ちょっとだけ、キューバの音楽の歴史を

キューバ音楽といえば”アバネーラ”が有名ですが、l930年代以降のキューバのダンス音楽 ”ソン”は、その後、アメリカやアフリカでルンバとマンポが大流行する基礎となったもので、現在 ”サルサ” と呼ばれている音楽のバックボーンを形づくりました。

ほかの米諸国同様に、ヨーロッパやアメリカ本国からの植民地下にあったキューバですが、キューバの支配者(スペイン人)たちは、黒人たちがアフリカ系の音楽を演奏することを、ある程度黙認していました。そのことがヨーロッパ系の音楽とアフリカ系の音楽がほぼ対等に交じり合い発達していった要因になっています。

キューバは産業的にメキシコやペルーに比べて資源が少なく開拓も遅れましたが、1760年代に入って金資源が掘り尽くされたあとは、近隣のプエルト・リコやドミニカ共和国と同様に農業を中心とした入植者の数が大幅にふえはじめました。
入植者たちは、16世紀にほとんど絶滅してしまった土着民族のインディオ族の代わりとして、サトウキビ畑で働かせるために、アフリカから多数の奴隷を輸入しはじめました。1700年代の終わりまでには、黒人の人口が白人を上回り、白人29万1千人に対し黒人34万人にものぼりました。
イギリスによるハバナ占領時(1762〜63年)は、経済活動全体に大きく刺激を与え、その結果として1776年に、この植民地に最初の劇場が開かれ、次々と娯楽施設としての劇場が開かれていきました。これらの劇場では、幕間に音楽の入る娯楽劇トナディージヤを呼びものにしていました。

19世紀に入ると、白人と黒人の両方を含む数千のフランス系ハイチ人が、キューバ東部に革命から逃れて来ました。このフランス系ハイチ人たちによって、フランスのブルターニュ地方を経由してハイチに広まったコントルダンス(スペイン語でコントラダンサ)がキューバに紹介されていきました。 コントラダンスはヨーロッパ形式から次第にライト・クラシック風音楽に変化していき、植民地ブルジョワジーたちのの支持を得ました。キューバ色が強くなってくるに従い、この音楽はハバナ風のコントラダンサを表わすコントラダンサ・アパネーラから、特徴のあるリズミックな短い反復パターンのシンプルなアパネーラヘと変わっていきました。

1880年代には、ミケール・ファイルデ(1853〜1921)の作曲・編曲によって広められたダンソーンが、アパネーラに代って人気を得ました。ダンソーンはコントラダンサと異なりカップルで踊るダンスで、高い音楽教育を受けた作曲家たちによって形式されその人気は1950年代まで続きました。

ダンソーンはいくつかのセクションから成るロンド形式をとっています。20世紀初めには、和音の固定したミディアム・テンポの楽器のソロからなるコーダがつくようになりました。
ダンソーンはおもにインストルメンタルで構成されていて、最初はティンパニや管楽器を含む野外の軍楽隊によって演奏されていましたが、その後リズム・セクション(ピアノ、べ−ス、ティンパーレス、その他の打楽器)と2本のヴァイオリン、そして1本のフルートからなるチャランガ・フランセーサへと変化していきました。

19世紀末から20世紀初頭のころに、ヨーロッパ系から発生した音楽としては、ダンソーン、スペイン系のカンペシーノ音楽(ダンス音楽のサパテーオ、歌詞を重視した形式であるデシマ、プント・グァヒーロなど)、そしてカンシォ−ンといったものが挙げられます。
20世紀前半に人気を得た”歌”を意味する語のカンシォーン、クリオージャ、クラーベなどを総称して トローパといいますが、このルーツは19世紀にあり、初めはスペインのカンシォーン(ボレロ、ティラーナ、ポロ)、ドイツのリート、フランスのロマンス、イタリアのオペラ「アリア」をお手本としています。
ギターの伴奏によるセンティメンタルなバラードが男性の吟遊詩人によって、イタリア風のベル・カント唱法で歌われていました。ペペ・サンチェス(1856〜1918)とシンド・ガラーイ(1866〜1968)が伝統的なトローパの作曲家として有名です。

アフリカ系音楽の影響は、1700年代の終わりごろ、キューバの作家アレッポ・カルペンティエールは、いかに「ダンサーが、体の他の部分を動かさずにヒップと背中の下半分だけを動かす踊りを完壁にやってのけるこにに長けている」かについて述べています。

キューバの音楽にアフリカ系の要素が強いのは、キューバにはアフリカ系奴隷がアメリカのどの地域よりもおくそくまで(1873年)輸入されつづけ、そのほとんどが農業に従事し、隔離された田舎の大規模な農場で働き、そこで伝統そのままの演奏が続けられたことが影響しています。

