漂う異臭が鼻をつき、凛の意識は遥か彼方の世界から現実へと呼び戻された。

「──ここは……」

ぼやけた視界で周囲を見回してみても、記憶と一致するようなものはなかった。
そもそも、凛はこんなにも家具のない部屋を、いままで見たことがなかった。
凛の部屋にはベッドや、テーブル。本棚や、クッションなどといった普通の家具が普通にある。マンガで足の踏み場もなくなった床は、長いことろくに掃除もしていなかったので、昨日も母親に片付けるよう注意されたばかりだった。
それに対し、いま凛がいる部屋にはベッドや、テーブル。本棚や、クッションなどといった普通の家具がなかった。かわりにあるのは一枚の大きなディスプレイだけ。ディスプレイは凛のすぐ近くの壁に取りつけられていた。部屋の奥は、カーテンが閉められているせいか暗くてよく見えなかっ、

「──痛っ……」

腹部に鈍い痛みが走る。
凛がもう少し部屋を調べようと立ち上がった時だった。

──そうだった、

「……殴られたんだ」

確か綾風先輩が車に撥ねられて。そのお見舞いに病院に行って。その帰り道で不良に襲われたんだ。

──でも、何か引っ掛かる。

そのことを思い出そうとすると、何故だか混沌とした感情が心の中に広がっていくような、とても堪えられない感情に支配されてしまうような錯覚を覚えた。

何かが足りなかった。

──私はどうして一人で帰ったんだろう。

──私はどうしてまっすぐ家に帰らなかったのだろう。

──私はどうして夜の裏路地なんて歩いていたんだろう。

──私は、……私は。

景色が歪み脈拍が速くなる。
求めれば求めるほど、その何かに溺れる心は拒絶する。
どこまでも落ちていくような混乱、不安、絶望。
景色がめまぐるしく変わり、消え、うつろい、そして消え。

──プツンッ。

何かが切れたんだと思った、ら、壁にかけられていたディスプレイの電源がついた音だった。
暗い部屋に仄かな明かりがともる。
痛む腹を庇いながらディスプレイの見える位置に進むと、そこに映るのは一人の少女だった。

──あっ……。

凛はその少女の姿に見覚えがあった。
見間違うはずもなかった。何度か夢にも出てきた少女だ。

「美恵(みえ)ちゃん……」

ディスプレイに映るのはかつてのクラスメイト。

──でも、彼女は……。

ディスプレイの中の少女は小さな寝息を立てながら眠っていた。時々口をむにゃむにゃさせている。

──でも、彼女は……。

そんな光景を目にした凛は何も言えない。
口をあんぐりと開けたまま、動けずにいた。
規則正しい寝息も、いまの状況に対する不安も、すべて過去のものであるかのように意識の外へと追い出される。

何故なら、

──彼女、佐久間美恵は三年前に死んでいた。





始業のチャイムが三限目の始まりを告げる。
廊下で他組の生徒と楽しそうに話していた女子生徒も、図書委員会の集まりに僅かな時間を搾取された図書委員も、次の授業に備え黒板の白墨を用意していた委員長も、下らない話でどこまでも盛り上がっていた男子生徒も、そして、アンニュイな気持ちが晴れることのない美作玲も、それぞれの席へと戻っていく。

──次は……、確か『思想』の授業でしたわね。

そして、美作は大きな溜め息を一つついた。
そんな憂い顔の美作に何人かの男子生徒は何を勘違いしたのか興奮し、何人かの女子生徒はとても意外そうな顔をした。

しかし、今の彼女とって、そんなことはどうでもよかった。

そう、この時、彼女の部活の先輩、天崎凛が行方不明になってから既に三日が過ぎようとしていた。

しかし、三日も経ってなお、彼女のことについては何の音沙汰もなかった。
美作が父に頼んで警察に少し無理をして捜索してもらったり、
芹川が七十人ほど探偵や情報屋を雇っても何の手掛りも得られなかった。

──いったい、どこへいかれたのでしょう……。

美作には早く凛を見付けたい理由があった。
それは、凛が行方不明になったあの日、もう一つの事件が発生したからだ。
町の中心から少し外れた裏通り。そこで八体の惨殺死体が発見されたのだ。運転免許証などから特定された被害者は全て二十歳前後で、いわゆる不良グループに属していたらしかった。問題なのがその殺され方で、すべての死体は喉、眼球、脳天が貫かれていて医学的再生はほぼ百パーセント無理だということだった。
もちろん、犯人はまだ捕まっていない。

そんな町のどこかに、凛はいる。

美作すら知らない、どこかに。

そう思うと、美作はたまらないほど息苦しくなり、心配で胸が張り裂けそうになった。

それでも、彼女には何も出来ることはなかった。大事な人のために出来ることが何もないという事実、そしてそれに伴う無力感は、美作にとって耐えがたいものだった。
でも、それでも美作は何かをしたいと思った。何かが凛のためになるはずだと願った。
そして今日も、授業が終わり放課後になると、町のあちらこちらで、不意にちらちらと浮かび、ただただ音もなく消えていく――いくら手を伸ばしても届かない幻影のような後ろ姿を追い求めた。

