Je ne sais pas
誰よりも近くて、誰よりも遠い人。
触れようと思えば、いつだって触れられるはずなのに。
どうしたって、その手に触れることができない。
私にとって、比呂士はそんな存在。
ほら、今だって。
少し手を伸ばせば、その温かい手に触れることができるのに。
「さん?」
机を挟んで向かいに座る比呂士が、ふいに私に話しかけた。
その声にハッとして、私は自分がボーっとしていたことを自覚する。
「な、何?」
無意識の内にずっと見つめていたことを悟られたくなくて、私は慌てて比呂士の手から視線を逸らした。
握られているシャープペンで、丁寧な文字をノートに書き綴っていく手。
綺麗だなあとか、大きいなあとか思っているうちに、いつのまにか自分の手が止まっていることにも気付かないほど見入っていたらしい。
「先ほどから手が止まっているようでしたので、もしかして何か分からない問題でもあったのかと思いまして」
どうやら課題を解くことに集中していた比呂士は、私の視線がどこに注がれていたのか気が付いていないようだった。
「ごめんね。違うの。ちょっとボーっとしちゃっただけ」
誤魔化すような笑みを浮かべてそのまま教科書に視線を落とすけれど、何度目を通したって問題文は頭の中に入ってきてはくれない。
テーブルを挟んで向かい合う比呂士の手が、私の視界の端に入るたびに思考回路を邪魔する。
ここは私の部屋。
フローリングに置かれたテーブルを挟んで、比呂士と向かい合って塾の課題中。
こんな状況、今までに数え切れないくらい経験してるのに。
今日は、ひどく落ち着かない。
その原因も、ちゃんと分かっているけれど――。
「…ねぇ、比呂士」
課題に集中することを諦めた私は、ずっと視界の端に映っていた比呂士の手に再び視線を戻しながら話しかける。
几帳面に一文字一文字を綴っている手。
その手に触れられなくなって、どれくらい経つだろう。
幼い頃は、なんの躊躇いもなくその手を握って、ふたりでいろんなところへ出かけたのに。
「どうしました?」
私の声に、ふと視線を上げる比呂士。
その視線が私の視線とぶつかって、手を見ていたはずなのに比呂士の顔から目が逸らせなくなる。
幼い頃からよく知っているはずの顔。
喜怒哀楽のすべてを知り尽くしているはずの表情。
それなのに、ここ数日は私の知らない表情ばかりを見せる。
――彼女のこと、好きなの?
胸の奥で呟かれた言葉は、口に出す勇気がないまま呑み込まれる。
「学園祭、もうすぐだね」
「ええ。今日で準備期間は、すべて終了しましたからね。まだ明後日の最終点検は残っていますが、概ね良い出来だと思いますよ」
私が呑み込んだ言葉など知る由もない比呂士は、にこにこと微笑んで見せる。
――運営委員の子が、好きなんでしょう?
「運営委員さんもがんばってるって言ってたもんね」
心の声を言葉にする勇気はないのに、頭の中はそのことしかなくて。
聞けないのに聞きたい。
そんな気持ちが、つい比呂士の様子を窺うような言葉ばかりを紡いでいく。
「ええ。彼女は非常によく頑張ってくれていました。我々の準備が滞りなく進んだのは、彼女のおかげですよ」
ほら、やっぱり。
嬉しそうに笑った顔に、私の心が急激に沈んでいく。
ねぇ、比呂士。
気付いていないの?
彼女が話題に上ると、とても嬉しそうな顔になること。
彼女のことを話すときは、いつもよりずっと優しくて甘やかな声になること。
そんな顔も声も、私は知らない。
15年間、ずっと傍にいた私でさえ知らない。
私の知らない比呂士。
「働き者の運営委員さんでよかったね」
沈む心を隠して微かに微笑んで見せたけれど、上手に笑えた自信がない。
私と比呂士は、幼い頃から誰よりも近くにいた。
隣の家に生まれて、幼い頃からいつも一緒にいることが当たり前で。
よく空気のような存在なんて表現があるけれど、私たちはまさにそんな感じで。
隣にいることが自然で、隣にいないことは不自然だった。
だから、そんな不自然な日が来るだなんて、私には一生信じられそうにない。
「はい。彼女が運営委員で本当に良かったと思っていますよ」
比呂士が笑うたびに眩しくて顔が直視できない。
自然と落ちた視線が捉えるのは、やっぱり比呂士の手。
無邪気にその手を取って、ふたりで外を駆け回っていた幼い頃にはもう戻れない。
私は、この感情に付けるべき名前を知ってしまったから。
自分の中にある想いを何と呼ぶのか気が付いてしまったから。
でも。
比呂士が見ているのは、私じゃない。
比呂士が想っているのは、私じゃない。
誰よりも身近で誰よりも比呂士のことを見てきたから、私には分かる。
理屈じゃなく、直感とでも言うべき感覚で分かる。
たとえ比呂士が言葉になんてしなくたって、理解してしまうの。
比呂士が見ているのは、私の知らない少女。
比呂士が想っているのは、運営委員の彼女。
「うまく…いくといいね」
複雑な心。
比呂士の幸せを願う私と、ずっと隣にいてほしいと思う私。
どちらも私自身だからこそ、感情の整理がつかない。
「ありがとうございます」
学園祭のことを言われたと思っている比呂士が、ふわりと笑む。
その表情は、さっきまでとはやっぱり違っていて、私をひどく落胆させた。
あんなふうに柔らかく微笑むのは、彼女のときだけ。
あんなふうに優しい声で話すのは、彼女のことだけ。
私の知らない比呂士を見せるのは、彼女のためだけ。
分かっていたけれど、彼女にはどう足掻いても敵わないことを証明されて、どうしようもない気持ちになる。
(惨敗かぁ…)
心の中で呟いてみたら酷く悲しくて切なくて、思わず涙が溢れそうになったけれど、私の中に辛うじて残っていたプライドがそれを許さなかった。
2009.12.17
完全に流行に乗り遅れた形で、先日初めて学プリをプレイしました。
見事に萌えまくって書いたのが、この夢小説です。
こんなにハマるとはプレイ前は正直思いませんでした。笑
主題として掲げた切なさが伝わっていれば、今回のお話は概ね成功かなあと思っています。
でも当初イメージしていたものと少し違ってしまったので、いつかリベンジできたらいいなあ。
あ、最後になりましたが、タイトルは仏語で「私は、知らない」という意味です。