都市部ではカビルドと呼ばれる黒人の互助組織が栄え、新しいアフロ=キューバン音楽・舞踊を作りあげていきました。植民地の権力者であるスペイン人たちは、米国のイギリス人たちとは異なり、アフリカ系音楽の演奏を黙認していました(当時のイギリス人権力者たちは、地中海文化や黒人たちへの抑圧を合法化し人種差別を行っていました)。

アフリカ系音楽には、ヨルバ信仰やバントウー信仰に結びついたサンデリーア、コンパルサと呼ばれるカーニバルの仮装行列で使われるコンガ、、各種のルンバなどがあります。ルンバは、アフリカ系キューバ人の非宗教的な音楽と踊りのジャンルで、地方の黒人にも都市の黒人にも日常の楽しみとして演奏され、19世紀の終わりにはその形が整えられました。

ルンバの打楽器編成は西アフリカのタイコの合奏によく似ていて、演奏グループは、一般にリード・ヴォーカリストとコーラスと、3人以上の打楽器奏者から構成されています。伝統的なルンバは、ヤンブー、コルンピア、グァグァンコーなどに分類されています。
ルンバの歌詞は、恋愛、ルンバそのもの、近所や国の出来事など時事を表現したものが多く、社会・政治風刺の媒体としても使われました。 ルンバと同じ時期に発展してきた音楽が ”ソン”です。

キューパ東部が発祥の地である”ソン”は、アフロ=キューバン音楽とスペイン起源の田舎の音楽と両方から影響を受けて発展していきました。また、ソンにはインディオの楽器であったマラカスも使用されています。20世紀初めにハバナを通じて出てきたソンは、蓄音機の普及や1922年のラジオ放送を基盤に1930年までには、都会でもっとも高い人気を持つダンス音楽になり、セステート・アパネーロ、イグナシオ・ピニェイロのセプテート・ナシォナール、ミゲール・マタモロスのトリオ・マタモロスなどのグループが大きな影響力をしめしました。

ソンのミュージシャンのはとんどが黒人かムラートでしたが、この音楽はすぐに人種、階級、民族の境界を超えて高い人気を得ていきました。
ラジオ放送も1940年代までは、レコードをつかうよりも、スタジオでの生演奏を重視する傾向にありました。ラジオ放送では多くのミュージシャンたちが平等にあつかわれ、ラジオから流れた音楽は、「声には色がついていない」というように、人種差別がありませんでした。

セステート・アバネーロが広めた標準的な初期のソンの楽団編成では、マリンブラとボティーハの代わりにアップライト・べ−スが導入され、トランペットが加えられました。

40〜50年代にトレンドセッタ−となった盲目のトレース奏者でバンド・リーダーの、アルセニオ・ロドリゲス(1911〜70)の楽団は、従来のソンの楽器編成に加えてピアノ、第ニトランペット、サクソフォンなどを含んだリズム・セクションを行いました。 これは、のちのキューバダンス音楽やサルサの基盤となるものでした。その後アルセニオはニューヨークに長期滞在し、キューバのダンス音楽が流行する土台を作りました。
ソンをバックボーンにしたキューバのダンス音楽には、グァラーチャ、ボレロ、チャチャチャ、マンボ、パチャンガなども、独特の進化を伴って含まれています。

グァラーチャは17世紀のメキシコが発祥で、キューバだけでなくスペインにも伝わりました。キューバでは19世紀までに風刺含みの力強いアップ・テンポのダンス音楽として主に売春宿で流行し、リズムの点で、ソンと異なっていました。

チャチャチャは50年代に、ダンソーンに代わってチャランガ・バンドの主要なレパートリーでした。オルケス夕・アラゴーンや作曲家兼バンド・リーダーのエンリーケ・ホリーンによって広められ、米国でも流行しました。チャチャチャは、ミディアム・テンポでチャランガ編成の楽団で演奏され2〜3人の歌手がユニゾンでソフトなスタイルで歌うもので、やはりソンと異なっていました。

ボレロはスローでロマンティックなバラードで、チャランガ・バンド編成や、ダンス・コンフント、ヴォーカルとギター2本とマラカスからなるキューパーの標準的なトリオ編成でも演奏されます。

マンボは40年代中ごろ、アントニオ・アルカーニョのチャランガ・バンド、アルカーニョ・イ・スス・マラヒージャスがマンボを最初に広めたとされてます。アルカーニョはダンソーンにシンコペイションを持つパーカッションのコーダを取り入れ、それをパックに即興のソロを入れたりとアフロ=キューバン化をさらに進めていきました。
マンボという言葉をさらに広めたのはバンド・リーダーのペレス・プラードです。プラードは主にインストのアップ・テンポのフル・パンドジャズの形式にマンボをあてはめて、キューバ、米国、メキシコで流行を生みました。

