La jalousie 2
「真田先輩、おはようございますっ!」
背後から聞き慣れた声に呼び止められた瞬間、俺はあからさまにビクッと固まった。
まだ一般生徒の登校時間にはかなり早い時刻である。
今朝は風紀委員の仕事で早朝登校をしているため、よもや会うとは思っておらず、完全に油断していた分その衝撃は大きかった。
「あ、ああ。か。おはよう」
平静を装い、ゆっくりと振り向いた先には、満面の笑みを浮かべるが立っていた。
「良かった。この時間だったらもしかして会えるかなって思ってたんですけど、本当に会えて嬉しいです」
そう笑うの態度は、普段と何ひとつ変わらない。
後ろめたいことなど何もないといった雰囲気で、ニコニコと俺のことを見上げている。
の態度があまりにもいつもどおりなので、昨日の一件は夢か幻だったのではないかと思ってしまいそうになるほどである。
だが、残念ながら昨日の一件は夢でも幻でもなかった。
は昨日、他校の男子生徒と共にいた。
初めに街中で発見したときもこの目で確認しているし、その後も幸村の提案に乗る形で途中まで後を追ったのだから間違いない。
さすがに途中で、理由がどうあれ後を尾ける行為自体に自己嫌悪し中断したわけだが。
(昨日の様子だと、恐らく…)
あの男は、を自宅まで送り届けているはずだった。
俺たちが街中で見かけた時点ですでに用事を終えた後だったのか、ふたりはその後どこかに寄る気配もなく、の自宅方向へと向かっていた。
追うのをやめた後で男と別れている可能性もあるので確定はできないが、十中八九、男はを家まで送り届けたに違いない。
あの男は何者なのか?
とはどんな関係なのか?
昨日の一件以来頭から離れない疑問と疑惑が、知らぬ間に態度に表れていたらしい。
「先輩?」
不思議そうに小首を傾げ、が俺を見上げてくる。
瞬間、ほとんど反射でその視線を避けてしまう。
不自然だと思われたに違いない。
逸らした自分でも不自然だと感じた。
だが、今視線を合わせたら自分が何を口走るか分からなかった。
『昨日一緒にいた男は誰だ?』
喉元まで出掛かった言葉を生唾と共に飲み下す。
問い質したくて仕方がないのに、そうするのが怖いとも思う。
知りたい。だけど、知りたくない。
そんな矛盾した感情が混在する。
こんな感覚を味わうことは、生まれて初めてだった。
「先輩、どうかしましたか?」
訝しげな声と共に、そっと制服の袖が引っ張られる感覚。
ハッとして見下ろすと、が右手で遠慮がちに俺のブレザーの袖を引いている。
「何か悩み事でもあるんですか?」
微かに眉根を寄せ、本気で心配している表情の。
その表情を見せられると、つい口を割ってしまいそうになる。
誰だ、と。
あの男は誰で、お前と一体どんな関係なのかと。
だがそれを口にするということは、を疑っていると公言するようなものだ。
実際に疑惑を払拭できずにいる以上、少なからず疑う心を持っているはずなのに、それをに知られるのが怖かった。
自分を疑っているのだと知ったが、どんな表情を、どんな反応をするのかが怖かった。
疑惑を持たずにはいられない状況を見せたのはのほうなのに、なぜ俺のほうが彼女の反応を恐れているのだろうか――。
「いや…すまん。何でもない」
やや硬い表情ながらもそう首を振って見せると、はまだ腑に落ちないような顔をしながらも、それ以上は追及しなかった。
少しだけ重苦しくなってしまった雰囲気を変えようとでもいうように、努めて明るい声で振る舞う。
「あ、そういえば先輩。昨日のことなんですけど…」
ギクリとする。
背筋に氷を詰められたような感覚と、呼吸が止まってしまったかのような息苦しさ。
何を言うつもりか。
昨日の俺の行動を知っていて、それについて何か言うつもりなのか。
俄かに速くなる心臓の音が更なる緊張を呼び込む。
「あ、あれはだな…」
「実は、伯母に子どもが産まれたんです」
弾けたような明るさを伴うの言葉が、妙に間延びしたように響いた。
必死に脳内を働かせていた俺の思考は、訳も分からず固まりかける。
何を言った?