「──美作さん!」

彼女が八十七番目の公園を探し終えた時だった。向こうから美作を呼びながら走り寄ってくる者がいた。
芹川湊だった。

「どうされましたか、芹川様?」

芹川は長いこと美作を探していたらしく、額にはうっすらと汗が浮かび、肩で呼吸をしていた。
その呼吸がなんとか落ち着いてきたあたりで芹川は漸く口を開いた。

「み、見付かりました!」

「えっ……」

『見付かりました』と、いわれても急には事情がよく飲み込めなかった。

「凛さんの手掛りですよ!心当たりのあるという人が見付かりました!」

「そ、それは本当ですの!?」

思わぬ朗報に声が若干上擦ってしまった。が、そんなことはどうでもよかった。
美作は芹川の胸ぐらをぐいっと掴むと鬼気迫る笑顔を浮かべた。

「──すぐにお伺いさせていただきましょう!」

そう言うと、美作は芹川をなかば強引に引きずりながら、凛が最後に訪れた公園を後にした。



幾十もの車が景色の真ん中を流れていく。町の中心を貫く国道に面した食堂からは、一日中同じ景色を、車が流れるだけの景色を見ることが出来る。
そして、集客の上では絶好の立地条件にあるせいか客足が絶えることはなく、夜のかきいれ時ともなればアルバイトの店員はてんてこまいでとても忙しそうに働いていた。

「……霧島。お前の方から誘うなんて初めてだろ」

店の最も奥の席に座る男が、目の前に座る男に話しかけた。話しかけた男は全身黒ずくめで、どこか怪しい雰囲気を放っていた。

「二、三回目じゃないか?」

それに答えるのは霧島と呼ばれた男だった。どこかひょろひょろっとしているが、体型はなかなかがっしりとしており、それでもどこか掴みどころのなさそうな男だった。

「……正確にはこれで三回目だ。以前に誘われたのは八年前の八月二日夏祭りの日、六年前の美恵の誕生日の日だ」

「相変わらず、佐久間は無駄に記憶力がいいな」

そんな霧島の言葉に反応することなく、佐久間と呼ばれた男は付け足した。

「ちなみに二回とも霧島は遅刻した。その理由は前代未聞の大地震による原子力発電所の事故が怖くてなかなか家から出られなかったというものだった」

「……よく覚えてるな、余計なところまで」

「生憎記憶力がいいんでね」

そんな会話に黒ずくめの男が割って入った。

「そんなことより。お前が呼び出すってことは、何か理由があってのことだろ。まさか佐久間の顔を見たくて来たわけじゃないだろう?」

「いや、そのまさかだよ」

それに対し霧島はいたって普通に返した。
あまりに自然な返し方だったので、黒ずくめの男は予想通りの返事を得たと思い、

「そうだよな、まさかお前がそんなことするわけな……はっ?」

その意味に気付いてから慌てて聞き返す。
いま霧島は確かにこう言った。

『いや、そのまさかだよ』と。

「つ、つまり、お前は本当に佐久間の顔を見に来たのか?」

「……だから佐久間の顔を拝みに来ただけだって」

恐る恐るの質問に対し、霧島はさも当たり前のように返した。

「そ、そうか……。いや、すまない。まさかお前らにそんな趣味があったなんてな……、そういう関係だったとは知らなかった……」

「違うわ!」

すかさず佐久間がツッコミを入れる。

「人が黙ってれば好き放題いいやがって。少なくとも俺はそんな趣味はない!そもそも男同士なのになんでそんな会話に……って霧島何照れてるんだ。──お、俺は一度だってお前をそんな目で見たことは、」

「「そんなことは分かってる」」

「……へ?」

佐久間は予期せぬこたえを二人に同時に返され思わず変な声を出してしまった。

──分かってるならなぜ俺をからかうような……、

と、そこまで考えたところで佐久間は気が付いた。

冷静になり改めて周囲を見渡してみると、こちらを見ながら必死に笑いをこらえている女子高生と目があった。 そして、目の前の二人はさらに面白そうな顔をしていた。

「お前昔となんにも変わってないな」

笑いをこらえながら霧島が言った。黒ずくめの男は腹筋が痛いなどとほざいている。

「そうか……、お前ら俺をからかうためにわざわざ来たのか」

静かな、それでいて燃えたぎる殺意をもって佐久間が返す。彼の周囲は陽炎のように景色が揺らいでいた。

「でも佐久間に会いに来たってのは本当だぜ?」

「まだ言うか!」

「いや、本当だって。──お前も最近の事件を知ってるだろ?」

「……殺人事件のことか?」

「ああ、あの事件追ってたらな、昔のことを思い出しちまってよ」

「…………」

場が不思議な静寂に包まれた。
誰も何も言わない、言おうとしない、先ほどとは百八十度違う空気。

そんな時間が暫し流れたとき、三人の男たちの前に一人の少年が現れた。

少年は一言二言何かを言うと去っていった。

それを聞いた男たちも、先ほどとは少し違う緊張した面持ちで席を立った。




空いた席には、直ぐに新しい客が入ってきた。