレーユを大好きになる、ファルコンに夢をのせて自分もバスチアンになれるそんな作品だとわたしは思います。

第二章は「ネバーエンディング・ストーリー」映画化の成功を受けてアメリカが版権を得て続きを作ったものです。監督はジョージ・ミラーでペーターゼン監督が描かなかった、物語ののこり半分を描いています。ただし、原作はかなり血なまぐさいものなのでかなり手を加えています。アメリカ映画となり、風景や生活習慣、お父さんやバスティアンの性格などもかなりアメリカ的なものに仕上がっています。
ファルコンやロックバイターなどは1の時とほぼ同じ。でも、ロックバイターの息子は(ゴジラの息子を彷彿とさせるイメージでした・・・3ではゴジラリトル的に変身)
この第二章は一作目で描かなかった、ファンタージェンの中に飛び込んでからのバスティアンのファンタージェンの再生の旅と破壊と人間界への帰還の部分を形を変えて作られています。バスチアンに与えられたアウリンはその持ち主の願いを叶えてくれるけど、願いごとをすると大切な思い出が消えていってしまうことと、バスチアンが甘美な誘いにつられて次々と願いを叶えて思い出を失っていってしまうこと、心が離れてしまった父親との間に愛を取り戻すという流れを除いては原作の描写をすべてカットし置き換えて柔らかく表現された映画です。

「はてしない物語」ではアウリンを身につけたバスティアンが新しい冒険をしながらファンタージェンを作り上げていくうちにファンタージェンの帝王となろうとしてしまう話です。アウリンを使って望みを叶えていくうちに一つ叶えるごとに自分の人間であった記憶を無くしていってしまい、自分が心地よくあるための欲望が膨れ上がり大切なものをわすれ、判断できなくなってしまうのです。それに気付いたアトレーユとフッフールがバスティアンへの友情をもって阻止しようとするのですが、その判断も出来なくなってしまったバスティアンがアトレーユを殺そうとしたり、帝王になるべくしてファンタージェンの住人を血で血を洗う戦いに巻き込んでしまうのです。全ての願いを使い果たしてしまい自分の名前さえ忘れてしまったバスティアンが虚無の中から自分自身を発見して人間界に戻ることが出来、父親にも愛を取り戻させることができる話です。

読んでいくうちに、バスチィアンに腹がたち、その血なまぐさい数々の出来事に心が震え、再生に安堵する自分を発見する物語になっています。「はてしない物語」の中での人間再生、精神の帰還を、絶えず苦しみもがき、人間の本質を残酷なまでに描きながらも人間としての自分を発見できる書となっています。

映画の方はというと、アメリカ的にアクションスペクタクルをおりまぜた展開の中で安心して観ていられる愛の大切さを語るやさしい物語に変身しています。
これは第1作で表現しなかった、愛を伝えようとしたのかもしれません。


3(ピーター・マクドナルド監督)になるとロックバイターが変身、それより何よりもファルコンがすっかり変身してしまい、頭が相当にオバカになってしまています。
でも、この3に関してはバスチアンとファンタージェンの住人、そしてアイテム、流れは前作からの続きだけど原作とは全く関係のないところで一人歩きをはじめた作品ともいえるでしょう。
これは、出来不出来は別にして、小さい子供でも楽しんで観れる娯楽大作といえる作品だと思います。 たくさんの映画に関するパロがおりこまれています。そして「セサミ・ストリート」のマペットをつくりだしたジム・ヘンソン・クリーチャー・ショップ(アニマトロニクスSFX製作)が駆使したSFXは夢 前の2作、そして原作を無視して、楽しむべき作品でしょう。

この3作全てにかかわっているのが製作のディータ・ガイッスラー、後の2作にたずさわっているのがティム・ハンプトンです。この二人とウォルフガング・ペーターゼン監督、ジョージ・ミラー監督、ピーター・マクドナルド監督は「はてしない物語」の中に何を観て、何を伝えようとしたのでしょうか。原作を読んで映画を観た時になんとなく分かるような気がするのです。