──浮かび、漂う。

心地好い浮遊感が、体全体を包みこむ。

──ゆらゆら、と。

聴こえるのは、小波の音と私の心臓が動く音だけ。

──ただそれだけ。

いつから始めたのだろう。

いつまで続けるのだろう。

分からないまま、──ただそこにいる。

それだけで十分だった。

十分だった、

……はずなのに。

知らない間に、"分からない"という気持ちが、不安が、私の心の中で大きくなって。

その黒い"何か"が成長し続けて。

私は、いつか自分がそれに呑み込まれてしまう前に、せめて誰かに知ってもらいたかった。

──私がいる理由を。

でも、どこを見ても、どこを探しても、どんなに願っても、──誰もいなかった。

私は、その理由を知っている。

私自身が、一番分かっている。

──だって、

ここに誰も入れないようにしたのは、私だ。

初めてここを見たときに思ったんだ。

──誰にも汚されたくないと。

だから、誰も入れないようにした。

ちょっと自慢したかったけど我慢した。

だって、私は綺麗なここが見たかったから。

……それでも、目に映る景色は澱んでいった。

別に、ここが汚れてしまった訳ではない。

そう、

私の目が現実を受け入れなくなったんだ。

私の耳が聞くことを拒んだんだ。

私の鼻が匂いに無関心になってしまったんだ。

私の手が触れることに怯えてしまったんだ。

そして何より、

私の心が澱んでしまったんだ。

──ドブンッ!

何かが落ちた音がした。

音のした方を眺めると、私がいた。

その時、改めて気が付いた。

──ああ、確かに、堕ちたのは私だったんだ。

と。



規則的な機械音が、私を深い眠りから呼び覚ました。

「──ここは……、どこかしら?」

まず見慣れない周囲の景色に戸惑う。いつもと違い、親友のテディもいない、私の側に。
その代わりに、私の腕には包帯が巻かれ、そこからはチューブがのびていた。さらにチューブは四角い機械へと繋がれている。どうやら私を起こしたのは彼らしい。
視線を辺りに向けると、目に映る景色は私の部屋ではなく、造られた白。まるで病院の病室のようだった。いや、恐らく病院の病室なのだろう。机の上には誰が持ってきたのか、綺麗な花と、かりんとうが置いてあった。 さらに状況を判断するための情報が欲しかったので、体を起こそうといつも通り上半身に力を入れると、

「──っ!」

体中に激痛が走った。思わず涙が出そうになる。

──そうだった。

「……私、撥ねられたんだ」



木曜の昼休み、携帯が勢いよく鳴った。

画面に表示されるのは"非通知"と書かれた三文字の単語。いつもと同じ、そう思っていた。

けど、電話ごしの声はいつもより少し高くて、

でも、話す内容はいつもと変わりなくて、

──ああ、あの男の仲間なんだ。

そう思った。



いつもの公園。

でも、いえ、やはり、待っているのはいつもとは違う男。

格好はあの男と変わらない全身黒。

シャツも、ジャケットも、ジーンズも、靴も、アクセサリーも、帽子も、サングラスも、

きっと心も、

全部黒。

そんな男の、黒じゃない部分が、動いて、言葉を紡ぐ。

下品で、卑猥で、陰湿で、淫らな言葉の羅列。

堪えがたい屈辱感。

──私は、分かっていたんだ。

初めてあの男に呼び出されたとき、初めてあの男に脅迫という告白をされたとき、初めてあの男と交わったとき、別段ひどく驚くことはなかった。

どうせ、みんないっしょ。

オトコは、みんないっしょ。

ただ、いつかのときとは違い、愛という偽りに踊らされている私ではなかった。

元より選択肢のない関係。

冷めた関係。

終りのない関係。

始まりのない関係。

そんな関係。

でも、

──気付いたら、あの男に惹かれている私がいた。

私の体に傷が増えるほど、私の気持ちは大きくなり、私の心は満たされない満足感で埋め尽された。

全て無くしてでも、奴隷になってでもイイから、欲しいと思った。

でも、

あの男の答えは、いま目の前にいる気持ち悪い男。

──やっぱり、みんないっしょ。

どうしてだろう、愛という偽りに踊らされている私ではなかった──はずだったのに。

それなのに、どうして心が痛むんだろう。

そして、

気付いたら走り出していた。

どうして走り出したのかは分からなかった。
もしかすると、私の心が痛む理由と同じものなのかもしれない。
ただ、走った。

ただ、逃げた、

それなのに、気持ち悪い男はただ笑っていたんだ。

その時、鳴り響くクラクションと重たい衝撃。

そして、束の間の浮遊感と、

……そこからの記憶はない。



規則的な機械音が、私を回想から呼び覚ました。

「……」

静かな闇が私の心を蝕み、呑み込んでいくようだった。

しかしその時、不意に病室の扉が開いた。

「──あれ、せ、先輩目が覚めましたか!?」

「あら、凛ちゃんじゃない。……私はもう大丈夫よ」

「よ、良かった……。あ、私マスターを呼んできま、」

「──待って!」

部屋に静寂が流れる。不意に大きな声を出したせいか、凛は一度びくっとした。

「……私の話を聞いて」



「──私は……嫌な女なのかしら……?」

そういって、先ほど凛に話したことを思い出した。

嘘を言ったつもりはない。

でも、

全てを言ったわけではない。

ただ、

話し終わったときの凛の顔が、泣き出しそうな子どものような顔が、少し私の心を締め付けた。

部屋に響く規則的な機械音が、ただその部屋の住民のようだった。

「……」

純情な少女の心を、私はいつから失ったのだろう。

その時、不意に病室の扉が開いた。
あの男だった。

「……アナタ…一体何をしに来たの?」

「酷い言われようだな。──見舞いに来たんだ」

「──そ、そう」

何故だろう、一度絶望したはずなのに、諦めたはずなのに、忘れようとしたのに、裏切られたと思ったのに、

少しだけ気分が高揚していくのを感じた。

次の言葉を聞くまでは。

「──天崎はどうした?」



そして男は出ていった。

来るときも突然だったが、帰るのも唐突だった。

そのとき、先ほどの夢を、ふっ、と思い出した。

「──私は……嫌な女ね」

ぽつり、と。

部屋に響く規則的な機械音が、ただその部屋の住民のようだった。