──ハァ、ハァ、ハァ……。

息がきれる。

脇腹が痛い。

視界が霞む。

その地域で特に有名な学園の制服を身にまとった二人の少女が、病院の廊下を全力疾走していた。
五十メートルを瞬きほどのスピードで駆け抜ける彼女らは、数百メートルはある廊下を一瞬にして渡り、階段を七段飛ばしで上がっていた。

季節は冬。

しかし、彼女たちの額には大粒の汗が浮かんでは風に拐われていった。



──綾風渚が車に撥ねられた。

そんな情報が天崎凛の元へ入ったのは、木曜日の夕方の事だった。

木曜日、授業を難無くやり過ごした凛は、眠気まなこを擦りながらいつものように部室に向かって歩いていた。
今日は合唱部の練習に行こうと、凛がちょうど渡り廊下に差し掛かったとき、

「──せ、先輩!」

突然背後から凛を呼び止めるものがいた。
凛が振り替えるとそこには、冬物のセーターにマフラー、それと矛盾するような校則ギリギリを少しオーバーしてしまったスカートをはいた少女、凛の後輩である美作玲が立っていた。

相手が美作だと分かるや否や凛は反射的に身構えたが、今日の美作はいつもとは少し様子が違った。
よくみると彼女は苦しそうに肩で息をし、額にはうっすらと汗を浮かべている。

「ど、どうしたの?」

恐る恐る凛が声をかけてみたが、すぐには返事がなかった。
もしかすると全力疾走をしたために苦しくて声が出せないのかもしれない、と思ったがどうやらそうではないらしい。頭をあげた美作の顔は少々青ざめていた。
少し不安になり、凛がもう一度美作に声をかけようとしたとき、

「──あ、綾風先輩が事故にあわれて、きゅ、救急車で運ばれたそうなのです!」

今度は凛が声をあげられなくなってしまった。



長い全力疾走の末、二人の少女はD棟二十三階の廊下の一番奥、受付で教えられた番号の部屋、D-2876号室にたどり着いた。
凛は慌てて、かつ音を立てないよう慎重にドアを開けると、真っ先に綾風が臥しているであろう寝台に駆け寄った。

「せ、先輩、大丈夫ですか!?」

しかし、その呼び掛けに答えたのは、

「──天崎さん……」

綾風の横にいた芹川湊だった。
芹川も凛たちと同じように学園の制服を着ていることから、到着した時間は凛とあまり差がなさそうだった。

「せ、芹川君……」

「──芹川さま、綾風先輩の様態は如何でしょうか?」

「それが……、一命は取り留めたのですが、まだ意識は戻っていないようです……。でも、危険な状態は脱したそうです」

芹川はゆっくりと、自分自身も確認するかのように話した。

「そ、そう……」

"一命は取り留めた"との言葉に一先ずは安心した凛だったが、未だ意識のない綾風を見ると、どうしても不安を拭い去れずにいた。
綾風の体からは幾本かチューブがのび、それらは様々な機械に繋がれていた。会話の途切れた部屋には、機械の発する電子音だけが鳴り響く。

その時、凛により開けっ放しにされていたドアから一人の男が現れた。
男は杖をつき片足を若干引きずりながら入ってきた。

「──おや、お嬢ちゃん。久しぶりだね」

凛は以前この人物を見たことがあった。確か、

「──マスターさん、お久しぶりでございますわ」

そうだ。芹川との初めてのデートで訪れた喫茶店のマスターだ。
そして、綾風の父親である人だ。

「おや、美作のとこのお嬢ちゃんか。こりゃ、久しぶりだね」

凛がようやく結論に達したとき、美作とマスターは親しげに会話をしていた。

「美作の親父さんは元気かい?最近顔を出してくれないが」

「お父様は元気ですわ。ただ、最近は事件のためになかなか休暇を頂くことが出来ないようですの」

「そうかい……、せっかく新型のアサルトを仕入れたんだが。また暇が出来たら来るように言ってくれないかい?」

「分かりましたわ。しっかりと伝えさせて頂きます」

二人の会話は途切れることなく続いた。

「──そうだ、天崎さん。コーヒーでも飲みに行きませんか?」

二人に取り残され、どうしようかと考えていた凛に、芹川は出来るだけ平然を装って声をかけた。

二人の立ち去ったあとの病室には、喋り続ける二人と、喋ることのできない一人だけが残された。



──ガコンッ!

と、もっともな音をたてて二本目の缶コーヒーが自販機から吐き出された。
芹川からそれを受け取った凛はしばらくの間、それで冷えた両手を暖めていたが、そのまま何気なく蓋を開けた。
コーヒーから立ち上る湯気が、乾いた世界に一本の白い線を引いた。

凛の住む町には病院がいくつかある。その中でも特に大きいのが、彩桜中央病院だ。
彩桜中央病院はAからFまでの六つの病棟を持ち、収容可能患者数は約10,000人と言われている。
そんな中央病院も、夜になると廊下には人の気配もなくなり、逆にその大きさが病院特有の不気味な雰囲気を引き立てていた。

「──実は、」

不意に芹川が口を開いた。

「今日の昼間ですが、綾風さんを見たんです」

「──えっ」

「誰かと電話をしているようで、とても焦った様な顔をして校舎の外に駆けていきました」

芹川の言葉は、凛にとって意外な内容だった。
それは綾風が何者かに呼び出されたことを意味する。

「おそらく、その後に事故に……」

しかし、凛は既に芹川の声を聞いてはいなかった。
もし芹川の言ったことが真実ならば、綾風の事故は単なる偶然ではないのかもしれない。

だが、今の凛にそれを確かめる術はなく、白い線が歪み、そして消えてゆく様をただ眺めていた。



幾十もの車が景色の真ん中を流れていく。町の中心を貫く国道に面したファミレスからは、一日中同じ景色を、車が流れるだけの景色を見ることが出来る。
しかし、集客の上では絶好の立地条件にも関わらず客足はなかなか伸びず、夜のかきいれ時もウェイトレスは暇そうに欠伸をしていた。

そんなファミレスに、男が一人入ってきた。やる気のない電子音が客の入店を知らせる。
ウェイトレスが客を誘導しようと、気だるそうに立ち上がり男を見た。
しかし、男はウェイトレスのことなどまるで気にせずに歩き出した。
ウェイトレスも、男が誰かと待ち合わせをしていると思い、結局先ほどと同じように大きな欠伸をした。



──佐久間の元に、蛯原の情報が入ったのは、木曜日の朝の事だった。

それまでどこをどう探しても見付からなかった手掛かりや足跡が、その日の朝に見付かった。
いや、正確には"見付けさせられた"だ。
佐久間の入手した情報は、木曜日の夜にどこにいるのか、場所と時間まで指定されたものだった。

その情報を伝えるとき、佐久間はとても悔しそうな声をしていた。
数十時間、数日間かけて探して見付からなかったのに、相手から情報を提供されたような。

しかし、今はそんなことはどうでもよかった。

窓側から一番離れた席、そこに男はいた。

三年前、目の前から忽然と姿を消した男が、そこにいた。