Le bonheur










「ブン太さん、起きて?」

「ブン太さんってば、もう朝よ?起きてください」


抗い難い心地好いまどろみの真っ只中で、ブン太はそっと身体を揺すられて覚醒を促される。


「…あと5分…」


それでも、まだもうしばらくは眠っていたいという本能で、ブン太は身体を小さく丸めて頭まで布団の中に潜り込もうとする。


「だーめ。起きてください!朝食の準備も終わってるんですよ?」


それを容赦なく止めたのは、よく聞き慣れた可愛らしい声。

ブン太にとって、最も心地好く最も聞き慣れているであろう声。


「…頼む。あと5分だけ……」


剥ぎ取られそうになっている布団を両手でしっかりと握り締めながらも、すでに半分眠りに引きずられる形で呟いた。

――が、次の瞬間。

ガバッと勢いよく、ブン太はベッドの上で上半身を起こす。


!?」


そしてそう叫ぶなり、ベッド脇に立っていた人物の姿を驚きの眼差しでマジマジと見つめる。

一瞬前までの睡魔がまるで嘘のように、しっかりハッキリと覚醒する脳。


「――ど、どうしたんですか?急に驚いて飛び起きたりして…」


で、そんなブン太の様子に驚き戸惑っている素振りを見せる。

大きな瞳で、驚いた顔で、ブン太をしっかりと見つめ返していた。


「…どうしたって…お前こそ、どうしてここにいるんだ?」


ここは、俺の部屋だろぃ?

キョロキョロと室内を見回しながら言うブン太に、の声と表情がますます驚きの色に変わる。


「寝ぼけてるの?大丈夫…?」


ここは、私たちの家じゃない。

の表情がしだいに驚きから心配そうなそれへと変化していくのを見て、ブン太は再びハッとする。


(――そうだ。俺たちは…)


結婚したのだった。

3ヶ月ほど前、ブン太は彼にとって最愛の人であると晴れて夫婦となっていたのだった。

そしてそれに伴い、はブン太が独り暮らしをしていたマンションに移り住んできて、今ではここが二人の新居となっていたのだ。


「悪い。寝ぼけたみてーだな」


バツが悪そうに頭を掻くブン太に、はほんの少しだけ拗ねたような表情を浮かべる。


「3ヶ月も経つのに、ひどいです」

「悪かったって」


それでも頬を膨らませて拗ねているの顔が可愛くて、ブン太はの右腕を軽く引っ張り自分の胸元へと抱き寄せる。

は抱き寄せられると、自らの両腕をブン太の背に回し、そっと甘えてくる。


「もう寝ぼけたりしないでくださいね?――あなた」


一瞬、照れから躊躇するように言葉を区切り、聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で「あなた」と囁いた

そんなが愛しくて、ブン太の心の中に温かくて甘やかな気持ちが溢れてくる。

この気持ちを、幸福と呼ぶのだろうと思った。





自然と溢れてくる愛しさを伝えたくて、そっと耳元で名前を囁く。

愛している。

心から。

世界中の誰よりも一番。


「ブン太さん…」


そんな想いが通じたのか、が恥ずかしそうに顔を上げて。

珍しく、自分からねだるように瞳を閉じる。


「愛してる」


誘われるように、の顎を捉えて。

いつからか言葉だけでは伝えきれなくなったその想いを、もっと正確に伝えるために、ブン太はゆっくりと顔を近づけた――。






「――い。起きてください、先輩っ」


は、少し困ったようにブン太の身体を揺する。

自分の膝を枕代わりにして眠るブン太は、どうやら熟睡しているらしく、何度揺すっても起きる気配がない。


「もう、そろそろ起きないと風邪引きますよ?」


朝目が覚めたらとても良いお天気だったので、急遽お弁当を持参して少し遠くの公園までピクニック気分でやってきた日曜日。

何をするでもなく、ふたりで芝生の上でお昼を食べた後は、猫のように日向ぼっこで幸福なまどろみを味わう。

たまには、そんな目的という目的のないデートも楽しいなと思ってはいたが、気が付けばお弁当を芝生の上で広げてからすでに数時間。

さすがに暖かかった気温も、少しずつ下がってきている。


「先輩、起きてください〜」


もう一度揺すってみるが、やはりブン太は起きる気配がない。

は、それに諦めるようなため息を吐いて、ぐっすりと眠るブン太の顔を覗き込む。

幸せそうな顔。

どんな夢を見ているのか分からないが、ブン太の寝顔は、とても穏やかで幸せそうだ。


「ねぇ、先輩。見るなら私の夢にしてくださいね?」


熟睡するブン太には届かないことを知っているから、恥ずかしくて直接本人には言えるはずもない本音をその耳元で囁いた。

いつでも先輩の傍にいたいから、夢でさえも一緒にいたいから。

そんな少女的願望を密かに抱いていたことを知られるのは気恥ずかしくて、今まで隠してきていたけれど。

眠ってしまっている今なら、安心して伝えられる。

決して聞こえていないと分かっているから、いつもより大胆なことだって言葉にできる。


「…愛してます」


もう一度耳元に唇を寄せて囁いたのは、まだ伝えたことのない愛の言葉。

好きでも大好きでも足りなくなってきた想いに、最も適している表現。

けれど恥ずかしくて、まだ直接伝えたことはない。


「愛してます。ブン太さん」


呟くと、ますます愛しさが溢れてきて、心が温かくて甘やかな想いに満たされる。

これがきっと、幸福と呼ばれる感情なのかもしれない。


(でも、まだ秘密です)


いつか直接伝えられる日はくるのだろうけれど、今はまだ内緒。

いずれ照れも恥ずかしさもなく、堂々とこの想いを言葉にできるようになるまで、今日のことは自分ひとりの秘密。


(でも、大切な思い出です)


ふっと柔らかく笑んで、ブン太の髪をそっと梳く。


「だから、もう少しだけ待っていてくださいね?」


あなたに、愛の言葉を直接伝えられるようになるその日まで。










2010.02.25


夢オチでした(笑)
書いていて、楽しかったです。
書き始めた当初のコンセプトとしては、夢を見ているブン太も起きているも、それぞれ幸福を感じていて、お互いを「愛してる」と思っている甘い感じが書けたらなあと。。。
で、さらにあわよくば、どっちが現実なのか分からない感じに仕上げられればいいなあと思っていました。
でも、それはちょっと失敗です(笑)

それでは、ここまで読んでいただいてありがとうございました!

Le bonheur→仏語。幸福の意。

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