50年代には、ラ・ソノーラ・マタンセーラ、ベニー・モレー、フェリクス・チャポティーン、ミケリート・クニー、ニ−ニョ・リベーラなどの活躍によって、キューバのダンス音楽は頂点に達しました。 この時代にはレコード会社とラジオ局が繁栄し、1950年までには全家庭の90パーセント近くがラジオを持っていました。その後キューバではテレビの普及が20万台に達し、それより多くのテレビを持つ国は世界にたった8か国しかないはどの普及ぶりをみせた時期もありました。生演奏も高級キャバレーから路線バスの中でまで行われるようになりました。バスでは流しの音楽家か乗客の多い路線で演奏してチップをもらい、ローカル的な人気を得ていました。

50年代までには、キューバのダンス音楽はプエルト・リコをはじめ米国、アフリカで支配的な音楽様式になり、プエルト・リコやニューヨークでは、この音楽はのちに”サルサ”として知られることになります。

1959年に起こったキューバ革命は、国民生活の中の音楽の社会的・経済的背景に驚くべき効果を及ぼしました。もっとも、音楽様式そのものへの実際的な影響は、ヌエーバ・トローバの出現以外にはあきらかなものはなかったが。 60年代初め、それまで個人経営だったナイトクラブ、レコード会社、ラジオ局、コンサートといった商業的な音楽産業のはとんどが国営化され、政府機関となりました。キューバ革命政府は国民文化の奨励を最重要事項と見ており、資金の不足や国の問題が数多くあったのにも関わらず、ポピュラー音楽を活力ある国民の財産として熱心に支援しました。
レコードの生産は低下しましたが、ラジオを通して伝えられる情報の量は3倍になり、クラブは国有化によって入場料が下がり、才能ある者は音楽学校での教育を受けることを許され、大規模なコンテストやフォーラムがアマチュアとプロの両方の手で行なわれました。
その一方で、同じころに米国がとった共産主義国家からの亡命者受け入れ政策を利用して、多くのミュージシャンが国をあとにしました。

キューバでもロックや主流のセンチィメンタルなバラードが大きな人気を得ましたが、政府も80年代初めまではジャズを認めようとはしていませんでしたが、数多くのキューバ人ジャズ・ミュージシャンが世界的な名声を得るようになり、政府も彼らミュージシャンとジャズそのものを奨励し始めました。

キューバのダンス音楽は現在も栄えつづけてきていますが、それはサルサの発展と並行しています。70〜80年代にもっとも功績をあげたグループは、チャランガ楽団であるロス・パン・パンと、イラケーレです。

イラケーレは作曲家兼ピアニストのへスース・チューチョ・バルデースが率いるグループです。キューバのダンス音楽を基盤に、アフロ=キューバンの宗教音楽をモダン・ジャズやロックと統合して電気楽器で演奏します。

キューバのラテン・アメリカ的な音楽が、ヌエーバ・トローパです。ヌエーバ・トローバは59年の革命以後のキューバではもっとも独自な音楽の発展をとげました。
ヌエーバ・トローバは、ジョーン・バエズやボブ・ディランなどの米国の歌手たちの音楽とよく似ていますが、それはこの音楽が最初”カンシォ−ン・プロテスタ”と呼ばれたことにも表われていますが、ミュージシャンたちはこれを嫌い、72年にはヌエーバ・トローバという言葉がはやりだしました。 ヌエーバ・トローバの歌の多くは帝国主義や男女差別や搾取に抗議するものでしたが、このテーマの根底には、平等主義の感情に基づく成熟した人間関係と、公正で人道的な社会がいつか実現することへの肯定的な見通しがありました。
ヌエーバ・トローバの歌の内容は、シュールで難解なものからシンプルで気取らないものまでと幅広く、全体に高い文学的水準を持っています。
代表的なミュージシャンであるシルビオ・ロドリゲスやパブロ・ミラネースの歌の多くは、スタイル的にも精神性の点でも、キューバ音楽より米国のソフト・ロックに近く、アクースティック・ギターの弾き語りであるのに対し、サラ・ゴンサーレスはテンポの速い伴奏をするブラジル風味を効かせたものです。
ヌエーパ・トローパのミュージシャンたちはラテン・アメリカのヌエーバ・カンシォーンの仲間たちとの結束意識が強く、ベネスェーラやプエルト・リコのほか、アンデス高原の音楽の要素を取り入れています。マングアレーというグループが米国のフォーク・ロックの形式を残したままアンデスのフルートやタイコを取り入れて演奏しています。

チリやエル・サルバドールといった国の右翼政府はヌエーバ・カンシォーンを絶滅させようと躍起になっていますが、キューバの官僚組織は、ヌエーバ・トローバを全面的に保護し奨励しています。

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