──浮かび、漂う。
心地好い浮遊感が、体全体を包みこむ。
──ゆらゆら、と。
聴こえるのは、小波の音と私の心臓が動く音だけ。
──ただそれだけ。
いつから始めたのだろう。
いつまで続けるのだろう。
分からないまま、──ただそこにいる。
それだけで十分だった。
十分だった、
……はずなのに。
知らない間に、"分からない"という気持ちが、不安が、私の心の中で大きくなって。
その黒い"何か"が成長し続けて。
私は、いつか自分がそれに呑み込まれてしまう前に、せめて誰かに知ってもらいたかった。
──私がいる理由を。
でも、どこを見ても、どこを探しても、どんなに願っても、──誰もいなかった。
私は、その理由を知っている。
私自身が、一番分かっている。
──だって、
ここに誰も入れないようにしたのは、私だ。
初めてここを見たときに思ったんだ。
──誰にも汚されたくないと。
だから、誰も入れないようにした。
ちょっと自慢したかったけど我慢した。
だって、私は綺麗なここが見たかったから。
……それでも、目に映る景色は澱んでいった。
別に、ここが汚れてしまった訳ではない。
そう、
私の目が現実を受け入れなくなったんだ。
私の耳が聞くことを拒んだんだ。
私の鼻が匂いに無関心になってしまったんだ。
私の手が触れることに怯えてしまったんだ。
そして何より、
私の心が澱んでしまったんだ。
──ドブンッ!
何かが落ちた音がした。
音のした方を眺めると、私がいた。
その時、改めて気が付いた。
──ああ、確かに、堕ちたのは私だったんだ。
と。
※
規則的な機械音が、私を深い眠りから呼び覚ました。
「──ここは……、どこかしら?」
まず見慣れない周囲の景色に戸惑う。いつもと違い、親友のテディもいない、私の側に。
その代わりに、私の腕には包帯が巻かれ、そこからはチューブがのびていた。さらにチューブは四角い機械へと繋がれている。どうやら私を起こしたのは彼らしい。
視線を辺りに向けると、目に映る景色は私の部屋ではなく、造られた白。まるで病院の病室のようだった。いや、恐らく病院の病室なのだろう。机の上には誰が持ってきたのか、綺麗な花と、かりんとうが置いてあった。
さらに状況を判断するための情報が欲しかったので、体を起こそうといつも通り上半身に力を入れると、
「──っ!」
体中に激痛が走った。思わず涙が出そうになる。
──そうだった。
「……私、撥ねられたんだ」
※
木曜の昼休み、携帯が勢いよく鳴った。
画面に表示されるのは"非通知"と書かれた三文字の単語。いつもと同じ、そう思っていた。
けど、電話ごしの声はいつもより少し高くて、
でも、話す内容はいつもと変わりなくて、
──ああ、あの男の仲間なんだ。
そう思った。
いつもの公園。
でも、いえ、やはり、待っているのはいつもとは違う男。
格好はあの男と変わらない全身黒。
シャツも、ジャケットも、ジーンズも、靴も、アクセサリーも、帽子も、サングラスも、
きっと心も、
全部黒。
そんな男の、黒じゃない部分が、動いて、言葉を紡ぐ。
下品で、卑猥で、陰湿で、淫らな言葉の羅列。
堪えがたい屈辱感。
──私は、分かっていたんだ。
初めてあの男に呼び出されたとき、初めてあの男に脅迫という告白をされたとき、初めてあの男と交わったとき、別段ひどく驚くことはなかった。
どうせ、みんないっしょ。
オトコは、みんないっしょ。
ただ、いつかのときとは違い、愛という偽りに踊らされている私ではなかった。
元より選択肢のない関係。
冷めた関係。
終りのない関係。
始まりのない関係。
そんな関係。
でも、
──気付いたら、あの男に惹かれている私がいた。
私の体に傷が増えるほど、私の気持ちは大きくなり、私の心は満たされない満足感で埋め尽された。
全て無くしてでも、奴隷になってでもイイから、欲しいと思った。
でも、
あの男の答えは、いま目の前にいる気持ち悪い男。
──やっぱり、みんないっしょ。
どうしてだろう、愛という偽りに踊らされている私ではなかった──はずだったのに。
それなのに、どうして心が痛むんだろう。
そして、
気付いたら走り出していた。
どうして走り出したのかは分からなかった。
もしかすると、私の心が痛む理由と同じものなのかもしれない。
ただ、走った。
ただ、逃げた、
それなのに、気持ち悪い男はただ笑っていたんだ。
その時、鳴り響くクラクションと重たい衝撃。
そして、束の間の浮遊感と、
……そこからの記憶はない。
※
規則的な機械音が、私を回想から呼び覚ました。
「……」
静かな闇が私の心を蝕み、呑み込んでいくようだった。
しかしその時、不意に病室の扉が開いた。
「──あれ、せ、先輩目が覚めましたか!?」
「あら、凛ちゃんじゃない。……私はもう大丈夫よ」
「よ、良かった……。あ、私マスターを呼んできま、」
「──待って!」
部屋に静寂が流れる。不意に大きな声を出したせいか、凛は一度びくっとした。
「……私の話を聞いて」
※
「──私は……嫌な女なのかしら……?」
そういって、先ほど凛に話したことを思い出した。
嘘を言ったつもりはない。
でも、
全てを言ったわけではない。
ただ、
話し終わったときの凛の顔が、泣き出しそうな子どものような顔が、少し私の心を締め付けた。
部屋に響く規則的な機械音が、ただその部屋の住民のようだった。
「……」
純情な少女の心を、私はいつから失ったのだろう。
その時、不意に病室の扉が開いた。
あの男だった。
「……アナタ…一体何をしに来たの?」
「酷い言われようだな。──見舞いに来たんだ」
「──そ、そう」
何故だろう、一度絶望したはずなのに、諦めたはずなのに、忘れようとしたのに、裏切られたと思ったのに、
少しだけ気分が高揚していくのを感じた。
次の言葉を聞くまでは。
「──天崎はどうした?」
そして男は出ていった。
来るときも突然だったが、帰るのも唐突だった。
そのとき、先ほどの夢を、ふっ、と思い出した。
「──私は……嫌な女ね」
ぽつり、と。
部屋に響く規則的な機械音が、ただその部屋の住民のようだった。