何を言われた?
予想外の唐突な言葉に、頭がついていけない。
だがはそんな様子の俺に頓着することなく、はしゃいだように続ける。
「予定日はまだ先だったんですけど、急に従兄から連絡が来て」
一緒に会いに行ったんですけど、本当にちっちゃくて可愛い女の子でした。
ちょっと触っただけでも壊れそうなくらい何もかもちっちゃいのに、でもちゃんと温かくて、柔らかくて。
手のひらをつついたらギュって私の指を握り締めて、それが思いの他強い力でビックリしました。
私一人っ子だから、妹が産まれたみたいで本当に嬉しいです。
次から次へと止まることなく話し続けるの言葉は、恐らく半分以上が俺の耳に入っていなかった。
まるで狐につままれたような、とはまさしく今の俺のような表情を言うのではないだろうか。
固まりつつも、どこかで妙に冷静にそんなことを思う。
「昨日は急いでたので、ちゃんと理由を言わずに帰ってしまって、すみませんでした」
最後にがペコリとその場で頭を下げ、話にひと段落をつけてもまだ事の顛末が把握しきれない。
「…従兄?」
頭の中に散乱するピースのひとつを無意識に呟いたところで、ようやく閃く。
なぜ思い出さなかったのか。
から聞いたことがあったのに。
「はい。前にお話したことありましたよね?」
近くに住んでいるという同じ歳の従兄。
仕事をしているの母親が、実の姉である従兄の母親にを預けていたため、幼い頃はまるで本物の兄妹のように育ったのだという。
以前、がそんなことを確かに言っていた。
(――まったく、たるんどる)
心の内で自分に向けた叱責の言葉を呟くと、渋面を作り大きなため息をひとつ吐いた。
冷静によく考えれば思い出しそうなことなのに、今まで思い出しもしなかった。
見知らぬ男と歩いていたという事実だけで動揺し、その可能性に思い当たりもしなかった。
それだけ、俺は必死なのだろう。
全面的に認めるのは何となく悔しいのだが、のこととなると普段の冷静さを欠くほど必死になってしまうということなのだろう。
「先輩?」
また黙り込んでしまった俺を、が再び見上げている。
やっぱり、何か変です。
と、さっきよりもハッキリと眉根を寄せる。
それにさっきと同じように「何でもない」と答えかけ、一度言葉を飲み込む。
そして一度静かに深呼吸をすると、
「俺が変になるのは、お前のことだけだ」
しっかりと視線を合わせたまま、静かに告げた。
は一瞬、言葉の意味が分からないというようにキョトンとして目を丸くしたが、それ以上のことを俺は何も言わなかった。
やがて、
「どういう意味ですか?」
我に返ったがそう聞いてきたが、それにもやはり答えることなく、一言「行くぞ」と告げるなり先に歩き出す。
「あ、もう!先輩、待ってください!」
慌てたような少し拗ねたような声をが上げ、パタパタという小走りの音と共にあっという間に隣にが並ぶ。
「置いて行くなんて、ひどいです」
「…行くぞ」
僅かに呼吸を乱し何か言いたげな表情を浮かべるに、微かに笑ってからもう一度同じことを言う。
そして、再び歩き出す。
追いついたが、もう置いてかれまいとブレザーの袖をギュッと握り締めたのをそのままにして。
2012.02.09
ああでもない、こうでもないと試行錯誤した結果、真田の中だけで完結する自己完結的なおはなしに…。
最初はちゃんとと喧嘩させるつもりだったのです。
でも書いても書いても、真田がなかなかに問い質してくれませんでした。
なので路線変更して、心の中だけで嫉妬して完結させてみました(苦笑)
もう少し交際期間が長くならないと、嫉妬心を相手に見せないのかもしれません(笑)
最後までお読みくださり、ありがとうございました!
La jalousie→仏語。嫉妬の意。